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管理者 今関弘道

中国古代の暦学においては、ピタゴラスの定理、比例計算などが駆使され、蓋天説、渾天説など宇宙構造論が発達し、さらに盤古の物語、淮南子など宇宙生成論においても、インドやバビロニアのそれに引けをとることのないレベルを保持していた。
しかし、中国の暦学は、化学としての天文学に脱皮することは、ついぞなかった。宇宙の中心は、いつまで経っても、周公旦の定めた洛陽にあったのであり、中国はいつの時代においても平らな板の上に乗っていた。わが水の惑星が、球体として認識されたことは、一度もなかったのである。

中国古代暦学の進展とその限界 目次(リンク)

[1] 世界観と宇宙論、運動する世界に対する認識
[2] 巨人盤古

の物語、蓋天説・渾天説・宣夜説
(1)巨人盤古、九万里の天地を支える
(2)蓋天説、一寸千里の法、ノーモンで天地を測る
(3)渾天説、天球・地方の構造論、渾天儀で観測
(4)宣夜説、殻はなく無限の天空を持つ宇宙、
[3] 周易・列子・淮南子に見る宇宙論
(1)周易に見る宇宙論、太極・陰陽より万物が生じる
(2)列子に見る宇宙論、無から気が生じ、気は形を得て万物を生じる
(3)淮南子に見る宇宙論、無から気が生じ、陰陽二気から万物が生じる 
[4] 殷代にはじまる天体運行の記録、歴代王朝による天文制度の確立
[5] 古代中国における天球分割法のいくつか
(1)二十八出について
(2)十二次(じゅうにじ)・十二辰・分野説について
(3)三垣(さんえん)について
[6] 古代暦学における科学性の萌芽、何故に花を開かなかったのか
(1)天問に見る古代の科学的精神
(2)数学(暦学)的知識の高度な集積
(3)儒家思想と中華思想の影響
[7] 邵康節・張載および朱子の宇宙論
(1)邵康節の宇宙論、元・界・運・世の消長、易にもとづく循環論
(2)気一元論の哲学、張載の宇宙論
(3)理気二元論の哲学、朱子の宇宙論



中国古代暦学の進展とその限界(本文)

 世界は何処からきて、何処へ行こうとしているのか。われわれもまた、何処からきて、何処へ行こうとしているのか。このような問いかけは、あるいは自然の、あるいは人間社会ないし人間の、存在そのものを問う根元的な命題として、いつの時代においても、哲学の中心的課題から外れることはなかった(2005.01 九十九里屋形にて、上総国imachann)。

[1] 世界観と宇宙論、運動する世界に対する認識


 哲学とは何かということについては、世界観、存在論、方法論を取り上げる総合的な学問分野といってもいいし、対象として自然の問題、歴史社会の問題、思惟の問題を取り上げる学問分野といってもいい。そして世界観とは、人間の実際生活、人間の歴史的実践を通して獲得された、運動する世界の認識そのもの、あるいは人間ないし人間社会が歴史的に獲得した、諸概念の連関の総体、概念と概念を組み合わせて作り上げた、世界像そのものということになるだろう。
世界観の哲学に対する役割について、戸坂 潤は次のようにいう。「実際生活の諸問題に、それに哲学的に解決する形を与えて、これを哲学に提供するものが、哲学の場合における世界観の第一の役割なのである」(科学的精神の探求、新日本新書)。だとすれば、自然及び人間社会ないし人間の存在にかかわる、哲学的命題に対しては、それぞれの時代における世界像が解釈の糸口にならねばならない。ジオ・ポエムの旅に即していうならば、哲学上の三つの課題のうち、自然の問題、世界観に含まれる自然観といった側面からの、アプローチといったことになるだろう。
さらに、自然観を支える自然科学のうち、主要な位置づけを獲得する専門分野ということになれば、それは宇宙論に指を折らざるを得ないだろう。宇宙という概念が、往古来今、四方上下という、天が下の空間と時間のいっさいを含む歴史的概念である以上、それは当然なことでもある。事の本質上、宇宙論が物質の運動を反映しての運動論を持ち、進化論との関連で構造論を含む階層論を持っているのは、何も不思議なことではない。
小尾信弥の次のような言葉は、世界観の形成における、宇宙論の役割をよく示している。「……こうして50年を境に、その後の観測や研究は、天文学ばかりではなく人間の宇宙観、自然観をそれ以前のものと全く違うものにした。宇宙はおよそ200億年以前にビッグバンで爆発的に開闢したものであり、それ以来続いている膨張の中で元素も恒星も銀河も生まれ進化してきたのであり、われわれ自身もまさに宇宙進化の産物であり宇宙の一部であるという進化宇宙論の考えもそんな一例である」(世界大百科事典、宇宙)。
しかし、歴史を刻み込んでいる時計を、少しばかり前に戻してみると、自然観というものが、自然科学の発達、自然に対する認識の深まりに対応して、哲学に解決を与えるに必要な、世界観の形成に連動したかといえば、決してそうではない。哲学に含まれた三つの課題である、自然の問題、歴史社会の問題、思惟の問題がないまぜになりながら、時には蝸牛の歩みの如く、時には跳んでいく兎の如くして、自然観はジグザグのコースをたどりながら、深化してきたというべきである。加えていうならば、世界観は自然観の深化に依拠しつつ、自然観は宇宙論の発展をテコとしながら、進化してきたというべきだろう。
今をさかのぼることおよそ2500年、古代中国の春秋時代、孔子は「これを知るを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり」(論語、為政篇)として、不可知の世界を排し、祭政一致の政治、鬼神・卜占をもっぱらとする政治から、人間本位の政治への脱却を主張した。しかし、鬼神・卜占に連なる「天の意思」に対しては、これを否定することは出来なかった。孔子の思想、つまり世界観は、その後二人の思想家によって引き継がれた。荀子は天を純然たる自然と規定し、天人の分、性偽の分を立てて、礼の王国を構想し、孟子は天の意思を認め、天人合一の思想につらなる性善説を打ち立てた。
孔子の後継者を自任する二人の思想家の見解が、何故に天の意思をめぐって分かれたのかといえば、ひとつには中国における自然科学の展開が、高いレベルを持ちながらも記録性に偏重し、自然哲学の確立による科学としての裏付けを、欠いていたことがあげられる。もうひとつの事情は、いうまでもなく、春秋戦国から秦漢帝国へと時代が推移する中で、思想を科学として発展させる社会的条件が、著しく狭められたことにある。百家争鳴をこととした諸子百家の時代が過ぎ去ったということでもある。自然の意思すなわち運動が、天の意思であるとするならば、自然の運動を記述する自然科学は、天子=専制君主に対する従属的立場を、甘んじて受けなければならない。
西洋哲学のゆりかご、イオニアの地、タレースからデモクリトスまで。ミレトス学派は神話的な世界観からの解放をかかげてアルケーを追求し、デモクリトスは自然の最小単位としてのアトムにたどりつき、世界のことごとをアトムの自発的な運動によって説明した。しかし、哲学の関心がポリス社会に移るにつれて、世界観をめぐる事情は変わってきた。ソクラテスやプラトンはオリンポスの神々を排除しきれず、第三の世界の主宰者、イデアを以て自然及び人間社会、人間の思惟の運動を説明した。ソクラテスからプラトンに見られる世界観、イデア論は、タレースからデモクリトスへ流れる自然観、イオニアの自然哲学からは大きく転回するものであった。ポリス社会の成長期に見られた、成員間の平等な関係、思想・信条の自由といったものを尊んだ時代は、過ぎ去っていたというべきだろう。古代ギリシャの直接的民主主義は、奴隷制度の上に花開いていたのだから。
時代は大きく下って、16世紀後半から17世紀にかけての西ヨーロッパ。ローマ・カトリックの自然観は、アリストテレスの九天説を踏まえて、プトレマイオスが集大成したとされる、調和のとれた宇宙論に見て取れる。宇宙は二重の恒星をちりばめた天球を最外殻として、宇宙の中心にいたる幾層もの、同じ球状の殻を持ち、この層状の殻に月、火星、水星、木星、金星、土星が張り付き、太陽までがこれらの殻のひとつに付着していた。宇宙の中心は地球にあって、地球は自転しないで天球が回転していた。地球が回転すれば、地表のものすべてが吹き飛んでしまうとされた。九天の外側には、真空もなければエーテルもない、何もなかった。世界を創造した神の意思、宇宙秩序(コスモス)は、地球の中心性、地球の静止性、地球を取り巻く宇宙空間の有限性によって成り立っていた。
ジョルダノ・ブルーノは、自然科学者ではなかったけれど、コペルニクスの地動説を支持し、彼の宇宙にあった有限性を否定して、無限宇宙を主張した。さらに、宇宙は無限であるばかりでなく一様であり、地球を含む太陽系は特別の存在ではなく、無数の同族の作り上げる諸世界のひとつに過ぎないと主張した。彼の主張によると、地球は神によって作られた特別の世界ではなく、太陽の周りを回るひとつの惑星に過ぎなかった。九天に張り付いて世界の中心をめぐる水星、木星、金星、土星は、もはや地球の飾り物ではなく、地球と同等の世界を持つ星であった。太陽もまた、地球を含む太陽系の中心ではあっても、宇宙の中心ではない。無限空間としての宇宙には、神の手の届かない天体が、いくつも存在しなければならなかった。宇宙秩序の破壊者、ブルーノはローマの広場に引き出されて火刑に処された。ブルーノが異端審問官たちに言った言葉が伝えられている。「宣告を受けているわたくしよりも、わたくしに宣告しているあなたがたの方が、真理の前に恐れおののいているのではないですか」。
自然の運動に対する認識の深まりにつれて、自然観は変化し、世界観は新たな地平を開く契機を得ると考えられる。自然観の主要な規定分野である宇宙論において、真理の是非が問われる。世界を創り出した神と、地動説・無限宇宙を主張したジョルダノ・ブルーノの、いずれの側に真理があったのか。社会的な立場によって、真理というものは変わりうるものだ。このような主張は自然科学の分野、宇宙論においては基本的に成り立ちがたい。「沈まぬ太陽」という小説があったけれども、太陽は必ず日没を迎えるものなのだ。
若干時代が下って、ガリレオ・ガリレイ。「天文対話」において、コペルニクスの地動説を積極的に容認。すべての天体が地球の周りを回転するという、アリストテレスないしはプトレマイオス流の宇宙観を否定した。異端審問所、ガリレオは断罪され、ブルーノのように火あぶりの刑には処せられなかったものの、地動説の誓絶というものを強要された。フィレンツェの審問官による尋問、審問官の言葉は教皇の命令だ。「ダカラ率直ニ真実ヲイエ、抱イテイルノカ、イタカドウカ」、「モシ真実ヲ述ベル決意ヲセヌナラバ、適切ナ救済手段(つまり拷問)ヲトルニ至ルデアロウ」、「真実ヲイエ、サモナイと拷問ニカケル」。ガリレオの行った異端誓絶とは次のものである。「わたくし、フィレンツェの故ヴィンチェンツィオ・ガリレイの子、ガリレオ・ガリレイ、七十歳は、個人的に審問を受け……太陽が中心にあって不動であり、大地は世界の中心になく動くという誤った意見をまったく放棄するようにと、またこの誤った意見を話してでも、書いてでも、いかなる仕方においても抱いたり、弁護したり、教えたりしてはならぬ、と法律的に禁止命令を持って知らされたのちにも、また上述の学説が聖書に矛盾することを知らされたのちにも、その同じすでに断罪された学説をとりあつかい、これが大いに有利になる根拠をあげ、しかも、これを論破せずにおいた書物を書き、印刷したため、大いに異端の嫌疑ありと……判定された。
それゆえわたくしは真摯な心と偽りなき信仰とをもって……上述の誤りと異端……とを誓絶し、呪い、嫌う……
わたくし、ガリレオ・ガリレイは、上記の通り誓絶し、誓い、約束し、責を負う。そしてその真実なことの証に、自分の手で自分の異端誓絶のこの書類に署名をし、ローマ、ミネルヴァ修道院で一語一語朗読した。一六三三年六月二十二日。
「それでも地球は動いている」という言葉が、ガリレオの口から発せられなかったとしたならば、誰がこの言葉を後世に伝えたのか。ガリレオ・ガリレイが地動説を主張した、勇気ある学者、思想家であったことは、異端誓絶によって損なわれはしないだろう。

[2] 巨人盤古の物語、蓋天説・渾天説・宣夜説


ジオ・ポエムの旅、世界は何処からきて、何処へ行こうとしているのか。われわれは何処からきて、何処へ行こうとしているかという、存在の根源を問う命題を引き合いに出して、哲学と世界観、世界観と自然観、自然観と宇宙観(宇宙論)というあたりを見てきた。
世界観には社会観もからむので、いくつかあげた例の中でも、たとえば「天」、「天の意思」、「神」、「神の意思」というような課題をめぐっては、未だにはっきりしない部分が残されている。スペース・エイジは宇宙論の世界、この時空を旅することによって、世界観をめぐってのいくつかの課題の整理、整理のためのヒントだけでも得ることが出来ればとも思う。そのためにというわけではないのだけれども、道草のついで、相対論(相対性理論)と量子論によって裏打ちされた、現代宇宙論を見る前に、盤古から始まる中国の神話、およびその後に現れたいくつかの宇宙論について見ておきたい。「故き
を温ねて新しきを知る」(論語、為政篇)だ。答えを得ることは出来なくても、課題の整理ぐらいは出来るだろう。
(1)巨人盤古、九万里の天地を支える
「太初には天と地とは相混じって、まるで鶏卵(たまご)のようにふわふわとしていた。その中に盤古というものが生まれてくると、初めて天と地との差別(けじめ)ができて、清いものは天空となり、濁っているものは大地となった。その後は天空も大地も、それからこの二つの間に生まれた盤古もだんだんと成長して行った。天は一日に一丈ずつ高さが増して行った。地も同じく一日に一丈ずつ厚さを加えて行った。そしてその間に挟まっている盤古も、劣らじと一日に九度(ここのたび)姿を変えながら、同じく一丈ずつ背が延びていった。そうしているうちに、一万八千年という永い年月が経った。その間に盤古の身の丈が延びに延びて、九万里となった。九万里という恐ろしいのっぽうが、天と地の間に挟まることになったので、もともと相接していたこの二つが、九万里ほど隔たってしまった。天空と大地との間が今日のように遠く離れているのは、全くこれがためである」(三五暦記、徐整。中国神話伝説集、松村武雄編、伊藤清司解説)。
巨人盤古の後日談?ともいうべきものが、「五運歴年記」(徐整)と「述異記」(任隈)に見えている。「太初には何物も存していなかった。ただ一種の気が濛々(もうもう)として広がり満ちているだけであった。そうしているうちに、その中にものの生ずる萌し(きざし)が始まって、やがて天と地が現れた。天と地とは陰陽に感じて盤古という巨人を生んだ。盤古が死ぬときに、その体がいろんなものに化して、天地の間に万物が具わるようになった。即ち、息は風雲となり、声は雷(いかずち)となり、左の目は太陽となり、右の目は月となり、手足と体とは、山々となり、流れる血潮は河となり、肉は土となり、髪の毛や髭は、かずかずの星となり、皮膚に生えていた毛は、草木となり、歯や骨は、金属や石となり、汗は雨となった。
他の神話によると、盤古が死ぬと、その頭は四岳となり、二つの目は太陽と月になり、脂膏(あぶら)は流れて河や海となり、髪の毛は化して草や木となったという。
また更に他の神話によると、盤古の頭が東岳(とうがく)に化し、腹が中岳に変じ、左の臂(ひじ)が南岳となり、右の臂が北岳(ほくがく)となったと言い伝えられている」(同上)。
盤古の物語りでは、われわれの世界はすでに存在していた。世界は濛々とした気のようなもので出来ており、陰陽というようなそれ自体の働きを持っていた。自然とは「他者の力を借りないで、それ自身の内にある働きによって、そうなること」(無の思想、森三樹三郎)であるとすれば、盤古の世界はまさしくそうである。巨人盤古を神といってもいいけれど、この神は、気によって作られているところの天地によって生み出された。巨人盤古は、自然の一部である。盤古の意思は自然の意思、つまりは自然の自発的な働きの別の謂いとなる。だから、たとえば春秋時代における「天」、「天の意思」というようなものは、盤古神話には見られない。この物語りはあくまでも、天地が生み出した、自然の化身としての盤古の物語りである。盤古には、世界の主宰者というような、特別な地位は与えられていない。
盤古の世界は、最初卵の殻のようなものとしてあった。この卵型の世界は、盤古を生み出し、一万八千年をかけて、九万里を隔たる天地の空間を作った。このようにして出来た世界は、現代の膨張宇宙論を想起させる。また最初の卵型の世界は、現代の超ミニ宇宙論に少しばかり似ている。しかし盤古の宇宙は、膨張を途中でやめたこと、そして宇宙が天地の間の有限の空間であったという点で、現代の宇宙論とは異なる。
天地開びゃくの仕事を終えると、巨人盤古は死んでしまう。盤古の身体は太陽や星々、月などを創り出し、地上においては山川草木を創り出す。後は人間の登場を待つばかり。現代の宇宙論でいったら、進化論、階層論ということになるだろう。ともあれ、古代の人たちは、世界を直観というような方法でとらえたと思うが、現代の宇宙論に対して何となく通じるものがある。自然を自然としてとらえているという、そういったことなのかも知れない。

(2)蓋天説、一寸千里の法、ノーモンで天地を測る
蓋天(がいてん)説は、中国古代に成立した宇宙の構造論である。この説によると、天は広げた蓋(かさ)のようにまるく、地は四角い碁盤のようなものとして考えられていた。天と地は八万里隔たった平行な平面をなしていた。中央にある北柱(北極)を中心にして、天は東から西へ一日一回転した。太陽もまた天空上に円形を描き、一日一回の割合で回転した。いわば、平板である天に太陽が張り付いて運行した、というように理解される。昼夜の交替については、太陽の光は一定の円形の範囲をもつものとされ、太陽が北柱(北極)の北へ行くときには、円形の範囲も中国の地から遠ざかって、夜がやってくると説明された。この蓋天説で留意されることは、盤古の物語で見たような、神話的な宇宙論ではなくて、中国で最初の科学的宇宙論、数理モデルを使った宇宙論であったということである。「一寸千里の説」、蓋天説では天の高さ、太陽の直径、太陽の軌道の大きさ、太陽の光が届く範囲などが、ピタゴラスの定理や比例計算を使って算出されている。この間の事情は、池内 了によって次のように説明されている。「天文学に関わるもっとも古い人物が商高(前1100年頃)で、句股法と天文学に関する周公との問答が、後漢時代の趙爽(ちょうそう)がまとめた『周脾算経』に残されている。彼は、三(句)、四(股)、五(径)の辺の長さを持つ直角三角形(句股)は測量術の基礎であること、これによって円と方(正方形)の図形が導かれることを説き、方は地に対応し円は天に対応する『天円地方』の宇宙構造論に結びつけた。これが中国最古の宇宙論で蓋天説と呼ばれている。また、八尺のノーモン(周牌)を立てると、夏至のときの影の長さは一尺六寸で、その南千里(約400キロメートル)では一尺五寸となることから、一寸千里の説を述べた。商高は、かつて地球の大きさを測ったエラトステネスと同じ手法を開発していたのである」(宇宙論のすべて、新書館)。
前漢末になると、蓋天説の不備を補うものとして、第二次蓋天説が成立した。この説によると、天はドーム型(蓋笠)をしており、地は伏せた椀のような形をしている。そして天と地とは、同心球的な状態に保たれていた。天地は第一次蓋天説のように平行な平面ではなく、平行な切断面を持つ球面であるように修正された。

<蓋天説について>(新井晋司、中国の宇宙論から)
「蓋天説は完全な数学モデルの宇宙論である。しかもその構造は中国で最初の科学的な宇宙論ということもあって、もっとも単純なモデルである。すなわち天も平ら、地も平ら、平面として二つが平行して存在するというものである(図1)。後には天地の丸い感じを出すために、中央が盛り上がった形を想定するようになっているが、基本的には天地を平行と見なしている。蓋天説は、天のかたちは丸く広げた蓋(かさ)のようであり、地は四角い碁盤(ごばん)のようだという。蓋天ということばは、この天を笠(かさ)と見たてたことからつけられた名称である。 この説では天は北極を中心に東から西へ、一日一回転している。太陽もまた一日一回の割合で回転する。ちょうど平らな板に太陽がくっついて回転しているさまを想像すればいいだろう。また、蓋天説では昼夜の交替を、太陽の光は一定の円形の範囲にしかとどかないので、太陽が中国の地に近づいてくると朝が来て、遠ざかってゆくと夜になるとして説明している。
じつは蓋天説のおもしろさは、天の高さ、太陽の直径、太陽の軌道の大きさ、太陽の光がとどく範囲などを、比例計算や三角形の相似、ピタゴラスの定理を使って具体的な数値を算出していることにある。もちろんそれらの数値は現代の天文学のものとは比較できないけれど、古代中国人が宇宙をどのくらいの大きさと認識していたかもわかるし、かれらの合理的思考や算術的思考のあともわかっておもしろい。
たとえば、それらの数値の一端を紹介すると、蓋天説では天の高さの数値を八万里と算出している。この八万里が今日でいえばどのくらいの距離に相当するかは一概にはいえないが、いちおう同説の一里を戦国時代の一里=〇・四キロメートル強と見なすと、八万里は約三万二千キロメートルになる。これが今から二千数百年前の中国人の宇宙の大きさの感覚である。ちなみに現代の値は、地球から月までの平均距離でも約三八万四千キロメートル、太陽までの平均距離となると約一億五千万キロメートルもある。蓋天説では、太陽も月も惑星も天にはりついていると考えているから、八万里はそのまま地から太陽や月までの距離でもある(正確には太陽や月が観測者の真上にきたときの距離)。
それから太陽の直径も、直角三角形にかんするピタゴラスの定理を利用して、千二百五十里と算出している。この里数を右とおなじように換算すると約五百キロメートル、現代値はそれよりもはるかに大きく直径約十四万キロメートルもある。
こうしてみると、古代の人が考えていた宇宙の規模はだいぶ小さかったことがわかる。だいたいどの文明でも古代になるほど宇宙の規模は小さい。それではこれらの数字はどうやって求めたものかというと、それは図2のように八尺の棒を立ててその影の長さが一寸ちがうと、南北方向の距離で千里ちがうという一寸千里の説にもとづいて算出したのである。一寸千里の説はひとつの純然たる仮説であるが、この比率が天地にたいし自在に適用されたのである。そうやって求めた数字を図にすると図3のようになる。図3は天地を上から、もしくは下から見たものと考えてほしい。周地とあるのが中国の地のことで、北極より南に位置している。外衡、中衡、内衡とある円は、それぞれ冬至、春分と秋分(二分)、夏至の日に太陽が進む道筋である。すなわち太陽は北極を中心とした円にそって移動しており、しかも季節によって異なる円を描く。そしてこれらの円軌道にそって進む太陽の動きによって、昼夜の交替や季節の変化が説明されるのである。たとえば昼夜の交替を、冬至の軌道である外衡(がいこう)を例に取って説明しよう。図中の「冬至日中下地」は冬至に太陽がもっとも南に位置する地点で、この地は周地から十三万五千里離れている。蓋天説では、太陽の光がとどく距離は半径十六万七千里の円内とされるから、「冬至日中下地」に太陽があるときは、周地は昼間である。その後、太陽はしだいに外衡にそって北へ移動して行き、太陽の光はだんだんと周地にどかなくなるので、中国は夜になる。図中のいちばん北側にある「冬至夜半下地」は、真夜中に太陽が位置する地点で、この地の太陽の光はもはや中国にとどきはしない」

<地平天平説;蓋天説>(中山茂、天の科学史)
 「日本のような山国ではなく、平野に住んでいる人間に、大地が平に見えるというのは、当然の感覚的認識です。そして、天も地に平行して平に広がっていると考え、そこに地平天平説が成立します。現在残っている最も典型的な例は、中国の蓋天説で、紀元前二、三世紀のものとされる「周髀算経」という古典に詳しく出ています。そこでは、天体の観測器具としては、はじめのうちは「ノーモン」つまり八尺の棒しかありませんでした。この棒に対する太陽の影によって、天の動きを測ったのです。その場合、点と地の間の距離は八万里と仮定され、影の長さが一寸違えばその間の距離を南北に測ると千里違うという一寸千里の仮定が置かれました。そして、天と地を対照させ、この二平面による宇宙観を作り上げたのです。その大きさを蓋天説の図に示してあります」

<四十尺のノーモン・蓋天説の宇宙像>(中山茂、天の科学史)

(3)渾天説、天球地方の構造論、渾天儀で観測
 渾天(こんてん)説は蓋天説の欠陥を補うため、天を球形として構築された宇宙論である。成立は後漢末といわれる。「宇宙論のすべて」には、後漢の落下?(らっかこう)が、武帝にまねかれて太史待詔(天文・暦学の官)となり、太初暦を編纂するとともに、天を卵殻に地を卵黄に見立てて、鶏卵にたとえた宇宙論を唱えたと述べられている。すなわち渾天説では、天と地の関係を上下ではなく、内外でとらえたものとなっている。天を卵殻にたとえ、まるい卵殻が地を包み、地は卵黄のように内側におさまり、天は大きく地は小さい。天と地は水を載せており、天の半分が地上をおおい、半分は地下をめぐって隠れて見えない。天と地は気に支えられている。天極すなわち北極は天の中央にあり、天は『コシキ』のように回転する。しかし、球状の天は太陽をはじめ天体を載せて絶えず回転する。なお、蓋天説の観測はノーモンによったが、渾天説の観測は赤道環、地平環、子午環といった環によって出来ている、渾天儀といわれる観測器具にもとづいている。
渾天説は、天球説を踏まえているので、現在の天文学にも通じるものがあり、天を平行な板状ないし笠状とする蓋天説よりは、時代の先取りをしていたということが出来るだろう。しかし渾天説のおいても、大地があるのは卵殻が卵黄を包むに似ているとしながらも、実際には大地は球状ではなく、平面と考えられていた。ここまで来ていながら、何故に古代ギリシャに見られたような、大地球状説が生まれてこなかったのか。不思議というほかにない。中国の天文学は、後一歩というところで足踏みを続け、2000年が経過してしまったということになる。後一歩とは、飛び上がること、飛躍という考え方が要されるとすれば、中国の自然哲学の発展に難があったといわざるをえないだろう。

<渾天説について>(新井晋司、中国の宇宙論)
「つぎに、渾天説について説明しよう。漢代以降は渾天説のほうがひろく中国でおこなわれた説である。
渾天説では、蓋天説の欠点をおぎなうために、天を球形と考えるようになっている。その球形の天が、南北極を軸として一日に一回転している。球形の天の内外には水があり、大地は天の内側のちょうど半分をみたす水の上に載っている。
これをたとえて宇宙の形状は鶏の卵のようであり、天は卵殻であり、大地はそれにつつまれる卵黄のようなものという。この卵黄のたとえは、大地が球であるというたとえではなくて、あくまで地が天につつまれていることをのべたもの。
地球という概念は、西洋では古代ギリシアの時代に形成されたが、中国では大地が球であるという説はついに生まれなかった。二千年以上にわたり確実に科学を発展させてきた中国科学が、地球説を生まなかったのは不思議なことではある。
渾天説は天球説に依拠しているので、現在の球面天文学の原理と一致してる。この点で天を笠状とみる蓋天説にまさっているといえる。
ただ渾天説にもいくつか弱点があって、そのひとつは、もし渾天説によれば太陽が夜間に地下をめぐるとき、水中をくぐらなければならないというものであった。この問題は渾天説を支持した人々を苦しめ、ついに適当な答えを出すことができなかった。
結局、中国の宇宙論はこの両説を軸にして、そのほか安天論やI天論といった複数の宇宙論をまじえ、ほぼ唐代にいたるまで何百年にわたって論争がつづいてゆくのであった」。

<地平天球説:渾天説>(中山茂、天の科学史)
「蓋天説では、棒が唯一の観測手段でしたが、角度を測る器具が出来ると、長さではなく角度で天を測るようになります。それには天が球であることを仮定せねばなりません。一方、地球の方は相変わらず地平とされ、長さで測ります。この両者を組み合わせて、中国人は地平天球説を作り上げました。それを渾天説といいます。この渾天説が漢代以後ずっと続き、日本においても影響して江戸時代まで行われました。中国や日本で地球という考え方が出なかったのは不思議だとされますが、中国人も日本人も地球は平坦なものだという宇宙観をもっていたのです。
中国では古来「地中」と称する測量原点を今の洛陽に近い点に置いていました。そこが四方に広がる大地の、世界の中心だというわけです。ところが地球説ではどこが世界の中心というわけにはいきません。そこで中華思想ということもあって、地球説が発生しがたかったのではないでしょうか」。

(4)宣夜説、殻はなく無限の天空を持つ宇宙
宣夜(せんや)説は、後漢の?萌(げきほう)が提唱したといわれる。また、中国ではじめて歳差(月・太陽および惑星の引力の影響で、地球自転軸の方向が変り、春分点が恒星に対し、毎年50秒余ずつ西方へ移動する現象─広辞苑)を発見した虞喜(281〜356)の著書「安天論」は、宣夜説にもとづいているといわれる。宇宙の構造論ではあるけれども、生成論でもある。天を仰ぎ見れば、高く遠く果てしがない。虚空が何処までも続いている。天というものが、気の集積によって出来ているから、そのように見えるのである。太陽、月、星々は気の凝集したものであり、気の中に浮かび上がって、気によって運行する。天空が蒼く見えるのは、天空が無限だからである。宣夜説の天は、殻を持つものではない。天地をなすものは気であるということでは、周易や列子に見える宇宙の生成論に通じている。また、宇宙の無限性をいうことでは、気一元論にもとづく張載の宇宙論、さらには現代の無限宇宙論にも通じるところがある。

[3] 周易・列子・淮南子に見る宇宙論


(1)周易に見る宇宙論、太極・陰陽より万物が生じる
 周易(しゅうえき)には陰陽の働きにもとづいて、天地間の一切、すなわち宇宙の生成が説明されている。易は陰陽二元で天地間の一切を説明しようとする。しかし、陰陽二元は太極から生ず(周易、繋辞伝)ともいい、すると太極一元論ともいえる。この場合には、陰陽は太極の運動、そのものの働きをいう言葉(概念)となる。周易繋辞伝における宇宙生成の順序は、およそ次の通りである。「易に太極あり、これ両儀を生ず、両儀四象を生じ、四象八卦(はっか)を生ず」。太極から陰陽の二元、四象、八卦が生じ、さらに八卦相重ねて六十四卦を生ず。易においては、これで宇宙が生成される。四象とは春夏秋冬であり、八卦は宇宙の事象に配して、天、沢、火、雷、風、水、山、地とされる。

(2)列子に見る宇宙論、無から気が生じ、気は形を得て万物を生じる
 列子では無から有が生ずるとされ、本体すなわち無から万物が発展してくる順序が、次のように述べられている。(1)気の生まれてこない前、大易は渾淪(こんろん)、つまり混沌として何もない、無の状態であった。(2)やがて気が現れた。太初は気の集まりである。(3)気は形を取り始めて大始となった。(4)気は形を加えて質を備えるにいたった。これを太素という。(5)清く軽い気は高くたなびいて天となり、重く濁った気は凝固して地となり、冲和の気は人となった。(6)さらに気は入り交じり、万物が発生した。以上、とりとめのない宇宙論に思えるけれども、無から有が生じるという謂いをどう位置づけるか、柔軟にとらえるならば、気の哲学による宇宙生成論ということにもなって、何となく面白い。原文をあげておこう。
 「子列子曰く、昔者聖人、陰陽によって以て天地を統(す)ぶ。夫れ有形の者は無形に生ず、即ち天地安(いづ)れより生ずるや。故に曰く、太易有り、太初有り、太始有り、太素有り。太易は、形の始めなり。未だ気を見ざるなり。太初は、気の始めなり。太始は、形の始めなり。太素は、質の始めなり。気形質具はって未だ相離れず、故に渾淪(こんろん)という。渾淪は、万物相渾淪して、未だ相離れざるを言うなり。視れども見えず、聴けども聞こえず、循(したが)えども得ず。故に易(い)と曰ふなり。易は形埒(けいれつ)無し。易変じて一と為り、一変じて七となり、七変じて九となる。九変は究するなり。乃ち復(また)変じて一と為る。一は、形変の始めなり。清軽なる者は、上って天と為り、濁重なる者は、下って池と為る。冲和の気なる者を、人と為す。故に天地精を含み、万物化成す」(列子、天瑞、小林信明訳、明治書院)。

(3)淮南子に見る宇宙論、無から気が生じ、陰陽二気から万物が生じる
 淮南子においても無から有が生じるとされた。無から気が生じ、気は清濁二気に分かれ、それぞれに結合ないし凝固して、天と地が形成された。天は気を吐き、地は気を呑み、天地の気が合して陰陽の気になった。陽気は集まって熱気となり、これより火を生じた。陰気は集まって寒気となり、これより水を生じた。火の純粋な部分は太陽となり、水の純粋な部分は月となった。最後に太陽と月の気が作用して星辰が生じた。
 淮南子にみる宇宙論も、周易・列子の宇宙論と大差はない。原初的な物質としての気が、無から生じたか否かの違いだけであり、宇宙の生成・発展をどの段階でとらえたかの差異であるように思われる。その後の宇宙の発展が、いわゆる有としての気に即して、つまりは物質的な気に即して語られるからである。そうではなくて、言葉通り無から有が生じたとなれば、見えざる神の手というような、超自然的な存在を持ってこなければならなくなる。
 総じてこの宇宙が、無から生じたのか、もともとあった物質的なものから生じたのかは、周易・列子・淮南子といった時点においては、それほど大きな意味を持っているわけでもない。いずれにしても、宇宙の生成は、原初的な物質(気)が、カオスの状態におかれている時点からスタートする。気は清んだ軽い気と濁った重い気に分かれ、軽い気は浮き上がって天となり、重い気は沈んで地となる。さらに天の気と地の気は交合して万物を生じる。

[4] 殷代に始まる天体運行の記録、歴代王朝による天文制度の確立


 巨人盤古の物語が踏まえられているか否かは知らず、有史年代に入ると、先に見た蓋天説、渾天説など、幾つかの宇宙論が提起された。これらの宇宙論は、殷代にはじまる中国天文学(暦学)の系譜を引き継いでいる。殷代にはすでに、冬至や夏至、日食や月食、歳星(さいせい、木星)の運行が観測されており、その記録が甲骨文に残されている。周代から春秋時代にかけては、五つの惑星の名称が、光度の変化、運行の特徴などにより定められた。水星は辰星、金星は太白(たいはく、啓明、長庚、明星とも呼ばれた)、火星は?惑(けいわく)、土星は?星(てんせい、鎮星とも呼ばれた)というようにである。なお現在の惑星の呼び名は五行によるもので、その後のことである。古代中国で観測の対象とされた天体は、日月五星に限らない。星座(星)については、北極星(太一)、北斗七星、参(しん、オリオン)、牽牛(アルタイル)、織女(ベガ)、天狼(シリウス)、寿星(南極老人、カノープス)をはじめ、書経には烏(アルファイド)、大火(アンタレス)、昴(ぼう、プレヤデス)などの名前が見える。
 古代中国では、殷代の祭政一致の名残を長く引き、卜占の一環として占星術が盛んに行われ、日月星辰の運行が、国家の命運、人間の禍福に結びつけられた。書経には、舜が北斗七星および日月五星の運行により天意を知り、その天意に従って帝位についたとの記述がある。春秋左氏伝にも、周の武王が日月星辰の運行によって天命を知り、殷の紂王を討ったとの記述がある。
 日月五星の中でも歳星(木星)は、国家の安危にかかわり、方位および季節の循環を秩序づける星として重視された。戦国時代にはいると、歳星をはじめとして五星の運行はより正確に観測されて、魏の甘徳や石申によって、占星術の知識として集成された。「宇宙論のすべて」(池内 了、新書館)には、次のように記されている。「紀元前四世紀、戦国時代の斉の国の天文学者の甘徳は、『天文星占』『歳星経』を書き、惑星の運行と恒星の位置について述べ、中国の星座システムを提案したとされている。また、火星や木星の逆行現象を確認し、前三六五年に木星に衛星が付随していることを発見した。木星の衛星の最古の記録である。同時代の石申(せきしん)は、戦国時代の魏の国で活躍した天文学者で、『天文』という書物を著し、主な星の位置を与えている。その方法は、北極からの距離を示す去極度と赤道に沿っての二八宿に分割した入宿度で表すものであった。甘徳と同じく火星と木星の逆行運動を確認していた」。
中国星座の集大成は、前漢の司馬遷の「天官書(てんかんじょ)」(史記)に見ることが出来る。司馬遷の星座は「十二次」(じゅうにじ)および「二十八宿」により示される。十二次とは、歳星が国家の安危にかかわるとの位置づけを受けて、また歳星が十二年で全天を一周することから、全天(周天)を十二等分して十二次とし、それぞれのエリアでの星の運行を国の命運に連動させたところの星座である。分野説ともいわれる。二十八宿とは、日月五星の通り道である黄道を、月の通り道に即して二十八宿に分け、全天の星を二十八宿に張り付けたものである。天官書においては、星座の名前、星座の数、星座の位置、星座の運行に関わる意味などが、北極を中心にして記述されていた。歴代王朝の天文官は、五星をめぐっていく星宿(星座)を観察し、月の通路に当たる星々の運行を調べては、国や人間の命運を占ったということになる。とはいえ、司馬遷の天官書には、およそ100の星座があげられているのであるが、これをもって天体図が完成したということではない。中国における天体図の完成は、三国時代、呉の陳卓によって完成したといわれる。唐代に編纂された「晋書」天文志によると、呉の陳卓が戦国時代の甘徳、石申、巫咸(ふかん)の星図をもとに、283星座、1464星を整理したとのことである。

[5] 古代中国における天球分割法のいくつか


(1)二十八宿について
 二十八宿とは、天球上の赤道帶を28の領域に不均等分割したものである。あるいは、その分割の基準となった28の星座(星官)のことである。二十八宿では、西端の明るい星(星座)を距星とし、この距星から東隣の宿(領域)の距星までの距離が、いわゆる星宿の広さとなる。
 次にあげるものは、中国古代の二十八宿にもとづいて、日本で使用されていた星座表である。ここでは、二十八宿がそれぞれ四象(青龍、玄武、白虎、朱雀)に分けられている。中国名、和名、距星の順にあげておく。
@東方蒼龍
о角 すぼし おとめ座中央部
о亢 あみぼし おとめ座東部
о? ともぼし てんびん座
о房 そひぼし さそり座頭部
о心 なかごぼし さそり座中央部
о尾 あしたれぼし さそり座尾部
о箕 みぼし いて座南部
A北方玄武
о斗 ひきつぼし 南斗六星(いて座中央部)
о牛 いなみぼし やぎ座
о女 うるきぼし みずがめ座西端部
о虚 とみてぼし みずがめ座西部
о危 うみやめぼし みずがめ座の一部
о室 はつゐぼし ペガスス四辺形の西辺
о壁 なまめぼし ペガスス四辺形の東辺
B西方白虎
о奎 とかきぼし アンドロメダ座
о婁 たたらぼし おひつじ座西部
о胃 えきへぼし おひつじ座東部
о昴 すばるぼし おうし座・プレアデス星団(昴)
о畢 あめふりぼし おうし座・ヒアデス星団
о觜 とろきぼし オリオン座頭部
о参 からすきぼし オリオン座
C南方朱雀
о井 ちちりぼし ふたご座南西部凶
о鬼 たまをのぼし かに座中央部(プレセペ星団付近)
о柳 ぬりこぼし うみへび座頭部
о星 ほとをりぼし うみへび座心臓部
о張 ちりこぼし うみへび座中央部
о翼 たすきぼし コップ座
о軫 みつかけぼし からす座

(2)十二次(じゅうにじ)・十二辰・分野説について
@十二次について
十二次とは、天球を赤道に沿って十二等分したそれぞれの領域である。各次のなまえは、星紀(せいき)・玄?(げんきょう)・娵?(しゅし)・降婁(こうろう)・大梁(たいりょう)・実沈(じっちん)・鶉首(じゅんしゅ)・鶉火(じゅんか)・鶉尾(じゅんび)・寿星(じゅせい)・大火(たいか)・析木(せきぼく)である。戦国時代以降に見られる。

A十二辰について
十二辰とは、十二次と領域は同じである。領域の名前には、十二辰、つまり十二支があてられた。だから各辰の名前は、子(し)・丑(ちゅう)・寅(いん)・卯(ぼう)・辰(しん)・巳(し)・午(ご)・未(び)・申(しん)・酉(ゆう)・戌(じゅつ)・亥(がい)となる。戦国期以降に行われ、太陽・月・惑星の位置や運行を説明するための座標系として使用されたという。

B分野説について
分野説は、中国古代占星術にかかわる天球上の区分である。天球上で起こった天体現象は、それぞれの区分にはり付けられた地上の地域にあてはめられて、吉凶が占われた。ここにあげるものは、「晋書」天文志に記載されている十二のぶんや、十二次にもとづくものである。
о寿星 - 鄭・?州、о大火 - 宋・豫州、о析木 - 燕・幽州 о星紀 - 呉越・揚州 о玄? - 斉・青州 о娵? - 衛・并州 о降婁 - 魯・徐州 о大梁 - 趙・冀州 о実沈 - 魏・益州 о鶉首 - 秦・雍州 о鶉火 - 周・三河(河東・河内・河南三郡)о鶉尾 - 楚・荊州
(3)三垣(えん)について
 これまで中国古代の天球分割法として、二十八宿、十二次、十二辰、四象(青龍・玄武・白虎・朱雀)を見てきたが、この他の分割法として、三垣(さんえん)がある。これは、天の北極を中心にして、紫微垣(しびえん)、太微垣(たいびえん)、天市垣(てんいちえん)に分けられる。三垣は、それぞれの領域に含まれる、星座(天官)をも意味する。
@紫微垣
 紫微垣は三垣の中心にある。天の北極を広い領域である。すなわち、天における紂王の宮殿を囲う藩垣(城壁)をかたどっている。
о北極5星……太子・帝・庶子・后・天枢……こぐま座、キリン座。
о東藩8星……左枢・上宰・少宰・上弼・少弼・上衛・少衛・少丞。りゅう座、ケフェウス座、カシオペア座
о西藩7星……右枢・少尉・上輔・少輔・上衛・少衛・上丞……りゅう、おおぐま座、きりん座。

A太微垣
北斗七星より南に位置する。星官(星座)としての太微垣は、庭園を囲う蕃垣(かこい)の形にかたどっており、その中心には五帝座が位置する。
о五帝座 …… 中心の星はしし¥。
о東蕃4星……東上相・東次相・東次将・東上将…… おとめ、かみのけ座。
о西蕃4星……西上相・西次相・西次将・西上将…… しし。
о南蕃2星……左執法・右執法…… おとめ座。

C天市垣
天市垣とは、古代中国天文学において天球上を3区画に分けた三垣の下垣にあたる。あるいはその主体となった星官(星座)のことを指す場合もある。星座としての天市垣は、天における市場を囲う藩垣(城壁)の形にかたどっており、その中枢には帝座が位置する。
о帝座…… ヘルクレス座。
о東藩11星……宋・南海・燕・東海・徐・呉越・斉・中山・九河・趙・魏…… へびつかい座、へび座、へびつかい座、へび、わし座、ヘルクレス座。
о西藩11星……韓・楚・梁・巴・蜀・秦・周・鄭・晋・河間・河中…… へびつかい座、へび座、ヘルクレス座。
 総じて、日月五星、彗星、新星、日食、月食など天体の運行は、中国固有の、国家による天文制度に裏打ちされて、歴代王朝の天文官により克明に記録された。この記録性ということでは、世界の天文学史上、右に出るものはない。それは、例えば、「魯文公十四年秋七月、孛星(はいせい)が北斗に出現」という「春秋」の記述、前613年、ハレー彗星最古の記録であり、「天文志」(宋史)にある「北宋至和一年(1054年)五月、天関星の近くに客星(新星)が出現した」との記述、中性子星(パルサー)として知られる、カニ星雲の超新星爆発最古の記録であった。

[6] 古代暦学における科学性の萌芽、何故に花を開かなかったのか


(1)天問に見る古代の科学的精神
 「中国天文学にはもともと体系的な理論が欠如していた。もちろん漢代には渾天説や蓋天説といった宇宙モデルはあったが、これらは実際に天体の運動を研究する基礎理論とはならなかった。中国では観測資料を整理し、理論を省略して、ひたすらに観測に合致するような計算方法を追求し改良することに努力した。中国数学が計算技術に終始したように、天文学も計算技術を中心に発達し、理論上の発達はほとんどなかった」(藪内 清、世界大百科事典、中国科学)。
 天体観測の蓄積は、自然暦による農耕適期の確定、航海者・旅行者の方角の判断といった、実用的な分野での貢献には結びつけられた。しかし、天体観測から科学としての天文学への脱皮をはかることは出来なかった。印刷術、磁石(羅針盤)、火薬、紙など、世界に誇りうる発明の実績を持つ中国科学が、何故に記録性にのみこだわり、自然科学を発達させることが出来なかったのか。
 漢民族は本来的に経験主義的であり、その先にある科学的な論理を追い求めるというようなことはしなかった。このようなものの謂いでは、記録性を重視した中国古代天文制度の一端でさえも説明できないだろう。ましてや、ピタゴラスの定理や比例計算に立脚した一寸千里の法、一寸千里の法を駆使して作り上げた蓋天説、渾天説などの宇宙構造論など、とてものこと説明できるものではない。さらに、陰陽二気の交合を踏まえての、周易・列子・淮南子、続くところの張載・朱熹の宇宙生成論も、また説明し得ないだろう。特に張載に集約される気一元論の宇宙論は、経験主義というようなものではなく、宇宙の運動を反映した高度な論理性を有している理論である。
 古典古代のギリシャ民族に劣らず、漢民族もまた経験=実践を踏まえて、科学的論理を追求した民族と謂うべきである。とくに春秋時代の孔子から始まる諸子百家の時代は、自然および社会を対象とした、科学的精神にあふれた時代であったといっていい。ここでは、諸子百家時代の後期、「楚辞」を集大成したという屈原の「天問」によって、この時代の科学的精神といったものを見ていきたい。中原から遠く離れた、長江流域の楚の国においてさえも、科学的精神の探求ともいうべき、時代の息吹の中におかれていたことが、容易に見て取れるだろう。天問とは、天地創造から神話伝説にいたるまでの、さまざまな疑問を天に問いかけたものである。
<天問>(屈原)
曰く 遂古(すいこ)の初(はじめ)、誰か之れを伝え道(い)える。
上下(しょうか) 未だ形あらずと、何に由(よ)りてか之を考えし。
 そもそも天地開闢以前のことを、誰が言い伝えたのか。天と地がはっきりとした形をなして分かれていなかったと、何を根拠にして考えたのだろうか。

冥(よる)も昭(ひる)も?闇(ぼうあん)なりしと、誰か能く之れを極めし。
憑翼(ひょうよく)として惟だ像(かげ)のみなりしと、何を以てか之を識りたる。
 夜と昼がまだ分かれず、混沌として暗かったときに、誰がそうした状況を見極めたのだろうか。天と地がふわふわと漂って、ただ影ばかりだった時に、何を根拠にしてそうした姿を知ったのだろうか。

明を明とし闇を闇とす。惟れ時(こ)れ何か為す。陰陽三合す。何れか本に何れか化(な)る。
明を明とし暗を暗として、明暗を分離したのは、何がなした、何のしわざであったのであろうか。陰陽が交わって万物が生じたと言うが、どちらが根源であり、どちらが変化なのか。陰が化なのか、陽が本なのか。

圜(まる)くして九重(きゅうちょう)に、孰(だれ)か営み度(はか)れる。
惟れは?(こ)れ何の功ぞ、孰(だれ)か初めて之を作れる。
天は円形で九層になっているというが、誰が設計したのだろう。その九層の天は、どういう工事だったのだろうか。最初にこれを作ったのは誰だろうか。

斡(あつ)と維(い)と焉くにか繋(かか)り、天極焉くにか加わる。八柱何(いず)くにか当たれる。東南何ぞ虧(か)くる。
 天を回転させる北斗の柄や、天に張られた綱はどこにつながっているのか、天の北極はどこにつけられているのか、天を支える八本の柱は、どちらの方角に立っているのか。なぜ、東南の地だけが低くなっているのか。

九天の際(さい)、安くにか放(い)たり安くにか屬(つ)く。隅隈(くうわい)多く有り、誰か其の数を知らん。
 九天の境界は、どこまで至り、どこについているのか。沢山のすみやくまがあるというが、誰がその数を知っているのか。
 
天は何れの所にか杳(あ)う。十二焉くにか分かてる。日月(じつげつ)安くにか屬(つ)ける。列星安くにか?(つら)なれる。
天は何処で地と合わさっているのか。何処で十二次に分けられているのか。太陽や月は何処にくっついているのか、星々は何処に連なっているのか、どうして落ちてこないのか。

湯谷(ようこく)より出でて、蒙(もうし)に次(やど)る。明(あした)より晦(くれ)に及び、行く所幾里ぞ。
太陽は東方の暘谷(ようこく)から出て、夕暮れに西方の蒙(蒙水の涯)に沈んで泊まるというが、朝から晩までの行程、運行距離は何里あるのだろうか。

夜光は何の徳ありて、死して又育(い)くるや。
厥(そ)の利 惟れ何ぞ、顧菟(こと) 腸(はら)に在るは。
月にはどんな徳があって、死んでまた生き返るのか。どんな利益があって、腹の中に顧みるうさぎを住まわせておくのか。
※顧菟(こと)腸(はら)に在るはの解釈は、はっきりしない。

何くを闔(と)じて晦(くら)く、何くを開きて明(あきらか)なる。角宿(かくしゅく)未だ旦(あ)けざるとき、曜霊(ようれい)安くにかかる。
 天の何処の戸を閉じると暗くなり、何処の戸を開けると明るくなるのか。東方の角宿(二十八宿のひとつ)のあたりがまだ明けない時、太陽は何処に隠れているのか。

知らん九州安んぞ錯(お)ける。川谷何ぞ?(ふか)き。東流して溢れず、孰(た)れか其の故を。
九州はどのようにおかれているのか。川や谷はどうしてあのように深いのか。川は皆東に流れて海に注ぐが、海の水はいっこうに溢れない。誰がそのわけを知っているのか。

東西南北、其の侑(なぎさ)孰れが多き。南北順墮(じゅんだ)すと、其の衍(あまい)幾何(いくばく)ぞ。
東西と南北と、その長さはどちらが長いか。南北は順次に狭く長くなっているといわれるが、それなら其の余分はどれほどあるのか。

日安くにか到らざる。燭竜何ぞ照らせる。羲和の未だ揚がらざるに、若華(じゃくか)何ぞ光れる。
太陽の照らさない国は何処にあるのか。燭竜は何故照らすのだろう。羲和がまだ日輪を御して昇らないときに、若木の花は何故光るのだろう。
※若華(じゃくか)は、山海経にある神木。

何れの所か冬暖かく、何れの所か夏寒き。焉くにか石林有る、何の獣か能く言う。
 冬も暖かい国というのは、どこにあるのだろう。夏も寒い国というのは、どこにあるのだろう。石の林があるというが、それはどこにあるのだろう。物を言う獣というのは、どんな獣だろう。

雄?(ゆうき)九首倏忽(しゅくこつ)として焉に在るや。何れの所ぞ不死は。長人は(いずこ)を守れる。
 頭が九つもある雄蛇が、目にもとまらぬ速さで動くと言うが、どこにいるのだろうか。不死の国というのはあるのだろうか。長人国というのはあるのだろうか。

(2)数学(暦学)的知識の高度な集積
 中国古代宇宙論が、理論的にも高いレベルを保持していたと言うことについては、池内 了の見解があるのだけれども、ここでは「シナ数学」の伝統についての、村田 全の言うところを見ておきたい。彼は「数学的知識の集積」といった側面と、「ギリシャの場合のように独立した学問になっているか、また思想や哲学などとの関係はどうだったか」という側面とに分けて、次のように論じている(日本の数学 西洋の数学、中公新書)。まず、「数学的知識の集積」についての見解、「古代シナの文化が、世界の四大大河文明の一つとして極めて高度のものだったことはよく知られているが、数学的知識もその例外ではない。実際、伝説時代から始まるらしい黄河の治水、紀元前千数百年の昔に栄えた殷王朝の遺跡(殷墟)などの宮殿址や陵墓、一応の完成は秦代だが部分的構築はさらに古いという万里の長城など、一連の巨大な土木工事を考え、さらに天問暦法に関する多くの成果を考えると、極めて古い時代にすでにかなり高度の数学的知識の集積があったことは想像に難くない」。さらに村田 全は、「周礼」に記載されている「数」(六芸の一つ)における「九数」をとらえて、これを後代の数学書「九章算術」につなげる。「九章」とはすなわち、(1)方田(田の面積の計算)、(2)衰分(売買や租税に関する比例計算)、(3)粟米(同左)、(4) 均輸(同左)、(5)少広(正方形や立方体の一辺、平方根や立方根を求める、いわゆる開平、開立の計算)、(6)盈(えい)不足(物の分配に関する整数論的問題)、(7)商功(土木工事に伴う体積の計算)、(8)方程(連立一次方程式)、(9) 句股(ピタゴラスの定理とその応用、簡単な二次方程式の解法)である。「九章」は、先に見た蓋天説、一寸千里法の商高、天体の正確な運行に基づいて、天体図を作り上げた甘徳や石申の事績に連動する。また円については、「少広」に面積から周を求める問題が載せられており、劉徽(りゅうき)の注には、πの近似値157/50=3.14や、円の面積の上下の限界の確定、あるいは球の体積の近似値などが見られるという。そしてこのような、中国古代の数学的知識の集積の延長線上に、暦学・数学に大きな足跡を残した祖沖之(そちゅうし、429〜500、南北朝時代)の円周率をおく。祖沖之の円周率は、3.1415927>π>3.1415926であり、πの近似値分数としての約率22/7、密率355/113である。前者についてはアルキメデスも知っていたが、後者については知られておらず、西洋でこの近似分数の知られるようになったのは、ずっと後のことであるという。結論的には、古代中国の数学、あるいは算学、あるいは暦学は、相当に高いレベルをもっていたと言うことになる。

(3)儒家思想と中華思想の影響
 もう一つの側面、数学的知識の集積が、独立した学問として発展していったか、独立した学問として発展するに不可欠な、哲学ないし思想といったものが、歴史的に形成されていったかどうか。これらの問いに対する村田 全の見解は否定的である。学問としての自立的な展開を遂げたかどうかについては、「まず気づくのは、シナ数学が何らかの意味での理論的数学として自立しているわけではないことである。勿論、通約不能量をはじめとする理論的対象の世界は形成されていない。これは『九章』のような実用的段階の数学ばかりではなく、祖沖之などの場合ですら見られることで、インド数学ほどではないにしても、暦学などとの分離も十分にはできていない。数学が現実から遊離することには常に学問上の危険が伴うが、他方、現実一辺倒の数学は、かえってその現実の実態に迫りえぬ場合があることも、ここで考えておかねばならない」。さらに、数学と哲学、思想との関連については、「もとより、シナに『数理思想』と呼ぶべきものが全くなかったというわけではない。例えば後に儒教の重要な要素となった陰陽あるいは易の思想は、本来、一つの『数理思想』と呼ぶべきものであったが、それとギリシャ的な数理思想との間には、確かに大きな隔たりがある。実は私自身、儒教や易のことはよく知らないのだが、易は陰陽二元によって天地人にわたる森羅万象を説明しようとするものであり、その限りではピュタゴラス−プラトンの思想と共通点があるといっても、おそらく大過はないだろう。しかしその後の、特に実践倫理的な儒教の中での展開は、『数学』とは無縁の方向に進んだとせざるを得ない」。
 高いレベルに到達していた古代中国の自然科学が、何故に自発的な発展を遂げることが出来なかったかという問いに対しては、儒家思想の果たした否定的な役割を、避けて通るわけにはいかないように思う。ここで詳細に論じることは出来ないけれども、大まかに次の三点をあげておきたい。
第一点として、儒学は漢の武帝以来、国教的な位置を獲得し、董仲舒に見られるような、主宰的な天をもとめるにいたったこと。荀子や王充のいうような、天を純粋な自然とする見方は大きく後退し、このこと自体が反自然的な思考であり、その後の自然科学の発展に、大きくブレーキをかける社会的要因として作用したこと。
第二点として、儒家自体が自らを正当化する故を以て、老荘思想、仏教思想をはじめとして異端の学を激しく論難したこと。加えて、性悪説に性善説を対置するような形で、天を純粋なネイチャーと見る思想を排除していったこと。
第三点として、このような傾向は、儒学を集大成したといわれる朱子学においても変わらなかったこと。第一には孟子の天人合一の思想を受け継ぎ、孔孟の教えとしてこれを金科玉条として守り続け、新しい思想を入れず、第二には理というものを主宰的な天と結びつけ、天人合一の思想をさらに前に進めたこと、第三には宋学=朱子学自体が、科挙制度を通じて新儒学としての地位を獲得し、高級官僚(士大夫階層)の思想的支えになっていったこと、つまりは新儒学とはいえ、専制君主を頂点とした、ヒエラルヒー擁護の思想にほかならなかったこと、などがあげられる。
  また、文化の東西交流、自然科学の東西交流の問題があるように思う。自然科学の成果、あるいは発見といったものが、シルクロードを通って流入してきたかといえば、これは大変に難しい。ユークリッド幾何学は、古代ギリシャ→アラビア・エジプト→西ヨーロッパという伝播の経緯を持つが、中国は素通りしてしまった。インド数学もアラビア(メソポタミア)数学も、西方に流れて中国には還流してこなかった。天文学についても事情は変わらない。アリストテレスの九天説、プトレマイオスの天動説を知ることはなかったし、アリスタルコス、コペルニクス、はてはガリレオの地動説にも接することはなかった。ケプラーの法則についても同様である。地動説についていえば、イエズス会士によって中国天文界はその存在を知ったわけで、「理論上の発達はほとんどなかった」(藪内 清)という評価を、地でいくものとなっている。
  東西交流のパイプを持ちながら、何故に自然科学の成果が中国社会に入ってこなかったのか、定着しなかったのかについては、やはり中華思想という漢民族=農耕民族特有の思想が問題となる。中華とは、「漢民族が、周囲の文化的におくれた各民族(東夷、西戎、南蛮、北狄)に対して、自らを世界の中央に位置する文化的国家であるという意識をもって呼んだ自称」(広辞苑)であり、中華思想とはここでいわれている意識である。支配的階層の意識といった方が正確であるかも知れない。中華思想がどのようにして形成されてきたのかについては、一言では言えないけれど、およそ次のような事柄が指摘されるように思う。第一に、夏・殷・周三代の頃より、北方・西方の遊牧民族対農耕民族=漢民族という、せめぎ合いの構図ができあがり、さらに南方・東方の民族に対しては漢民族の支配関係が定着していったこと。このような民族的対抗関係の中で、中華思想はますます強固なものになり、排外性を強めていったこと。第二には、儒家思想が当初より、中華思想を排除するものではなかったこと。たとえば論語には、次のような言葉が載せられている。「子曰く、夷狄の君あるは、諸夏の亡きに如かざるなり」(八?篇)、「管仲、桓公を相けて諸侯に覇たり、天下を一匡す。民、今に到るまで其の賜を受く。管仲微(な)かりせば、吾れ其れ髪を被り衽(じん)を左にせん」(憲問篇)。
漢代以降、儒家思想の国教化はすなわち中華思想とのドッキングに他ならなかった。新儒学においても事情は変わらず、金国との関係で排外性をさらに強めざるをえなかったこと、などがあげられる。この間の経緯をたどってみると、漢代に入って儒学が国教化されることにより、儒家思想と中華思想の一体化がますます進んだ。劉邦は白登山において、冒頓単于の騎兵四十万に囲まれ、陳平の奇策により命からがら難を逃れ、後日貢納を質とした屈辱的な講和を結ばざるを得なかった。武帝は白登の恨みを生涯忘れず、匈奴を漠北に追い、さらには西域に加えて安南、朝鮮を経略した。漢帝国は世界の中心であったし、中心であらねばならなかった。時代は下って、趙匡胤の宋王朝、開封に都して文治主義による官僚制度を樹立したものの、遼・西夏の進入に悩まされ、ついには1127年、金国の侵入により、江南に政権を移さざるを得ない状況に追い込まれた。ここまでが北宋、以後が杭州(臨安)に都したところの南宋である。新儒学とは、北宋の周敦頤(周濂渓)、張載(張横渠)、程(程明道)、程頤(程伊川)らが体系付け、南宋の朱熹がこれを集大成したものであるが、新儒学すなわち朱子学もまた、中華思想に彩られたものとなった。朱子学は科挙の制度を通じて、実質的な国教としての地位を獲得したのであるが、士大夫階級の現実的な政治感覚は別にして、金国とは倶に天を戴かないという思想は、新儒学において揺るぎのないものになっていた。朱子自身、金国に対する非妥協的対応を、生涯かけて叫び続けたことは、よく知られた事実である。
ところで、儒家思想と中華思想一体化の条件が、一つには周辺の遊牧民族との対抗関係の中に、一つは安南、朝鮮半島の経略にみられる、侵略的な政策対応の中にあったとして、このことが何故にその後の自然科学の停滞につながったのか。本来ならば、事実に即して歴史的経緯を見ていかねばならないけれども、これからジオ・ポエムの旅にのぼろうとするところ、ここでは宇宙論に即して、そのあたりのかかわりを、うっすらとたどって終わることとしたい。
まずは先に見た、中山 茂の「天の科学史」の一説。「中国では古来『地中』と称する測量原点を今の洛陽に近い点に置いていました。そこが四方に広がる大地の、世界の中心だというわけです。ところが地球説ではどこが世界の中心というわけにはいきません。そこで中華思想ということもあって、地球説が発生しがたかったのではないのでしょうか」。関連して、これもすでに見た、ジョルダノ・ブルーノとガリレオ・ガリレイ。世界を作り出した神の宇宙は、地球の中心性、地球の静止性、地球を取り巻く宇宙空間の有限性により成り立っていた。神の宇宙を根底から否定したブルーノは、宇宙秩序の破壊者として火刑に処された。ブルーノの宇宙は、神の手によって作られた、特別の世界ではなかった。無限空間には、神の手の届かない天体がいくつも存在した。そしてガリレオ、「太陽が中心であって不動であり、大地は世界の中心になく動くという誤った意見」は、ローマ法王の名の下に、異端審問官により、誓絶させられた。
ここで確認されることは、中華思想が自然科学の発展に対しては、マイナス要因として働いたこと。および、儒家思想の持つ天・主宰者というアプリオリな部分もまた、自然科学の発展に対してマイナスに働くということでなくてはならない。
最後の、天動説に連動する、連動しそうな「大地の中心にいる」という意識、「土中」という概念についての、堀内正範のいうところを、「中国名言紀行」によってみておきたい。「古来『中国』に暮らす人びとには、少なくとも知識人には、『大地の中心にいる』という意識が、どっかりとかそれとなくかはともかく、居座っているのである。いずれも中央の都市とはいえない北京(ペイジン)でも、西安でも、南京(ナンジン)にいても変わりがないのは、どこにいても歴史のなかでの大地の中心つまり『土中』に通じているからで、その歴史の奥行きのなかの『土中』はどこかということになると、史書が述べているように『中原』であり、さらには『洛邑』(いまの洛陽市)ということになるのだろう」。「説明のためにひとつだけ、『漢書』地理志を拾ってから先にいくのがよさそうである。『昔、周公が洛邑を造営した時に、そこが大地の中心にある(在干土中)と考えて、諸侯を四方に封じた上で、洛邑を都(立京師)とした』。3000年ほど前のこと、周の初めに洛邑を造営した周公(姓は姫、名は旦。周公旦とも呼ばれる)という判断が、その後、長く尾をひくことになる」(同上)。
 中国において、何故自然科学が発展しなかったのか、世界観ないし自然観に見るべきものがなかったのか、このような問いに対する答えは難しい。ここでは、その要因として、儒家思想と中華思想をあげてみたけれども、完全回答と言うにはほど遠いように思う。今のところ、蛇に怖じずという以外に、言葉の探しようがない

[7] 邵康節・張載および朱熹の宇宙論


(1)邵康節の宇宙論、元・会・運・世の消長、易にもとづく循環論
「循環的歴史観を象数学に基づいて定式化したのは邵康節であった(象数:易で、亀卜の示す象と筮竹が告げる数。また、易の各卦が象徴する形と、その卦を形づくる六爻(こう)のもつ数)。…邵康節は、世界の歴史は一元(十二万九千六百年)を周期として循環するとした。また、この一元を子・丑・寅…戌・亥の十二に区分すると共に、春夏秋冬の四つにも大別して盛衰をあらわしたが、ここで興味ある点は、人類史の最盛期を尭の時代であるとし、それ以降は次第に下り坂になるとしていることである」(柏木恒彦、朱子の自然学からのメモ)。
「邵康節は、『数』を想定して、一種独特の宇宙論を組み立て、天地(宇宙)は一定の時間ごとに消長を繰り返すと考え、その時間の単位として元・会・運・世を設けた。……世は三十年。運はその十二倍、すなわち三百六十年。会はその三十倍、すなわち一万八百年。元はその十二倍、すなわち十二万九千六百年である。つまり、天地は十二万九千六百年たつと、消長の一段階が終わって、新たな消長が始まり、永遠にその消長を繰り返すというのである」(小野忍、西遊記注)。

(2)気一元論の哲学、張載の宇宙論
 北宋の張載(張横渠)は、太虚、つまり気をもって宇宙の本体とした。彼の著書「正蒙」によると、宇宙空間には気が充満している。この空間が太虚である。
太虚は無限の広がりを持っている。形ある物の存在しないあらゆる空間は気にほかならない。気の存在しない空間は存在しない。万物の働きは太虚に充満する気の自己運動である。太虚に充満する気は激しく動き、上昇下降し、瞬時も止むことがない。浮上するものは清んだ陽気であり、下降するものは濁った陰気である。気の集散によって、あらゆるものが変化する。物の形は気の変化の一過程である。気の集散は、自己運動する気の本質にもとづくものである。集散しない気はありえない。気が凝集すると物(天地、万物)が生成し、気が拡散すると万物は消滅し、気は再び太虚に帰っていく。太虚中にあって、気が集散する状態は、水中で水がかたまり、またとける状態に似ている。太虚における気の総量には増減はなく、いわばエネルギーの総量は常に一定している。

<気とは何か>(三浦国雄、世界大百科事典)。
「宇宙に充満する微物質。アトムとは異なり、ガス状に連続していて分割できない。万物を形づくり、それに生命・活力を与えるもの。物質=エネルギーと定義される」。

<張載の宇宙論について>(山田慶児、朱子の自然学)。
「以上を要約すれば、空間とは気の拡がりである。気は運動をその本質として内在する。気の運動形態は集散、つまり、濃密化と希薄化である。気の不断の集散によって万物は生成し、消滅する。従って、気は生成論的に原初的な物質であるのみならず、形体ある万物と同時的に存在する。張横渠は、地を純粋な陰気が中心に凝縮したもの、天を浮上した陽気が地の外側を運行し旋回するものとみなす。また、彼のいう清濁二気とは、希薄な軽い気と濃密な重い気の意味であり、純不純のことではない。王船山も「明るく流動するものを清といい、硬く凝固したものを濁という」といっている。更に彼は、恒星は不動で天に純繋され、日月五星は地に繋がり地に随うという。これを説明すると、気中の凝集した気に他ならぬ恒星は、気(天)の回転と同じ速さの回転運動をもつ。この場合、恒星の相対的位置は不動である。つまり、恒星は不動で天に純繋されるとは、気と同じ速さで回転しているの意である。日月五星は地に繋がり地に随うという意味は、地の自転と一層密接に関連しているということである」。

<気に対する程伊川の見解>
「張横渠は、物の気が散じれば再び太虚にかえるといい、気が再び物となる可能性を認めた。程伊川は張横渠のこの考えに反対して、物の気が散じて原初の状態に復帰することはないとした。彼は、宇宙は溶鉱炉みたいに物を創り出すが、原料を消費してしまう。まして一度散じた気は存在するべくも無く、天地の造化の働きがどうしてそれを使用できようかと述べている」(柏木恒彦、朱子の自然学からのメモ)。

(3)理気二元論の哲学、朱熹の宇宙論
 天地の間には、ただ一元の気=一気が存在している。その気は陰と陽の二元素からなりたっている。 陰陽は一気に他ならない、朱熹においては陰陽=気というようにとらえられている。このようなとらえ方に対して、「陰陽とは一気の消長、縮退と伸長という運動に対しての言葉であって、陰は縮退に、陽は伸長に対応する。しかし、これは一気の縮退と伸長と言えば済むのであり、陰陽を用いなくても足りる」(柏木恒彦、前出)という考え方もある。
 陰陽の気は交合し、上昇―下降運動、回転運動を開始する。回転が速くなると、中央には気が凝集して、大地が形成される。地は宇宙の中央にあって動かない。外側で回転する気は天となり、日月となり星辰となる。軽清なる者は天となり、重濁なる者は地となると朱子はいう。さらに、二気(陰陽の気)は増えたりもしないし、減ったりもしないという。このあたり、張載(張横渠)の宇宙論にみられる「エネルギー保存則」を継承しているように見える。しかし、一度散じた気は再び太虚に戻るのではなく、消滅するという、程伊川の見解にも理解を示そうとする。
 一気はすなわち陰陽の気であり、陰陽の気は天地が形成されるにしたがって、五行の気を生じる。五行の気とは木火土金水といわれ、万物を構成する五つの物質的要素と説明される。両者の違いは、陰陽という概念が、「一気の消長、縮退と伸長という運動に対する言葉」(同上)、つまりは物質(気)一般の自発的運動を表すものであることに対し、物質的要素といわれる五行の概念は「物の属性にかかわる概念」(同上)ということもできる。しかし、万物の生成に即していうならば、陰陽の気という概念と五行の気という概念は、それほどの違いを持っていないように観察される。ということは、朱子が気をふまえて宇宙論を記述するに際しては、つまりは万物の生成の記述に際しても、気の運動にかかわる陰陽の気という概念の使用だけで、事足りたのではないかと思われる。このことに関して、太極・理といった概念については後でみることにして、朱子が陰陽と五行の概念をない交ぜにして使用している箇所を、「朱子語類」からいくつか引いておく。
 「(『太極図説』に)「無極の真、二(気)五(行)の精、妙合して凝(こ)る」とあるが、「凝る」とは、気が凝集して、自然に物を生じることである。もしこのように凝集しなければ、どうして万物を造りなせよう。無極は理であり、二気五行は気である。無極の理は、性である。性が(万物の)主となって、二気五行が、そこに縦横に入りみだれる。そのすぐれた気をうけたものが人となり、その形質をうけたものが物となる。生成の気の流動は、一挙に出現するものだ。もともと、完全な気を人に賦与し、(それから)等級を下げて物に与えるというのではない。ただ素質は、それぞれのうけた内容に左右される。(人間以外の)ものはもともと混濁している。だが混濁しながらも、程度の差がある。最もひどく混濁しているものは、気の形質の中でも、ひどく低級なものをうけたのである」(語類巻九四)。
 「(陰陽の)二気・(木火土金水の)五行はさまざまに感じあうから、人や物が生じるには、精なるものと粗なるものとのちがいができる。一つの気より生じるという点からいえば、人も物もみな気をうけて生じるわけである。精なるものと粗なるものとのちがいからいえば、人は正しくて清明な気をうけ、物は偏って混濁した気をうける。…物は天地の偏った気をうけている。それゆえ禽獣は横向きに生まれつき、草木は(生存のもととなる)根が下に向かって生え、末端の方があべこべに上にある。動物でたまたま知識があることがあるが、それはただ一面に通じているにすぎない。たとえは烏が親孝行を知っており、獺(かわうそ)が先祖の祭を知っており、犬は番をすることだけができ、牛は耕すことだけができるといったようなのがそれだ。人は知らないことがなく、できないことはない。人が物とちがっているところは、この点にかかっているのである。だが同じ人間でも、天からうけた素質についていえば、やはり昏明清濁のちがいがある。よって最上の知者や生まれながらの知者の資質は、気が清明純粋であって、少しの昏濁もない。ゆえに生まれながらにして道を知り、努力しないで道を行ないうる人は、学問をしなくても、それができるのである。たとえば尭や舜がそうである。一段下って、生まれながらの知者に次ぐ人は、必ず学んではじめて道を知り、必ず努力して行なって、はじめて道に至る。またその次は、資質がもともと偏っていて、さらに(本性が)隠されているから、必ず大いに努力しなければならない。他人が一回行なうところを、自分は百回なし、他人が十回行なえば、自分は千回なしてこそ、はじめて生まれながらの知者においつける。進歩してやまなければ、その成果は同じである」(語類巻四)。

 朱子の宇宙論は、一気をベースにしており、生成論としては周易・列子・淮南子を継承し、さらに張載の宇宙論をひきついでいる。とくに、気を物質的なものとして認め、気の自発的な運動を容認し、さらにふれなながらも、エネルギー保存則に傾斜している点、時代の先端を行くといってもいいように思う。
 一気=物質の運動の記述としては、陰陽二気の交合によっている点、変転きわまりない宇宙の運動を表現する方法として、大きく評価されるべきだろう。ただし、五行については先に述べたとおりである。この概念は、一気の運動を多元的に把握しようとの試みであり、物質の統一性=運動を無限の連関としてとらえるという観点からして、蛇足の観を免れないだろう。宇宙の生成に関しては、一気をふまえての陰陽二気の交合で、基本的には説明がつくように思われる。
 宇宙の構造論については、宇宙には気が充満している、天と地の間に空隙はないという観点をのぞくと、生成論に比べて特に目立ったことはない。宇宙は天球と、水に浮かんだ平らな地からできているという、いわゆる天動説は、蓋天説、渾天説からの借り物であり、新しくは邵康節からの借り物でもあるだろう。天地の生成消滅、いわば宇宙の進化論についても、これまた邵康節の循環論を出るものではない。
 最後に、朱子いうところの「理と気」の関係が問題となる。すでにみたように、気の運動を陰陽によって記述すれば、朱子の宇宙論は事足りる。「理にいかなる能動的な働きもなく、単に気に付着するのみであるならば、何故理が必要なのか?二元論を力説する必要はない。理を使わなくても、理論体系は成立する。…気がおのずからなる働きによって天地万物を形成するとすれば、存在論の理論的要請として、気より先に理が存在しなければならない、理がなければ天地や人物はないと朱子が強調するのは何故か?理の概念は不要である」(柏木恒彦、朱子の自然学からのメモ)。このような見解は、傾聴されるべきである。
 理と気との関係について、朱子のいうところをピックアップしてみよう。
「太極は、(理と気とが合して)天地ができる以前に存在する、渾然としたものではなく、天地万物の(そなえている)理の総称なのでしょうか」。先生いう、「太極は天地万物の(そなえいる)理にほかならない。天地についていえば、天地の中に太極がそなわっており、万物についていえば、万物それぞれの中に太極がそなわっているのである。(理と気とが合して)天地ができる以前には、要するに先ず理があるわけだ。(太極が)活動して陽を生じるのも、理にほかならないし、静寂になって陰を生じるのも、理にほかならない」(語類巻一)。
 「天地ができる以前には、要するに理だけが存するのである。理があるから、天地がある。もし理がなけれは、天地もなく、人もなく、物もなく、全く何もかもなくなつてしまう。理があれば気があり、あまねく流動して万物を発育する」(語類巻一)。
 「一陰一陽は形而下のものに属してはいるけれども、陰となり陽となる所以のものが、道理の本体のなせるわざであることを示すにほかなりません。よって道理の本体の至極を太極といい、太極の運動を、道というのです。名は二つですが、初めから別々のものではありません。周濂渓が無極といったわけは、それが、場所ももたず、形体もなく、物が存在する前にありながら、その後にもいつもそなわっている上に、陰陽の外にありながら、陰陽の中にいつもはたらいており、万物を貫いてどこにでもあるかと思うと、もとよりこれといって声や臭や影や響がないからです」(朱子文集巻三六、陸子静に答える)。そして朱子は、この言葉に続けて、陸子静に次のようにいう。「いま、無極を説くことは不都合だときっばり否定すれば、それこそ太極を、形体があり、場所があるものとすることができます。陰陽をいきなり形而上のものとするならば、また(形而上の)道理と(形而下の)器との区分を無視することになります。また形而上のものの上に、(あなたのように)さらに「(一陰一陽は、すでにこれ形而上のものなり)況んや太極をや」という言葉を加えますと、道の上の別の存在を太極とすることになります。これも道理がはっきりせず、作者の意図を尽くすことができません」(同上)。
 朱子の太極=理は、性・仁義礼智といった概念にまで及ぶので、ここで理一般を論じることはできないけれども、宇宙論に即していえば、事態はすでに明白ではないか。気を宇宙の根源をなす物質一般として認め、気の自発的運動を認めるだけでいい。そうすることによってのみ、理の働き、陰陽二気の働き、木火土金水五行の働きも、新たな観点から宇宙の運動の謂いとして、位置づけることが可能となるだろう。無限の階層において進化する宇宙の、それぞれの階層に固有な運動を記述する、別の謂いとして役立てることができるように思う。





★[1] 世界観と宇宙観、運動する世界に対する認識rekigaku001.htlm

★[2] 巨人盤古の物語、蓋天説・渾天説・宣夜節rekigaku002.htlm

★周易・列子・淮南子に見る宇宙論rekigaku003.htlm

★殷代に始まる天体運行の記録、歴代王朝による天問制度の確立rekigaku004.htlm

★古代中国における天球分割法のいくつかrekigaku005.htlm

★古代暦学における科学性の萌芽、何故に花を開かなかったのかrekigaku006.htlm

★邵康節・張載および朱子の宇宙論rekigaku007.htlm