


モクサイ通信№1(1998.12)
モクサイを語る会
NO.1 1998.12.12
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638
モクサイ通信の発刊について
私たちの機関紙を発刊することが、第3回モクサイを語る会で合意されました。その意図するところは、論議したことのポイントを整理しておく、問題点および到達点を共有するというところにあります。継続は力、積み重ねの足跡を確認しながら、一歩一歩前に出ようという私たちの決意表明でもあります。機関紙の名称は、担当者において、「モクサイを語る会」といたしました。名は体をあらわすといいますから、もっと適切な名称が見つかれば、その時点での変更は可という理解です。
ステップ・バイ・ステップこれまでの足どり
第1回モクサイを語る会
1、日時 平成10年7月吉日6:30
2、場所 伊和井(邦ちゃんのオヤジさんの焼き肉屋)
3、メンバー
田原哲三 289-1328 成東町湯坂519 0475-82-3240
柏木恒彦 283-0021 東金市東中1065 0475ー58ー8208
斉藤房一 289-1521 松尾町本柏950 0479-86-3823
土屋幸恵 289-1605 芝山町大台1232 0479ー77ー0844
実川泰成 289-1606 芝山町山田1604 0479ー78ー0182
実川嘉一 289-1606 芝山町山田1689 0479ー78ー0724
今関弘道 285-0812 佐倉市六崎1612 043-485-7638
4、顛末
(1)稲葉黙斎を語る会をスタートさせることについての全員の合意、モクサイと7人の小人ではないけれど、山の奥深くに埋まっている黄金を、これから見つけにかかろうという点での合意です。
(2)資料の持ち寄り、配布と改題(説明)
およそ上記の資料が、田原さん、房一さん、土屋さんにより持ち寄られ、コピーが全員に配布されました。重複がありますが、モクサイを語る会にとって基本的な資料になると思います。これらの資料を全部綴じ込むと、10センチを越えます。読むのも大変、今後問題の所在にしたがって、読みこなしていくということになるでしょうか。改題は主として田原さんによってなされました。
<目録>
o山崎闇斎 集大成哲儒 稲葉黙斎先生……梅沢思斎
o直方先生冬至文……梅沢思斎
o、黙斎先生遺著要路……梅沢思斎
o崎門吾党(佐藤派)読書次第並びに黙斎先生著述目録について……山口 巌、大塚洞元
o上総における山崎学……田原綱三郎
o姫島講義……稲葉黙斎
o孤松全稿(姫島講義抜粋)……道学協会
o稲葉黙斎と上総道学……東金市史
o藤門の学祖佐藤直方、上総道学の背景とその限界、石井周庵冬至文講義(田原綱三郎)、上総道 学開始記(田原綱三郎)……東金市史
o黙斎以後の上総道学……東金市史
o学芸関係資料……東金市史
o上総道学と稲葉黙斎……東金市史
o上総道学・稲葉黙斎の流れ
o伊庭一貫堂学談……梅沢思斎
(3)次回の語る会の持ち方と任務分担
上総道学(黙斎学)は、山崎闇斎学の流れの中にあり、闇斎学は朱子学の流れの中にある。そして朱子学は、孔子や孟子といった儒学の流れの中にあるということより、急がば回れ、まずはこの辺りから入り込もうということになりました。
分担としては、山崎闇斎については房一さんがレポート、朱子学については柏木さんがレポート、孔孟をはじめとする先儒の学についてはそれぞれが当たるということにしました。ボン・ボヤージ、スムーズな船出ができますように。
5、懇親会
そのために選んだ訳ではないけれど、焼き肉屋だから懇親の環境としては不自由しません。邦ちゃんのオヤジの差し入れもあって、最後はよく分かりません。
第2回モクサイを語る会
1、日時 平成10年8月吉日6:30
2、場所 伊和井
3、出席
田原哲三 柏木恒彦 斉藤房一 実川嘉一 実川泰成 今関弘道
4、顛末
(1)柏木レポートに基づく解題(説明)と検討
このレポートは、A4で11ページに及ぶ厖大なもの、説明を受けても分かったような分からないような、本腰を入れて学ぶという姿勢が要される内容でした。ここでは、レポートからの抜粋を紹介しておきます。解題の一端をのぞくことが出来るかも知れません。
「上総道学探求に際して、道学の成立過程を調査することは、意義あることと思う。この場合、上総道学が日本で花開いたことと、道学自体は中国で生まれたことを考慮して、・日本における宗教・哲学の流れ、・中国における宗教・哲学の流れ、の二つに分けて行うこととした。・日本における宗教・哲学の流れに関しては、斉藤房一氏が行い、私は・中国における宗教・哲学の流れを担当した」(前段)
「上総道学は朱子学の支流である。朱子学は、中国『宋(南宋)』の時代の朱熹によって大成する。ただ、朱子学の本源は儒学であり、儒学を根底に置きつつ、古来からの中国的思想や道教、仏教などの影響を受けて朱熹がこれを大成させた新儒学である。また、宋学の成立は、先達たる数々の道学者の功績が在ってのことであり、特に後唐時代における韓愈、北宋時代におけ宋学者周濂渓、程明道、程伊川、張横渠の功績は高い。よって、宋学を中心として以下を記す」(上総道学と中国)
以下、改題項目のみを記しておきます。
o前段 o上総道学と中国 o宋学隆盛の理由 o韓愈の「原道」…宋学の源流…道家・仏教への批判 o宋学の特徴 o宋学の始祖、周濂渓 o程明道における宋学の特徴…周濂渓を継ぐ宋学の二代目 o程伊川における宋学の特徴…程明道の弟 o張横渠における宋学の特徴 o宋学の完成・朱子学 o陸象山・趣旨の論敵
(2)日本における近世朱子学の興隆(房一レポート)に基づく解題と検討
このレポートも柏木レポート同様資料を入れるとA4で10ページを越える論考、房一さんの説明を受けたけれどの、耳を素通りして脳細胞にはなかなか届かず、四苦八苦、ねばり強く取り組む必要があるということは分かりました。ここでも、冒頭の「はじめに」を抜粋し、あとは解題の項目のみ掲げておきます。
「上総道学の根源的学問である朱子学について、わが国でどのような思想史を経て江戸時代に興隆したのか、そして山崎闇斎から始まる崎門派の学問がどのようなものであったのか、今回のテーマとして概説する」(はじめに)
oはじめに o近世朱子学興隆までの概略 o江戸時代における朱子学の受容と陽明学の存在 o江戸時代における朱子学の影響 o幕府と朱子学 o上総道学の源流…山崎闇斎とその思想 o崎門三傑 o佐藤直方および藤門三子 o調査を終えて
5、懇親会
前回と同様大盛会、モクサイを語る会の仕切というか、勧進元はカイッチャン、この日も花の金曜日、それにトドの差し入れ、盛り上がらないわけがない。トドとは邦ちゃんのおやじさんのニックネーム、そういえばわが方にもちょっとしたトドさんがいます。懇親会、危険?がいっぱいです。
第3回モクサイを語る会
1、日時 平成10年11月20日(金)6:30
花の金曜日は変わらないのだけれど、2カ月のブランクができました。その理由は、米の時期になったこと、土屋さんは食糧事務所、他のメンバーは何らかの形で農協にかかわっていることが一つ。もう一つは、柏木レポートと房一レポートをどう受けとめたらいいのか、このあたりの難しさにあったのだろうと思われます。カイッチャンからは、日程を設定するのは何とかできるけれど、語る会で何を話し合うのかが不鮮明だという趣旨の電話が何度か入りました。
2、場所 伊和井
3、出席
柏木恒彦 斉藤房一 土屋幸 実川嘉一 実川泰成 今関弘道
4、解題と検討
(1)柏木・斎藤レポートに対する問題提起および、黙斎の今後の進め方について
標記について、今関レポート(稲葉黙斎のメンバーの皆さんへ)により、解題(説明)と検討を行った。とくに異論はなかったものの、朱子学あるいは儒学についての十分な積み重ねがない中で、即、唯物論と観念論という視点から、朱子学をとらえるという困難性、同様にして、西洋哲学との比較という方法の是非が問われたように思われます。だから、焦らないで、朱子学自体を蝸牛の歩みでもいいから詰めていくということが、早道なのかという感じがありました。とはいえ、唯物論と観念論、西洋哲学との比較という視点は棄てがたいものがあるというようにも思います。ここでは、レポートの抜粋を持って、検討内容に代ええることとします。
<稲葉黙斎のメンバーの皆さんへ>
1、柏木・斎藤レポートに対する問題提起について
(1)問題を提起する視点(参考資料「唯物論と観念論=西洋哲学史レポート」、別添)
・朱子学および闇斎学を哲学として、あるいは哲学の見地から見た場合、歴史的にどのような位置づけがなされるのか、あるいはなされているのか、西洋哲学史との比較で考察できないか
・唯物論と観念論をめぐる課題ないし対立点は、歴史的に明らかにされている。そのあたりをも踏まえて、朱子学と闇斎学を見ることが出来ないか
・主な検討あるいは考察の視点
o唯物論と観念論 o弁証法と非弁証法 o史的唯物論に関わっての、階級的党派性
o認識論、世界の認識可能性など
(2)柏木レポートに対する問題提起ないしは確認事項
・気の哲学(張横渠)について
・朱子の存在論について
・朱子の宇宙観について
・朱子の「理気二元論」について
・朱子の「性即理」について
・朱子の倫理学・人間学、あるいは社会学?と「性即理」について
・朱子と陸象山の論争について
(3)斎藤レポートに対する問題提起(次回以降に予定)
2、稲葉黙斎の進め方についての提起
(1)朱子や闇斎とともに、黙斎も、たとえば冬至文なども並行してやった方がいいのではないかと思います。この中で問題とすべきことがでてきたら、またレポートすると言うようなことで、どうでしょうか。
(2)黙斎の集まりの中で、論議したことのポイントを整理しておく。たとえば「モクサイ通信」というような形で、誰かがレポートして、メンバーに配布すると言うような。問題となったこと、そして到達点を共有できるし、積み重ねの足跡も確認できます。継続は力とも言いますから。誰かは誰かという問題はあります。
3、モクサイの集い、開催の回数について(合意事項)
柏木・斎藤レポートに対して、どのように対応したらいいのかという問題も含めて、米の繁忙期もはさまって二ヶ月ほどブランクになりましたが、やはり月一回以上を目指すのがいいと思います。カイッチャンよろしく……。
5、今後の進め方について(合意事項)
(1)朱子学ないし宋学、あるいは儒学に対する考究は、今後とも続けていく
(2)しかし、当初のメンバーの意図は、冬至文とか姫島講義にあたることによって、上総道学とはどのようなものであったのかを知ることにあったのだから、出発点に帰ることが必要と思われる。すなわち、稲葉黙斎を考究する中で、黙斎学の闇斎学あるいは朱子学にしめる位置が明らかになるであろうし、朱子学自体も黙斎学を引きつける中で明らかにしていくことができるだろう。
(3)さし当たりの課題設定と任務分担
・冬至文について(田原哲三)
・培達塾(芝山殿部田の上総道学)について(土屋幸恵)
・李退渓について(柏木恒彦)
・朱子学と陽明学について(柏木恒彦)
・山崎闇斎を始めとして、日本の哲学について(斉藤房一)
・房一レポートに対する問題提起について(今関弘道)
(4)その他
・モクサイを語る会は、月一回以上開催するように努力する。そうしないと、前回の懸案とされた事項あるいは問題点とのかかわりが希薄化してしまう。
・同様な観点から、「モクサイを語る会」を発行し、その紙上で検討結果を確認する。また連絡などを行う。担当は今関とする。ぶらぶら暮らしをしているから、適任だろうとの理由によるようです。
3、次回開催日程について(合意事項)
(1)日時平成10年12月22日(火)6:30
この日は冬至の日です。出来れば6:00頃に集まってください。集まり次第に始めたいと思います。
(2)場所
いつもの通り、カイッチャンお願いします。
(3)課題
・冬至文について(田原哲三)
・培達塾について(土屋幸恵)
なお、この課題については、準備が整い次第ということになります。
6、懇親会
今回は実川ヤスナリ先生の一人舞台、そんな予感がしていたね。シャンゼリゼーを何回も何回も、行ったり来たり。凱旋門、コンコルド広場、ルーブル、ミロス島のビナス、オルセ、頭がぐちゃぐちゃになりました。柏木さんと房一さんのオーストラリアも、カイッチャンのタイランド・インド、スコットランドも、僕の長江、シルクロードも、入り込む隙間などなく、ホルモンをほおばりながら酒を喉に流し込み、ただウンウンといって聞き入っていた、ということだね。いい夕べでした。
<古代西欧哲学の誕生抜粋>(参考資料)
1、唯物論と観念論……予備的考察
(1)弁証法的唯物論の対象
自然・社会・人間の思考を全体として、統一的に貫く発展法則を研究する
(2)哲学上の基本問題(唯物論と観念論)
・意識と物質、思考と存在、精神と自然……根源性あるいは第一次性の問題
・一元論と二元論(多元論)
・弁証法と形而上学
・認識論
・階級的党派性と科学性の統一
(3)史的唯物論(唯物史観)
弁証法的唯物論を、人間社会の歴史の領域に発展させ、社会発展の一般的な法則を明らかにするあるいは研究する
(4)基本的命題
・社会発展の基本法則
生産力(生産手段・労働力)と生産関係、土台と上部構造、生産様式(経済的社会構成体)
・階級と階級闘争
・国家(共同体)と革命
・民族と民族解放闘争
・社会的意識の諸形態……イデオロギー論など
(5)、(6)略
2、哲学前史……原始共同体社会
(1)二元的(多元的)な世界観
(2)観念的世界観の支配
(補遺)世界創造神話
o旧約聖書 oギリシャ神話 oインド神話 oゲルマン神話 oエジプト神話
o日本の創世神話
o中国の神話……天地創造と盤古の誕生
「太初には何もなかった。気がもうもうと広がり満ちていた。天と地はひとかたまりになり、鶏の卵のようにふわふわしていた。やがて入り交じった天と地は、陰陽の気に感じて盤古という巨人を生み出した。盤古が生まれると、はじめて天と地が分かれた。盤古の背丈が伸びるにつれ、天地は引き離された。清いものは天空になり、濁っているものは大地となった。盤古は一日に一丈成長した。一万八千年という長い年月が経過した。盤古の背丈は九万里に達した。もともとは接していた大地の間が、今日のように離れたのはこれがためである」(三五暦記、徐整、三国呉)。
3、古代ギリシャの唯物論
(1)ミレトス学派の積極面と消極面
(2)ミレトス学派の哲学者
・タレス(BC624~547)
・アナクシマンドロス(BC610~525)
・アナクシメネス(BC585~525)
4、古代唯物論哲学の発展
(1)ギリシャ哲学の区分
・地域的区分
・問題史的区分(哲学史教本、ヴィンデルバルト他)
・社会体制的区分
隷制社会の崩壊期の哲学=ヘレニズム・ローマ哲学(BC4C~AD5C)
(2)イオニア学派の継承者ないし哲学者
・ヘラクレイトス(BC530~470)
・クセノファネス(BC570~4478)
(3)ピタゴラスとその学派
(4)エレア学派
・パルメニデス(BC515~?)
(5)多元論者たち
・エムペドクレス(BC490~430)
・アナクサゴラス(BC500~428)
(6)原子論者たち
・レウキッポス(BC500~440)
・デモクリトス(BC460~370)……古代唯物論の完成
5、アテナイ期の哲学
(1)ソフィストの出現
・プルタゴラス(BC481~411)
・その他のソフィストたち
(2)人間・人間社会の哲学へ
・ソクラテス(BC469~399)
・プラトン(BC427~347)
・アリストテレス(BC384~322)
6、ヘレニズム時代とローマ時代の哲学
・エピクロス(BC341~271)
・ルクレティウス・カールス(AD99~55)
・プロティノス(AD204~270)
・アウグスティヌス(AD354~430)
黙斎の年忌に参列
田原・土屋・今関
周知のように田原さんは、上総道学の灯を最後までともし続けた、田中蛇湖などと並び立つ、田原担庵の孫に当たります。その田原さんに誘われて、11月27日、稲葉黙斎の年忌に参加しました。お墓は元倡寺の裏手、九十九里平野を一望する日当たりのいい斜面にあります。上総道学ゆかりの人たちが15人前後、そして新年の3日に李退渓の放映があるとかで、韓国テレビが取材に入り、私たちの焼香の風景をとったり、山口巌さんの話を聞いたりしていました。李退渓の子孫はなお韓国にあって16代を数え、何年か前に黙斎のお墓を訪れ、交流をしたことがあるとのことでした。
お線香をあげてのち、場所を役場の近くにある野菊プラザに移し、山口巌先生の冬至文の講義を聴きました。次回に田原さんの方から冬至文についての解題がなされるので詳しくは触れませんが、冬至文とは冬至の灯に佐藤直方が、三人の弟子に勉強の仕方を教えたという、200字前後の短文です。孟子の五倫の話、訓古学・仏教と、現実ないし実践重視の朱子学との差異、「游手浮浪の徒」(詩人ないし漢詩に興ずる人たちを指すようです)などの話、それなりに面白く聞くことが出来ました。土屋さんの詩吟、漢詩に対する造詣はちょっとしたものなのですが、モクサイを語る会で詩吟をやったり、歌をやったりはいけないのかなと言ったら、必ずしもウウウというような返事でした。
来年は黙斎の200回忌を町の教育委員会で計画しているとのこと、上総道学淵源の地で在るにもかかわらず、東金市史などによって、他市町村に大きく水をあけられているという恨みがあるようです。
*孟子の「五倫」とは、「父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信あり」をいいます。
論語
ろんご
孔子の書とされる儒教の経典。四書五経の一つ。20編からなる。孔子とその弟子たちの問答,言行録の形をとり,孔子の弟子に対する愛情のある言葉や,先覚者としての孤高な独白もある。また,弟子の顔回,子路,子貢などそれぞれの個性が描かれる。その説くところは日常生活に即した実践的倫理であり,孔子の思想を最もよく伝える。成立に関しては諸説あり,現在では孔子の弟子たちの伝えた言行録が3系統あったものを孟子(もうし)の時代に編集して,現行《論語》の原本ともいうべき《古論語》が成立し,それが漢代までに選択整理されたと考えられている。《論語》は儒教経典が五経であったころからとりわけ必読の書とされていたが,魏の何晏(かあん)の《論語集解(しっかい)》などを経て,朱熹(朱子)の《論語集註》が出て四書に加えられてから,《孝経》とともに科挙の書目に入り,最重要の経典とされた。日本には,《日本書紀》によれば応神天皇16年,百済の王仁(わに)により将来されたという。以後江戸末期に至るまで多くの注釈書が出た。
→関連項目
伊藤仁斎|孝経|古文|白話
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こうし
孔子
こうし
前551-前479
中国,春秋時代の思想家。儒家の祖にして儒教の創始者。名は丘,字は仲尼(ちゅうじ),魯(山東省曲阜)の人。幼にして父母を失い,貧苦の中で学に志し,周公を理想の人物と仰いだ。魯の国に周公の理想的政治を実現しようとして大臣になったが,反対派のため実現できず,国外にのがれて諸国を巡歴した。このころから弟子団が形成され,孔子は小国分立の中で中国の統一を願ったが果たされず,18年間の巡歴の後,魯に帰った。周公の理想を伝える《書経》《詩経》を編集し,〈礼〉を重んじ,弟子の教育に当たった。孔子は〈仁〉を中心として人倫を建設することを目的とし,葬礼,孝などの実行を大きな徳目とした。人間社会における家族生活の倫理が国家・天下を平定する原理になることを説き,そのことによって個人的自覚を得させようとした。孔子の言行は《論語》に記されているが,その弟子は70人を越え,なかでも優秀な顔淵,閔子騫(びんしけん),冉(ぜん)伯牛,子貢,子路,子夏など10人を〈孔門十哲〉という。儒教はこれらの弟子によって各地に伝えられ,漢代に国教となって以来,歴代王朝で重んじられ,故郷の曲阜をはじめ各地に孔子廟が建てられて盛大な祭(釈奠(せきてん))が行われた。民国成立後は孔子批判もまた盛んであり,近くは〈批林批孔運動〉が知られる。→儒教/朱子学
ししょごきょう
中国における,重要古典の名数的呼称。四書とは《大学》《中庸》《論語》《孟子》。この称は宋の程頤(伊川)が《大学》《中庸》の2編を《礼記》中から独立させ,《論語》《孟子》に配したのに始まり,朱子学の聖典とされる。五経とは《易経》《書経》《詩経》《礼記》《春秋》の五つで,儒教における最も重要な経典。五経の名は唐の太宗が《五経正義》を作らせた時に定まったという。
→関連項目
咸宜園|爾雅|儒教|春秋|書経|南学|礼記|論語|五経博士|薩南学派
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モクサイ通信№2(1999.18)
第4回モクサイを語る会まとめ
1、日時 平成10年12月22日(火………冬至)6:30
2、場所 川和伊
3、出席 田原哲三、柏木恒彦、斉藤房一、実川嘉一、土屋幸恵、今関弘道
4、顛末
(1)冬至文について(解題………田原さん)
・冬至文とは、佐藤直方が晩年に書いたもの。「此は冬至に関係したことではないが、冬至の日に書いたから、そう名づけたもので、門下中尤も傑出した稲葉迂斎、野田剛斎、永い陰求の三君子に対し、心法を授けたものである。心法とは『治本於道』とあるに依るものである」(佐藤直方先生、田中蛇湖)。
・レポートは田原さん、冬至文訓読を通読する。蛇湖は、冬至に関係したことではないと言うが、やはり冬至文を冬至の日から始めるのは、何となく面白い。一通り読んで、すぐに「黙斎先生冬至文講義」(花澤文次録)に入る。概論部分「佐藤先生冬至文コノ文………」と第1節「道之廃而不行猶擔擔物捨置地上也」を読む、とはいえ、読み下すだけでも大変、担庵の血筋、さすがは田原さんというところでした。
・課題
第1節だから、あんまりふりかぶった課題での論議は避けようと言うことで一致、そのうち明らかになってくるだろうと言うことです。今回については、分からない語句、あるいは節を、次回までに明らかにして来ようと言うにとどまりました。課題と分担は以下の通り。
o朱批亦信とは(田原さん)
o人が本心を失ったなれども○はあるぞ、其○の切れぬ所が性善………(房一さん)
o上ヶ鳥とは(田原さん)
(2)藤田水哉と培達塾について(解題……土屋さん)
・「培達塾同窓誌」を始めとする「土屋家文書」により、土屋幸恵さんが調査、考究。上総道学が明治期において、どのような形で地域とかかわりを持ったのか、あるいはどのようなものとして地域に受け入れられたのか。上総道学を社会的に見る上で、その具体例として大いに得るところがあったと思います。
藤田水哉の主催する培達塾が、明治23年に開かれてより、延べ400人におよぶ卒業生を送りだし、二川・千代田を始めとして近隣25村に塾生は散らばり、職種は農業、商工業を中心に多岐にわたり、地域社会に対する影響力は無視できなかったと推測されます。
また、教育内容として「道学を講窮し名教を維持す」「忠義信義を守るべし」という、道学の精神が掲げられ、くわえて「家業を励み節約を旨とす可し」「各自新たに発明することあらば是を社会に表白し公衆の利益を謀るべし」「同窓者は時々相往来し艱難相救い……其徳を完成すべし」というあたり、土屋さんの報告にあった、水哉の父親が大原幽学
に「性学」を学んだと言うこともうなずけます。同時に、地主階級の利益を代用する組織でもあった「産業組合」とのかかわりにも関心をひかれます。ここのあたり、上総道学が農民の諸階層に対して、どのような接し方をしたのか、具体的にどのような講義をしたのか、検証できる資料があればと思います。外国に対する排外的な考え方を、否定していることも留意されます。
反面、いわゆる道学の教えから来るものなのか、時代の制約もあってのことなのか、「皇室を尊び………」「教育勅語の御旨趣を奉戴し………」「我が帝国の光輝を宇内に宣揚………」という教育方針は、「中正を主とし党派に偏るべからず」という、もう一方の教育方針とどうかかわるのか、上総道学の社会的性格、党派性を占う上でも面白いとおもいます。
藤田水哉の同時代人としては、安井理民、伊庭弘道、子安吟風、そして田中蛇湖、田原担庵などがいます。それぞれの立場から上総道学を学び、地域社会に切り結んでいったのでしょう。土屋さんの家系は、400年~500年はさかのぼれます。カイッチャンの家系もそうかも知れません。明治期において地域の指導階層をなしていたことは確かです。上総道学は、このような指導階層を対象として、存続をはかっていったのかも知れません。よく探せば、トサキの白壁土蔵の中に、「実川家文書」が眠っているかも、起こしレくれる人を待っているのかも………。半面、田中蛇湖とか田原担庵、一代下がって梅沢思斎(芳男)という人たちは、上総道学の理論面を受け持っていたのかなとも思います。いずれにしても、年末のあれこれと格闘しながらのレポート、土屋さんの労に対して、感謝しなければならないね。
・藤田水哉の系譜と湯坂について
(ア)「山武郡芝山町殿部田の人。名を誠兵衛といった。嘉永4年(1851)生まれ。大正8年(1919)没。年69。殿部田に培達塾(尚斎の哉根、達与の塾名から取ったか)を開き、斯学の普及につとめた。
注、土屋さんの資料では、生年が弘化2年(1849)となっている。
注、尚斎とは、闇斎の三人の弟子、佐藤直方、浅見絅斎とならぶ三宅尚斎のことか。
(イ)藤田水哉は、花沢確斎の弟子(門下生)である。花沢確斎は「成東町湯坂の人。花沢退蔵(一止)の子(二男)。通称は幸次郎。謹直の性格で学才に富み、医学を修め、松尾町八田に開業していた。墓は松尾町八田小柳家の墓地にある」と伝えられる。田原秀信と同門である。秀信については「成東町湯坂の人。嘉永3年(1850)生まれ。通称利三次。はじめ鈴木養斎に学ぶ。田原担庵の父。昭和2年(1929)9月7日没。年78。」と伝えられる。
(ウ)確斎と秀信の師は斉藤道斎、「成東町湯坂の人。文化13年(1816)に生まれた。名は政常、佐源司と称した。穏和な性格で、しかも節度正しい生活態度を保った人である。明治6年(1873)6月26日、58歳で没した。墓は湯坂上ノ台墓地にある。村役人をつとめ、村民の教化に努め、又敬神の念にあつかった」
(エ)確斎の父は退蔵または一止(文政元年・1818~明治28年・1895であり、湯坂の生まれ、岩崎求斎(黙斎門人)に学んで道学の振興につくしたといわれる。岩崎求斎は鈴木養斎と同時代人である。上総道学における湯坂とは、どういう所だったのか、このあたりは田原さんかな………。
・水歳と数学
(ア)藤田水哉が経学と数学を学んだと言う、釈靄洲、佐瀬楼碧については、今の時点ではわれわれは分かっていない。上総道学の系譜の中には見あたらない。
(イ)数学については、上総道学の系譜の中では、子安吟風がおり、藤田水哉あるいは田原担庵と同時代を生きている。吟風については、次のように伝えられる。「東金市荒生の人。子安義和(大木丹二の門人)の子。天保2年(1831)6月3日の生まれ。名は幸三郎、七郎兵衛」と称した。父と同じく関流の和算家であって、自宅で稽古場を設け、門弟を取り立てたが、師弟の関係は友達同士のようであったという。儒学では易学に通じ、晩年には四歳年下の石井周庵に学び、道学協会の仕事に協力し、今井松順らと南総支会をつくり、日曜毎に、松順家で儒学の講義をした。明治40年(1907)10月6日、77歳をもって没した。墓所は荒生の同家墓地にある。彼は「生涯一字を著さず」といって著述はないが、門人の筆録したものに「易説」「冬至文講義」がある。
(ウ)上総道学における、あるいは藤田水哉における、和算と易学について関心をそそられる。土屋家には上に三つ、下に四つの算盤があり、田原家には上に二つ、下に五つの算盤があるとのこと。土屋さんの言うところでは、水哉は算盤を用いて微分、積分をやったとのこと。また、県の数学学会のような所に、水哉は求められて和算の方法を提出したとのこと。田原さんの話だと、吟風の和算は成田山に奉納されているとのこと。
そこで、誰か系統的に追求してみたら面白いと思います。今の時点で設定できる課題は、およそ次の通りと考えられる。
o佐瀬楼碧とは、事績を調べられないか。
o大木丹二と子安義和の事績をたぐれないか。
o吟風と担庵との関係………ともに石井周庵に学び、道学協会の仕事に今井松順を助ける形でたずさわった。このことから、担庵資料(事績)を子細に調べあげるとか、協会の資料に手を伸ばすとか、いい手がないか。確証はないけれども、和算、易学の流れは担庵の所に受け継がれたのではないか。一般的資料としての、関孝和までに行き着く和算の歴史と到達点を踏まえるとして、誰か勇気のある人は。
(エ)以上、土屋さんのレポートに対する論議のまとめにはなっていないと思うけれど、まずはひとまず? 仕方がない、まとめにします。
(3)その他
会計の房一さんより提起あり。通信のための切手代、あるいはコピーなどに要した経費は、事後的にモクサイの会で支払う。申し出てくださいとのことで合意。
レポート歓迎
上総道学、闇斎学、朱子学、孔子・孟子の学、あるいはモクサイを語る会に関連する資料の配布歓迎。方法としては、独自にメンバーに配布するか、モクサイ通信に載せるかどちらかになると思います。そのほか、モクサイ通信に載せるようなもの、近況でもいいし、季節に感じること、あるいは世の中のちょっとしたことでもいいと思います。送ってください。
今までに提出されたレポート
・日本における近世朱子学の興隆(斉藤房一)
・柏木レポート(中国における宗教・哲学の流れ)
・稲葉黙斎のメンバーの皆さんへ(今関弘道)
・古代西洋哲学の誕生(今関弘道)
・柏木レポート(今関氏の第1回問題提起に対する小考察、陸象山と朱子、陽明学の成立と展開、他)
・培達塾(土屋幸恵)
次回開催日程
(1)日時 平成11年1月29日(金) 6:00
(2)場所
いつもの通り、嘉一さんお願いします。
(3)課題
・冬至文について(田原哲三)
・前回課題とされた語句の説明(前述)
・培達塾補完(土屋幸恵……出来ればと言うことでした)
論語
前出。モクサイを語る会1号参照
大学
中国の儒教経典の一つ。もと「礼記」の一編で,〈修身・斉家・治国・平天下〉の道を説く。朱熹(朱子)が原文の順序を改め,3綱領,8条目の体系をたてた。
中庸
儒教の経典。子思の作という。もと「礼記」の中にあったのを,宋代にはこれを独立させて研究する者が多く出て,朱熹(朱子)によって〈四書〉の一つとされた。誠の道によって天人合一を説く。
孟子
孟子と弟子たちとの言行録7編。孟子は礼を父子,君臣,夫婦,長幼,朋友の五倫とし,人間の本性を性善説で把握,覇道を排して王道による天下統一を説いた。その思想は宋代の朱子学によって高い評価を受け,孟子は論語と並称され,孔孟の道は儒教の代名詞となった。
易経
易のテクスト。英訳は《Book of Changes》。12編。八卦(はっか)の組合せにより,64の卦の意味を説く2編が経本文。解釈の部分が10編で,これを十翼という。周の文王と孔子が作ったといわれるが伝承にすぎない。儒家は自己の主張をこの経の解釈に結びつけて展開し,宇宙論や陰陽哲学を付加して,中国人の人生観や世界観に大きな影響を与えた。
礼記
前漢の諸制度の整備期には,礼に関して多くの記録が現れた。その中から戴聖が選録した49編をいう。《周礼(しゅらい)》《儀礼》と合わせ〈三礼〉と呼ばれる。王朝の制度,服喪・動作の規則,礼の解説,礼楽の理論などを含む。戦国末から漢初の学問集成の書として重要。宋代に朱熹(朱子)はこの中から《大学》《中庸》の2編を独立させ四書(四書五経)に加えた。
詩経
中国最古の詩集。周王朝の初期から東遷後百数十年に及ぶ(前10―前6世紀),朝廷の祭祀・饗宴の楽歌,各地方の民間歌謡など計305編を集録。国風・小雅・大雅・頌(しょう)の4編に分かれる。孔子が編集したといわれるが疑わしい。
春秋
魯の隠公の初年(前722年)から哀公の14年(前481年)まで12代242年間の年代記。《孟子》によれば孔子またはその門人の編纂(成立は前5世紀初め)とされ,儒家の教科書に用いられた。簡潔な叙述をもって史実を記し,大義名分を明らかにし,それによって天下の秩序を維持しようとしたものと伝えられる。
儒学における倫理説あるいは徳学
五典(舜)
★五典……父は義 母は慈 兄は友 弟は恭 子は孝
四徳(舜)
★四徳……直にして温 寛にして栗(りつ) 剛にして虐無し
簡にして傲無し
三徳(孔子)
★三徳……智 仁 勇
五倫(子思・孟子)
★五倫……父子親あり 君臣義あり 夫婦別あり 長幼序あり 朋友信あり
四徳(孟子)
★四徳……仁 義 礼 智
五常(董仲舒)
★五常……仁 義 礼 智 信
参考
五典・四徳……出典は「書経舜典、伝」
五倫……古来中国で説かれる人間関係上の五つの徳目。五常とともに道徳の基本とされ,古く「中庸」「孟子」に説かれた。,五倫の名でまとめられたのは明代……五典の解釈として五倫が孟子によって唱えられたとの説に対し、宇野哲人は、そうではないという。
五常……五倫と並ぶ中国古来の基本的徳目。仁・義・礼・智・信。孟子の四徳に信を加え,五常としたのが漢代の董仲舒……晋代以降、五典と五倫、五常は同一視された嫌いがある。
董仲舒(とうちゅうじょ)……前176?-前104?前漢の儒者。失政には天が災異をくだして戒めるとする災異説や,自然と人間社会の相互の対応関係を認める天人相関説を主張した。武帝に深く信任され,その奏上により,儒教は国教となった。著書《春秋繁露》17巻。
経書……儒教の基本的文献。経は〈たて糸〉,聖賢の不変の教えを意味する。前漢の武帝の時(前136年)五経博士が置かれ,《易経》《書経》《詩経》《礼記》《春秋》を経とした。時代により,《孝経》《論語》《孟子》《爾雅》や《春秋》の3伝などが加えられ,五経,六経,十三経,二十一経などと呼ぶ。これら経書の解釈学が経学。
モクサイ通信№3(1999.02)
NO.3 1999.02.15
第5回モクサイを語る会まとめ
日時 平成11年1月29日(金) 6:30
場所 川和伊
出席 田原哲三、柏木恒彦、斉藤房一
実川嘉一、土屋幸恵、今関弘道子曰く、学びて時にこれを習う、亦た説(よろこ)ばしからずや。朋あり、遠方より来る、亦た楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、亦た君子ならずや。(論語、学而篇)発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638
ふりかえり
1、朱批亦信
朱批とは、上の人が批評する、目を通すこと。書き込みの部分がそれに当たる。信とは、稲葉黙斎の名前が、正信ということから、黙斎が目を通して批評したとのこと。亦については、記すという意味があるのではないかという意見(田原さん)があったが、よく分からない。ここでは、……も亦、というように解釈しておく。
2、「人が本心を失ったれども○はあるぞ」のところ、 ○は脈の略字、ないしは異字体。
3、一陽来復
陰がきわまって陽がかえってくること。陰暦11月、冬至のこと。冬が去り春がくること。悪いことばかりあったが、ようやく回復して善い方へ向かってくること。易経にある。
4、上ヶ鳥
「あげどり」と読む。鷹狩りをする鷹の餌になる小鳥のこと。
多古村の例……多古村では、上ヶ鳥飼育のため小鳥の捕獲が禁止されていた。鷹匠が上ヶ鳥の調達に村々を巡回した。鷹匠がまわってくると、手伝いの人夫や捕らえた小鳥を江戸まで運ぶ人夫、また宿泊の準備などに多くの人手を必要とし、村では大変なことであった。参考資料(土屋さん提供)にあるのは、多古村役人が、鷹匠人夫の免除を願い出た書類である。
上ヶ鳥とは何か、柏木さんが、自宅に帰ってぶつぶつ言っていたら、お母さんが、それは長唄の一節にある。何というべきか。
田原さんが、上ヶ鳥について、鵜沢さんに尋ねたところ、梅沢さんにきいてくれ。分かる人にとっては何でもないことが、分からないものにとっては大変。
5、「乃の字」について
「佐藤先生冬至文」(テキストの一番表にある)の3行目、「乃担夫也」のこと。
6、「曾子の任遠と云語」について
後で出てくるとのことで、ここでは内容に立ち入らない。参考として、「曾子」「孝経」について、マイペディアから抜粋しておきます。
(1)曾子(そうし)……前505-前436、中国,周代,魯の思想家。名は参(しん),字は子輿(しよ)。孔子の弟子。《論語》の中では三省の教え,孝行で有名。《曾子》《孝経》が帰される。
(2)孝経(こうきょう)……儒教経典の一つ。1巻。戦国末に成立。孔子が曾子に孝道を説き聞かせる形をとり,天子,諸侯,大夫,士,庶人の孝を説いて,孝を徳の根本とする。《論語》とともに儒教倫理の普及に寄与した。
7、「ちろり」……火鉢などの灰にさしたり、また湯の中 で酒を暖めるのに使う。銀、銅または真鍮製の容器、 筒型、腰高で、注ぎ口と取っ手がある。
子曰く、学びて時にこれを習う、亦た説(よろこ)ばしからずや。朋あり、遠方より来る、亦た楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、亦た君子ならずや。(論語、学而篇)
チロリ……火鉢などの灰にさしたり、また湯の中で酒を暖めるのに使う。銀、銅または真鍮製の容器、筒型、腰高で、注ぎ口と取っ手がある。
当日のテーマ
1、「若し其人其時に出ること有らば則ち之を任じて 永く地に墜ちざらしむ」(読み下しと解題……田原 さん)
(1)「親義別序信」……いわゆる五倫、田原さんよ り、黙斎を理解する上で、五倫をもっと深くとら える必要があるとの意見。
(2) について、今までは「。」というように読ん できたが、「なり」と読む方が理解しやすいとの意 見が、田原さんから出された。今後、「なり」と読 んでいくことにしよう。
2、「今聖学を務むる者は乃ち担夫なり」(同上)
(1)「乃の字」の解釈については前出。
3、「俗学の徒は則ち路中の游手のみ、何ぞ道の任を 望むに足らんや」(同上)
(1)ここの部分の理解は、司馬遷、司馬相如、柳子 厚、杜子義、温公などを游手(遊び人)とみる、佐 藤直方の立場を読みとることにあると思う。
(2)このことは、上総道学の一端というか、特徴を 示すものでもある。
残された課題(宿題)
1、「親義別序信より○人が任ずる」……「○人」は 何と読むのか、どういう意味か(土屋さん、房一さ ん)
2、五倫についてのレポート(房一さんだったかな?)
3、「柳子厚杜子義」とは(柏木さん)
4、「役屋舗」とは(土屋さん)
5、「温公」とは(土屋さん)
暖地の人花の散に比(くらべ)て美賞する吹雪と其異(そのことなる)こと、潮干に遊びて楽(たのしみ)と洪涛(つなみ)に溺て苦(くるしむ)との如し。雪国の難儀暖地の人おもひはかるべし。(北越雪譜、鈴木牧之)
資料提供
1、鷹匠人夫に関する文書および「培達塾同窓人名」(土 屋さん)
2、「ちろり」(土屋さん)
3、「大学章句序」ー高成田忠風詳解(田原さん)
4、「中庸章句序」ー高成田忠風詳解(田原さん)
中庸については、「子思の作という。もと《礼記》の第31編であったのを,宋代にはこれを独立させて研究する者が多く出て,朱熹(朱子)によって〈四書〉の一つとされた。朱熹は全文を33章に整理して,《中庸章句》《中庸或問(わくもん)》を著した。誠の道によって天人合一を説く」(マイペディア97)。
五倫は、中庸をふまえて孟子が整理したと言われるし、差しあたりは五倫理解の参考になる。同時に、道学を学ぶに中庸という概念は欠かせない。
5、「東洋思想辞典(抜粋)」(田原さん)
6、「冬至文(全)」(田原さん)
冬至文については、稲葉黙斎が5~6回講義をしているということで、これは平野長道筆録のものです。われわれのテキストは、花澤文次のもの、まずは両者を比較することにより、読み下しおよび文章の理解に役立つだろうと思います。
懇親
JAの人事異動があったりして、カイッチャンが遅れてきたので、房一さんが仕切。クニちゃんも加わっていつものように焼き肉パーティー。モクサイを語る会の重要な構成部分。吟醸酒飲み放題という感じで、会費5000円、不況だけれど僕らがんばっています。
次の開催日程
日時 平成11年2月26日(金) 6:30
場所 いつもの通り
テーマ
oふりかえり(宿題を含めて)
o「朝鮮の李退渓の後、此道を負荷せんと欲する者、 吾未だ聞かざるなり」(読み下しおよび解題……田 原さん)
o「中庸の序に所謂吾が道の寄る所、言語文字の間 に越えずとは正に此を謂うなり」(同上)
o「我が邦古へより今に至るまで此道に任ぜんと欲 する者幾人ぞや」(同上)
o「二三子聖学に志すこと有るか、無きか」(同上)
冬至文に出てきた
ことば・本・人
冬至文ないし稲葉黙斎を理解するためには、それ自体の文言(文章)の中に、真意をくみ取ることが必要である。われわれの取り組んでいる訓読の読み合わせは、そのためである。
しかし、上総道学をよりよく理解するためには、文言の中にひかれている言葉、書物、人物への理解が欠かせない。性善、親義別序信、四書、近思録、尭舜禹湯、周程張朱、司馬遷、杜子義などである。上総道学は、朱子学の系譜をひき、朱子学は儒学の歴史的蓄積の集大成といった性格を持つからである。
われわれはディレッタントではあるけれど、そうではあっても一流を目指したいから、面倒でも理解に向けて取り組んでいくことにしたい。
現時点で、黙斎の冬至文の中に出てきた、言葉、書物、人物については、掲げたとおりであるが、まずは柏木レポートが参考になると思うし、田原さんから提供された、「東洋思想辞典」「中庸章句序」「大学章句序」が参考になると思う。あとは、暇を見つけて図書館通いか、いい人を見つけて話を聞いてもいいし……。学問に王道はないというから、努力というわれわれに隠された才能を発揮することが、本道への近道だと思うね。
ことば(儒学・朱子学の概念)
性善 一陽来復 非道弘人 親義別序信
冬至文に出てくる人
尭舜禹湯 孔曽思孟 周程張朱
司馬遷 司馬相如 柳子厚
杜子義 温公
道学にかかわる書物
四書(論語、大学、中庸、孟子)
近思録 中庸
哲学的観点から
追求の必要な事項
管見(かんけん)という言葉があります。「管をもって天を窺う」(荘子)という立場を認めて、それなりの努力をしていくことが必要です。農家のおやじさんと、酒を飲むのも必要なのだけれども。
柏木レポート批判(理解の仕方)
宋学における一元論と二元論の整理、すなわち朱子と陸象山のちがい、追求の視角としての唯物論と観念論(唯心論)、関連して儒学における自然(狭義の)に対するとらえ方、認識論、弁証法。あるいは名分論、政治思想などを入り口に、階級的党派性の問題など。
房一レポート批判(理解の仕方)
朱子学の日本版としての闇斎学の確認と、他の学問的流派との差違。名分論を切り口にした日本の朱子学の位置づけ。闇斎と神道の結合の理由、あるいは必然性。などなど……。
陸象山と王陽明
両者の差異、現実的対応における朱子学と陽明学の差違、日本における陽明学の系譜、特に階級的党派性の問題。などなど……。
朱子と李退渓
追求の観点は、「陸象山と王陽明」と同様。特に、仏教から儒教に転換する朝鮮の思想界において、名分論を契機とした階級的党派性のあたり。
司馬遷 しばせん
前145?-前86?
中国,前漢の歴史家。敬称は太史公。若いころ全国を周遊,戦国諸侯の記録を収集した。父の意を継ぎ太史令となり,《史記》の編纂(へんさん)に着手。前98年,匈奴(きょうど)の捕虜となった李陵を弁護して武帝の怒りを買い,宮刑を受けた。刑後,宦官(かんがん)として中書令(天子の秘書長)となり,全精根を傾けて《史記》を完成。(マイペディア97)
君子とは
聖人、君子、小人とか耳にしますが、ここでは論語を中心に、君子について拾ってみました。これで全てではありませんが……。
君子の過ちは日月の蝕の如し(論語)
「君子の過つや、日月の如し。過つや人みなこれを見 る。更(あらた)むるや人みなこれを見る」
君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る(論語)
立派な人格の人は、物事を判断するときに、正しい道 にあっているかを考えるが、凡人は自分にとって得 になるかどうかを考える。
君子に三畏あり(論語)
天命にそむいていないか、大人(徳の高い人)を軽視 していないか、聖人のことばに反していないか。
君子に三戒あり(論語)
青年期における色欲、壮年期における人との争い、老 年期における強欲
君子は憂えず、懼(おそ)れず(論語)
行いが正しく、疚(やま)しい所がないから、何も懼 れるものはない。
君子は器ならず(論語)
立派な人格の人というのは、一芸に秀でた人ではな くて、すべてにわたって釣り合いのとれた能力の持 ち主でなければならない。
君子は和して同ぜず(論語)
立派な人格の人は、人と争わず協調するけれども、自 分の見識をしっかり持っているので、みだりに妥協 したりはしない。
君子に三楽あり(孟子)
君子の三つの楽しみ。すなわち、父母兄弟がともに 生存し、天にも人にも恥じるところがなく、天下の英 才を教育すること。
君子は危うきに近よらず(孟子)
人格者は思慮深く自分を大切にするから、危ないこ とにははじめから近づかない。
君子は独りを慎む(大学)
立派な人格の人は、例え人の見ていない所でも行い を慎み、道に外れないようにする
君子は豹変す(易経)
徳の高い人は、まちがいに気がつけばすぐにあらた める。その様子はちょうど、豹の毛が秋になって、抜 け変わり、色鮮やかな模様に一変するようである。
君子の交わりは淡きこと水の如し(荘子)
君子の交わりは水のように淡泊だが、その友情は変 わることはない
原稿募集上総道学、闇斎学、朱子学、孔子・孟子、その他何でも、モクサイ通信への原稿を募集します。
君子の過ちは日月の蝕の如し(論語)
「君子の過つや、日月の如し。過つや人みなこれを見 る。更(あらた)むるや人みなこれを見る」
君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る(論語)
立派な人格の人は、物事を判断するときに、正しい道 にあっているかを考えるが、凡人は自分にとって得 になるかどうかを考える。
君子に三畏あり(論語)
天命にそむいていないか、大人(徳の高い人)を軽視 していないか、聖人のことばに反していないか。
君子に三戒あり(論語)
青年期における色欲、壮年期における人との争い、老 年期における強欲
君子は憂えず、懼(おそ)れず(論語)
行いが正しく、疚(やま)しい所がないから、何も懼 れるものはない。
君子は器ならず(論語)
立派な人格の人というのは、一芸に秀でた人ではな くて、すべてにわたって釣り合いのとれた能力の持 ち主でなければならない。
君子は和して同ぜず(論語)
立派な人格の人は、人と争わず協調するけれども、自 分の見識をしっかり持っているので、みだりに妥協 したりはしない。
君子に三楽あり(孟子)
君子の三つの楽しみ。すなわち、父母兄弟がともに 生存し、天にも人にも恥じるところがなく、天下の英 才を教育すること。
君子は危うきに近よらず(孟子)
人格者は思慮深く自分を大切にするから、危ないこ とにははじめから近づかない。
君子は独りを慎む(大学)
立派な人格の人は、例え人の見ていない所でも行い を慎み、道に外れないようにする
君子は豹変す(易経)
徳の高い人は、まちがいに気がつけばすぐにあらた める。その様子はちょうど、豹の毛が秋になって、抜 け変わり、色鮮やかな模様に一変するようである。
君子の交わりは淡きこと水の如し(荘子)
君子の交わりは水のように淡泊だが、その友情は変 わることはない
原稿募集上総道学、闇斎学、朱子学、孔子・孟子、その他何でも、モクサイ通信への原稿を募集します。
偶成
少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽んず可からず
未だ醒めず池塘春草の夢
階前の梧葉既に秋声(朱熹)
司馬相如 しばしょうじょ
前179-前117
中国,前漢の文人。〈子虚の賦〉が機縁で武帝に仕え,西南の夷族との交渉に功を立てた。卓文君との恋愛は有名。宮廷文学としての〈賦〉の様式を確立,散文の美文化を促し六朝文学に影響を与えた。作品は〈上林の賦〉〈大人の賦〉など。
モクサイ通信№4(1999.03)
モクサイを語る会
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638NO.4 1999.03.15
第5回モクサイを語る会まとめ日時
平成11年2月26日(金) 6:30
場所 川和伊
出席 田原哲三、柏木恒彦、斉藤房一
実川泰成、実川嘉一、土屋幸恵、
今関弘道ふりかえり・おさらい
ふりかえり・おさらい
1、「親義別序信より○人が任ずる」……「○人」は 何と読むのか、どういう意味か。
土屋さんより「○人」はソ人、其人を略字して記載したとのレポート。その他の意見として、シメルと読んでしまったら。いまひとつはっきりしないので、次回まで保留することとした。
2、「柳子厚杜子義」とは
柏木さんより、柳子厚杜子義とは柳子厚杜子美が正しいこと。いずれも人名。柳子厚は柳宗元、杜子美は杜甫のこと、子厚と子美は字であることが報告された。
(参考)
柳宗元(りゅうそうげん 773-819)
中国,唐代の詩人,文人。山西省の人。字は子厚。793年の進士。韓愈(かんゆ)と古文運動を起こした散文家だが,詩人としては自然美をうたい,王維,孟浩然らと並称される。33歳の時,永州に左遷され,都に帰れず柳州の刺吏で死去。異境の風物を詩に作り,不遇の中に信念を貫く喜びをうたった。著書《柳河東集》など。
杜甫(とほ 712-770)
中国,盛唐の詩人。字は子美,号は少陵。河南,鞏(きょう)の人とされる。24歳の時,進士の試験に落第し,諸所を放浪して,李白,高適(こうせき)らと詩酒の交わりを結び,30代半ばに長安に出た。しかし仕官は実現せず,玄宗皇帝は楊貴妃への溺愛(できあい)により国政を怠り,自らの不遇と時局の危機を《詠懐五百字》に詠じた。安禄山の乱では賊軍に捕らえられ,〈国破れて山河あり,城春にして草木深し〉(《春望》)の句を作った。脱出後,新帝粛宗のもとに行き,その功で左拾遺に任じられたが,この乱での体験は彼の詩に深い憂愁の影を加え,傑作《北征》を作った。乱後,官を辞し,家族とともに放浪,48歳の時,成都の近くの浣花渓(かんかけい)に草堂を営み,わずかに平安の生活を送る。この間,四川地方の兵乱のため一時草堂を離れるが,四川での詩は平和な自然の善意とそれに対する生活を歌ったものが多い。768年以後2年間湖南・湖北を放浪し,老齢とともに悲壮をきわめた詩を作ったが,失意のうちに舟の中で死んだ。彼の詩は人間に対する偉大な誠実さのゆえに至高とされる。農民・兵士の苦しみ,自己の苦しみと平安,それらを日常生活に題材をとって歌った。その詩は後世の中国・日本の詩に大きな影響を与えた。作品は《杜工部集》20巻に収める。
3、「役屋舗」とは
土屋さんより、読み方としてはヤクヤシキ、そして次のようなレポートが準備され、これでいくことにした。「舗は門にぴったりはりつけた金具の意あり、又商品を売る店のことの意あり。ある間隔ごとにぴたりと並んでいる宿場。宿場で公文書の送達にあたる者を舗兵と呼していた。この者が住んでいた場所を指すのではないか?」
4、「温公」とは
柏木さんの調べで、温公とは司馬
光であることが判明。土屋さんより
は、温という字の持つ意味について
のレポートあり。
(参考)
司馬光(しばこう 1019-1086)
中国,北宋の政治家,学者。字は君実,諡(おくりな)は文正公,通称を司馬温公。進士に合格後,約20年間地方官を歴任。のち中央に進出したが,王安石が神宗の庇護(ひご)の下で新法を断行したのに反対し,一時中央から退いた。以来15年,神宗の後援で《資治通鑑(しじつがん)》の編集に専念し,政治に介入することがなかった。哲宗即位後,旧法党の首領として中央政府に再登場し,旧法を復活させたが,数ヵ月で没した。
5、五倫についてのレポート
房一さんより資料に基づき説明があった。大変面白い内容だったのだけれど、一言でまとめることは難しい。そこで恐縮だけれども、各自再度目を通して貰いたいと思います。とはいえ、何も書かないというのもおかしいので、印象に残ったことをランダムにあげておきます。
(1)五倫とは、「五品」「五経」(ともに書経舜典編)の倫理項目を、孟子が整理し、打ち立てた倫理学説である。既に見たように、五倫は「父子親有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼序有り、朋友信有り」である。
ここで注目しておくべきことは、(a)人生における対人関係が双務的=相互に義務づけられていること、(b)家族関係に重点が置かれていること、そして朋友信有りだけは、上下関係ではなく、平等の関係を規定したものであること、(c)さらに、「親から疎、近くから遠くへ及ぼすという儒家の根本態度から見て……いわば孟子は信をもって社会道徳の根本となしたとみられる」(宇野精一)、というような評価がなされることである。
(2)五倫は、中庸から孟子がさらに発展させて整理したという見方があったが、これがどうも逆らしいこと。孟子は五倫の第一位に父子を挙げ、中庸は第一位に君臣を挙げている。中庸の編纂年代が孟子の後であるとするならば、孟子の五倫は戦国時代における王権の専制化にそぐわなくなっていたという見方ができる。すなわち、民本主義といわれる孟子の王道論は、さらなる権力の強大化を目指す諸侯にとっては物足りなくなっていったということだろう。だとすれば、書経は覇者を目指す戦国の諸侯にすりよったということになるか。
(3)許行の「無政府共産主義」(東洋思想辞典)を批判して、孟子は「心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治められる」という。支配者と被支配者の分業説とでもいうのか。許行に対しては間違っていないと思うけれども、それ以上の意味あいを求めるとどうなるのか。原始共同体というのは、生産力の極めて低い段階、剰余生産物を析出し得ない発展段階をいう。だから剰余生産物のピンハネ、搾取関係は成立し得ないだろう。共同体内においては男と女というような自然的分業があるだけだと思うし、共同体間に交換が生じたとしても社会的分業を生み出すにはいたらないだろう。歴史の歯車を逆に回せない以上、許行の説はまちがいである。時は戦国時代、夏があったとして殷、周、戦国時代に入って国家が成立している歴史段階では、生産力は上昇し剰余生産物は無論のこと生産されている。奴隷制社会というのか、封建制社会というのか分からないけれど、中国においては、覇者に代表されるような社会的富の専横者とともに、剰余生産物を生み出す生産的階級は、奴隷あるいは農奴というような者として存在していたことは確かである。当然にも、商業の発達に基づく社会的分業も成立していただろう。だから孟子が戦国時代において、分業体制が成立しているというのは正しい。問題は、分業体制を支配者と被支配者にまで押し広げた孟子の説の評価にかかわってくる。意図していたかいないかにかかわらず、ここでは孟子は支配階級の、戦国覇者の代弁者として立ち現れている。
別の角度から見ると、孟子は現実の世界を五感を持って知覚し、その上で分業論を口にしたと思われる。もし、そうだとすれば、天人合一、内観をきわめることにより世界、天、性を把握できるとした孟子の考え方から逸脱することとなる。このあたりは、「主観主義」(宇野精一)とは何なのかということにかかわってくる。
(4)天命によって王権の交代をも許容し、民本主義を唱えた王道論は、現在のわれわれから見ても、面白い。春秋・戦国時代を通じて、どのような人々が孟子の説を支持したのか知りたいと思うね。法家思想というか、黄老の学に圧倒されてしまったとは思うのだけれど、時代が下るにしたがって、また息を吹き返したあたり、併せて知りたいと思います。
訓読・解題・話し合い
1、「朝鮮の李退渓の後、此道を負荷せんと欲する者、 吾未だ聞かざるなり」(訓読・解題……田原さん)
oタキリタル……たぎりたる 八子ヌ……はね ぬ ダヽイ……だだい、それはというような 意味で使われている。 訣……けつ、奥義、核 心というような意味。 薛文靖……薛文清
o天秤棒でかづく……バランス、中庸という意味 あいに留意のこと
o李退渓……朱子を逸脱せずに、自説を展開した という評価
o山崎闇斎……一貫性に難がある
ということか。垂加神道。
(参考)
垂加神道(すいかしんとう)
江戸初期山崎闇斎によって創唱された神道説。闇斎は吉川惟足(よしかわこれたり)や度会(わたらい)延佳について吉田神道・伊勢神道を学び,それに朱子学の居敬窮理の思想を結びつけ,道徳的性格の強い神道説とした。理想は天照大神に,実践方法は猿田彦神にとった。熱烈な信仰と強い尊王愛国の思想をもち,幕末まで大きな影響を与え,その門流からは,浅見絅斎(けいさい),谷川士清(ことすが),竹内式部(たけのうちしきぶ),山県大弐(だいに)らが輩出した。
2、「中庸の序に所謂吾が道の寄る所、言語文字の間に越 えずとは正に此を謂うなり」(同上)
o担う者がいなければ、道は遺経の文字の中にある。 李退渓以後、言語文字を越える者は、担う者は現れ なかった。
oこの章を理解するに、あるいは全体を理解するに、 「中庸章句」のおさらいをしたらいいのではないか との意見有り。
3、「我が邦古へより今に至るまで此道に任ぜんと欲する 者幾人ぞや」(同上)
o朱子の道を逸脱せずに、そのままを伝えた者は、李 退渓以後出ていない。
4、「二三子聖学に志すこと有るか、無きか」(同上)
oここの部分、固有名詞とともに、文章の意が分かり づらい。はっきりさせる必要有り。
課題として残されたこと
1、「中庸章句のレポート」(カイチさん)
2、一念の微とは何か(房一さん)
3、唐崎彦明とは何者か(房一さん)
4、「直方先生文に不案内……」このあたりから、お仕 舞いまで、読み方というのか、文意が分かりづらいの で(土屋さん)
[三皇五帝]の時代
神話の時代ともいえるのだけれども、階級の発生、氏族共同体の発展をふまえて、部族共同体の成立という、中国社会の発展段階を反映していると思われる。
◎[三皇]についての諸説
(イ)天皇氏・地皇氏・人皇氏(史記・補三皇記)
(ロ)天皇・地皇・泰皇(史記・始皇記)
(ハ)伏羲(ふくぎ)・神農・女(じょか)(春秋運 斗枢・史記・補三皇記)
(ニ)伏羲(ふくぎ)・神農・祝融(白虎通)
(ホ)燧人(すいじん)・伏羲(ふつぎ)・神農(尚書・ 大伝)
(ヘ)伏羲(ふくぎ)・神農・黄帝(孔安国・尚書序)
◎[五帝]についての諸説
(イ)黄帝・(せんぎょく)・帝(ていこく)・ 尭・舜
(ロ)少昊(しょうこう)・・帝(ていこく)・ 尭・舜
(ハ)伏羲(ふくぎ)・神農・黄帝・尭・舜
(ニ)伏羲・神農(炎帝)・黄帝・少昊・(せん ぎょく)
(ホ)東方青帝霊威仰・南方赤帝赤燻怒(ひょうど)・ 中央黄帝含枢紐(がんすうちゅう)・西方白帝白 招拒・北方黒帝叶光紀(きょうこうき)
資料の提供
1、中国の思想(・)抜粋・孟子(松枝茂人、竹内好、 徳間書店)……房一さん
2、講座東洋思想2(中国思想1)抜粋(宇野精一他、 東大出版会)……房一さん
3、静夜思……土屋さん資料の提供
懇親
例によって例の如しかな。全員参加、これはハオ(好?)、土屋さんは利き酒の会があって、職務上参加は不可欠、若干遅れて語る会、酔いを押し殺しての取り組み、大したものです。ウタゴウラクハコレチジョウノシモカト、風流を解します。カイチさんは、この頃野暮用があって、遅れ気味、でも懇親会はいつもの通り、強いね。脂がのっている。中庸章句などでエネルギーの分散をはかる必要があります。ヤスナリ先生は大人だね。トドの百声を放つが如し、いや、虻の耳中に入りたるが如しかな。クニちゃんの話を聞いて、上司として頭を抱えていたね。こうゆうややこしい話は嫌いです。モクサイは嫌いではないと思うけれどもね。ウソツキつねちゃん、回転が速いからね。ああそ、ああそう、なんて言っている内にこちらの頭の中がゴチャゴチャになってね。今日は運転手、これだけはどうにも成らないですね。田原さん、働きすぎ、酒を飲むと胸のあたりの筋肉が痛む?気をつけて下さい。そのうち暖かくなるし、虫も動き出すし、タニシもエビガニも動き出すでしょう。房一さん、野に伏すタイガー、野人の趣があるね。今日は運転の順番は免れて、さあ飲むぞ。中国にも行って来たし。一番さえていました。僕こそ、例により例の如し、務めていた頃より、暇になったという感じが無いのだけれど、現役の時あんまり仕事をしなかったということかな。酒はまあまあ、吟醸酒は冷やでなんていうから、ホルモンをかじりながら頑張っていたら、12時近く、シンデレラの時間になってしまいました。クニちゃんが調子が今一つだけれど、頑張って下さい。
次回開催日程
日時 平成11年3月19日(金) 6:30
場所 川和伊
1、ふりかえり
「課題とされたこと」を中心としたおさらいで す。
2、若果して其志あらば則ち背梁骨を堅立し以て 孔孟を学ぶを願うべし(訓読、解題……柏木さ ん、サブとして今関)
3、曽子云わずや、士は以て弘毅ならずんばあるべ からず、任重うして道遠し、仁以て己が任と為 す、亦重からずや(同上)
4、死して後やむ、亦遠からずやと(同上)
5、豈悠々徘徊歳月を終え夫の游手浮浪の徒と伯 仲を為さんや(同上)
6、享保丙申冬至の日、直方之を書し、鈴木正義、 野田徳勝、永井行達に与えて以て
其志を励ますと云う(同上)
なお、「信云う……」の部分をも
含むこととする。
モクサイ通信№5(1999.04)
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638NO.5 1999.04.10
第7回モクサイを語る会まとめ
日時 平成11年3月19日(金) 6:30
場所 川和伊
出席 田原哲三、柏木恒彦、斉藤房一
実川嘉一、土屋幸恵
今関弘道
ふりかえり・おさらい
1、「親義別序信より○人が任ずる」……「○人」は 何と読むのか、どういう意味か。
このことについては、保留としてあったが、柏木 さんより「重◯」、「任◯」などの用例が本文中に あるとの指摘あり。これは「して」と読む。
2、中庸章句のレポートについては、カイッチャンの 方で準備が整わなかったので、次回まわしとした。 人事異動、総代会、ついてまわる飲み会などで身 辺多忙。身体に気をつけて、頑張っていきましょ う。
3、 自省録、文集、節用二十冊について、誰の著作 か。柏木さんより報告あり。自省録は李退渓、文 集は朱子、節用二十冊(朱子書節用)は李退渓。
4、一念の微とは何か。房一さんより報告あり。「道 を担う心がなければ」との意。柏木さんより、「一 念 これなかりせば」、漢文ではこのように読むと の補足。
5、唐崎彦明とは誰か。この課題については、房一さ んからおよそ次のような報告がなされた。唐崎彦 明は崎門三傑の一人、三宅尚斎の門下、芸州竹原 の生まれ、黙斎の親友であった。彦明は伊勢長島 藩主増山候に仕えたが、ある事件で禁固に処せら れたとき、黙斎は救援に献身したという。なお竹 原は、頼山陽の出たところでもあるとのこと。
6、「直方先生文に不案内ゆえ……」。このあたりからお 仕舞いまで、読み下しと文意が分かりづらい。
土屋さんから読み下しあり。「直方先生文に不案内ゆ え」を直方先生は文章が下手だからと解せば、筋がつ ながる。
7、周子……周濂渓のこと。周敦頤(しゅうとんい)と して前出。
8、非邪……司馬遷の史記に「天道是邪非邪」とあ り、ぜかひかと読む。彦明は、「非邪」と言った方 がいいのではないかと。
9、上の志……高い志、担夫の志。
訓読・解題・話し合い
1、若果して其志あらば則ち背梁骨を堅立し以て 孔 孟を学ぶを願うべしo脊梁骨……脊は背の旧字で あるから、せきりょうと読む。
o二程全書……程明道、程伊川の語録をまとめた書 物。ただし、書名は二程遺書のことと思われる。
o重担子、すべからく是れ硬脊梁の漢、まさに担じ 行くべし……この文は、二程遺書、謝上蔡語録の 本文中にはなかった。
o漢方……ここでは、漢は人、男の意に解し、方は まさにと読んだ。
o謝顕道……謝上蔡のこと。
o語類……朱子語類。一二七○年、南宋の黎靖徳(レ イセイトク)が朱熹とその門人らとの問答を集大成し、 部門別に分類した書。一四○巻。鎌倉末期にわが 国に伝来。(広辞苑)。
o所願学孔子……孟子「公孫丑章句」にあり。
2、曽子云わずや、士は以て弘毅ならずんばあるべ からず、任重うして道遠し、仁以て己が任と為す、 亦重からずや
oづつまる……つまる
o薀蔵録……佐藤直方著、正編十六巻、拾遺三十巻、 続拾遺六巻、四編五巻。
o新発田……新潟にあった新発田藩。
o板になった……出版された。
o生質き……うまれつき
o魯……のろまの意。「柴や愚、参や魯……」(論語、 先進18)。愚は馬鹿正直の意。
o一貫……おもいやり、まごころ。「子曰く、参よ、 吾が道は一以てこれを貫く。曽子曰く、唯。子出 ず。門人問うて曰く、何の謂いぞや。曽子の曰く、夫 子の道は忠恕のみ」(論語、里仁15)。参は 曽子の名。 忠恕の忠は、内なるまごころにそむかぬこと、恕はま ごころによる他人への思いやり。
o高ぶれが……高ぶりが
o曽点の風……曽子の父親の名は曽点というが、ここで は、普通と違って、曽子のように、レベルの高い気質 というように解釈しておく。また、曽に高いという意 味もある。「曽点之学、蓋有以見夫人欲尽処」(論語集 注、朱子)。曽点の学問には、かの人欲がすっかりな くなったところが現れている。
o論語を読むものがそれほどに見ぬぞ……論語を読んで いるものも、それほど深くはとらえていないよ。
o生質と気質……生質も気質も、その人を特徴づける質 (もの)であるから、誰もが持っている。これは道を 担うか否かにはかかわらない。
o道体……道を体する。冬至文全に、道がおこって体を なすとあり、学者が道の体となるとある。
o三年の喪……「宰我問う、三年の喪は期にして已に久 し。君子三年礼を為さずんば、礼必ず壊れ ん。三年 楽を為さずんば、楽必ず崩れん。」(論語、陽貨21)。
o番袋……ばんぶくろ。武士が宿直するときの用意に、 衣服や寝具を入れた大きな袋。
oへだらぬ……へたらない。
o大学八條目……格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、 治国、平天下。三綱は、明明徳、新(親)民、止至善。o性の近い処から……論語に性は近し、ならいは遠しと ある。
o印可……仏が弟子の理解を承認すること。また、師僧 が弟子の悟りを証明すること。
o狂となる……狂とは積極進取の気迫はあるが、片寄っ ていること。論語(子路21)に、中庸の人を見つけて 交われないとすれば、せめて狂者か狷者と交わるがよ いとある。
o「今よりして後、我、免ることを知るかな」(論語、泰 伯4)
o本心の全徳は道のなり……本心とは、人間が本来持っ ている正しい心。よって人間の正しい心は、全徳であ り、それは道の形(姿)である。孟子の性善説を引い ているのではないか。
o伯夷・叔斉……。はくいしゅくせい。中国の古代伝説 上の賢人兄弟。伯夷が兄,叔斉は弟。孤竹国の公子。 周の武王が殷の紂王を討つのは不義であるとし, 首陽山に隠れ,ワラビのみを食し,餓死して清節 を保ったという。
o柳下恵……魯の賢大夫。
o伯夷、柳下恵が弘といわれぬ理由……「伯夷は隘 なり、柳下恵は不恭なり。不恭とは君子によらざ るなり」(孟子、公孫丑章句上)。伯夷は正しい君 主にしか仕えないとした。当時の諸侯は不義であ ると考えていたので仕えなかった。柳下恵は汚れ た君主にも仕え、つまらない官職でも卑しいとは 思わなかった。自分の賢才を隠さず、自分の執る ところの道を主張してまげなかった。人のことは 気にせず、自分の正しさを心がけた。孟子は伯夷 を清、柳下恵を和とした。
o伯夷と柳下恵の仁……「子曰く、仁遠からんや。 我れ仁を欲すれば、斯に仁至る」(論語、述而29)。 先生が言われた。仁は遠いものだろうか。私たち が仁を求めると、仁はすぐやってくるよ。…… 「伯夷・叔斉は何人ぞや。曰く、古の賢人なり。曰 く、怨みたるか。曰く、仁を求めて仁を得たり。 又何ぞ怨みん」(論語、述而14)。伯夷叔斉はどう いう人物ですか。先生曰く、昔のすぐれた人だ。 (君主の位につかなかったことを)後悔したでしょ うか。先生曰く、仁を求めて仁を得たのだから、 また何を後悔しよう。
以上、伯夷、柳下恵の仁と、ここでいう仁とは別 のこととしてとらえている。また、弘毅につい ての 講義が、仁の講義にスライドした感がある。直方は、 伯夷、柳下恵の仁を、この講義の中で 否定はしてい ない。別のものだといっている。
o「孔子は聖の時なる者なり。孔子を之れ集めて大成す と謂う」(万章章句下、孟子)。……孔子は 聖人中、 その宜しきに従って、自在に、しかも正しく行動する 人である。それ故に、孔子を全て の徳を集めて、大 成した聖人と名付けるのである。
o任物……人以て己が任と為すこと、あるいは為す人。
「信云う。仏老など塵大なことをいうは……」。
o塵大……甚大と解しておく。
o「子曰く、君子の天下に於けるや、適も無く、莫 も無し。義にこれ与に比しむ」(里仁10)。 先生 が言われた。君子が天下のことに対するには、さ からうこともなければ、愛着する こともない。 ただ正義によって親しんでいく。「適・莫」二字 は、このほかの解釈として、 「善し・悪し」「厚 し・薄し」などがある。
o夫中正行裁用舎……中庸を守ることによって、正 しい行いに至り、用いるか捨てるかを 判断する。 舎は捨てること、裁すは判断すること。
「信云う。禹稷も、陋巷も皆なるに……」。
o禹稷……禹については前出、夏の始祖。稷は舜の 時代に農業を栄えさせた。周の始祖。
o陋巷……ろうこう。狭くきたないちまた。むさく るしい町。陋巷に澄んでいる者も皆。
「信云う。ここに伯柳の事あるゆえ……」・
o地頭地頭にみるべし……それぞれの場所、それぞ れの場面においてみるべし。地頭という言葉は、 [朱子語類]にあり、 当該の場所。現地という意 味で使われている。たとえば、 「向要到雲谷、自 下上山、通身皆濕、得到地頭」(因思著:『天地之 塞、吾其體;天地之師、 吾其性』)。雲谷に行こう と思って、ふもとから山を登っていくと、途中で 大雨にあって、全身がずぶぬれになり、そこに到 着した。
o顔曽……顔回と曽子。顔回(がんかい)は、春秋 末期の魯の賢人。孔門十哲の首位。字は子淵。 陋巷で貧乏暮しをしながらも天命を楽しみ、徳行 をもって聞えたが、早逝。(前514~前 483)
o心法……しんほう。心を修める法。心の修養。宋 の儒学で、心の体用を存養省察する道をいう。童子問「程子、中庸を以て孔門伝授の心法とす」
神話・伝説上の帝王「尭」
o五帝の一。名は放勳。舜と並び、中国の理想的帝王。
o「その仁は天の如く、其の知は神の如く、人々がこれに就くこと日の如く、これを望むこと雲の如く、 富みて驕ならず、尊くしてあなどらず」(史記)
o洪水伝説…天帝は洪水を治めるよう鯀(こん)に命じたが、九年間働いて治めることが出来なかった。 尭は鯀の罪を責め、追放した。鯀は黄能(三足の亀)に姿を変え、羽淵に沈んだ…舜は、鯀の子禹に 治水を命じた。禹は大亀・龍の助けを得て、自らも熊に変身して治水に成功
o帝位の禅譲……行の下問に答えて、重臣の放斉は長子の丹朱を推す、重臣の驩兜(かんとう)は共工 を推す、重臣の四嶽は鯀を推す。尭は重臣の推薦するもの全てを排して、舜に帝位をゆずった
o舜が黄帝族に属してはいたが傍系であるとすれば、尭の禅譲の話は、氏族共同体内に未だ私有財産制 が一般的ではなく、したがって世襲制も未発達であった頃の、遠い時代の記憶の反映が神話という形 で残ったのか。
★鼓腹撃壌(十八史略)……腹鼓を打ち地面をたたく。政治の力を感じさせないほどの理想的な政治、 「我が蒸民を立つは汝の極に非ざるなし 誇らず知らず帝の則に従う」(子ども達の歌) 「日出て耕し、 日入りて息う、井をほりて飲み、田を耕して食う、帝力何ぞ我にあらんや」(年寄りの歌)
★頴川に耳を洗う(高士伝)……伝説的な徳治主義者と伝説的な隠者。尭が許由に帝位(九州)を譲り たいと言ったとき、許由は汚らわしいと頴川で耳を洗った。そこへ牛に水を飲ませにやってきた巣父 (そうほ)が、許由から話を聞いて、不潔も甚だしいと、さらに上流の流れで牛に水を飲ませたとい う話。
普天率土
陸地の続く限り、国の果てまで。天のあまねくおおう下、陸地に率(したが)っていった浜(はて)、大地の果て。天のつづくかぎり、地のつづくかぎり。 「普天の下、率土の
浜(ひん)」(詩経)
維新
物事が改まって新しくなること。政治の体制が一新され改まること。「文王」の句をとったもの、「文王 上に在し 於 天に昭かなり 周は旧き邦なりと雖も 其の命は維れ新なり」(詩経)
日時 平成11年4月16日(金) 6:30
場所 川和伊
1、ふりかえり
2、死して後やむ、亦遠からずやと
3、豈悠々徘徊歳月を終え夫の游手浮浪の徒と伯 仲を為さんや(柏木さん)
4、享保丙申冬至の日、直方之を書し、鈴木正義、 野田徳勝、永井行達に与えて以て其志を励ます と云う(同上)
5、講余
「信云う……」の部分をも含む。
5、黙斎先生冬至文講義 花澤文次録
読み下し文について
6、次回日程とテキストの選択次回開催日程
懇親
田原さん、この日も酒をひかえていました。本来はそうではないのだけれど。でも仕事の方もやや段落、田起こしの季節もやってきたし、次回は大丈夫でしょう。ヒデノブ君も勤めたし、一陽来復が少しずれてやってきているようです。クニちゃんは頑張っているみたい、小異を捨てて大同につく、道は開けると思うね。好調なのは、柏木さんと房一さんか、交互に運ちゃんというハンディを負いながらひるまない。そのうち、いろいろな形でレポートが、沢山出てくるかも知れません。
「おのれ、目に見えない酒の精め、汝に、まだ名がないなら、これからは汝を悪魔と呼ぶぞ」。これはシェークスピア。カイッチャンは、悪魔など何でもないようです。何匹やって来ようが、イワンの馬鹿よろしく、かき分けて前に進んでいきます。こう、ご期待です。大変なのは、おそらく土屋さんと僕、ヤスナリ先生もかな。何十匹のアルコールの精に包囲されて息たえだえ。白旗はあげてはいないけれども、エールを交換しながら、やっと押っつけている状況があります。
モクサイ通信№6(1999.05)
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638NO.6 1999.05.20
第8回モクサイを語る会まとめ
日時 平成11年4月16日(金) 6:30
場所 川和伊
出席 田原哲三、柏木恒彦、実川嘉一
今関弘道 すでに、「黙斎先生冬至文講義 天明六年丙午十一月朔日 花澤文治録 読み下し文」の案が送付されており、前回の課題もこの中で取り上げられている。次回に読み下し文の検討をするということで、再度確認が出来るので、取り分けての「ふりかえり・おさらい」はしなかった。
ふりかえり・おさらい
すでに、「黙斎先生冬至文講義 天明六年丙午十一月朔日 花澤文治録 読み下し文」の案が送付されており、前回の課題もこの中で取り上げられている。次回に読み下し文の検討をするということで、再度確認が出来るので、取り分けての「ふりかえり・おさらい」はしなかった。
訓読・解題・話し合い
1、「死して後やむ……」から、「享保丙……」(最終パート)まで、「信云う……」を含めて、柏木さんより解題(報告)がなされた。ここでの話し合い結果、あるいは確認事項については、別途読み下し文(差し替え)を参照のこと。
2、確認事項の中で、読み下し文とは重複するけれど、冬至文の枠組みにかかわることとして、ここで三つの事項をあげておく。
(1)「此あとの文」については、「享保丙申冬至の日……以励其志云」を指すこと。
(2)「信云外にもれきれき……知られぬるなり」は、原文では赤字、朱批であること。
(3)われわれの取り組んできた冬至文は、モクサイないしウサイのまとめた冬至文であること。したがって、冬至文はこの外にも、三人の弟子の流れの中で作成されていることは、大いにあり得ること。
3、前回にも確認したことと思うけれども、あらためて次回テキストは「冬至文 全」(平野長道禄)とすること。このテキストについては、田原さんよりみんなに対して配布されているはず、念のため。
課題として残されたこと
課題についても、読み下し文(差し替え分)を参照のこと。読み下し分については、次回読み合わせして確認、われわれのものとして一応の確定したものを持つこととした。
涼州詞
黄河遠く上る 白雲の間
一片の弧城 万仞の山
羌笛何ぞ須いん 楊柳を怨むを春光度らず 玉門関
(王之渙)
o楊柳………「折楊柳」と呼ばれる別れの悲しさをのべた笛の曲名、中国では別離に際して、柳の枝を折り、旅立つ人にはなむけとする風習があった。
資料の提供
今回は特になし。今まで各メンバーより、いろいろな形でかなりの資料の提供が為されていて、恐らく全部にはなかなかに目を通すことが出来なかったというのが正直なところかも知れません。だとすれば、まずは暇を見つけて当たっていくということでしょうか。
懇親
この日は4人、クニちゃんを含めても5人です。人数が少ないので、若干は意気が下がるのかと思うのだけれど、下がらないのが不思議です。花澤録の冬至文、およそ1年をかけて最終にこぎ着けたと言う感慨を踏まえて、土屋さんとヤスナリ先生、房一さんの分までも飲んでやるぞと云うことだったのでしょうか。
そういうことはあったにしても、僕の分析によると、どうも「天性」というものが発揮されているように思います。とくに、カイッチャンと柏木さん。朱子の云う、理とか気の域に達しているのかな。大学とか中庸とかの経書にもあると思うのだけれど、「性」の域にたどり着くには、相当な努力が必要のようです。なぜ二人が、サンクチャリ(性域?、聖域?)を確保しているのか、アルコールの性(精?)を捕まえてしまったのか。カイッチャンは夜な夜な三里塚を徘徊して幾春秋、柏木先生は理論と実践の統一を図るという観点から、あわれまわりの善人?をとらえて、思わずイエス、眼をひらいてあげたこと幾千人、やっばり積み重ねなんだね。
田原さんは大好きな田植えの季節、タニシさんもエビガニさんもこんにちわです。元気が出てきました。それにJAに入って以来、酒に親しむ努力は欠かしませんでした。田原さんが真っ直ぐに進んでいくと、あの傲慢なデオニッソスでさえ、道をゆずらざるを得ない、きっとゆずるでしょう。僕は、茣蓙(ござ)はたきの家系に生まれて、意志薄弱、みんなにつられて飲んでしまいます。いつも飲んでから反省しています。でも今回は、冬至文が一段落、許されるか。クニちゃんは持ち前の元気さを回復しています。もう大丈夫。富士には月見草がよくにあう、クニちゃんにはお店のエプロンがよくにあう。こんなことを云っても、カイチ先生に叱られずにすみそうです。
神話・伝説上の帝王「舜」
o五帝の一。父は異母弟の象を愛し、常に舜を殺そうとしたが、舜は良心によく孝養 を尽くした。
o27歳で孝行で名を挙げ、30歳で尭の知遇を得て登用され、50歳で摂政となる。 その二女娥皇と女英を妃とした。
o摂政の時、共工(きょうこう)を幽州に流して北狄に変え、驩兜(かんとう)を崇 山に追放して南蛮に変え、三苗を三危に遷して西戎に変え、鯀(こん)を羽山に幽 閉して東夷に変えた……中国の四夷観、北狄、南蛮、西戎、東夷の始まりとも言え る。
o58歳で尭が死んで、61歳で帝位につき、天下はよく治まった。在位して18年、 南に巡視し、蒼梧の野で没した。
湘夫人(抜粋)
帝子 北渚に降れり
目は眇眇として 予(わ)れを愁えしむ
嫋嫋たる秋風
洞庭 波だちて木葉下る(楚辞、九歌、屈原)
冬至文(花澤録)を終わって
月に一回、パスした月が二~三度あったと思うけれど、およそ一年をかけて冬至文を読了することが出来た。われわれ農業部門の生産現場に身をおいていることもあって、東洋思想あるいは哲学と言ったことについては疎遠になりがち。知的生産物というのか、知的所有物というのか、文化的環境が現場で働く者から切り離されてきたという、歴史的な経緯があります。百姓は無知蒙昧であることが好ましい、このような考え方が現在においても根強くある。
農村の片田舎で、モクサイを取り上げ、一年間に渡って頑張り通してきたことは、お互いに讃えあってもいい。不案内な分野に踏み込んでよくやってきた、それもモクサイにとどまらず、朱子の道学、孔子にはじまる儒学、さらには古代ギリシャからはじまる西洋哲学にも手を伸ばしてみた。生産現場に携わる者の、知的精神の探求、そのフロンティア・スピリットに栄えあれ、このように言ってもいいと思うね。もっとも探求はこれからはじまるのだけれども……。
モクサイを入り口にして
モクサイが決して全てではないけれど、そして極めてささやかなものであるけれど、われわれの語る会が、東洋の歴史と思想を学ぶ入り口になればいいと思う。たまたま中国と朝鮮、角度としては申し分ない。世界がグローバル化する中で、世界の歴史と思想に対する知的欲求が増大する中で、僕らの受けてきた教育は、余りにも西洋、それも大国の歴史・哲学に偏ってきた。例えば、西洋の哲学者をあげよといわれれば、タレス、デモクリトス、プラトン、ソクラテス、そしてカント、ヘーゲル、マルクスと指を折ることが出来るけれど、東洋の哲学者というとそうはいかない。インドのお釈迦様、中国の孔子、孟子を含む諸子百家、朱子、王陽明といったところか。しかも、系統立ててあげることは出来ません。
僕らの住んでいる世界は、地中海世界でもなく新世界でもない、ゲルマン的な世界でもなくスラブ的な世界でもない。アジア大陸の東縁、東洋的世界だ。そして日本は東のはし、その向こうは大平洋という地理的環境、歴史的環境にある。自分たちの歴史や思想を知らないで、世界を知ることは恐らく出来ないと思う。まずは日本のこと、中国のこと、そして朝鮮のことを知る必要があるだろう。僕らのモクサイを語る会は、このような考え方の、いわば具体的な結節点に位置するのではないか。モクサイを通して、僕らの生きる舞台、時間と空間をもっと広め、深めることが出来るかも知れない。そのように思ったりします。ささやかではあるけれど……。
次回開催日程
日時 平成11年5月28日(金) 6:30
場所 川和伊
1、「黙斎先生冬至文講義 花澤文次録 読み下し 文」(案)の読み合わせと確認(H.I)……事 前に眼を通してチェックしておいて下さ い。
2、次回日程と新テキストにもとづく役割分担(解 題ないし報告)について
3、中庸章句の序のレポートについて(カイチさ ん)
4、懇親
5、その他必要なこと
朱子学と東洋思想
モクサイに取り組んでいくためには、朱子学を講究する必要がある。朱子学の体系は道学、孔子以来の儒学の集大成だ。儒学の集大成の過程は、柏木さんや房一さんが指摘するように、仏教、恐らくヒンズー教(バラモン教)も、そして道教を取り込んでいく過程にも重なる。道教の影響を受けているということは、老荘思想の影響を受けている、さらには諸子百家の思想の影響をも受けているということだろう。ここで留意されることは、まず第一に、道学ないし儒学は、インドおよび中国を中心として起こった、東洋思想(東洋哲学)の交錯する地点に位置していることである。
もう一つは、モクサイを語る会の儒学へのアプローチは、朱子学を入り口にしていることの意味についてである。朱子学は、儒学の集大成という位置づけがなされる。儒学を哲学にまで引き上げたのは朱子であるといわれる如く、朱子学は儒学の歴史的到達点を持っている。ここで想起されることは、「人間の解剖は、猿の解剖のための一つの鍵である」(経済学批判への序言、カール・マルクス)というテーゼ(命題)である。このことについては、「古代西欧哲学の誕生」において資料として供したところであるが、次のように解説されている。「ブルジョワ社会は、最も発達した最も多様な歴史的な生産組織である。それゆえ、ブルジョワ諸関係を表現する諸範疇は、またブルジョワ社会の編成の理解は、同時に全ての滅亡した社会形態の編成と生産関係との認識を可能にするのである。ブルジョワ社会はこれらの社会形態の破片や要素で築かれたのであり、これらの要素のうちの未だ破壊されていない遺物が、ブルジョワ社会の中で余命を保っていたり、たんに暗示されていただけのものが完成された意義を持つまでに発展していたりするのである。人間の解剖は、猿の解剖のための一つの鍵である。ところが、下等な動物種類に見られる、高等なものへの暗示は、この高等なもの自身がすでに知られている場合にだけ理解されうる。こうしてブルジョワ経済は古代の他の経済への鍵を提供するのである」。
朱子学をよりよく学ぶことは、儒学をよりよく学ぶことにつながるだろうし、ひいては東洋哲学を学ぶことにつながると思われる。いかが……。
鴒原の情(詩経)
兄弟の情愛。鶺鴒(せきれい)は兄弟仲がよいが、そのようにして兄弟は危難に際しては助け合わねばならない」
兄弟牆(かき)にせめげども外その務(あなどり)を禦ぐ(詩経)
偕老同穴(詩経)
夫婦が一緒に長生きして、死後は同じ墓穴に葬られること。夫婦の堅い契りを言う。
琴瑟相和す(詩経)
「夫婦好合し、琴瑟を鼓するが如し」、琴と瑟の音がよく合うように夫婦仲がむつまじいこと。琴は七弦の楽器、十三弦のものを筝という。瑟は
筝の大きなもので、二十五弦を普通
とする楽器。
モクサイ通信№7(1999.06)
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638NO.7 1999.06.18
第9回モクサイを語る会まとめ
ふりかえり・おさらい
特になし。「黙斎先生冬至文講義 天明六年丙午十一月朔日 花澤文次録 読み下し文」(案)の検討に、直ちに入った。
ふりかえり・おさらい
日時 平成11年5月28日(金) 6:30
場所 川和伊
出席 田原哲三、柏木恒彦、実川嘉一
土屋幸恵、今関弘道
訓読・解題・話し合い
予定では「読み下し文」(案)の検討を最後までやってしまうということだったが、「二三子聖学に志すこと有るか、無きか」までしかできなかった。検討結果は下記の通り。
<朱批亦信>
1行目 「こういう言が」→こういうが。言にルビ を振る
2行目 「冬至と付けた」→冬至に付けた
6行目 「善いこと」→よとルビを振る
8行目 「悪し」→あしとルビを振る
11行目 「ただ片手して」→ただ形でして
*注記については、基本的によいが、若干の整理 をすること。
<道の廃れて行われざるは、なお担物の地上に捨て置くが如し>
2行目 「そこで」→それで
17行目 「担物は荷物というからは」→担物は荷物、荷物というからは
18行目 「ちょうど公義の飛脚の」→ちょうど東海道公義のはやの
19行目 「上総なれば江戸までもちゆかねば」→上総なれば江戸まで向えもちゆかねば
*注記については、基本的によいが、若干の整理をすること。
<若し其人其時に出ること有らば則ち之を任じて永く地に墜ちざらしむ>
2行目 「いわずのこと」→いうはずのこと
*注記については、基本的によいが、若干の整理をすること。
<今聖学を務むる者は乃ち担夫なり>
7行目 「うっちゃりては」→うっちゃり置いては
*注記については、基本的によいが、若干の整理 をすること。
<俗学の徒は則ち路中の游手のみ、何ぞ道の任を望むに足らんや>
1行目 「むだ手」→てとルビを振る
3行目 「なぐさみ歩く」→なぐさみに歩く
3行目 「文章の、富の」→文章の富の
5行目 「上ヶ鳥にかたづけられるぞ」→上ヶ鳥に はかたづけられるぞ
*注記については、基本的によいが、若干の整理 をすること。
<朝鮮の李退渓の後、この道を負荷せんと欲する者、我未だその人を聞かざるなり>
3行目 「是が直方先生の」→これとルビを振る
5行目 「ここが見(なり)」→けんとルビを振る
7行目 「訳が」→訣が→けつとルビを振る
8行目 「一念の微」→一念これなかりせば
10行目 「行きぬけてするど、さにかくいうたぞ」→ 「行きぬけて、するどさにかくいうたぞ」 とも読める。併記する。
14行目 「さえた」→さえたは
14行目 「薛文靖」→次回の宿題
14行目 「取りいたが」→取りたが
*注記については、若干の整理をするとともに、 次のように両論併記とすること。「行きぬけてす るど、さにかくいうたぞ」→「行きぬけて、す るどさにかくいうたぞ」とも読める。また、薛
文清は宿題とすること。
<中庸の序に、いわゆる吾が道の寄る所、言語文字の間に越えずとは、まさにこれを謂うなり>
1行目 「遺経において続く」→遺経に続く
*注記については、基本的によいが、若干の整理をす ること。
「我が邦、古より今に至るまで、この道に任ぜんと欲する者幾人ぞや」
1行目 「至りては」→今に至るまでは
*注記については、基本的によいが、若干の整理をす ること。
<二三子聖学に志すこと有るか、無きか>
1行目 「たいぜいをとる」→次回の宿題とする
*注記については、若干の整理をするとともに、次の 項目を修正する。
2行目 「たいぜいをとる…おおかたをとる、一 般的な状況をとる」→次回の検討結果を 入れる
5行目 「直方先生文に不案内ゆえ……直方先生は 文章が下手だから」→直方先生文に不案内 ゆえ……直方先生の文章に対して、彦明が 不案内であるという意味
7行目 「上の志……高い志、担夫の志」→上の志 ……二三子聖学に志すこと有るか、無き かの志を指す。上とは、位置、場所を言い 表したもの。
課題として残されたこと
(1)薛文靖とはどのような人か
(2)「たいぜいをとる」とは?、その解釈。
以上調べてみてください。
資料の提供
特になし。
懇親
前回はクニちゃんも入れて5人、今回は土屋さんが加わって6人、盛り上がらないわけはない。土屋さん、端然として飲むという趣があります。さされれば飲み干す、僕のようにむずかったりしない、いわば日本型ジェントルマン。興にのると詩吟をします。江南の春など聞くと、心が安らぎます、また浮き立ちます。武勇伝もあるね。時々?、土屋さんの顔に絆創膏のようなものが貼ってありますが、あれはその痕跡です。
僕らのモクサイを語る会、学ぶ方が約2.5時間、懇親の方がややもすると3時間、延長もあり得るべし。「なお、過ぎたるは及ばざるが如し」、僕らの懇親会、中庸の精神が働いているかといわれれば、さてどうか。。論語読みの論語知らず、モクサイ読みのモクサイ知らず。でも、僕らは現代に生きている、より高い、より広い地点からモクサイを学ぶことができる、このように考えるね。異端の学、異端にあらずというのが、20世紀の哲学上の到達点だと思うから。
鸛鵲楼に登る
白日 山に拠りて尽き
黄河 海に入りて流る
千里の目を窮めんと欲して
更に上る一層の楼
(王之渙)
o鸛鵲楼……山西省の西南、現在の永済県の高
い城壁の上に更にそびえる三層の楼、コウノ
トリが巣を掛けたところから名が付けられた。
眼下に大地の大動脈黄河の流れを見おろす。
o白日……真っ白に輝く太陽
o山に拠りて尽き……白日の輝く天空の果てが、
山並みに掛かるようにして尽き窮まって。
o黄河……この河は、鸛鵲楼のあたりまでは北
から南に流れる、この町の西側を南下したところ で、大きく東へ折れ曲がる。東流しその先は渤海 湾に注ぎ込む。
o海に入りて流る……鸛鵲楼から見おろす黄河が、 やがては東海に注ぐべく、すさまじい勢いでたぎ り流れている。
愚公山を移す(列子)
一日を生きる愚公が、楽天的愚直さを武器としての、たくまずして永遠につながる試みを開始したことに対し、天帝は、河北の南にあった太行山と河南の北にあった王屋山を、愚公の意思通りに、北東と南の方へ運ばせたという故事。この故事は、毛沢東が好んで口にしたことでも知られる。
精衛海を填(ウズ)む(山海経、せんがいきょう)
精衛とは 古代中国の想像上の鳥。夏をつかさどる炎帝ないし神農氏の娘が東海におぼれ、化して精衛となった。精衛は毎日毎日西山に飛んでいっては木石をくわえて運び、東海を埋めようとして木石を落とす。それは、以前自分を呑み込んだ東海を埋めるためであった。しかし、効が無かったという。
無謀な事を企てて、ついに徒労に終るたとえ。しかし、現在の中国では、困難を恐れず、目的を達成するまでは休まない、くじけないという意味に使う。
モクサイ通信№8(199.07)
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638NO.8 1999.07.25
第10回モクサイを語る会まとめ
日時 平成11年6月25日(金) 6:30
場所 川和伊
出席 田原哲三、柏木恒彦、斉藤房一
実川嘉一、土屋幸恵、今関弘道
ふりかえり・おさらい
特になし。 「黙斎先生冬至文講義 天明六年丙午十一月朔日 花澤文次録 読み下し文」(案)の検討を行った。
訓読・解題・話し合い
「読み下し文」(案)の検討を終了させた。検討結果は下記の通り。
<若し果たしてその志あらば、則ち脊梁骨を堅立し、以て孔孟を学ぶを願うべし>
1行目 「仕え直して出口なり」→仕(し)直して 出ろなり
「荷を担うときたものゆえ」→道を荷ときた ものゆえ
2行目 「とかく」→とにかく
「重になるぞ」→主になるぞ
3行目 「きりきりの」→ぎりぎりの
4行目 「担じ行くべし」→担い行くべし
<曽子いわずや、士は以て弘毅ならずんばあるべからず、任重うして道遠し、仁以て己が任と為す、亦重からずや>
10行目 「うっとりしと」→うっとりと
16行目 「気質」→きしつ(ルビ)
28行目 「弘は武蔵野の原。」→(この後に)「毅は
へだらぬ」と挿入
29行目「実した処は」→みのりした処は(ルビ)
秘書晁監の日本国に還るを送る
積水 極む可からず 安くんぞ滄海の東を知らんや
九州 何れの処か遠き 万里 空に乗ずるが若し国に向かっては惟だ日を看(み) 帰帆は但だ風に信(まか)すのみ
鰲身(ごうしん) 天に映じて黒く 魚眼 波を射て紅なり
郷樹(きょうじゅ)は扶桑の外 主人は孤島の中別離 方(まさ)に域を異にせば 音信(いんしん) 若為(いかん)ぞ通ぜん
(王維)o晁…朝の古字、「朝衡」は阿倍仲麻呂の中国名。
o秘書晁監…玄宗の開元五年(717)に唐に留学、玄宗の抜擢を受け「秘書監」、宮中の図書を司る役所の長官として唐朝に仕える。天法十二年(753)帰朝の希望が叶えられ、彼の交友は、盛大な送別の宴を張って見送る。王維もそのひとり。
o積水…海、「水を積む、之を海と謂う」(荀子)
o滄海…神仙の住む島があるという海
o九州…普通には九つの地域に区分された中国
全土を謂う。ここでは中国の外にある九つの世界、
o空に乗ずる…虚空を泳いでいくこと
o鰲身…大きな海亀、「列子」によると、東海に
五つの仙山在り、底なき海に浮かんで動く。
天帝大きな海亀十五匹にこれを背負わす。かく
して、亀の背負う仙山の一つが「蓬莱島」、日本
島と考えられていた
o郷樹………故郷の木々
o扶桑…日の出るところに生える想像上の神木
o域を異にせば………「生きては別世の人と為り、死しては異域の鬼と為る」(漢の李陵が蘇武に与えた手紙)
o難破………阿倍仲麻呂は、「あまの原ふりさけみればかすがなるみかさの山にいでし月かも」の和歌を詠んで、故国へ旅立つが、難破。安南の沿岸に漂着、一時は死が伝えられた。しかし、長安にたどり着き、再び唐朝に仕え、安南節度使にまで登る。73才で異国の土となる。 「大兵な」→だいひょうな(ルビ)
19行目 「全徳は道のなり」→この前に、「本心」と 挿入
52行目 「うまれつき」→うまれつきと読む
67行目 「冬至文全」→冬至文五講
「道がおこって体をなす」→道と体をなす
69行目 「楽を」→がくを(ルビ)
74行目 「ならいは遠しとある。」この後に,(論語、 陽貨)と挿入
102行目 「任物」→只の任物でない
「人以て己が任と為すこと、あるいは為す 人」→人以て己が任と為すこと
<信云う>
11行目 「すききらいといってはなしと」→すきき らいということはなしと
14行目 「陋巷に住んでいる者も皆」→カット
<死して後やむ、また遠からずや>
10行目 「亦した」→三人にも望んだ
11行目「死ぬときまで思うたとは」→死ぬときまで(道を担うことを)思うたとは
<豈悠々と徘徊歳月を終え、夫の游手浮浪の徒と伯仲を為さんや>
3行目 「面目ない」→面白くない
12行目 「兄と弟。長兄と次兄。きわめてよく似て いて優劣のないこと」→兄弟分。兄と弟。 長兄と次兄。きわめてよく似ていて優劣の ないこと。
<享保丙申冬至の日、直方之を書し、鈴木正義、野田徳勝、永井行達に与え、以てその志を励ますという>
9行目「享保丙申~以励其志云を指す」→享保丙申~以 てその志を励ますを指す。この文を黙斎が付け加 えて出した。
<信云う>
1行目 「信云う外にも、」→信云う、外に
「付記」→付託
5行目 「立派な人たち。直方の講義に三人の弟子の外 に、出席していたものがあった かどうか。現在 の時点では、明らかにすることが出来ていない。」 →立派な人たち。
7行目「冬至文について……」→全文カット
<講余>
9行目 「黙斎門下である大原要助ではないか」→黙斎 門下である大原要助
13行目「ほどのことおなく」→ほどのこともなく
<信云う>
2行目 「自是と」→みこれと(ルビ)
「飲し」→飲み
課題として残されたこと
(1)薛文靖とはどのような人か……字は徳温、山西の生まれ。朱子学を学び、河東学派をなす。篤実にして言行が正しく、居敬窮理の学に詳しい。黙坐澄心、常に委蛇緩歩。朱子語類にみえる。
(2)「たいぜいをとる」については、引き続き課題とする。
資料の提供
特になし
時のクイズ
o桂の木、呉剛、妲娥、玉兎、アルテ
ミス……共通するものは何
o三本足のからす、金鳥、ゲイ、アポ
ロン……共通するものは何
o烏兎匆々(うとそうそう)とは
o金鳥玉兎とは
懇親
田原さんから相談を受けて、あるいは田原さんと相談をして、モクサイを語る会を思い立ったのが、ほぼ一年前。誰に声をかけたらいいか、このようなことには長けているカイッチャンと話し合ったことを思い出します。現在の会員のほかに名前を挙げたのは、あるいは声をかけたのは、石井英祐さん、伊藤多恵子さん、橋本一男さんだったかな。場所はトサキ、実川清組合長が住んでいたところ、掃除をすれば何とかなるとかね。英祐さんは声をかけずじまい、多恵子さんには、おれきれき?と席を同じくするのはと固辞され、インキョさんはウウウとかいっていたけど参加しなかった。
最初はどうなることかと思っていたけれど、すでに冬至文講義(一講)を終了し、なお新しいテキストを選択して、上総道学、あるいは日本朱子学を深めていこうということだから、自画自賛、大したものだと思っています。感慨があります。
懇親会の席で、田原さんの方から、戸辺さんを会員に加えたい旨の話がなされ、みんな異議無く具体化するようにということで一致しました。戸辺さんはJA山武に勤めていたわけで、人柄についてはみんなよく知っています。それに、学生の頃司馬遷の史記に関心があったということで、楽しみです。
懇親会については、例によって例の如し、またしてもシンデレラの時間を過ぎてしまいました。
★戮力同心(墨子)
心を合わせ、力をひとつにすること
「ここに元聖を求め、之と与に戮力同心、以て天下を治む。則ち、此れ聖王の、賢を尚(とうと)び能を使うを以て政を為すことを失わざるを言うなり」
夏の傑は美女を得て、日夜享楽にふける。税をかけられ、宮殿の建設にかり出された民衆は、傑に代えて太陽をののしる。夏の東に小国殷の湯王は、諸侯と連絡を取り、夏討伐の準備を固める。殷の力が強くなるのを恐れた傑は、酒宴にことよせて湯を捕らえる。諸侯、続々と献上物を手に、湯の釈放を願い出る。傑は湯を釈放、湯はいよいよ諸侯との結びつきを強めるとともに、片腕となる協力者を求めて、四方八方に手を尽くす。一人の使者が帰り、伊尹(いいん)を賢人として湯に告げる。出仕の依頼三度目、湯が自らで向いて、補佐を請い、伊尹承諾す
る。伊尹は、先ず、近くの葛伯という暴君の討伐
を進言、これを討って民心をつかむ。以来出兵
11回、夏の同盟国を滅ぼす。殷は強大となり、
夏を討つ機が熟す。湯は全軍を前にして布告、自
分は伊尹と戮力同心してやってきた。力いっぱい
戦えと。夏の兵は武器を捨てて潰走。傑は黄河を
渡って逃げるも、捕らえられ、南巣(安徽省)に
追放される。三年後、傑は、配流先で死ぬ。
モクサイ通信№9(1999.11)
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638NO.9 1999.11.30
第11回モクサイを語る会まとめ
1、日時 平成11年9月24日(金)
6:30
2、場所 川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
田原哲三、柏木恒彦、斉藤房一
土屋幸恵、戸辺博靖、今関弘道4、ふりかえり・おさらい
(1)今回より、冬至文第五講(平野長道録)に入る。
(2)「道之廃而不行~大そ大切な字(3p3行目)」 ……土屋幸恵。「長崎松前~横経之士云うとはちご う(7p5行目)」……斎藤房一一。「担物と云う~ そこに気が付かず(10p9行目)」……柏木恒彦 以上を検討、終了させた。
(3)問題とされた箇所はおよそ次の通り。
o川上嘆
o去声・離去声
o「志らずや雪能……」の読み方
なお、現時点においては、これらの箇所は明ら かにされている。
(4)「冬至文第五講読み下し」のまとめについて
このことについては、語る会開催の都度まとめを行い、次回に配布し確認することにした。まとめの担当は、先を走っているということで柏木さん。まとめの形式は、「読み下し分」(含む、語句の説明、大意)、および「通釈」とする。全会一致、柏木さん了承。
(付1)月に一回のモクサイを語る会を効率的に回して いこうと云うことより、まとめが早くでき上がれ ば、事前配布する。
(付2)言わずもがななんだけれども、事前配布資料 と、読み合わせの部分、おさらいが欠かせない。 頑張っていきましょう。みんな、世の中の中枢を 担っていて大変なんだけれども……。
漁父(1)
屈原 既に放たれて
江潭に游(あそ)び
行〃(ゆくゆく)沢畔(たくはん)に吟ず
顔色 憔悴し
形容 枯槁(ここう)せり
漁父見て 之に問うて曰く
子は三閭大夫に非ずや
何の故に斯(ここ)に至れる
o沢畔……河の岸 o形容 枯槁せり……見る影もなくやせ衰えている o三閭大夫(さんりょたいふ)……楚の王族、昭、屈、景氏の官職
屈原
戦国時代の楚の人。楚の王族に生れ、懐王・頃襄王に仕えて三閭大夫として活躍したが、妬まれて失脚。政治的立場は「合従」、秦の宰相張儀の連衡政策により、国政から遠ざけられたともいえる。補佐すべき懐王は、秦にとどめられて死去。屈原は失意のうち、南の方、洞庭湖・湘江のほとりをさまよい、ついに汨羅の(べきら)川の淵に身を投げる。憂国の情をもって歌う自伝的叙事詩「離騒」を始め、楚の歌謡を本とした楚辞文学を集大成した。
楚辞という詩の形は、屈原の創始に
よるものである。
懇親…この魅力的なもの。よく遊びよく学ぶ。 なお過ぎたるは及ばざるが如しとも
今回より、戸辺さんが新たに加わりました。若い頃、農学を専攻するかたわら、司馬遷の史記などにも眼を通していたということで、これからが大いに楽しみです。今年になって、JA山武を退きました、職員は500名弱いるのですが、その中で一番真面目な人としても知られています。戸辺さんの一諾というべきものか。また、学校を出てから、大いなる志をもって、20年近くアルゼンチンでの開拓に従事しました。現在は、「戸辺農園(仮称)」の経営者、こちらの方でもフロンティアスピリットの発揚、成功が期待されています。吉田兼好とかシェークスピアにはよく思われていない、あちらの方のスピリットについて云えば、土屋さんやカイッチャン、僕らの方に一日の長があるようです。長い間農業関係に従事してきた賜?です。大歓迎、頑張っていきましょう。
田原さんが、このところ大変忙しい。JA山武の出たとこ勝負のような人事政策に起因するのだけれど、八面六臂というのかな、田原さんが動かないと、葬祭事業がぐちゃぐちゃになる。本当は後継者がいて、バトンタッチを進めて、専務という立場から判断業務ということになればいいのだけれど、なかなか。職名は符丁だ何て言っていたけれど、田原さんのところは地で行っている。田原さんは、責任感の強さ、物事をまげないということで、名を馳せているのだけれども、JAはそれをいいことに、打つべき手を打っていないという感を強くします。
柏木さんは快調だね。稲葉モクサイの冬至文講義は五つあるのだけれども、通してやってしまおうと言うような意気があります。花澤録の講義文の最終まとめは引き受けてもらっているし、長野録の節々のまとめも頼んでしまった。あとは寄り掛からないように努力する、意識的に努力するということだけが残されています。そのうち、田原さんも暇ができるでしょうし、余力を残している房一さん、カイッチャンも何かやり始めるだろうし、土屋さんや僕もマイペースで積み上げていくんだろうと思います。差し当たっては、懇親会の席を借りて、柏木先生!の労に感謝するということかな。
僕について言えば、ぶらぶら暮らしも板について、自由な時間を味方に付けてと思っていたら、何と言うこと白内障。そんな年になったのか、いや少し早いのではないか、気勢をそがれて調子が今一つ出ません。左眼は終わったのだけれども、右眼がまだ終わっていない、年を越すという事情もあります。もともと怠惰なのだけれども、そのせいもあってか?「モクサイ通信」大幅に送れてしまいました。サル軍団のサルよろしく大いに反省しているところです。
小を貪りて大を失う(新論)
「昔、蜀候、性、貪(たん)なり。秦の恵王聞きて之を伐(う)たんと欲す。山間峻険、兵路通ぜず。乃ち石を琢きて牛と為し、多く金帛を与えて牛後に置き、牛糞の金と号し、以て蜀候に遺(おく)る。蜀候これを貪り、乃ち山を塹(ほ)り谷を填(うず)む…。国を滅ぼして身を亡(うしな)う…。以て小利を貪りて大利を失えるなり」
春秋時代において、西方の秦は、東方の晋の圧力により、中原に対してはそれほど手は伸びなかったが、着実に勢力を伸長させた。
戦国時代に入り、孝公が商鞅を採用して法治主義による内政改革を断行、渭水盆地の咸陽に都し、中央集権的専制君主体制を確立、諸侯に対する侵略を開始した。恵文王の時より自ら王と称し、巴蜀に勢力を伸ばし四川盆地を領有、西方の6国と対立した。
次回開催日程
1、日時 平成11年10月22日(金)
6:30
2、場所 川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、冬至文読み合わせ
(1) 「孟子の人牧~思うほどのこと ぞ(10p5行目)」……今関弘道
(2)「孔子に~風にもあてぬようにす ると云う(17p10行目)」……戸 辺博靖
4、次回日程とレポーターの確認
5、懇親
6、その他必要なこと
モクサイ通信№10(1999.12)
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638NO.10 1999.12.01
第12回モクサイを語る会まとめ
1、日時 平成11年11月26日(金)
6:30
2、場所 川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
田原哲三、柏木恒彦、斉藤房一
実川嘉一、土屋幸恵、戸辺博靖
櫻木 保、今関弘道
4、ふりかえり・おさらい
(1)前回は、事情により休会した。
(2) 「孟子の人牧~思うほどのことぞ(10p5行 目)」(今関弘道)を終了させた。ただし、予定した「孔子に~風にもあてぬようにすると云う(17p10行目)」(戸辺博靖)は次回まわしとした。
(3)問題とされた箇所はおよそ次の通り。
<語句>
o「志らずや雪の降るらん」と読む。能は「の」と 読む。
o「道之大原出乎天」(道の大原天に出る)は董仲 舒(とうちゅうじょ)の言葉である。董仲舒は、
前漢の儒者。若くして春秋公羊学を修め,景帝 の時,博士となる。失政には天が災異をくだして戒めるとする災異説や,自然と人間社会の相互の対応関係を認める天人相関説を主張した。武帝に深く信任され,その奏上により,儒教は国教となった。著書《春秋繁露》17巻。
o「さみした」は褊した……軽んじる、侮るの意
o一代の見処……時代の見識というような意
oかんぜもなく……頑是もなく、分別、物事の是非が 無く
o「かがい」……「がかい」の誤りか、外見の大きさ、 規模という意
<留意点>
o「詞章訓古からは~評すべし」は、道を担うことの ないものに対して、軽くいなすように言った言葉。
o俗儒の徒に対して、直方はこれを軽んずるとかいう のではなく、かまっていられない、宗旨が違うとい う。
o道を伝える、道をまげないで伝えるという意味におい て、直方は孔子ー漆雕開、朱子ー李退渓というあたり を重視している。延長線上には、直方ー3人の弟子と いう構図があるのかな。
漁父(2)
屈原曰く 挙世 皆濁り
我れ独り清(す)めり
衆人 皆酔い 我れ独り醒めたり
是(ここ)を以て放たれたり
漁父曰く
聖人は物に凝滞(ぎょうたい)せずして
能く世と推移す
世人 皆濁らば
何ぞ其の泥をみだして
其の波を揚げざる
衆人 皆酔わば
何ぞ其の糟をくらいて
其のしるをすすらざる
何の故に深思高挙して
自ら放たれすむるを為すや
o凝滞……こだわる o世と推移す……世とともに移り変わる o深思高挙……深刻に思い悩み、高尚に振る舞って o自ら放たれ
すむるを為すや……自ら放逐を招く
ようなことをしたのか
懇親…この魅力的なもの。よく遊びよく学ぶ。 なお過ぎたるは及ばざるが如しとも。
例によって例の如し、クニちゃんの親父さんが大吟醸をばんと出してくれたので、遠慮せずにいただきました。向かいには土屋さん、右隣にはカイッチャン、逃れるすべはありません。僕は少し前から奥歯がやんで、カルビとかハツとかは、ちょっと噛みづらかったのだけれど、レバサシで酒を喉に流し込む分には抵抗はない。大分酔いました。
カイッチャンの右隣が戸辺さん、何といっても「戸辺農園」の行く末が楽しみです。それに戸辺さんは、オリーブとかコーヒーの木とかホンミカンとか、食用アザミとか、一般的な果樹や野菜はもちろんだけれども、守備範囲が相当に広い。大したもの、百草園を経営?している、わが土屋さんも負けそうです。
フサイチ先生は、運ちゃんの当番、コップ一杯ぐらいビールを飲んだかな。大いに同情します。飲める口を持っていながら飲めない、何とかならないものか。いつか中国の話をしたけれど、あれは飲んだとき、相当に迫力があった。
クニちゃんは、戸辺さんかな、土屋さんかな、ビールを勧められてコップ2杯、悩み多き年代です。女一人大地をゆく、結局は自ら道を開いて行かねばならないんだけどね。農協だけが人生のステージではない、なんて言うとカイッチャンに叱られるかな。
柏木さんと田原さん、特等席でした。柏木さんの向かい、田原さんの右隣には、わざわざ白井町から来てくれた、櫻木 保さんがいたからです。櫻木ギン斎(ギンという字は門構えの中に言という字を書く、ワープロにないので)の六世の孫、イケガミコウジロウ、ウメザワヨシオの学友、よく田中蛇湖、田原坦庵を尋ねて、上総道学について論議をした。「遊総記」という本には、蛇湖、坦庵、岡 次郎といった先学の人たちと、櫻木さん、梅沢さん、もしかしたら池上さんも、一緒に上総道学ゆかりの地、あるいは人を訪ねて、旅をしたことが記されています。現在においては、櫻木さんが、上総道学の第一人者であることには疑いを入れません。
明治44年東金に生まれ、成東中学校へ、上総道学の延長線上で、満州に渡る。北京(大学)を目指したけれども終戦。その後、出雲の国島根に40数年居住。こちらに帰ってきて10年弱、櫻木さんは、キセルのような人生といいます。当年とって88歳、少しも衰えは見られません。櫻木さんの人生の中には、上総道学、朱子学、春秋時代からの儒学の歴史、こういったことを始めとして、大切な物が沢山蓄積
されているように思います。
漢文の読み下しはもちろん、古文の読み下しにも堪能です。「役に立てれば」とも言ってくれました。志らずや雪能……さてこれは、どう読むのかというのが僕らの水準、「手習い古文書」というような本を仕入れて、お袋さんにも助けて貰って、読み下しに四苦八苦している柏木さんが、僕らもそうなんだけれども、ビールをうまそうに飲んでいた気持ちが分かるね。無論、櫻木さんから学ばねばならないことは、読み下しに限らず、上総道学、日本朱子学、朱子学、儒学そのものなのだけれども……。
先には戸辺さんを迎え、今また櫻木さんの出席を得たということで、「モクサイを語る会」は、新たな地点に差し掛かっているような気がします。特に櫻木さんについては、千載の一遇というか、この出会いを大切にしていきたい。匙を投げられないように、誠意を持って取り組んでいく、このことをあらためて確認することが必要だと考えます。
追伸
稲葉黙斎200周年の集いには、田原さん、柏木さん、房一さんが出席しましたが、今回櫻木さんの出席を得たことについては、その場での田原さんとのコンタクトによるものです。
観、止まれり(春秋左伝)
「呉の公子、来聘(らいへい)す…周の楽を見んことを請う…曰く、徳の至れるかな、大なるかな。甚だ盛徳なるものと雖も、其れ以て此れに加えるに無けん。観、止まれり。若し、他楽ありとも、吾、敢えて謂わざらんのみ」
これ以上のものはない、という意味に使われる。
呉の寿夢(じゅぼう)の末子、季札は、第三子の余昧(よばつ)のときに宰相となり、他国との友好を主張して、余昧の同意を得る。季札は、魯、斉、鄭、晋などに使いして、成功を収める。魯に使いしたとき、季札は魯に伝わっている正統な周の舞楽を所望した。周南、檜(かい)風、曹風、鄭風、唐風を聞き、さらに小雅、大雅、周頌、魯頌、商頌を聞いて、これに適切な評価をそれぞれに与えた。そして、舜楽が奏されると、これこそ魯に伝わる天子の楽と知り、観、止まれりと言った。魯人は季札の博識と深い鑑賞眼に
敬服した。
道とは何か……天道と人道
新しいテキスト(長野録)の始めの部分、天、天命、道、誠、明徳、仁など、難しい言葉が出てきます。分かりそうなところだけ、書き付けておきます。
(1)「道」とは天然自然にあるものである。朱 子の理、気あるいは性と言うような言葉が 想起される。
(2)道には「天道」と「人道」の二つある。
(3)人道は、人が担うべきものである。これは 天の意思、天命である。またここに、万物に おける、「人」の特別な位置づけがある。
(4)二つの道は、客観的に(人の意思から離れ て?)存在する。
(5)しかし道には、「行われる」「廃れる」とい うことがある。これも天の意思である。
(6)人道が行われるか廃れるかは、学者(儒学 者)にかかっている。人道が廃れると、天道 も行われなくなる。
*このような理解でいいのかどうか、整理 してみたいと思っています。また次で。
名簿
実川嘉一 289-1606 芝山町山田 1689 0479ー78ー0724
土屋幸恵 289-1605 芝山町大台 1232 0479ー77ー0844
田原哲三 289-1328 成東町湯坂 519 0475ー82ー3240
柏木恒彦 289-0021 東金市東中 1065 0475ー58ー8208
斉藤房一 289-1521 松尾町本柏 950 0479-86-3823
戸辺博靖 283-0104 九十九里町 片貝4537 0475ー76ー3235
今関弘道 285-0812 佐倉市六崎 1612 043ー485ー7638
櫻木 保 270-1435 白井町 清 水口 2-1-15-901
実川泰成 289-1606 芝山町山田 1604 0479ー78ー0182
伊藤邦子 289-2612 海上町蛇園 3731 0479-55-3292
次回開催日程
1、日時 平成11年12月25日(土)
6:00
2、場所 川波
成田市三里塚十字路
電話 0476-35-1522
3、冬至文読み合わせ
(1) 「孔子に(p14の5行目)~風 にもあてぬようにすると云う(17 pの10行目)」……戸辺博靖
(2)「幾人也(p18の1行目)~すて てしまうがよいぞ(p22の10行 目)」……土屋幸恵
(3)「若果有其志~とどいたは同じや (p26の10行目)」……斉藤房一
(4)「任重而道遠(p27の1行目)~ これまできり(p30の2行目)」 ……実川嘉一
(5)「豈悠々~ちがいなかりた(p32 の7行目)」……今関弘道
*頑張って、おそらくこのあたりま で。最後の読み合わせパートにな る、「三子の遺文」と「先子(32p の8行目)~本望ならざる(41p 2行目・終点)」のレポートについ ては、柏木さんが決まっている。
4、次回日程とレポーターの確認
5、懇親(忘年会)
6、その他必要なこと
モクサイ通信№11(2000.01)
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638NO.11 2000.01.20
第13回モクサイを語る会まとめ
1、日時 平成11年12月25日(土)
6:00
2、場所 川波
成田市三里塚十字路
電話 0476-35-1522
3、出席
田原哲三、柏木恒彦、斉藤房一
実川嘉一、土屋幸恵、戸辺博靖
今関弘道 モクサイをよりよく理解するために。
(3)語句と意味
o人を出したときに(p14の8行目):例として人 の名前を出すときに
o豫譲(p14の9行目):柏木レポート参照…五講 についてのまとめ、読み下し文と通釈は、まもな く配布される予定。
o室鳩巣(p15の4行目):柏木レポート参照
o訓門人節要の会(p15の10行目):門人に節要を 訓する会と読んでおく
o天叙有典勅吾五典(p16の8行目):柏木レポート参 照
o五惇(p16の8行目):五典をあつく実践せよと解し ておく
o親は(p16の8行目):率直に犬や猫の親と解してお く
o五常(p17の10行目):人の常に守るべき五つの道 徳、柏木レポート参照
o川上嘆(p17の1行目):前出、論語にある
o與道為体(p17の2行目):道と体を為す
o当仁不譲師(p17の9行目):仁に当たりては師にも 譲らず(論語)
o管丞相(p18の1行目):管仲のこと
o古道阿○尋ねきて(p19の5行目):宿題とする
o不立文字(p19の9行目):直観は文字では表せない、 心を持って伝えるの意
o靖献遺言(p20の1行目):柏木レポート参照
o五祖(p20の6行目):禅宗の五代の祖
o綱常名節(p20の1行目):綱常は三綱と五常、柏木 レポート参照
oたたりた(p20の9行目):叱った
o六祖(p21の1行目):禅宗の六代の祖
oさわられた(p21の1行目):さらわれたの間違いで はということも考えられるが、ここでは文字通り指摘 されたというような意味にしておく
oたいぜう(p21の3行目):太上、すぐれたもの、こ のような意味にとっておく
o官諭舎(p21の9行目):幕府の学校
o身通六芸(p22の7行目):六芸に通じたもの、六芸 については柏木レポート参照
o克己復礼(p23の2行目):柏木レポート参照
o皮きり(p23の2行目):最初に
o道学標的(p23の6行目):道学を標的にと読み下し た
o其の一つこと(p24の9行目):同じこと、同様なこ と
o鑽之弥高(p25の2行目):これをきればいよいよ高 く、論語にある
oやつきゃつ(p25の4行目):奴、彼奴と読む
o啓予手啓予足(p26の4行目):わが手を啓けわが足 を啓け、論語にある
o身体髪膚……(p26の5行目):孝経にある
o西銘(p26の6行目):張横渠の著作
o欲従之末由而己(p26の8行目):之に従わんと 欲すと雖も由(よし)なきのみ、論語にある。欲 の前に雖が抜けている、而は也が正しい
oどちどうしても(p26の8行目):どちらにして もという意に解した
oあけしい(p27の6行目):のんびりする
o心○(p28の2行目):心に(貳)と読んだ
o韓退之(p29の2行目):韓愈のこと、柏木レポー ト参照
o視在(p29の4行目):現在ある姿と解した
o有党の○を(p29の9行目):炎と読んだ
oダ蝋(p29の10行目):字と意味については留保 した
o四子六経(p30の3行目):柏木レポート参照
o衍義補(p30の7行目):参考書、補足書のよう なものとして解した
o吾○に(p31の1行目):身と読む
o我々○(p31の2行目):貳という意見もあった が、式と読んだ
oのっきりて(p31の10行目):尽きりてと読んだ が、今ひとつはっきりしなかった
oはだえ(p32の3行目):肌合い
懇親…この魅力的なもの。よく遊びよく学ぶ。 なお過ぎたるは及ばざるが如しとも。
我々7人と、クニちゃんも加わって、今日は正式な?忘年会。場所は千代田ゆかりの川波。6:00から9:30までがモクサイを語る会、頑張りました。トシガミの田原さんの挨拶で始めました。儒学を学んでいると言うこともあって、郷党に入れば年功に従うです。一年有余、よくここまで続けてこられた、田原さんの言うとおり、僕らも本当にそう思います。そして杯を上げながらの懇談、その中の一つは、ふりかえりに書き付けておいた通りです。おのが馬車を星につなげです、儒教らしからぬ言葉ですが、今日はまたクリスマス、許されるでしょう。もう一つは、モクサイ講義第一講から第五講までをまとめてプリントしよう、新年に向けての心意気でもありました。新年もまた頑張りましょう、無理をしないでね。
漁父(3)屈原曰く
吾れ之を聞く
新たに沐する者は必ず冠を弾(はじ)き
新たに浴する者は必ず衣を振(ふる)うと
安(いずく)んぞ能く身の察察たるを以て
物のもんもんたる者を受けんや
寧ろ湘流に赴いて
江魚の腹中に葬らるるも
安んぞ能く皓皓(こうこう)の白きを以て
世俗の塵埃を蒙らんや
o必ず冠を弾き……必ず冠の塵を払ってからかぶり o安んぞ能く身の察察たるを以て……どうして清らかな身体に o物のもんもんたる者を受けんや……汚らわしきものを受けられようか o皓皓の白きを以て……純白の身を
漁父 莞爾として笑い
鼓(こ)えいして去る
乃ち歌って曰く
滄浪の水 清(す)まば
以て吾が纓(えい)を洗う可し
滄浪の水 濁らば
以て吾が足を濯(あら)う可し
遂に去って復た与(とも)に言わず
(楚辞、漁父)
o鼓えい……舵を操って o滄浪……漢水の下流 o纓……冠の紐、君主に仕えること o遂に去って復た与(とも)に言わず……そのまま姿を消して、再び語り合うことがなかった
★生を偸む(楚辞)……特に何をするでもなく、 ただいたずらに安易に生きていること
★魚腹に葬むらる(楚辞)……「寧ろ
湘流に赴きて、江魚の腹中に葬られ
去る1月12日、右目の手術をしました。それから5日間、ごろにゃんこが目玉の中に住み着いて、適当に遊んでいます。にゃんこにつられて?わが脳細胞もぶらぶらしているようです。モクサイ通信、またしても遅れてしまいました。次会からは頑張ります(H.I)
儒学の道統とは何か……道体為学一條連綿
三皇五帝、湯王・文王・武王、皐陶(こうよう)・伊尹(いいん)・傳説(ふえつ)・周公・召公が何故に道統の任に当たったと言えるのか。儒学の道統における神話と解してよいのか。三皇五帝は別にしても、湯王以下すさまじい天下統一を行ったのではなかったのか。徳治主義を掲げる儒学において、どのように位置づけられるのか。
一條連綿、孔子・顔子、曽子・子思子・孟子・周濂渓・程伊川・張横渠・朱子、この流れの中から何故に荀子が排除されているのか。董仲舒、韓愈はどうなのか。また楊子についてはどうなのか。論じるまでもないと言うように扱われているが、何処が間違っているのか。後戻りするけれど、太公望は何故入っていないのかな。
道統の傳、四書(大学・中庸・論語・孟子)は枢要の経書。うち、大学と中庸は、何時何処で、どのような人たちが、どういう目的を持って、作り上げてきたのか。朱子が、この二つの経書に対して、どのように関与したのか、あるいは位置づけたのか。
素朴な疑問を、思いつくままにあげてみました。モクサイ学あるいは直方学を寄りよく理解しようと言う観点です。どういうことになるのかな。
次回開催日程
1、日時 平成12年1月21日(金)
6:30
2、場所 川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「三子の遺文」(柏木恒彦)
(2)これまでのパート、モクサイ講 義録の読み下しについては、柏木さ んにおいて準備がなされています。
4、次回日程とレポーターの確認
5、懇親会
6、その他必要なこと
牛耳を執る(春秋左氏伝)
同盟の盟主になる。諸侯が集まって誓いをするとき、生け贄の牛の耳を裂いて血をすすった。その時に、頭の者が牛の耳を扱ったと言う故事
斉の桓公
斉の15代の君主。春秋五覇の一。姓は姜、名は小白。釐公の子、襄公の弟。鮑叔牙・管仲を用いて富国強兵策を行う。(在位 前685~643)
管鮑の交わり(列子)
「刎頚の交わり」「水魚の交わり」「断金の交わり」「金蘭の交わり」「布衣の交わり」「莫逆の交わり」「竹馬の友」…管仲と鮑叔
管仲・鮑叔
斉の襄公は暴君、従兄弟の公孫無知に殺される。第一王子小白(後の桓公)は鮑叔と、第二王子糾は管仲と別々に亡命。公孫無知が殺され、小白と糾が戦い、小白が勝利。鮑叔は管仲の助命を乞い、宰相に推薦。BC651、桓公は諸侯と会盟して覇者となる。「我を生みし者は父母なり、
われを知る者は鮑子なり」ん」。水死すること
モクサイ通信№12(2000.02)
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638NO.12 2000.02.05
第14回モクサイを語る会まとめ
1、日時 平成12年1月21日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
田原哲三、柏木恒彦、斉藤房一
実川嘉一、今関弘道
(1) 総体として
o開会に先立って、房一さんより「冬至文 全」が 配布された。前回の合意に基づくもの。この中に は「佐藤先生冬至文」「三子の遺文」「モクサイの 遺文」「直方がウサイにあてた手紙」「凡そ七道」 「モクサイ先生冬至文講義第一講~第五講」が含ま れている。したがって、次会からは「冬至文 全」 がわれわれの正式なテキストとなる。
o読み合わせおよび解題の前に、「冬至文 全」の構 成についての説明がなされた。今回のレポーター は柏木さん。
o第五講の最終、モクサイが三子の遺文に言及した 部分、「先師送先君子(p32の8行目)」から「講 席の席ふさげ(p38の2行目)」まで終了させた。
o第五講以降のことについて話し合いがなされた。 およそ次のとおり。
イ)「凡そ七道」を踏まえておく必要がある。第五 講でもそうだったし、第一講後半部分(積み残し た部分)においても、凡そ七道が踏まえられてい ないと理解しにくい。これについてのレポートは 柏木さんがする。
ロ)第五講の総括について。どのようにしてこれを するかということを含めて、柏木さんと僕(今関)に おいて、いわば総括案を提示する。
(3)語句と意味
o心○(p28の2行目):哉(かな)と読む
o我々○(p31の2行目):式(しき)と読む
o 先師、先君子(p32の8行目):先師は野田剛斎、先 君子は稲葉迂斎
o 徂徠(p32の8行目)荻生徂徠(おぎゅうそらい)
1667-1728、江戸元禄~享保期(1688年―1736年) の儒者,古文辞(こぶんじ)学派の祖。名は双松(な べまつ),字は茂卿,通称は惣右衛門(そうえもん)。 徂徠は号。物部(もののべ)氏の出といい,物徂徠 (ぶっそらい)と称す。父は徳川綱吉の侍医。江戸に 生まれ,14歳の時に母方の在所上総国に移住し,《四 書大全》などを学ぶ。江戸に戻り,1696年柳沢保明 (やなぎさわやすあきら)(のちの吉保)に仕える。将 軍綱吉の学問相手も務め,赤穂浪士処断の時,法に のっとり厳罰に処すべきと献言したことは有名。1709 年江戸茅場町の自宅に家塾を開き,山県周南(やまが たしゅうなん),安藤東野(あんどうとうや),服部 南郭(はっとりなんかく),太宰春台(だざいしゅん だい)らの門人を育てた。徂徠の学問は宋学や山鹿素 行(やまがそこう),伊藤仁斎(じんさい)らの復古 学の影響を受けながらも,これらを批判,古文辞学に よる六経(りくけい)の正確な理解を通じて新たな 儒教体系の確立を目指していた。著書には経学(けい がく)上の問題を扱った《弁道》《弁名》《論語徴》,将 軍吉宗の諮問にこたえて幕政全般の改革にふれた《政 談》のほか,《赤穂四十六士論》《訳文筌蹄(やくぶん せんてい)》《大学解》《中庸解(ちゅうようかい)》 《明律国字解(みんりつこくじかい)》《園随筆》《南 留別志(なるべし)》など多数,歌集に《徂徠集》が ある。(マイペディア)
o 比(p32の10行目):「頃」に同じ。
o 異学は聖学の邪魔をする(p32の10行目):小学外 篇嘉言に、「明道先生曰く、道の明らかならざるは、異 端之を害するなり」とある。
o臥薪嘗胆(p33の1行目):がしんしょうたん、春秋 時代の呉と越の争いにからまる故事。呉王夫差は越と の戦いで父を失うと,薪(たきぎ)の上に臥(ふ) し,その身の痛みに父の遺恨を思い,ついに越を破っ た。越王句践(こうせん)は胆(きも)を嘗(な) めて,その苦みに復讐を誓った。
o石原先生(p33の2行目):野田剛斎、本所石原 に住んだ
o兄(p33の4行目):稲葉迂斎を指す。
o徳有る者は、必ず言有り(p33の3行目):論語 憲問5
o 啓処するに遑あらず(p33の4行目):啓処は 啓陣(ケイジン)の人の詰所。啓陣とは、平安時代、 立后・立太子の儀などに六衛府の官人が護衛に立 つこと。冬至文一講では、「旅先のこと」と言って いる。五講でも、在番と補足している。唐津侯に 仕えるために、旧知の友と別れて知らない土地へ 旅立つのだから、心細くゆとりも持てないことだ ろう。
o 自新(p33の5行目):三子の遺文に、「自ら明 らかにする所以の者、日々に新たに新たにして 云々」とある。大学における、「大学の道は明徳を 明らかにするに在り」を言っている。
o 精彩(p33の5行目):いろどり。
o 享保戊申(p33の9行目):享保十三年(172 8)。戊申は「つちのえ・さる」と読む。
o病革(p33の10行目):やまいあらたまる、 病気 が急に重くなる
o大ふ(p34の2行目):「大フ」と書いてある。こ れを「いこう」と読む。「大分[だいぶ]」または 「たいそう」か。検討事項。
o 脚気衝心(p34の3行目):脚気に伴う急性の心 臓障害。呼吸促迫を起し、多くは苦悶して死に至 る。衝心。衝心脚気。
o省察(p34の4行目):みずから省みて考えめぐ らすこと。遺文を作ったことを指す
o 提撕(p34の5行目):ていせい、勢いをふるい おこすこと。盛んにすること。ひっさげること。 後進者を教導すること。
o心法(p34の6行目):しんほう、しんぼうとも、
心を修める法。心の修養。心がけ。転じて、つと めはげむこと。また、がまんすること。宋の儒学 で、心の体用を存養省察する道をいう。童子問 「程子、中庸を以て孔門伝授の―とす」
o 丹治(p34の10行目):三宅尚斎のこと。1707~ 1709(宝永4年~宝永6年:46~48歳)の間に、 武蔵忍[おし]藩城内に幽閉される。
oおれは(p35の1行目):居れば
o 尚翁(p35の1行目):三宅尚斎のこと。
o 傷寒(p35の5行目):漢方医学で、急性熱性疾 患の総称。今の腸チフスの類。
o 日比(p35の1行目):日頃
oわるいこと(p35の6行目):言ってはいけない こと
oぶんぶんのこと(p35の7行目):分にしたがう こと
o・ うつて(p35の7行目):打つ手。とるべき手段。 施すべき方法。
o 手紙(p35の10行目):「佐藤子江戸より迂斎へ唐津 へと遣[つかわ]し候書状」を指す。
o 博文約礼(p35の10行目):論語雍也27。ひろく 学問して事の理をきわめた上、礼を以てこれをしめく くり実行すること。
o下学上達(p35の10行目):かがくじょうたつ、
論語憲問37、日常の身近な所から学んで、次第に深遠 な学問に進んで行くこと。
oかいない(p36の1行目):内外
o 異端頓悟(p36の8行目):異端は老仏。頓悟とは修 行の段階を経ずに、一挙に悟りを開くこと。禅では南 宗が主張し、北宗の漸悟より優れているとした。。朱 子学では陸学(陸象山の学)を指す。
o近思と云うも異端頓悟得る処哉(p36の8行目):こ この意味をもう少し検討する必要あり。
o 踰等陵節(p37の1行目):ゆとうりょうせつ、等を 踰(こ)え、節を陵(しの)、下学上達の工夫なく、一 足飛びに天理に至ろうとすること。
o 五車(p37の2行目):五台の車にのせるほどの多く の書籍。書物の多いことをいう。荘子天下編に「恵施 多方、其書五車」とあり、恵施の学説は多方面にわた り、著書は五台の車に積むほどあるという意。
懇親…この魅力的なもの。よく遊びよく学ぶ。 なお過ぎたるは及ばざるが如しとも。
今回の懇親会、PM11:00少し前に終わりました。久しぶり、いやはじめてかな。ツネちゃんは明日、酪農家にウシを配達しなくてはならない。ウソではありません。働きながら学ぶ、花の金曜日も損なわれることがあります。ツーさんは婚礼に出なくてはならない。みんな職場を持っているし地域を持っています。戸辺さんはアルゼンチンへの40日間の旅に出た。戸辺さんの選んだ人生行路の延長線上です。田原さん、40年勤めたJA山武を、1月末日を持って退職します。たつトリ跡を濁さず、連日引継に意を注いでいます。クニちゃんは職を退いて張り切っているのだけれど、数日前に韓国旅行、体調を少し崩しているとか。このようなことで、懇親会はいつもに比べるとちょっとばかり静か?でした。
しかし、懇親会は欠かせません。よく飲み、よく食べ、よく学ぶ。モクサイを語る会、今後の進め方、直面している課題の所在など、そのかなりの部分が懇親会の中から出てきます。
橘頌(抜粋)
后皇(こうこう)の嘉樹
橘徠(きた)り服す
命を受けて遷らず
南国に生ず
o后皇の嘉樹:天地の神の恵みを受けて生 まれためでたい樹
深く固くして徒(うつ)し難く
更に志を壱(もっぱら)にす
緑の葉 素(しろ)き栄(はな)
紛(ふん)として其れ喜ぶ可し
o深く固くして:その根は深く固くして o更に志を壱にす:その志は一筋だ
o紛として:ふさふさとして
曾(かさな)れる枝 するどき棘(とげ)
円き果(み)は摶(つぶら)にして
青と黄と雑糅(ざつじゅう)し
文章(あやもよう) 爛(かがや)けり
o雑糅:入り交じって
(楚辞、九章、屈原)
次回開催日程
1、日時 平成12年2月25日(金)
6:30
2、場所 川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「佐藤子卒(p38の3行目)」~「本 望ならざる(p41の2行目)」(柏木 恒彦)
(2)冬至文第五講の総括について
(3)「凡そ七道」(柏木恒彦)
4、次回日程とレポーターの確認
5、懇親会
6、その他必要なこと
衣食足りて栄辱を知る 倉稟みちて礼節を知る(管子)
o管仲は斉の賢相。法家の祖。名は夷吾。字は 仲・敬仲。河南潁上の人。親友鮑叔牙のすす めによって桓公に仕え、覇を成さしめた。 「管子」を著したという。(?~前645)
o「管仲、桓公を相(たす)けて諸侯に覇たら しめ、天下に一匡巣。民、今に到るも其の賜 を受く、管仲なかりせば吾被髪左衽せん」 (論語)
o「桓公、諸侯を九たび合わせ、兵車を以てせ ず。管仲の力なり。其の仁に如かんや、其の 仁に如かんや」(論語)
o「海は水を辞せざれば、故に能く其の大を成 す。山は土石を辞せざれば、故に能く其の高 きを成す。明主は人を厭わざれば、故に能く 其の衆を成す」(管子)
モクサイ通信№13(2000.03)
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638NO.13 2000.03.01
第15回モクサイを語る会まとめ
1、日時 平成12年2月25日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
田原哲三、柏木恒彦、戸辺博靖
実川嘉一、今関弘道
(1) 総体として
o「佐藤子卒(p38の3行目)」~「本望ならざる (p41の2行目)」(柏木恒彦)を終了させた。 これで、「冬至文第五講」についての読み合わせも 終了したことになる。
o次会からは「冬至文第一講」の「積み残し部分」の 読み合わせにはいる。分担は「次回開催日程」の とおり。
o第五講を終了するにあたって、「黙斎冬至文総括に あたってのガイド(案の作成は柏木、今関)」に よって、総括を行った。ガイドにおいて、とくに 問題となるようなことはなかった。
o「冬至文第五講読み下し文(柏木作成))」につい ては、全講(一講~五講)が終了するまでは「未 定稿」とする。その間、未定稿について、気のつ いたことがあったら柏木さんに言うこと、このよ うにして未定稿を定稿に近づけていく。
o凡そ七道(新テキスト)については、柏木さんよ り「佐藤先生冬至文附録『凡そ七道』の要旨」が 配布されたが、これは次会回しとした。
(2)第五講関連レポートの分担
「ガイド」に含まれるが、「冬至文第五講を理解す るにあたっての必要なレポート」ということで各 自の任務分担を決めた。このレポートは次回以降、 完成した順からやっていく。レポートの分担は 「次回開催日程」にあるとおり。
(2)語句と意味
o 必竟(p38の5行目):「畢竟」の誤り。つまるとこ ろ。
o 行蔵(p38の6行目):村士玉水(幸蔵)1729~1776 迂斎門下
o 宗伯(p38の7行目):柳田求馬(明石宗伯)1737~ 1784 迂斎門下
o 幸田(p38の7行目):幸田子善1720~1792 迂斎 門下
oもと(p38の9行目):もともとの意
o づく(p39の1行目):「尽く」。名詞に添えて「ある 限りを尽す」の意を表す。
o館林の衆、役儀なれば大事ぞ(p39の2行目):平野 長道は館林藩士であることに留意
o 云いはう(p39の4行目):言い寄ってくる。主張 する。
o心術が らり(p39の9行目):がらりと変わってと 言う意味にもとれるが、ここでは「らり」、すなわち 乱離骨灰・羅利粉灰の略。ちりぢりに離れ散ること、 めちゃめちゃになること、というように解しておく
o 羞悪の心(p40の1行目):孟子公孫丑上に「羞悪之 心、義之端也」とある。自分の悪を恥じ、また他人の 不善をにくむこと
o鞭策・排釈・標的(p40の2行目):講学鞭策録・排 釈録・道学標的、直方の書いた三つの書物
oいうか(p40の4行目):反語的にも読めるが、ここ では「いうが」と解しておく
o 南郭(p40の4行目):服部南郭。江戸中期の儒学 者・詩人。名は元喬。京都の人。柳沢吉保に仕え、荻 生徂徠に学び、古文辞を修め、詩文に長じた。著「唐 詩選国字解」「南郭先生文集」など。(1683~1759)
o 書目(p40の4行目):書物の題目。書物の目録。図 書目録。
o だたい(p40の5行目):大体。「だいたい」に同じ。
o 腹中(p40の6行目):腹の中。心中。心の中。
o 学術のわるいぐるみ、きどくなことぞ(p40の6行 目):南郭の学術が悪いものであることを考慮しても、 賞賛すべき(奇特な)ことである
o人の為にした(p40の10行目):道学では自らの ために学ぶことを基本にしていることに留意
o 寸悃(p41の1行目):「寸」は、わずかなこと。 「悃」は、真心。ちょっとした真心。
o 裏付(p41の1行目):裏付草履の略。
o上下(p41の1行目):江戸時代の武士の礼装。同 じ染色の肩衣と袴とを紋服・小袖の上に着るもの。 麻上下を正式とする。裃(カミシモ)。
懇親よく遊びよく学ぶ。
なお過ぎたるは及ばざるが如し。
土屋さんと房一さんの二枚看板を欠いての懇親会、土屋さんは大台部落のお葬式が松戸で、房一さんは仕事の関係、決算から総会へと続く、ごたごたに巻き込まれたのかも。ちょっとさびしい感じもしたのだけれど、始まってみるとまあいつもの通りか。
戸辺さんは、第二のふるさと南米アルゼンチンを拠点とした40日間の大旅行、昨日かえって今日のモクサイを語る会、その意気たるや壮というべきだね。おみやげのオリーブの漬け物、酒の肴にぴったり。
田原さんは、40年におよぶ農協の勤めに終止符を打ったばかり、「大地自然を守りながら、また囲碁・道学など趣味を生かしながら、ながらの意義ある人生をおくりたい」と挨拶文にありました。あざなえる縄の如し、田原さんの退職はモクサイの会にとって、大きなプラス要因になること請け合いです。
櫻木さんからの陰暦の賀状、「すでに頽齢の私は暮津に舟を待つ想いですが、さらに駑馬に鞭ちながらもトボトボと歩み続けるつもりです」と記され、とても元気です。田中蛇湖と田原坦庵をもって上総道学は終焉したと言いますが、僕ら素人には、そのように言った梅沢さんを含め、池上さん、そしてわが櫻木さんが、道学の掉尾を飾って?きらきらと輝いているように見えます。風邪など引かないように、お体を大切に。
柏木さんとカイッチャンと僕は、それぞれの持ち味を生かして?元気にやっています。
次回開催日程
1、日時 平成12年3月24日(金)
6:30
2、場所 川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ(新テキスト・ 第一講)
(1)「凡そ七道(p6の6行目)」(柏木恒彦)。すで に配布されている「佐藤先生冬至文附録 『凡そ七 道』の要旨」を呼んでおいて下さい。
(2)「先師送先君子(p30の3行目)~唐津へ行に付て 云(p32の2行目)」(田原哲三)
(3)「君子道求(p32の3行目)~ごじん静に想みよ(p 34の9行目)」(土屋幸恵)
(4)第五講関連レポートについて
まとまった順からやっていくことにします。
4、第五講関連レポートの分担
(1)道(天道、人道)という概念の形成過程について
(イ)天命、道、性、誠、徳、仁とは、どのような概念 なのか。歴史的な概念の形成過程、および朱子におけ る概念の規定(戸辺博靖)
(ロ)天道と人道との関連、「どうしておいても道はつい てくる」という楊子の説に対する、反論の根拠は? (田原哲三)
(ハ)朱子の【先知後行説】では、「致知」の「知」を経 験的知識とし、広く知を致して事物の理を究めてこ そ、これを実践しうるとした(柏木レポート)。この 場合、人における「致知」の「知」、および事物の理 というものは、「天」が大きなふいごと、たたらで万 物を作ったときから備わっているという理解でよい か。だとすれば、人が経験的知識を深め、これを実践 すると言うことが、道に任じると言うことになるか。 このばあい、事物の理、万物はそれ自体発展する、変 化する、したがって人の認識も、その反映として発展 し、変化するというような考えは、朱子学にはなかっ たのか(今関弘道)
(ニ)再度、朱子の理気二元論で万物の生成、人の生成、 天道、人道の生成を説明すると、どういうことになる か(柏木恒彦)
(ホ)陸象山、王陽明が道統の学から排除されているの は、どのような理由によるのか(土屋幸恵)
(2)道統の学はどのようにして形成されてきたのか (柏木恒彦)
(イ)聖人として位置づけられる、神農・黄帝・尭・舜・ 湯・文・武において、いわゆる異端の学からはどのよ うな批判がなされているか(同上)
(ロ)「孔門三千人のうちから、身通六芸者七十二人ぎ り。それをえったら、たった顔子、曾子二人なり」と いわれるが、戦国時代にかかって、孔門三千人、身 通六芸者七十二人という人たちは、彼らの儒学を どのように発展させていったのか(同上)
(ハ)道統の学において、枢要の書とされている四書 (論語・大学、中庸・孟子)は、何時何処で、どの ような人たちが、どのような目的を持って創りあ げてきたものなのか。朱子はこれらの経書に対し、 どのように関与したのか、あるいは位置づけをし たのか。直方は、「道学標的に」ということで、孔 子・・曾子・子思子・孟子・周濂渓・程伊川・張横 渠・朱子をあげている(同上)
(3)古文辞(こぶんじ)学派の祖といわれる荻生徂 徠の学問とはどういうものなのか。なぜ、道統の学 から排斥されたのか。関連して、復古学をとなえた 山鹿素行(やまがそこう),伊藤仁斎(じんさい)ら の学問とはどういうものだったのか。道統の学は これに対してどのように対応したのか(斉藤房一)(4)室鳩巣(むろきゅうそう)は、どういう理由で 直方から、あるいはモクサイから疎まれたのか。お さらいとして、藤原惺窩(せいか)を祖とし、林羅 山(らざん)・松永尺五(せきご)、そして新井白石 (あらいはくせき)・室鳩巣とつづく、京学の流れと はどういうものか(斉藤房一)
(補)周王朝創立の第一の功臣は呂尚(太公望……斉 の祖)ではなかったか。周公、召公だけが道を担っ たものとして認められているのか。朱子の評価は どうなのか(実川嘉一)
5、次回日程とレポーターの確認
6、懇親会
7、その他必要なこと
天問(抜粋)
曰く 遂古の初
誰か之を伝え道える
上下(しょうか) 未だ形あらずと
何によってか之を考えし
円く九重(きゅうちょう)に
だれか之を営み度(はか)れる
惟れは茲(こ)れ何の功ぞ
だれか初めて之を作れる
o円く九重(きゅうちょう)に……天は円く九層になっているというが o営み度れる……設計したのか o何の功ぞ……どのような工事だろうか
夜光は何の徳ありて
死して又育(い)くるや
蕨(そ)の利 維(こ)れ何ぞ
顧兎(こと) 腹に在るは
o夜光は何の徳ありて……月はどんな機能があって o顧兎……うさぎ
何れの所か冬暖かく
何れの所か夏寒き
焉にか石林有る
何の獣か能く言(ものい)う
(楚辞、天問、屈原)
宋襄の仁(十八史略、春秋左氏伝)
つまらぬ無用の情け深さ、無益のなさけ。事宜を得てい ない憐 れみ。
o宋の襄公は春秋時代の宋の王。(―~前637)
o前639、鹿上に諸侯と会盟、楚は襄公を捕らえるが、諸侯これ を釈放させる。翌年、鄭に出兵、背後にあった楚と戦って大敗
o桓公と管仲の死による斉の衰退。宋の襄公、覇者たらんとして、中 小諸侯を率いて斉を攻撃、鹿上に会盟。楚は小国宋の足元を見 て 襄公を捕虜にし、諸侯の抗議により釈放。鄭は宋を離れ楚につく。 宋は鄭を攻め、救援の楚と衝突。楚軍が渡河している攻撃の好機 に、宋の公子目夷が楚の布陣しないうちに討ちたいと請うたが、襄 公は君子は人の困っている時に苦しめてはいけない、殷の血を引 くものは、陣立てもできていない敵を攻撃しないといって、機を 逃す。宋は全面敗北し、襄公もその時の傷がもとで死ぬ。
モクサイ通信№14(2000.04)
NO.14 2000.04.20
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638
第16回モクサイを語る会まとめ
1、日時 平成12年3月24日(金)
6:30
2、場所 川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
田原哲三、柏木恒彦、土屋幸恵
実川嘉一、今関弘道
(1) 総体として
o「凡そ七道」(柏木恒彦)を終了させた。別添資料、 「佐藤先生冬至文附録『凡そ七道』の要旨」に基づ いて読解が行われた。
(2)第五講関連レポートの分担
このことについては原案どおり、次のように分担 を決めた。
<道(天道、人道)という概念の形成過程>
(イ)天命、道、性、誠、徳、仁とは、どのような概 念なのか。歴史的な概念の形成過程、および朱子 における概念の規定(戸辺博靖)
(ロ)天道と人道との関連、「どうしておいても道は ついてくる」という楊子の説に対する、反論の根 拠は? (田原哲三)
(ハ)朱子の【先知後行説】では、「致知」の「知」を 経験的知識とし、広く知を致して事物の理を究め てこそ、これを実践しうるとした(柏木レポー ト)。この場合、人における「致知」の「知」、お よび事物の理というものは、「天」が大きなふいご と、たたらで万物を作ったときから備わっている という理解でよいか。だとすれば、人が経験的知 識を深め、これを実践すると言うことが、道に任 じると言うことになるか。この場合、事物の理、 万物はそれ自体発展する、変化する、したがって 人の認識も、その反映として発展し、変化すると いうような考えは、朱子学にはなかったのか(今関弘 道)
(ニ)再度、朱子の理気二元論で万物の生成、人の生成、 天道、人道の生成を説明すると、どういうことになる か(柏木恒彦)
(ホ)陸象山、王陽明が道統の学から排除されているの は、どのような理由によるのか(土屋幸恵)
(2)道統の学はどのようにして形成されてきたのか (柏木恒彦)
(イ)聖人として位置づけられる、神農・黄帝・尭・舜・ 湯・文・武において、いわゆる異端の学からはどのよ うな批判がなされているか(同上)
(ロ)「孔門三千人のうちから、身通六芸者七十二人ぎ り。それをえったら、たった顔子、曾子二人なり」と いわれるが、戦国時代にかかって、孔門三千人、身 通六芸者七十二人という人たちは、彼らの儒学を ど のように発展させていったのか(同上)
(ハ)道統の学において、枢要の書とされている四書 (論語・大学、中庸・孟子)は、何時何処で、どの ような人たちが、どのような目的を持って創りあげて きたものなのか。朱子はこれらの経書に対し、どのよ うに関与したのか、あるいは位置づけをしたのか。直 方は、「道学標的に」ということで、孔子・・曾子・子 思子・孟子・周濂渓・程伊川・張横渠・朱子をあげ ている(同上)
(3)古文辞(こぶんじ)学派の祖といわれる荻生徂 徠の学問とはどういうものなのか。なぜ、道統の学 から排斥されたのか。関連して、復古学をとなえた 山鹿素行(やまがそこう),伊藤仁斎(じんさい)ら の学問とはどういうものだったのか。道統の学はこれ に対してどのように対応したのか(斉藤房一)
(4)室鳩巣(むろきゅうそう)は、どういう理由で 直方から、あるいはモクサイから疎まれたのか。お さらいとして、藤原惺窩(せいか)を祖とし、林羅 山(らざん)・松永尺五(せきご)、そして新井白石 (あらいはくせき)・室鳩巣とつづく、京学の流れと はどういうものか(斉藤房一)
(補)周王朝創立の第一の功臣は呂尚(太公望……斉 の祖)ではなかったか。周公、召公だけが道を担っ たものとして認められているのか。朱子の評価はど うなのか(実川嘉一)
(2)語句と意味……佐藤先生冬至文附録『凡そ七道』 の要旨に即して
1. 天木時中筆記に曰く
o 天木時中:33歳で直方に入門、直方死後には三宅 尚斎入門。
o 言葉使いや態度までも聖賢の様に振る舞わなけれ ばならない:儒学の基本の一つとして、礼ないし礼 楽の重視。
o 気象意思:孟子の浩然の気のような。
o 循環無端生々不息:よく出てくる言葉、老荘に起因しているようだ(柏木)
o昏塞滞礙:こんさいたいかい。道理に暗くふさがっ ている。
2. 出渕立恒自責の筆記に曰く
o 格物:ものに到る、ものを極める。
o存養:ぞんよう。孟子に出てくる。本然の良心を失 わず、その性を守り育てる。
o 朱子学の「静」と「動」。
体-理-形而上-道-未発-中-「静」-性(仁・ 義・礼・智・信)
用-気-形而下-器-己発-和-「動」-情(欲)
それぞれの概念と相互の関連、総じて朱子の理気二 元論の理解が大切。関連レポートでの再確認をする 必要あり。
3.酒井修敬永井子一事を録して曰く
o韓退之:総じて評価は低い、流罪の地で高僧に出会 い、袈裟を貰ったというようなこと、それと「のべ てつくらず」という、朱子を除いた?道統の学から の逸脱か。
o 司馬遷、班固、杜子美、白楽天、李太白:漢唐の学、 坦夫の学から外れている、みんな駄目。
o真の学問は忠孝に始まり:特に忠の概念について は、時代の下るについて大きく変化したのではない か。
o三教一致:神、仏、儒教
o 我々も聖賢に至ることが出来る:荻生徂徠などは このような考えはとらない。
4. 佐藤子学者を戒めるの説に曰く
o 行を利する:利についての意味合いに留意、例えば 孟子と墨子の思想の違い。
o 楊亀山:あとで調べること。
5.佐藤子浅見子に與えし手帖に曰く
o学問とは己の為:「人の為」ではなく、道学では自 らのために学ぶことを基本にしていることに留意
6.浅見子谷重遠に答えし手帖に曰く
o 聖人に至るためには:「徹頭徹尾、朱子の教えに従 うことが重要である」という点に留意のこと。
o今日の学者に、嘘をつかず、利欲と俸禄と名声とを 目的としない者はいない:人の為にする学問の具体 例。
7.佐藤子谷重遠に答えし手帖に曰く
o 気質:情に対応、人欲へとつながる概念として留意のこと。
よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。懇親
川和伊の焼き肉はなかなかいけます。それにクニちゃんの親父さんが、いろいろと気を使ってくれてるようで恐縮。越後あるいは会津あたりの銘酒がばんと出されてくるようなとき、ちょっとすまないなという気持ち、でも飲んでしまうけどね。
クニちゃんは韓国旅行、国際結婚なるかというところかな。「追いかけよう夢を、ふたりならさびしくなんかないさ」、ささやかな幸せ、を願っています。
土屋さんに自作の盃を貰いました。絵付けがいい。「陶工ゆきえさん」、名をはせると大変だから?大事にしよう。そういえば、カイッチャンも一緒に焼き物を始めたように思ったけれど、さてどうなったのでしょう。才能は沢山あるゆえ、いつかは花が咲いて実がなる、大器晩成、死して後やむ?軽々には評価できません。
田原さんは職を退いたにもかかわらず多忙、新築なってのガーデニング、山では檜が枝打ちを待っている、早く下草を刈らないと夏がきて通せんぼ、タランボも摘まなくてはならないし。まもなく田圃、エビガニとタニシが呼んでいる、将棋と囲碁、そしてモクサイ研究もあるし、頑張って欲しいですね。
房一さんと戸辺さんはお休み。房一さんは区長会があるとか、地域で偉くなると大変です。戸辺さんは、よくは分からなかったけれど、大々的に始めている「野菜の直販事業」の関係かな。アルゼンチンでの夢を、九十九里で!成功して欲しい、みんなの願いです。
柏木さん、この辺の牛飼いの元締め、明日も仕入れの立ち会いだとか、もはやこれまでというのが、僕の処世の仕方だったのですが、ちょっと違う。未来を見つめて?生きています。だから今晩のお酒はセーブして、見習おうと思わないけれど、大したものですね。それにパソコンを駆使、完全に元は取っている。相変わらず、モクサイを語る会の先頭を走っています。
櫻木さんはお元気のようです。暮津に舟を待つなんて言いますが、なかなか。何よりも意気が高い、経験の蓄積はきちんと箱に納められ、整理されているように見受けられます。夏にかかって、季節がよくなったら、機会をつくって、お目にかかることが出きるでしょう。
次回開催日程
1、日時 平成12年4月21日(金)
6:30
2、場所 川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ(新テキスト・ 第一講)
(1)「先師送先君子(p30の1行目)~唐津へ行に付 て云(p32の2行目)」(田原哲三)。
(2)「君子求道無所(p32の2行目)~吾人静に想み よ(p34の9行目)」(土屋幸恵)
(3)「永井先生病革(p34の10行目)~言外の意なり (p36の4行目)」(実川嘉一)
4、第五講関連レポートの分担
準備が整い次第。
5、次回日程とレポーターの確認
6、懇親会
7、その他必要なこと
国殤(抜粋)
天時もうらみ 威霊(いれい)も怒り
厳殺(げんさつ)し尽くして 原野に棄てらる
出て入らず 往きて反(かえ)らず
平原忽として 路超遠(みちちょうえん)なり
o国殤(こくしょう):武運つたなく戦死した 若い将兵の霊を祭る歌
o天時もうらみ 威霊も怒り:天も怨み神も 怒った
o厳殺し尽くして:原野に棄てらる、殺し尽 くされて戦場に棄てられた
o出て入らず 往きて反らず:戦場に出て いったまま、ついに生きて帰ることがないo忽として:はるかに遠い、茫々として果て しなく
o路超遠なり:故郷への道は遠い
長剣を帯び 秦弓を挟み
首身離るるも 心懲(こ)りず
誠に既に勇にして 又以て武
終に剛強にして 凌ぐ可からず
身既に死するも 神(しん)以て霊
魂魄 毅として 鬼雄と為れり
o心懲(こ)りず:忠誠の心は悔いることが ない
o神(しん)以て霊:霊魂は亡びない
o鬼雄:鬼中の英雄
(楚辞、屈原)
三舎を避く(春秋左伝)
へりくだる。恐れて引き下がる。晋の重耳が楚の荘公に「あなたは、もし晋の国に帰ったら、何によって私に恩返しをされるか」と問われたときに、「晋と楚が兵を整えて中原で出会ったならば、晋の兵はあなたから引き下がること三晩泊まりの道のりにしましょう」と言った故事。舎は、軍隊が一日かかっていける道のり。中国で言えば三十里、日本では五里(約20km)。
【晋の文公】
o献公の子。名は重耳。後継をめぐって、驪姫(りき)に迷った献公に追放される。狄に逃れて 19年。義兄に当たる秦の穆公の援助を得て、62歳で晋の王位につく。
o前635、周の王子帯の乱を平らげて、襄王を復位させる。
o前632、宋の求めに応じて楚を城濮に破り、周王を迎え践土(河南省)に諸侯と会盟し、桓 公に次いで第二の覇者となった。
o在位は8年と短かったが、臣下に賢人が多く、文公の死後も晋は長く覇業を維持した。
モクサイ通信№15(2000.05)
NO.15 2000.05.26
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638
第17回モクサイを語る会まとめ
1、日時 平成12年4月21日(金)
6:30
2、場所 川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
田原哲三、柏木恒彦、斉藤房一
土屋幸恵、実川嘉一、今関弘道
(1) 総体として
「先師送先君子」(p30の1行目)~唐津へ行に付 て云(p32の2行目)」(田原哲三)を終了させた。(2)第五講関連レポートの再確認をした。
(3)語句と意味
o「先師」(p30の1行目):野田剛斎
o 「先君子」(p30の2行目):稲葉迂斎
o 「学道」(p30の4行目):朱子学の道
o 「世間の方へ変わった」(p30の4行目):徂徠 学とかへ変わったというのではなく、自ら変わる ことはないが
o 「小野崎舎人」(p30の5行目):直方の門人?
o「うっかと」(p30の5行目):蔚っかと、安んじ て……学問の目標を聖人に置くか否かという、学 派を分ける問題があることに留意。
o「ばっとしたようじゃと」(p30の4行目):末と いう字を当てて、だめになったようだと。魃の字 をあてて、日照りのようだと言う田原さんの説あ り。
o 「あの手先で」(p30の8行目):直方の門人
o 「濶」(p30の1行目):ひろいこと。大きいことo 「肆行(しこう)」(p30の1行目):ならべるこ と。ほしいままにすること。
o 「より合い」(p30の11行目):寄り合い
o 「三輪善蔵(p30朱批):三輪執斎(みわしっさ い)1669-1744。江戸中期の陽明学者。名は希賢, 字は善蔵。京都の人。崎門三傑の人,佐藤直方に学ぶ。 致良知の説を尊び,1712年王陽明の《伝習録》に標注 を加えて翻刻し,中江藤樹,熊沢蕃山なきあと江戸の 地での陽明学の先駆をなした。和歌もよくした。著書 《伝習録講義》《周易進講手記(しゅうえきしんこう しゅき)》《古本大学講義》など。マイペディア for Mac
o 「王学を弁じられし」(p30朱批):王学を弁ぱく されて
o 「管江林家(p30の17行目):菅原、大江、林家の こと。菅原氏、平安時代の学問で名高い家系。781年 土師宿古人(はじのすくねふるひと)らが,本拠 地の大和国菅原(現奈良市)の地名にちなんで菅原宿 の姓(かばね)を与えられ,790年には菅原朝臣 の姓を与えられた。古人以後も,清公(きよとも)・ 是善(これよし)・道真(みちざね)らの学者を輩 出,子孫は代々紀伝道(きでんどう)をもって朝廷 に仕えた。 大江氏(おおえうじ)平安時代以後,文 章(もんじょう)道を家学にした家。もとは土師(は じ)氏。790年大枝朝臣(おおえのあそん),866年 大江と称す。音人(おとんど)以来匡衡(まさひ ら)・匡房らの学者が輩出,菅原氏(菅家(かんけ)) と並んで江家(ごうけ)と呼ばれた。マイペディア for Mac
o 「さなご」(p30の19行目):さなご(核子):瓜のた ね。(和訓栞)。核心。
o 「あれを闢(ひら)くべき」(p31の1行目):徂徠 学を退けるべき
o「石原先生」(p31の2行目):野田剛斎
o 「呂東莱」(p31の10行目):朱子の弟子、近思録を 朱子と共同で編纂。
o 「野廻り」(p31の11行目):野守
o 「邵子」(p31の15行目):しょうこうせつ【邵康節】
北宋の学者。宋学の提唱者。名は雍、字は尭夫。康節 は諡。河北范陽の人。易を基礎として宇宙論を究め、 周敦頤(シユウトンイ)の理気学に対して象数論を開いた。 著「皇極経世」「漁樵対問」「伊川撃壌集」「勧物篇」な ど。(1011~1077)
よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。懇親
田原さんのレポートは、錐で揉み込むようです。柏木さんが、今回は熱が入ったというような感想を口にするのも故なしとはしません。僕などは、大過なければなど言って、たいていのことは見逃してしまいますが、田原さんはそうではありません。在職中、県下並ぶもののない監査(検査)の力量がそうさせるのか、それとも田原坦庵の血筋がそうさせるのか、脱帽です。
房一さんは野における日本哲学?の権威というような趣があります。山崎闇斎、佐藤直方、稲葉黙斎という日本朱子学の系譜の中で、それ自体を深めていくことは基本的に大切と思いますが、他方古学も含めて日本朱子学全般、国学といった方面も、モクサイを理解するには欠かせないように思います。「関連レポート」のこともあり、こうご期待です。
以下お二人のスケッチで時間切れ、極楽とんぼよろしく、あっちこっちぶらぶらしている小生に責任があります。次会からは気合いを入れていこう、よろしく。
次回開催日程
1、日時 平成12年5月26日(金)
6:30
2、場所 川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「君子求道無所(p32の2行目)~吾人静に想み よ(p34の9行目)」(土屋幸恵)
(3)「永井先生病革(p34の10行目)~言外の意なり (p36の4行目)」(実川嘉一)
4、第五講関連レポートの分担
準備が整い次第。
5、次回日程とレポーターの確認
6、懇親会
怨み骨髄に徹す(史記)
うらみが骨のしんまでしみわたる。心の底から深く人をうらむこと。
晋を攻撃した秦の大将が捕らえられたとき、秦の繆公の娘だった晋の襄公の母が、父の繆公がこの三 人を骨の髄まで恨んでいるから、父に処刑させてやって欲しいと、命乞いをした故事から。
【秦の穆公】
春秋時代の秦の第九世。五覇の一人。名は任好。大夫百里奚を用い、領土を拡大。西戎(今のチベット)に覇を称えた。(在位 前660~621)
山鬼(抜粋)
赤豹に乗り 文狸を従え
辛夷(しんい)の車 桂を結べる旗
石蘭を被て 杜衡(とこう)を帯び
芳馨(ほうけい)を折りて 思う所に遣(おく)らんとす
余(われ)幽篁に処(お)りて 終に天を見ず
路 険難にして 独り後れ来る
o文狸:まだらの山猫 o辛夷:こぶし o桂を結べ る旗:木犀の枝を結んで旗とし o杜衡:つぶねぐさ o芳馨:香り草 o幽篁:竹薮 o終に天を見ず:空が 見えないため時刻の見当がつかず
表だ独り山の上に立てば
雲は容容として下に在り
杳冥冥として 羌(ああ) 昼も晦(くら)く
東風 瓢(ひるがえ)りて 雨ふらす
霊脩を留めて 憺として帰るを忘れしめん
歳既に晏(おそ)ければ たれか予(わ)れを華にせん
o霊脩を留めて 憺として帰るを忘れしめん:あなた に会えたら、いつまでもここに引き留めて帰ることを 忘れさせよう o歳既に晏(おそ)ければ:歳を取って しまったら
山中の人 杜若(とじゃく)を芳(かお)らせ
石泉を飲み 松柏を陰にす
君 我を思えど 然疑(ぜんぎ)作(おこ)りしか
o石泉:石清水 o松柏を陰にす:松柏の陰のすみか に帰る o然疑:そうかしら、それともと疑うこと
(楚辞、九歌、屈原)
7、その他必要なこと
モクサイ通信№16(2000.06)
NO.16 2000.06.18
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638
第18回モクサイを語る会まとめ
1、日時 平成12年5月26日(金)
6:30
2、場所 川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
田原哲三、柏木恒彦、斉藤房一
土屋幸恵、実川嘉一、今関弘道
(1) 総体として
「君子求道無所(p32の2行目)~迂斎先生の心 の中のよくなるを云うぞ(p34の1行目)」(土屋 幸恵)を終了させた。
(2)語句と意味
o 「小野崎舎人」(p30の5行目):直方の門人。山 崎闇斎の系譜に出てくる(田原)。
o「うっかと」(p30の5行目):蔚っかと、安んじ て……学問の目標を聖人に置くか否かという、学 派を分ける問題があることに留意……お茶の水の 高島教授に訳を聞いたら、言葉にこだわらない方 がいいとの話があった(田原)。
o「ばっとしたようじゃと」(p30の4行目):末と いう字を当てて、だめになったようだと。魃の字 をあてて、日照りのようだと言う田原さんの説あ り……伐という字には、みだれる、もとるという 意味がある(田原)。
o 「より合い」(p30の11行目):寄り合い……よ りがあうという意味がある(田原)。
以上第17回まとめについての意見。
oゆるまんかと(p32の5行目):おろそかにする
oおそるる(p32の5行目):心配する
o切(p32の8行目):朋友の切々偲々(論語)、ね んごろ。よく合うさま(広辞苑)。
o的党(p32の8行目):的をうる
o啓所するに遑あらず(p32の8行目):遑寧が語源の ようだ
o事につかぬ(p32の11行目):仕事に縛られない、君 側に仕えることに拘束されない
o礼文学者(p32の12行目):古学派のことか
o三年の喪(p32の13行目):親が死んで25ヶ月(王 粛説)、あるいは27ヶ月(鄭玄説)、足かけ3年(論 語、陽貨、注)
o事上ではない(p32の15行目):奉公上のことでは ない。意見として、それ以上のことではない
o徳ある者必ず言有り(p32の16行目):(論語、憲問 第十四)
o辞す者は達して(p32の16行目):言葉は達してや む、意思が通ればよい
o鷹匠の陣屋でいそがしゅうても廃れぬぞ(p32の19 行目):鷹匠がいくら忙しくても、志を高くしていれ ば廃れない
o今日学者が何ぞというと仏を弁ずるが、事をうるさが り、客のあいさつをいやがりて~其時は志が死んで 居る、志がたぎれば場所はない、道学はいつも生き生 きとして居るなり(p33の1行目):「死して後やむ」 (曽子)、生きている間は道を担うという意だろう(今 関)
oそこをのつつそつつは、雪山へ行くの小才(p32の 8行目):そこをノッツノッツはと訳しておく。雪山へ 以下は分からない、留保しておく。
o夷狄に素しては夷狄に行う(p33の10行目):夷狄 のなかに入っては、夷狄に対して道を立てる(今関)
o和光同塵(p33の11行目):[老子第四章「和其光同 其塵」] 知恵ある人がその知の光をやわらげ隠し、俗 世間の人々の中に同化して交わること。仏・菩薩が本 来の知徳の光を隠し、煩悩の塵に同じて衆生を救済 すること。
o熊沢蕃山(p33の11行目):江戸前期の儒学者。中江 藤樹に陽明学を学び、岡山藩主池田光政に仕える。著 「大学或問」が幕府の嫌疑にふれ、古河城中に幽閉さ れて没。著「集義和書」「集義外書」など。
o右段(p32の8行目):右段々の
o覚えている(p32
の8行目):数えたてている
o陳安郷(p33の16
行目):不詳、留保しておく
o御紅屋(p33の18行目):遊郭、遊び場
o温瘡(p32の18行目):軽い切り傷
o瘡毒(p32の19行目):はれもの、かさ、梅毒
o心の中(p32の19行目):著述でなく心術、心の 中だ
よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。懇親
このところ、田原さんが調子を落としているか、ちょっと心配です。土屋さんもここ二回ほど、コントロールの問題かな。身体第一、アルコールは第二です。戸辺さんが二回ほど都合で出席できません。モクサイを語る会は息の長い試みだと思うので、そんなに心配していませんが、少し気にかかります。カイッチャンは二回続けて九時頃出席、長いつきあいだからそれほど気にかかりませんが、ちょっとばかり気にかかります。
困獣すら猶お闘う(春秋左氏伝)
獣でさえ、追いつめられても最後まで闘う。まして一国の宰相が負けたままで黙っているわけがない。
「文公、猶お憂色あり。左右曰く、喜びありて憂えば、如(も)し憂あらば喜ばんかと。公曰く、得巨(とくしん)猶お在り。憂、未だつきざるなり。困獣すら猶お闘う、況や国相に於いておや」
前597、晋は楚に攻められた鄭に救援軍を出したが既に遅く、加えて諸将の意見の不一致の中、楚の猛攻を受け大敗北。晋の景公は激怒、諸将の責任を追及。撤兵を主張した筍林父が死罪を願い出る。その時大臣の貞子が進み出て、30年前、城濮(じょうぼく)の戦いで楚に大勝利した時の、晋の文公の言葉をもって諌める。楚にはなお子玉が健在だ。困獣すら猶お闘う、ましてや子玉は宰相ではないか。後、子玉が楚王に殺されて始めて安心したと。
湘夫人(抜粋)
帝子 北渚に降れり
目は眇眇として 予(わ)れを愁えしむ
嫋嫋たる秋風 洞庭 波だちて木葉下る
(楚辞、九歌、屈原)
o湘夫人……尭の娘、舜の妃、湖の女神
o帝子……湘夫人を指す
o眇眇(びょうびょう)として……見はるかす彼方 はかすみ
o嫋嫋(じょうじょう)たる……さやさやと吹く
o「湘夫人」は湖水の男神湘君が、女神の湘夫人を 慕って唱う歌。
次回開催日程
1、日時 平成12年6月23日(金)
6:30
2、場所 川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「迂斎先生のなされた板行(p34の2行目)~吾 人静に想みよ(p34の9行目)」(土屋幸恵)
(3)「永井先生病革(p34の10行目)~言外の意な り (p36の4行目)」(実川嘉一)
4、第五講関連レポートの分担
準備が整い次第。
5、次回日程とレポーターの確認
6、懇親会
7、その他必要なこと
モクサイ通信№17(2000.07)
NO.17 2000.07.17
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638
第19回モクサイを語る会まとめ
1、日時 平成12年6月23日(金)
6:30
2、場所 川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
田原哲三、柏木恒彦、斉藤房一
土屋幸恵、実川嘉一、今関弘道
(1) 総体として
「迂斎先生のなされた板行(p34の2行目)~吾 人静に想みよ(p34の9行目)」(土屋幸恵)、お よび「永井先生病革(p34の10行目)~言外の 意なり(p36の4行目)」(実川嘉一)を終了させ た。
(2)語句と意味
oそこをのつつそつつは、雪山へ行くの小才(p32 の 8行目):小才は小さい。ノッツノッツはノッ ツソッツでのびたり、そったり(広辞苑)。雪山へ は、釈迦が雪山で修行、悟りを開いたという伝え を受ける。総じて、場所は選ばない、何処でも出 来るという意。
o陳安郷(p33の16行目):不詳、留保しておく
以上、第8回まとめについての補足、意見。
o板行(p34の2行目):出版して世間に広める。
o跡へ入る(p34の6行目):冬至文への、モクサ イの加筆部分
o洒然(しゃぜん)(p34の8行目):さっぱりとあ かぬけしたさま。
o毅然(きぜん)(p34の8行目):意志が強く、物 事に動ぜずしっかりしているさま。
o粛然(しゅくぜん)(p34の9行目):おごそかな さま。かしこまるさま。しずかなさま。
o鋒鋩(ほうぼう)(p34の9行目):刃物のきっさ き。ほこさき。気性や言葉の鋭いたとえ。
o血気の上の(p34の2行目):人欲に任せて
o提撕(ていせい)(p34の17行目):ひっさげること。 後進者を教導すること。奮いおこすこと。
o胡氏(p35の9行目):胡安国ではと柏木さん、田原 さんよりも名前が出されたが、漢字と読み方が分から ない。
o彦八(p35の13行目):佐藤直方の長男、就正、1747 年39歳で没。
o沢(p36の2行目):めぐみ、つや、遺風
o庄内のときまではあり(p34の2行目)
o六君子(p36の3行目): 松・柏・槐(えんじゆ)・楡・ 梓・栴せんだんの6樹。
o六君子○○湯(p36の3行目):ロックンシヤッキト ウ、薬の名前だろう。
き。ほこさき。気性や言葉の鋭いたとえ。
o血気の上の(p34の2行目):人欲に任せて
o提撕(ていせい)(p34の17行目):ひっさげること。 後進者を教導すること。奮いおこすこと。
o胡氏(p35の9行目):胡安国ではと柏木さん、田原 さんよりも名前が出されたが、漢字と読み方が分から ない。
o彦八(p35の13行目):佐藤直方の長男、就正、1747 年39歳で没。
o沢(p36の2行目):めぐみ、つや、遺風
o庄内のときまではあり(p34の2行目)
o六君子(p36の3行目): 松・柏・槐(えんじゆ)・楡・ 梓・栴せんだんの6樹。
o六君子○○湯(p36の3行目):ロックンシヤッキト ウ、薬の名前だろう。
よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。懇親
焼き肉をかじりながら、ビールそして酒、そろそろ暑気払いの季節です。僕らは、世に言う「ノミスケ」の集まりなのでしょう。人欲が前面に出てきて、なかなか性に卒(した)がうというレベルにおっついていないようです。でも、それなりの努力は重ねている、地道に、モクサイの講義録を追っている、そして設定した課題に取り組んでいる。
一足飛びと云うこともあります。まだそのような評価をすることにはならないけれども、自分ないし自分たちの抱える課題が、モクサイを語ることとしっくりいっている、そのような地点に立ち得ること、そのような感じを共有できることが大切だと思います。これからも格物致知の精神で頑張っていきましょう。
戸辺さんが忙しそうです、これで三回かな、少し心配です。日中提灯の灯をともしてまでも、人と人との結びつきは求めるべきだとの、誰だったか、言葉があります。よく遊び、よく学ぶというスローガンは、よく働きながら、よく学ぶというようにも言い換えることが出来ます。
土屋さんのレポート、僕のようにありきたりではなく、聞いていて時にはっとするようなことがあります。嘉一さんのレポート、久しぶりでした。その割には、カイッチャンらしくすんなりとまとめ、おかげで懇親会の時間が早く来てしまいました。
我々もコンピューター時代に入りつつあります。柏木さんと田原さん、僕もパソコンを持っています。田原さんの場合、息子さん?と共有、独自に入れるかも知れないという話、いま失業保険の給付を受けながら、三ヶ月間のコンピューター研修に入っています。本当に研修は必要かどうかについては、僕と意見の分かれるところです。柏木さんは、コンピューターの権威を自任しています。いや自他共にというべきです。見習うべし、モクサイの読み下し文、関連論文がノートの中にしまわれています。僕も持っているのだけれど、機種がマックです、ワードを入れたらなんて言われて、検討しています。追っかけられながら、モクサイ通信を仕上げているというレベルです。
房一さん、ノート型パソコンを導入しました。JA山武をはじめ県下農協が完全に遅れている中での決断です。手に入れたからには、元を取らねばならないわけで、柏木・房一ラインが形成されれば、モクサイを語る会にとって大きな戦力です。お待たせ、カイッチャン、ウインドウズを入れるかマックを入れるか、未だに思案中。どっちでもそれ程変わらないだろうと云うのが僕の立場です。もしマックを入れれば、ソフト面で協力できるかと云うところ、その点ウインドウズでも同じことでしょう、インターネットの時代だから。そんなことよりも、カイッチャンの才能の問題があります、千代田ではこの方面ではみんなに信用され、ヒロモトと並び立っていました。どっちでもいいから、早く入れて欲しいですね、期待するところ大なるものがあります。土屋さんにもその意向があるようです、おねえちゃんとのからみかな。知る人ぞ知るということなのですが、土屋さんは在来のパソコンで「四季通信」を出しています。キャリアは十二分、パソコンを入れて、これを書斎代わり、机代わりにしたらどんなことになるか、これはロマンですね。戸辺さんについては聞いていないのだけれど、いずれにせよ我々がパソコン時代に入りつつあると云うことは事実です。それぞれ、場所を離れての結びつきと云うこともあって、うまく使えば有効な武器になるように思います。
次回開催日程
1、日時 平成12年7月28日(金)
6:30
2、場所 川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「先君子学者を諭すの文に曰く(p36の5行目)~ 初学の為に示せる(p39の2行目)」(斉藤房一)
4、第五講関連レポートの分担
準備が整い次第。
5、次回日程とレポーターの確認
6、懇親会
7、その他必要なこと
鼎(かなえ)の軽重を問う
(春秋左氏伝)
相手の実力を軽視し、その実力を試みようとすること。実力の無くなった相手に、とって替わろうとすること。
楚の荘王は五覇の一。諸国を破って中原に進出、覇を称した。弱体化した周の定王の時、荘王は洛陽に立ち寄り兵力を誇示した後、接待に出た王孫満に帝位の象徴である「鼎」の大きさ・重さを問うた。王孫満は周が未だ存続していることは、天子の徳の現れとして、楚王の問をはねつけたという故事。
儒学・道学の基本的概念と哲学上の観点について
モクサイをやっていくと、どうしてもぶつかるのが、孔子をはじめとする諸子百家から始まって、朱子により集大成される宋学、この間に立ち現れた先哲(思想家)の所論です。先哲には、かならず所論を集約するところの基本的な考え方、あるいは基本的な概念があります。これをどのように理解するかと云うことは、モクサイを前に進めるためのキーポイントの一つです。基本的な概念を理解すると云うことは、先哲の思想を、一般的に云うならば中国思想の発展過程を、哲学において考察することだろうと思います。例えば、孔子における仁、天とはなんだろうか、朱子における理、気、太極、陰陽とは何だろうか、陸象山・王陽明における気一元論とは何だろうかというようなことです。哲学を広辞苑でひくと、「諸科学の基礎づけを目ざす学問」「世界・人生の根本原理を追求する学問」というようなことが記されています。
僕らは哲学者ではないし、哲学についての専門知識も持ち合わせていません。また専門的な自然科学者でもありません。でも、哲学の流れ、哲学史の中から、世界をどのようにとらえるかという基本的な観点だけは理解することが出来ます。余り振りかぶったことは言えませんが、モクサイを読みこなしていこうとの枠の中で、その限りにおいて、次号から哲学の到達点を見ていきたいと思います。
離騒(抜粋)
(楚辞、屈原)
帝高陽の苗裔 朕(わ)が皇考(こうこう)を伯庸という
摂堤(せってい) 孟陬(もうすう)に貞(ただ)しく
惟れ 庚寅(こういん)に吾れ以て降れり
o朕……古代では誰でも使った、皇帝専用 の自称は始皇帝から
o皇考……亡き父は
o摂堤……寅年のこと
o摂堤孟陬に貞しく 惟れ庚寅に……寅年 寅月 庚寅(かのえとら)の日に
o吾れ以て降れり……私は生まれた
皇(ちち)は覧(み)て余(わ)れを初度に揆(はか)り
肇めて余に錫(たま)うに嘉名を以てす
余に名づけて正則といい 余に字(あざな)して霊均という
o初度……生まれた時
o嘉名……よい名
日月忽(こつ)として其れ淹(とど)まらず春秋其れ代序す
草木の零落を惟(おも)い
美人の遅暮(ちぼ)ならんことを恐る
o草木の零落……草木が枯れていく
o美人……善き人、君主をさす
o遅暮……年老いること
壮を撫(たも)って穢(あい)を棄てざる
何ぞこの度を改めざる
麒驥に乗りて以て馳騁(ちてい)せば
来たれ 吾夫(か)の先路を導かん
o壮を撫って……少壮の時に
o度……態度
o麒驥……足の速い馬
o馳騁せば……馳せるならば
o来たれ……いざ
乱に曰く
已んぬるかな
国に人無くて 吾を知る莫し
又何ぞ故都を懐わん
既に与(とも)に美政を為すに足る莫し
吾 将に彭咸の居る所に従わんとす
o乱……最後のしめくくり
o彭咸……殷の賢大夫で、君主を諫めたが聞か れず、投身して果てたといわれる。
うしおデッキを洗い 真帆朝風にすずし 白いしぶきをあげて 舟は突き進む
モクサイ通信№18(2000.08)
NO.18 2000.08.10
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638
第20回モクサイを語る会まとめ
1、日時 平成12年7月28日(金)
6:30
2、場所 川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
田原哲三、柏木恒彦、斉藤房一
土屋幸恵、今関弘道
(1) 総体として
「先君子学者を諭すの文に曰く(p36の5行目)~ 初学の為に示せる(p39の2行目)」(斉藤房一)
を終了させた。
(2)語句と意味
oそこをのつつそつつは、雪山へ行くの小さい( p 32 の8行目):雪山浄土(せつざんじょうど)、 釈 迦が雪山で修行、悟りを開いたという伝えを受け る。
o陳安郷(p33の16行目):陳安卿(ちんあんけ い)、朱子の弟子、土屋さん調べ。
o胡氏(p35の9行目):胡安国ではと柏木さん、田 原さんよりも名前が出されたが、漢字と読み方が 分からない。引き続き検討。
o庄内のときまではあり(p36の2行目):鈴木養 斎(俗称荘内、庄内)が、酒井修敬の世話で和田 儀丹とともに、稲葉迂斎の弟子となっていた時代。 近くには永井隠求がいて、その恩沢に浴していた というように理解される。モクサイは当時は子供 であった。
o六君子○○湯(p36の3行目):六君子益気湯、薬 の名前とする。
以上、前々回までのまとめについての補足。
o博文約礼(p36の12行目):「子の曰く、君子、博 く文を学びて、これを約するに礼を以てせば、亦 以てそむかざるべきか」(擁也)。「子の曰く、博く文 を学びて、これを約するに礼を以てせば、亦以てそむ かざるべきか」(顔淵)
o総名(そうみょう)(p36の14行目):類の事物を総 括して呼ぶ名称。総称。
o下学上達(かがくじょうたつ)(p36の16行目): 子曰く、天を怨みず、人を尤(とが)めず、下学して 上達す。我を知る者は其れ天か」(憲問)。「子曰く、君 子は上達す。小人は下達(かたつ)す」(同上)
o造(p36の17行目):いたりきわめること(広辞苑)。
o三月不違仁(p36の18行目):「子曰く、回や其の心 三月仁に違わず。其の余は則ち日月(ひび、つきづき) に至るのみ」(雍也)
o等を踰(こ)え節を凌ぐ(p37の4行目):「下学上 達の工夫もなく、一足跳びに天理に至ろうとするこ と」(呂東莱の近思録後序)
o知行(ちこう)(p37の6行目):知ることと行うこ と、知識と行為(広辞苑)。
o得手方になる(p37の6行目):得意な分野に片寄る。
o性の近き所(p37の7行目):性と気質との関連で理 解するとおもしろい(今関)。
o棚経(たなぎょう)(p37の12行目):盂蘭盆会(う らぼんえ)に、精霊棚(しようりようだな)の前で僧 が経を読 むこと。
o時で云うこと(p37 の18行目):時勢で 云うこと
o三体詩(p37の19行 目):唐代詩人の作 を、七言絶句・七 言律・五言律の三体に分けて編纂した書。
o杜律(p37の19行目):杜甫の律詩、杜甫は律詩の 完成者とされる。
o古文(p37の19行目):中国で、秦の小篆(シヨウテン) 以前の文字の総称。また、漢の隷書(今文キンブン)に 対して、先秦以来の古い字体の称。古い字体で書かれ た秦漢以前の経書。六朝以後の駢文(ベンブン)に対 して、先秦~漢代の文体。史記などの文体。わが国の 江戸時代以前の文。
o博物志(p38の2行目): 晋の張華撰、一○巻。原本 は散逸し、後人が補う。
o月令(げつれい、古くはガツリョウとも)(p38の3 行目): 一年間に行われる定例の政治・儀式または 民間行事を月順に記録したもの。
o克伐怨欲(p38の5行目):「(子思が言った)勝ち 気や自慢や怨みや欲望がおさえられれば、以て仁 と為すべし。子曰く、以て難しと為すべし。仁は則 ち吾知らざるなり」(憲問)。
o重荷に小付(重荷にこづけ)(p38の6行目):重 い負担の上に、さらに負担の加わること。
o小倉色紙(p38の8行目):藤原定家が小倉百人 一首を書いたと考えられる色紙。
o唐紙(p38の8行目):中国渡来の、紙に胡粉(ゴ フン)を塗り、その上に雲母の粉末で文様を刷り出 した紙。また、わが国でそれを模造したもの。
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):次会に おいて再検討のこと。
o尹彦明(p38の11行目):伊勢長島藩の唐崎彦明
o高致(こうち)(p38の15行目):高尚な心持。最 高の極致。
o全く荘子ぞ、昼寝したを高致にした(p38の15 行目):胡蝶の夢の故事に留意のこと。
o在原業平(ありわらのなりひら)(p38の16行 目):平安初期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一。
o水戸の大学、候の君(p39の1行目):水戸の大学、 諸侯の若君
o排擯(はいひん)(p38の16行2目):排斥する、 退ける
各自政を為す
(春秋左氏伝)
「将に戦わんとす。華元、羊を殺して士に食わしむ。其の御の羊勘(ようじん)、与(あずか)らず。戦うに及びて曰く、疇昔(ちゅうせき)の羊は、子、政を為せり。今日の事は、我政を為さんと。与に鄭の師に入る。故に敗れたり」
宋は晋と結んだため楚と不仲となった。楚の荘王は、同盟国である鄭の穆王に出兵を命じた。決戦前夜、宋の将軍華元は、羊をほおり将兵の士気を鼓舞した。しかし、御者の羊勘はご馳走にあずからなかった。ある者に理由を問われ、華元は、御者など戦争にかかわりがないと答えた。翌日、戦争が始まり、両者五分五分の形成、華元は兵力の手薄なところへ車を向けるよう命じたが、羊勘は、反対の密集しているところへ走り込んだ。曰く、昨日の羊の件はあなたのことであり、今日のこのことは私のことですと。華元は捕虜となり、司空の楽呂までが250人の兵士とともに捕らえられ、460両の戦車を失うはめになった。
懇親よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。
今回のレポートは房一さん、読み下し、ややこしい所もスムーズにこなしていく、大したものです。僕などは、講義録の読み下しにアタックしているときなど、いらいらするのだけれど……。これからのレポートの割り振り、次は僕、それから土屋さん、かなり長いところ、米の合間を縫ってです。漢文(白文)混じりの所は柏木さんにきまり。そのうちに田原さんがパソコン教室を卒業します。それから嘉一さんも戸辺さんもいます。三人よれば文殊の知恵と云うから、見通しについては楽観的……。とはいえ多士済々(たしせいせい)という言葉もあります。戸辺さんが忙しいけれど、手を伸ばしあってやっていきたいと思います。
次回開催日程
1、日時 平成12年9月1日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「我が門に入る者、深くこの意を絶ち(p39の 3行目~吾も人も赤面すべき(p40の20行 目)」(今関弘道)
4、第五講関連レポート
準備が整い次第
5、次回レポーターの確認
6、懇親会
惜誦(せきしょう)
熱羹(ねっこう)に懲りてなますを吹く
何ぞこの志を変ぜざらんや
階をすてて天に登らんと欲す
なおさきの態あるなり
(楚辞、九章 屈原)
*羹(あつもの)に懲りてなますを吹く……前の 失敗に懲りて、あまりに用心しすぎること
儒学・道学の基本的概念と哲学上の観点について
概念(コンセプト)とは何か(1)
正名論、名実論、形名・刑名論
何時だったか、田原さんだと思うのだけれど、概念とはどのようなものかという問題の提起がありました。その時は、物の名前、たとえばリンゴという物に対しての名前ということで、終わったように覚えています。このこと自体は、誤りではないと思います。
物と名前の相関関係については、中国の諸子百家、孔子、荀子、公孫竜、韓非子などが言及しているところであって、正名論、名実論、形名・刑名論などと呼ばれます。
孔子の正名論では、「必ずや名を正さんか」(子路)が知られます。前後はそれなりの文ですが、言っていることは、言葉と物との関係が正しくなければ、言葉遣いも順当ではなくなると言うことです。物事について言葉で表そうとするには、物事の内容の反映としての「概念」をはっきりさせることが必要である。概念をはっきりさせて、必ずその通りに実行できるようにすると言う主旨内容です。ここで言う「名」は、実に対する概念、「実」は物ないしは実体ということでとらえておきます。
荀子の正名論には、「名に固実無し。これを約して以て実に命(な)づけ、約定まりて俗成る、これを実名と謂う」(荀子)とあります。言葉にはもともと実体をさす働きはない。言葉が先にあって、実体が生まれたのではない。約束事として、実体に名前を付け、その約束が習慣化して、実体に対する名前になるのである。これを実名、物の名前というのであると解されます。ここでは、実体という物が、人の意識とは独立して在り、名前、つまり概念は、長い間かかって、いろいろな場所で、人々の生活の中で、形成されてくるという点に留意しておく必要があります。概念の形成にとって、人々の積み重ねられた営為、すなわち実践は欠かすことが出来ないということです。
公孫竜の名実論は、「名は実の謂いなり」(公孫竜子)に集約されます。言わんとするところは、天地の生み出すのは物である。物は人の意識とは別のところに、あるいは独立して存在している。名あるいは概念とは、客観的に存在している物あるいは実体を意味するということです。「公孫竜の論理を、きちんと受けついで発展させていく人がいなかったのが、非常に残念である。もし正当に継承していったら、言語学、意味論、論理学、あるいは弁論術などにおいて、古代ギリシャに匹敵する成果を得ることができただろうに」(江連 隆)と評価されるところです。なお、言語学、意味論、論理学、あるいは弁論術などとありますが、ここでは論理学、認識学、弁証法と読み変えて理解することとします(このことについては後で言及するつもりです)。
韓非子は、「刑名審合」を主張します。ここでの刑とは刑罰ではなくて、「仕事・行為」などの形あるもの、あるいは実体、名とは「言葉・発言」などの形のないもの、概念的なものを指します。刑名審合とは、形と名の一致を厳しく求めることです。
たとえば、君主は臣下の「言葉」に対して「事」を与え、その事についての「功」を要求する。功が事に一致し、事が言葉に一致するか否かによって賞罰を下す。言葉と事と功の関係について言えば、事例が多ければ多いほど刑名審合は正確かつ厳密なものになる。韓非子の刑名・形名論の根底には、いわゆる帰納法による実践の重視という考え方があります。
以上、中国古代の諸子百家における、名前と物についての考え方を簡単に見たわけですが、ここでは、「実」とは頭の中で思い浮かべた物ということではなくて、人の脳髄とは関係なく存在している物、実在している物と理解しておきます。「名」とは物に付けられた名前、実の反映、これを概念と呼んでおきます。さらに、概念が実在している物をより正確に反映すると言うことでは、荀子、韓非子に見られた実践という観点を重視しておくことにしましょう。次は、概念そのものが、どのように形成されてきたのか、くるものなのかを見ていくこととします。
老後は、若き時より、月日の早き事、十ばいなれば、一日を十日とし、一月を一年とし、喜楽して、あだに日をくらすべからず。
養生訓、貝原益軒
モクサイ通信№19(2000.10)
NO.19 2000.10.05
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638
第21回モクサイを語る会まとめ1、日時 平成12年9月1日(金)
6:30
2、場所 川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
田原哲三、柏木恒彦、斉藤房一
実川嘉一、山口先生、今関弘道
(1) 総体として
「我が門に入る者、深くこの意を絶ち(p39の 3行目~吾も人も赤面すべき(p40の20行 目)」(今関弘道)を終了させた。
(2)語句と意味
o胡氏(p35の9行目):胡安国ではと柏木さん、田 原さんよりも名前が出されたが、漢字と読み方が 分からない。引き続き検討。
胡氏については、今関さんと房一君が調べること になっていますが、山口先生が貸してくれた『総 濱所聞』で梅沢氏が胡氏を胡五峰として書いてい ました。そこで本日、旭の図書館に行って朱子学 体系で確認をしたところ、胡五峰(胡宏)に朱子 が答えた書があり、また、胡五峰自体の書もその 中にありました(曾子の声が糸のように・・・は 見つけられませんでした)。胡五峰は1155年に 亡くなっていますが、活躍した時期は朱子に重 なっています。梅沢氏は彼の「胡子知言」を読ん でいますし、朱子学体系でもある程度のページを 割いている人物ですので、多分、胡氏とは胡五峰 でしょう。田原さんが言っていた胡エンは993~ 1059で、朱子よりも前の時代の儒学者です。安定 先生と呼ばれ、安定学派の祖、朱子学の先駆者で す。尚、胡五峰は胡安国の末子。 ところで、山口先生から借りた本は、冬至文も梅沢氏 が書いたので比較的に読みやすく、以前解読時に自分 が犯した誤謬も散見しました。また、梅沢氏自身が 「未詳」「未審」としている箇所がいくつかあり、そこ は当然に私たちが問題としたところであって、彼も悩 んだんだと面白く感じました。
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):次会に おいて再検討のこと……次会においても検討のこと。
o尹彦明(p38の11行目):伊勢長島藩の唐崎彦明
またまた 大発見!!
「直方先生の、尹彦明が母の為に経を讀むは・・・」や 「尹彦明は印子の蚤・・・」の『尹彦明』について
我々は、伊勢の唐崎彦明と考えていましたが、尹彦明 はその名前で存在していました。「インゲンメイ」と でも読むのでしょうか?以下の通りです。
尹彦明・・・尹和靖。名は「火偏に享」。1071~1142。 程伊川の高弟。紹興の始め祟政殿説書兼侍講。当時金 との和議に反対し、学問は程伊川の敬を継承して著し く主体的。『伊洛淵源緑』『宋元学案』同『補遺』朱子 文集を読んでいたら、上記の注がありました。そし て、その中に彼の、「窮理性を尽くし以って命に至る」 の引用がありました。
永田養庵が韓愈(張子の虎)と尹彦明(印子の蚤)とを比較しているのだから、唐崎彦明では少し荷が重いと思います。よって、上記尹彦明が良いのではな いでしょうか?
以上前々回までのまとめについての補足。
o「博文約礼」(p39の6行目): ひろく学問して事の 理をきわめた上、礼を以てこれをしめくくり実行する こと(雍也)。
o「己れが為に」(p39の6行目):「子の曰く、古の学 者は己れの為にし、今の学者は人の為にす」(憲問)。
o「韓退之」(p39の11行目):韓愈の別名。
o「永田養庵」(p39の11行目):闇斎門下
o「印子」(p39の11行目):舶来の純金。明から輸入 され、豊臣秀吉・徳川家康らの貯蔵金となった。
o「義丹庄内」(p39の13行目):和田義丹、鈴木荘 とも酒井修敬の世話で迂斎に師事。上総道学の草 分け、義丹は八子の中には入らない。
o「中野順斎」(p39の14行目):迂斎の弟子、後モ クサイに師事。
o「今は京極候が御二男の」(p39の16行目):具体 的にどういうことか、要検討。
o「孔子の弟子に」(p39の20行目):誰を指すの か、一般的に云っているのか、要検討。
o「違った薬は」(p40の4行目):あわない薬は
o「なぐりて」(p40の13行目):手を抜く(広辞苑)
o「片へらを気質と」(p40の14行目):傍片(かた へら)。気質…本然の性・気質の性
o「全備」(p40の17行目):完全にそなわること。 不足なく十分であること。
城下の盟(ちかい、めい)
(春秋左氏伝)
敵軍に城下にまで攻め込まれ、その占領下で結ぶ屈辱的な講和の条約。前700年、楚は湖北省の絞の国をせめ、城から出てこない絞軍を、計略をもって城内に進入し、攻め落とした上で、屈辱的な講和を結ばせた。
敵に首都の城下まで攻め入られて結ぶ講和の約束。
懇親よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。
天高く馬肥ゆる秋、天高くして塞馬(サイバ)肥ゆともいいます。秋は空が澄み渡って高く晴れ、馬は肥えてたくましくなります。遊牧民族は、秋になると頑張る。
灯火親しむ候、灯火親しむべし[韓愈、符読書城南詩「灯火稍可親」] 。秋になると涼しくなり夜も長くなって気分がすがすがしく、灯火の下で読書するはいい。われわれは、遊牧民族ではないし、韓愈ではないけれど、そんな気分になります。
まずは、冬至文モクサイ講義録、読み下し文を作るのが基本か。そして、講義録をよりよく理解するためにも、関連することごとを学ぶことが必要なのかと思います。入り口としては、基本的にはモクサイ講義録だけれども、われわれも五十年前後生きてきたわけだから、自らの関心の所在ともうまく連結させて、間口を広くしていったらいいと思います。
次回開催日程
1、日時 平成12年10月6日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「佐藤子卒して」(p41の1行目)~「嘆ぜね ばならぬ(p43の4行目)」(土屋幸恵)
(2)「峻門風」(p43の4行目)~「第一の見所」 (p44の14行目)」(実川嘉一)
4、第五講関連レポート
準備が整い次第
5、次回レポーターの確認
6、その他必要なこと
7、懇親会
「おまえは、いまにきっと、人さまからさんざんにしかられますよ。」と、お母さんは言いました。「ちいさい時、よくわたしの前かけをふみつけたけれど、大きくなったら、わたしの心をふみつけはしないかと、それが心配だよ。」(アンデルセン童話集、パンをふんだ娘)
「今日もわれらに日々のパンをあたえたまえ、のあと、おまえは、なんて言ったの?」─「おかあさん、おこらないでね!」と、小さい女の子は言いました。「あたしね、こうお祈りしたのよ。そして、パンの上にたくさんバタをつけてくださいましって!」(アンデルセン、絵のない絵本)
懐沙(抜粋)
孟夏は滔滔として 草木は莽莽たり
傷懐永く哀しみ いそぎて南土にゆく
まばたきしてみれど杳杳として
はなはだ静かにして幽黙す
o懐沙…沙(すな)や石を懐にして、投身 すること(通説)。史記によれば、辞世の 詩。
o孟夏……はつなつ
o滔滔……陽気の盛んなこと
o莽莽たり……草木の勢いよく茂ること o傷懐永く哀しみ……自らを傷み思い、尽 きせぬ悲しみを懐きながら
o杳杳として……広々して果てしない
o幽黙す……ひっそりと静まり返っている
白を変じて以て黒と為し
上を倒(くつが)えして以て下と為す
鳳凰はかごに在り
鶏と鶩(かも)とは翔(かけ)り舞う
玉と石とを同じく糅(まじ)え
一つのますにて相量る
儒学・道学の基本的概念と哲学上の観点について
概念(コンセプト)とは何か(2)
感覚・知覚→表象→概念
感覚とは、外界の対象物、例えばリンゴの赤いという性質、円いという形態を五感(視覚、聴覚、視覚、嗅覚、味覚、触覚)を通して感じ取る作用です。言葉を換えて言えば、外界の対象物(例えばリンゴ)の一側面(赤いとか円いとか)の、われわれの感覚器官に対する反映といえます。知覚とは、リンゴで言えば、赤くて、円くて、いい香りがして、甘くて、酸っぱくてという、リンゴの多側面、まとまった一つのリンゴとしてとらえる作用です。感覚と知覚の間には、経験の積み重ねというか、実践というか、そういったことが必要です。
宮川 実は次のように言います。「感覚は、一つの外的対象の個々の属性(形、色、味、堅さなど)や、外的対象の一側面の、人の意識(脳髄の産物)への反映である。人の意識から独立して存在する自然(外的対象)は、人の感覚器官(眼、耳、皮膚、口、鼻など)を通して、「感覚」(視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚など)を呼び起こす」。「知覚とは、一つの外的対象について、感覚が総合され、あるまとまったものとして意識のうちに反映されたものである。知覚の段階において反映された外的対象、たとえばリンゴの色、香り、味、重さといった、個々の属性、個々の側面の映像は総合され、リンゴという一つのまとまった映像として反映されてくる。「感覚と知覚とは、客観的世界を直接に反映する主観的映像であり、客観世界に対する科学的認識の出発点である」。
これらのことについて、レーニンは次のように言っています。「感覚を通じる以外には、われわれは、もののどんな形態についても、運動のどんな形態についても、何ごとも知ることができない」。この言葉の意味合いについては、良く玩味しておく必要があると思います。
ここで確認しておくべきことは、感覚・知覚とも外界の対象物の、われわれの五感(ないしは脳細胞、意識と言ってもいいと思う)に対する反映であるということ。そして、感覚と知覚に間には認識のための経験、実践が欠かせないと言うことです。(つづく)
モクサイ通信№20(2000.10)
NO.20 2000.10.27
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638
第22回モクサイを語る会まとめ
1、日時 平成12年10月6日(金)
6:30
2、場所 川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
田原哲三、柏木恒彦、斉藤房一
土屋幸恵、山口先生、今関弘道
(1)「佐藤氏卒して」(p41の1行目)~「嘆ぜねば ならぬ(p43の4行目)」(土屋幸恵)
(2)「峻門風」(p43の4行目)~「するから云い たぞ」(p43の20行目)」(土屋幸恵)
以上を終了させた。
(3)モクサイ忌(ないしはモクサイ聖誕祭)が、11 月27日頃成東町教育委員会主催で開催されるむ ね、山口先生からお話があった。このことについ ては、モクサイを語る会として参加すること、お よび田原さんが代表として会の活動内容を報告す ることを決めた。連絡は、追ってky教育委員会 からなされる予定である。
(4)モクサイを語る会の会場を、近い将来実川嘉一 宅(はなれ)に移すことについて話し合われ、参 加者全員異存はなかった。会の活動をより効率的 (拠点的)にすることが目的である。次会以降さら に詰めていく。
(4)語句と意味
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):留意事 項として残しておく。
o「今は京極候が御二男の」(p39の16行目):要 検討。
o「孔子の弟子に」(p39の20行目):顔淵、曽子 ということで一致。
o「卑陋」(p41の2行目):いやしいこと。品性・ 行為が下劣なこと。下品。
o「表章」(p41の3行目):広く世間に知らせる
o「山中に暦日無く」(p41の5行目):唐詩選、太上 隠士の作。
o「要助貴老」(p41の6行目):大原要助、大網柳橋。
o「手嶋」(p41の20行目):手嶋堵庵、心学者。
o「洪範」(p42の3行目):書経周書の編名。儒家の 政治道徳の基本法則に基づいて述べた政治哲学の書。
o「五福」(p42の3行目):[書経洪範] 人生の五種 の幸福、すなわち寿命の長いこと、財力のゆたかなこ と、無病なこと、徳を好むこと、天命を以て終ること。
o「白徒」(p42の6行目):学んでいない人
o「捨ふたより」(p42の13行目):拾ふたよりの誤り
o「幸田」(p42の14行目):幸田子善
o「放曠」(p43の6行目):あけひろげ
o「見台」(p43の3行目):書物をのせて読むための 台
o「するど」(p43の10行目):鋭いこと
o「其の心に生じて其の政に害あり」(p43の11行目): 出典は? 土屋さん調べてみるとのこと。
o「王覇」(p43の11行目):王道と覇道
o「蟻通の明神」(p43 の20行目):蟻通神社という
懇親よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。
モクサイのホームグランドを、トサキのカイッチャンの離れに。もと実川清組合長のすみか?!……そこには、共通の財産としての「読み下し文」(未定稿)があったり、各自が提起したレポートの整理されたものがあったり、参考資料があったり、もしかしたらパソコンがあったり、スコッチがあったり、シェラフがあったり、着想としてはいいと思うね。差し当たってのハードルは大掃除か、その点は楽観してもいいのかも。一事が万事、車の中は割合に整頓されています。少なくとも、小生の車内環境よりは、おそらく過ごしやすい。こうご期待かな。
次回開催日程
1、日時 平成12年10月27日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「其のとがめを」(p44の1行目)~「第一の 見所(p44の14行目)」(実川嘉一)
(2)「講餘 微笑曰」(p44の15行目)~「甚別 也」(p46の10行目)」(柏木恒彦)
4、第五講関連レポート
準備が整い次第
5、次回レポーターの確認
6、その他必要なこと
7、懇親会
肩を比(なら)べ、踵(くびす)を継ぐ
(晏子春秋)
斉の晏嬰(あんえい)と呉の霊王。身体が小さく、風采のあがらない晏嬰に対して、霊王が、斉には人なしかという問いかけたに対し、晏嬰は、斉の都臨では、私のようなものより、もっと立派な人で、あふれんばかりだと答えた故事。
「臨は三百閭、袂を張れば陰を成し、汗を揮えば雨と成る。肩を比べ、踵を継ぎて在るに、何すれぞ人無しと為すや」
(補遺)屈原の作品について
今まで屈原の詩をいろいろ見てきた。屈原の作品は、凡そ次のように分類されている。
o楚辞
「楚の文章」の意。 楚の屈原の辞賦とその門下および後人の作とを集めた書。漢の劉向(リユウキヨウ)編という。楚の叙情的韻文、長江中流一帯に起こった文学。創始者は屈原、北方文学「詩経」とは異なる文学的特質を示す。北方の歌は暗く、鈍重、泥臭い色彩を帯びているのに対し、南方の歌は、空想的、新鮮で激しい感情、奔放激烈、華麗・絢爛かつ荘重な言葉で歌う。憂愁の詩人屈原の天才と、南方楚の国の風土、情熱といったものとの結合。詩の形は楚の国の民歌を発展させたといわれ、詩経よりもはるかに複雑、多様である。楚辞の中には、屈原のほかに、弟子の宋玉、唐勒、景差などの作品が収められている。後漢の王逸が自作の「九思」を加えて一七巻とする。詩経と並んで中国古代の二大詩集とされる。
o離騒
「離」は遭う・罹る、「騒」は憂いの意。楚の屈原の作った辞賦。生い立ちから始まり、讒(ザン)によって楚の朝廷から逐われ、失意の果て汨羅(ベキラ)に投水する決心をするまでの、煩悶の心境、無限の憂愁を神話・伝説・歴史上の人物、山川草木、動物に託して述べた。故国を思う熱情と理想世界との葛藤、儒家的発想と道家的発想の相克、375句からなる自伝的長編叙情詩。修辞は優美、楚辞の中の最高の傑作といわれる。
o天問
宇宙の混沌、天地の創造・開闢、三皇五帝時代の神話伝説にいたる、疑問を提起して天に問う。放浪中の屈原が、廟壁の神怪故事をみて、その疑問を天に問うたとも、楚の国の神に捧げる歌を屈原が改作したものともいう。
o九歌
楚の国に古くから伝わる祭神舞楽に、屈原が手を加えたもの。十一の短編よりなる。雲中君(雲の神)、湘君(湘水の男女神)、河伯、山鬼、巫山の神など
o九弁
宋玉は、楚の大夫で屈原の弟子といわれる。頃襄王に仕えたが認められず、才を懐きながら志を得られず、鬱々とした心情を歌い上げる。九弁は、秋の悲愁に託して、世にいれられない悲憤を歌う。憂愁の内に死んだ屈原を悼む歌ともいわれる。
o九章
短い自伝的ないし自序的叙情詩。後人の作という。
o招魂
屈原が生きていたときの魂を招いたところの一種のレクイエム(鎮魂歌)。多くの文学化が加えられている。屈原と宋玉作の二説がある。
o遠遊
放逸の楽しさを歌う。後人の作という。
o卜居
秦・漢の後人の作という。
o漁父
秦・漢の後人の作という説が有力。放逐されて南方をさまよう屈原が、隠者らしい老漁師と交わした対話体の散文詩。
o大拓
楚王家伝のレクイエム(鎮魂歌)という。
儒学・道学の基本的概念と哲学上の観点について
概念(コンセプト)とは何か(3)
感覚・知覚→表象→概念
本棚の隅に、「数学の世界」(遠山啓、大月書店)という文庫本が、ほこりをかぶってありました。第一版は1974年、相当に古いものです。僕は数学は苦手と云うことになっているのだけれど、次のようなことが書きつけられています。
「数学は他のどのような科学にもまして型の科学であり、形式の科学なのである。そのことは多くの人が一致して承認するであろう。しかし、その次にくる問題になると意見は大きく二つに分かれる。それは、数学が研究の目的とする型や形式は現実の客観的な世界とどうかかわり合うかという問題である」。
この設問に対する第一の答えは、「数学が取り扱う型は経験とは無関係に人間の精神の中に生まれながらに備わっているもので、人間はそのような型を客観的世界にあてはめて雑多な経験を整理していく」として、ドイツの数学者クロネッカーの『1、2、3、4……という自然数は神が創って人間に与えたものである』を例にあげています。
第二の答えは、「数学という学問の貯蔵庫には無数に多くの型や形式がたくわえられているが、どれひとつとっても、その究極的な基盤は客観的な世界の中にある」です。遠山啓は、第一の答えを「神から与えられたものなら子どもたちは計算ちがいをするはずはないし、第一に数を教えてやる必要させない」として、現場の小学校の先生は、第一の答えを容易に信じないだろうと云っています。そして、「原始人からエジプトやバビロニアなどの古代国家までの数十万年のあいだに、あたかも雨だれが石をうつようなゆるやかさで、眼にみえない連続的な進歩のつみ重ねによって、1、2、3、4……という正数の概念がつくり出されたのであろう」とも云っています。
引用が長くなったけれども、ここで確認しておくべきことは、一つは「人間の精神」からは独立したところの「客観的な世界」が在るということ、一つは、われわれの感覚・知覚は、この客観的な世界の反映であるということです。ここで、レーニンの云う、「感覚を通じる以外には、われわれは、もののどんな形態についても、運動のどんな形態についても、何事も知ることが出来ない」というテーゼが生きてくるように思います。それともう一つ、1、2、3、4……という自然数の概念が形成されるまでには、数十万年の時間が要されたという著者の指摘です。これは「感覚と知覚の間には、認識のための経験・実践が欠かせない」(前号)の別の表現として受け取ることが出来ます。
これから、感覚・知覚→表象→概念と、客観的世界の認識を段階的に見ていこうと思うのですが、第一階梯としての「感覚→知覚」の段階でも、この間の「経験・実践」の重要性変わらないと思います。
追伸
第一の答えと第二の答えは、われわれが物事を判断したり評価するときの大前提になると思います。例えば、孔子の天とはどういうものなのか、墨子の天は、荀子の天はというような場合です。同じことは、朱子の理と気、陸象山の理と気、王陽明の理と気についてもいえます。
秋の七草
秋の野に咲きたる花をおよび折りかき数ふれば萩尾花葛撫子女郎花藤袴朝顔の花
モクサイ通信№21(2000.11)
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638NO.21 2000.11.16
第23回モクサイを語る会まとめ
1、日時 平成12年10月27日(金)
6:30
2、場所 川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
田原哲三、柏木恒彦、斉藤房一
土屋幸恵、山口先生、今関弘道
(1)「其のとがめを」(p44の1行目)~「第一の 見所(p44の14行目)」(今関弘道)
(2)「講餘 微笑曰」(p44の15行目)~「甚別 也」(p46の10行目)」(柏木恒彦)
以上を終了させた。
(3)モクサイ忌(稲葉黙斎顕彰行事)は、11月26日、成東町民俗資料館で開催されることに決定。行事内容は、受付が午前9時30分、資料展示は民俗資料館で、講演は伊藤左千夫生家で行われる。講師は田原さん。講演終了後、有志による墓参り(元倡寺)も予定されている。モクサイを語る会として参加することは、前回確認済み。
(4)語句と意味
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):留意事 項。
o「今は京極候が御二男の」(p39の16行目):京 極候は丸亀藩主。
o「其の心に生じて其の政に害あり」(p43の11行 目):出典は。土屋さん調べ?
以上前々回までの事項
o「心術」(p44の1行目):管子七法「実也、誠也、 厚也、施也、度也、恕也、謂之心術」] こころだて。 こころばえ。
o「にんにく」(p44の2行目):忍辱、もろもろの 侮辱・迫害を忍受して恨まないこと。
o「闢く(ひらく)」(p44の3行目):弁駁(べんぱく) する
o「徳」(p44の4行目):善い行いをする性格。身に ついた品性。人を感化する人格の力。
o「司馬温公」(p44の5行目):北宋の政治家・学者。 字は君実。拠水先生と称。山西夏県の人。神宗の時、 翰林学士・御史中丞。王安石の新法の害を説いて用い られず政界を引退、力を「資治通鑑」の撰述に注いだ。 哲宗の時に執政、旧法を復活させたが、数ヵ月で病 没。太師温国公を賜り司馬温公と略称。文正と諡。 (1019~1086)
o「草履」(p44の5行目):読み。
o「貝原久兵衛」(p44の7行目):貝原益軒のことか。
o「貝原久兵衛がくはえをつくること」(p44の7行 目):加え。序、追加。基本的な文書に対して、藤門 は解釈することを戒める。
o「京めぐり、日光めぐり」(p44の8行目):留意事 項、内容については関連文書があると思われる。
o「当春よりの出席にて、此(かく)如くに」(p44の 11行目):読み。
o「此の様なること」(p44の12行目):読み。
o「申し遣る候べき」(p44の13行目):読み。
o「今是昨非」(p44の14行目):帰去来の辞の一節。
o「昨非」(p44の14行目):今迄の悪かったことがら。o「望み」(p44の14行目):うらみ、にくみ
o「洪範」(p44の6行目):書経周書の編名。儒家の 政治道徳の基本法則に基づいて述べた政治哲学の書。
o「文七」(p44の16行目):高宮文七。東金市押掘の 人。黙斎門下。
o「重次郎」(p44の19行目):中田重次。十二とも。 東金市堀上の人。黙斎門下。~1798。
o「凡夫の水ばなれせずに」(p45の1行目):俗人が 親から離れられず、自らの気質から離れられず。
o「習合」(p45の9行目):相異なる教理などを折衷・ 調和すること。
o「湯武の放伐」(p45の12行目):湯王は夏の桀王を 滅ぼして殷を開いた。武王は殷の紂王を破って周によ る天下統一を行った。
o「靠傍(こうぼう)」(p45の13行目):傍らにもた れかかって来るという、根底にある意思、気持ち
o「旧に依りて」(p45の8行目):読み。
o「二箸」(p45の10行目):二等の誤り。
o「蓋蔽(がいへい)」(p46の1行目):おおうこと。
o「劉子澄」(p46の2行目):諱は清之。朱子の門 に学びその指授を受け『小学』を編纂した。
o「来諭(らいゆ):」(p46の2行目):他人から 言ってよこした言葉の尊敬語。来命。
o「庸人」(p46の3行目):平凡な人、俗人
o「符読書城南一篇足る」(p46の3行目):留意事 項。このような文がどこかにあると考えられる。
o「 駿臺雑話」(p46の7行目):随筆。室鳩巣著。 五巻。一七三二年(享保一七)成る。見聞にこと よせて道義と学問とを説いたもの。
o「過ち耳」(p44の14行目):あやまちのみ。読み。
よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。懇親
山口先生に来ていただいて、これで二ヶ月、いや三ヶ月かな。適切な助言、文献の所在、助けられています。僕ら、霧の中を手探りで歩っているようなもの。それに健康そう、八十を越えて、酒など飲んで語り合えることが、僕らの望みです。先生は八十には間があるけれど。継続は力なり、カイッチャン二度ご無沙汰、少なくても当日分の読み下しはやっておいて下さいね。「モクサイもみんなで渡ればこわくない」(詠み人知らず)。戸辺さんが少し気にかかります。日々に疎しという言葉があるけれど、お互いに死んだわけではないからね。電話してみよう。
易水送別の歌
風蕭蕭として易水寒し
壮士ひとたび去って復た還らず
(史記) 燕の太子丹、秦王政の暗殺を荊軻に以来。折しも、秦は趙を破り燕の国境に迫る。荊軻は自ら秦の亡命将軍樊於期(はんおき)を尋ね、秦王を刺す機会を得るために、首を求める。いよいよ出発、燕南部の地図と樊於期の首を携えた荊軻を、丹らは易水まで見送る。荊軻は友の高漸離に筑の演奏を請い、自ら歌う。荊軻は歌い終わると、車に飛び乗り、そのまま去った。
次回開催日程
1、日時 平成12年11月24日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「追加」(p46の11行目)~「彼是れ云うと笑 わん(p48の20行目)」(田原哲三)
(2)「此度冬至文」(p49の1行目)~「巻尾に書 く」(p50の10行目)」(斉藤房一)
4、第五講関連レポート
準備が整い次第
5、次回レポーターの確認
6、その他必要なこと
7、懇親会
社稷の臣
国家の安危に任ずる臣、景公と晏嬰のやりとり。社稷とは土地の神と五穀の神のこと、王宮に必ずまつられたので、転じて国家の意味となった。
樽俎折衝(晏子春秋)
「樽俎(そんそ)の間を出でずして 千里の外に折衝すとは 晏子の謂なり」(論語)。外交折衝によって、有利な地歩を得ること、敵の攻撃を退けること。晋の使節苑昭と晏嬰(あんえい)…。
晏子の御(史記)
虎の威をかる狐。卑しい地位にありながら、主人の威を借りて得意げな者をいう。晏子が出かけるとき、御者の妻がそっと見ていると、夫は馬に鞭打っていかにも得意そうであった。夫が家に帰ったとき、妻は「晏子は身の丈五尺もないのに、その名は天下にとどろき、でも得意そうな様子はない。あなたは身の丈八尺もありながら人の御者となり、それに満足して得意然としています。私はお別れしたい」といって離縁を求めた。そこで御者は態度を改め、後に太夫にまで出世したという故事。 晏嬰は、斉の霊公・荘公に仕え、景公の時に宰相に登用され、名宰相の名をほしいままにした。孔子の尊敬した先輩政治家の一人。「晏子春秋」はその言行録。(―~前500)
儒学・道学の基本的概念と哲学上の観点について
これまで概念(コンセプト)とは何かと云うことで、おおよそ四つのことを見てきました。感覚と知覚、反映するところの客観的世界(人の意識とは独立してある外的対象ないしは存在、あるいは世界、自然、外界)、そして概念の形成に関わっての実践的経過の重視です。もう一度、確認しておくこととします。
(1)墨子や楊子の言葉を借りれば「利」ということになるか。人の住んでいる社会は、人の脳髄に利を反映させます。貧乏人と金持ち、奴隷と牧師、それぞれ置かれた社会的状況によって、利は異なるはずです。より一般化していえば、利という言葉には党派性があります。墨子や楊子の利は、孟子によって「君子を無(なみ)する」として叱られ、義理という言葉で混ぜっ返されてしまいました。彼らの云う利は、春秋戦国時代の混乱期、旧貴族に対抗したところの、商工業者、新興地主層をはじめとした生産階級の利を掲げたものと理解されます。
「社会的存在が社会的意識を規定する」という、古くて新しいテーゼ(命題)がありますが、認識論にもまた置かれた立場による違い、いわゆる党派性があります。唯物論的認識論と観念論的認識論の違いです。その分岐は何かといえば、客観的世界(外的対象)を認めるか否かと云うことです。このことは、概念の形成、すなわち思惟の科学である認識論をめぐっても、果ては世界をどう解釈するかという哲学をめぐっても、はじめから終わりまでついてまわる問題です。ここでは、見ての通り、「認める」という立場からスタートしています。
(2)以上を踏まえて、感覚とは何かをもう一度見ておきましょう。感覚とは、客観的世界(外的対象)における個々の属性、あるいは側面の、人の脳髄への反映です。リンゴという外的対象を取り上げてみるならば、目で見れば赤い、かじってみれば甘酸っぱい、嗅いでみればかぐわしい、さわってみれば堅い、耳に押し当ててみれば何も聞こえない。この場合、「赤い、甘酸っぱい、かぐわしい、堅い、何も聞こえない」ということは、リンゴという外的対象が有している、属性あるいは側面の反映と云うことになります。五感全て不自由な人が、初めてリンゴに向かい合ったとして、脳髄には何も映じてこないでしょう。だからといって、リンゴは存在していないと云うことではなくて、意識とは独立して存在していると云うことです。感覚とは、外的対象の、あるいは外界の人の脳髄への反映、認識の第一歩です。
(3)知覚とは何かと云うことですが、感覚のように客観的世界(外的対象)の個々の属性や、個々の側面の脳髄への反映ではなくて、「一つの有る瞬間における一つのまとまった映像」(宮川実)です。マイペディアでは、「リンゴに対して、赤い、冷たい、なめらかといったさまざまな性質が感じられるが、これが感覚であり、それに対して、赤いリンゴというように対象を統一的・全体的にとらえることは知覚作用だとされる」と解説されています。広辞苑では、「感覚器官への刺激を通じてもたらされた情報をもとに、外界の対象の性質・形態・関係および身体内部の状態を把握するはたらき」とされています。いろいろ言い方はあるけれども、ここでは知覚とは、外的対象(例えばリンゴ)の持っている、統一的・全体的属性(性質)の、人の脳髄への反映としておきましょう。
なお、感覚と知覚の関係については、「感覚は理論上想定された抽象物に過ぎず、意味を持った知覚こそが、経験の基礎となるというのが現代哲学の大勢である」(マイペディア)という見解もありますが、ここではふれないことにします。感覚とは、外的対象の人の脳髄への反映であることが確認されれば、それで事足ります。感覚を踏まえて、知覚が形成されると云うおもむきで書いたけれども、それでも差し支えないと思われます。感覚=知覚、それはそれでいい。
(4)認識論において、実践の位置づけは欠かせない。このことについては、感覚から知覚へというように段階的にとらえた場合もそうですが、表象の形成・概念の形成という段階で大いに問題になります。実践の位置づけについては、その時に詳しく見ることにして、ここでは先に引用した遠山啓をあげておきます。いろいろな意味合いにおいて参考になります。「人間は幾何学的形態を自然そのもののなかから借りてきた。月の円形と鎌形、湖の平面、光あるいは形のよい樹木の一直線は人間よりもずっと以前から存在し、たえず人間のまえにその姿をあらわしてきた。もちろんわれわれは、自然そのもののなかではかなり厳密に真直な直線や、まして三角形や正方形になるとまれにしか出合わない。人間がこれらの図形をつくりあげてきたのはなによりもまず、人間が自然を積極的に理解し、自分の実際的な必要をみたすためにますます正則な形をもつ物体をつくってきたからであることはあきらかである。人間は、自分の住居をつくり、石を切り出し、土地の一部を垣根で囲み、自分の弓に弦を張り、土器をつくり、それを改良し、こういうふうにしてそれぞれ、土器は円いとか、ピンと張った弦は直線であるとかいう概念をつくりあげた」(数学の世界)。数学が、あるいは幾何学が型の科学、形の科学であるとして、その「型・形」は本来的には、客観的世界(外的対象)に依拠していること、そして「型・形」の発展は、社会的実践に依拠していることが、大まかではあるけれど、理解されると思います。
もう一つ、春秋戦国時代、名家の公孫竜は、「天地とその存す所」として客観世界を認め、天の主宰者など認めず、本格的な認識論のスタート地点に立つことが出来たにもかかわらず、客観世界の実像に迫ることは、人間の能力を超えるものとして、世界の認識可能性を自ら閉ざしてしまいました。同じようなことは、道家の老子、荘子にもあてはまります。おそらく彼らも客観世界を認めていたと思うのだけれども、「真の世界」を把握するには、人間の直観以外にないとしました。時代の制約は大きくあったにせよ、実践を契機としての、人の認識の発展と深化、思惟の科学として名実論(認識論)をとらえきることが出来なかった。つまりは、客観世界の運動、外的対象相互の連関、これを追求する視点を欠いていたからだと思います。
モクサイ通信№22(2000.11)
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638
Eメール yv5h-imzk@asahi-net.or.jp
第24回モクサイを語る会まとめ
1、日時 平成12年11月24日(金)
6:30
2、場所 川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
田原哲三、柏木恒彦、斉藤房一
土屋幸恵、実川嘉一、山口先生
今関弘道
4、ふりかえり・おさらい
(1)「追加」(p46の11行目)~「彼是れ云うと笑 わん(p48の20行目)」(田原哲三)
(2)「此度冬至文」(p49の1行目)~「巻尾に書 く」(p50の10行目)」(斉藤房一)
以上を終了させた。
(3)モクサイ忌(稲葉黙斎顕彰行事)は、11月26日、 成東町民俗資料館で開催。講師は田原さん、盛会 でした。終了後、元倡寺に黙斎のお墓まいり、そ れからスシクニで懇親会、桜木さんと女性のお弟 子さん二人、田原さんのおじさん、無論山口先生 も。まとまりよければすべてよしです。
(4)語句と意味
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):留意事 項。
o「其の心に生じて其の政に害あり」(p43の11行 目):出典は。土屋さん調べ?
o「京めぐり、日光めぐり」(p44の8行目:留意 事項
o「符読書城南一篇足る」(p46の3行目):留意事 項。このような文がどこかにあると考えられる。
以上前々回までの事項
o「鵜沢恭節」(p46の11行目):鈴木恭節。通称は長 蔵。黙斎門下。寛政元年(1789)、黙斎の推薦で館林 藩主松平侯の儒臣となる。1762~1830
o「附録」(p46の12行目):冬至文附録「凡そ七道」 を指す。
o「天木」(p46の13行目):天木時中。通称は善六。 三十三歳の時に佐藤直方に入門するが、翌年に直方は 死去。その後、三宅尚斎に師事。1696~1736
o「小杉長兵衛」(p46の19行目):留意事項
o「同輩にあしらひき」(p46の20行目):同輩のよう に付き合う
o「土ごぼう」(p47の1行目):やまそだち?
o「遠遊紀行、再遊紀行」(p47の7行目):留意事項 ……(柏木レポート)黙斎の法事の際に、今関さんと 山口先生が、遠遊紀行、再遊紀行は奥平棲遅庵の編集 だとおっしゃいましたが、冬至文講義の第一回目であ る天明6年(1786年)に、遠遊紀行と再遊紀行が 既に奥平の手によって編集されていたのでしょうか? また、黙斎が講義において奥平の書を引用するでしょ うか?この二書を読んだことが無いのではっきりとは しませんが、一寸疑問が残ります。尚、奥平棲遅庵編 集の書の名前は、総遊話録、再遊話録です。
追伸 今関さん、奥平についての追加です。冬至文一 講は1786年に行われているが、奥平はその時17歳、 幸田子善に学ぶのが22歳、黙斎門に入ったのが25歳 である。以上から、遠遊話録は奥平のものを指すので はないと考えます。
o「沢一」(p47の10行目):大神沢一のこと、佐藤直 方門下。筑前の人。
o「一々覚えず」(p47の5行目):迂斎の話したこと を、モクサイは一々覚えていない
o「十左」(p47の 18行目):稲葉迂斎。通称を十左 衛門と称した。
o「書状に昨夜」(p47の20行目):読み。
o「義丹」(p48の4行目):和田義丹。下総酒々井の 人。迂斎門下。1694~1744
o「庄内」(p48の4行目):鈴木養察。上総姫島村の 人。迂斎門下。1695~1779o「風流」(p48の10行目):前代の遺風。聖人が後 世に残し伝えたよい流儀。
o「幸田」(p48の9行目):幸田子善。名は誠之、 善太郎と称す。江戸の人。代々の幕臣。迂斎門下で あるが後に野田剛斎にも学ぶ。1720~1792
o「あたまで」(p48の13行目):はじめから
o「丁度荀子が人相見をそしるを」(p48の14行 目):留意事項
o「呂東莱」(p48の14行目):名は祖謙。字は伯 恭。宋代官界で代々要職を勤めた家系。朱子の講 友。鵝湖の会の主催者。近思録の共同編纂者。 1137~1181
o「面り」(p49の5行目):読み方、留意事項
o「来たりて気質の底を帯び」(p45の1行目):講 席に出て弘毅の極致を自分に合わせて解釈する。 気質に任せて。
o「大学三綱八目」(p49の6行目):三綱は、明明 徳、新(親)民、止至善。八目は、格物、致知、誠 意、正心、修身、斉家、治国、平天下。
o「博文約礼」(p49の6行目):論語雍也27。ひ ろく学問して事の理をきわめた上、礼を以てこれ をしめくくり実行すること。
o一を廃せず都(すべ)て裏(うち)にあり」(p49 の7行目):一つとして廃するものがない
o「曾点」(p49の7行目):曾子の父。曾皙[そう せき]。孔子の門弟。
o「漆雕開」(p49の7行目):漆雕が姓、開が名。孔 子よりも十一才若い。
o「 柳下恵)」(p49の7行目):魯の賢大夫。
o「道体」(p49の8行目):道を担う、道に任じる、 道を体する
o「曲礼」(p49の8行目):細かな礼儀作法。それ を記した「礼記(ライキ)」の編名。
o「一善一得の活計」(p49の9行目):一つの善を 得て、一つの利得にするというようなとらえ方。対 応の仕方
o「陸沈を排擯(はいひん)す」(p49の17行目): 世間に姿を隠している俗儒を退ける
o「 陸沈」(p49の17行目):陸に沈む。転じて賢 人が俗世間の中に姿を隠していることの譬え。荘 子の言。
o「悃」(p49の18行目):まごころ
o「夜半一声の雷」(p49の18行目):朱子文集の 「袁機仲啓蒙を論ずるに答う」の中に、「忽然半夜一 声雷」とあり、悟りの機会を表している。
懇親よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。
この1年間を振り返って、モクサイを語る会はどうだったか。対外的にいえば、桜木さんを知ることが出来たこと、山口先生の参加を得ることが出来たこと、それに「稲葉黙斎顕彰行事」に参加したことがあげられる。この会を始めて2年半、蝸牛の歩みではあっても、それなりに社会的認知を獲得しつつあるということなのかな。意図してきたか否かを問わず、われわれにとっては大切なことのように思います。来年には、冬至文の定稿をまとめることが出来るだろうし、地域に対し、あるいはインターネットなどを通じて、外に向かって活動を広めていくことも、必要になってくるような気がします。与えよ、さらば求められん?か。こういった方面、自己評価すれば、まずまずなのかも知れません。
対内的にはどうだったのか。第一には、この1年間つつがなくモクサイを続けてくることが出来たこと、何より、奇跡的!とでもいうべきか。継続は力とか言った人がいたけれど、本当にそう思うね。大したものでした。第二には、アルコールの力も借りながら、みんなそろって年を越すことが出来ること。モクサイを語ることについての、われわれの関心、あるいは興味といったものが深まっているのかも。そうであれば、この上ないのだけれど。関連して第三には、モクサイを通して、儒学を通して、東洋思想あるいは哲学といったものに対して、いささかではあっても、われわれがなじんできたと言うことがあるのかも知れない。日々をいかに過ごしていくか、どのようにして生きていくか、このことは生きるについての哲学の問題にもつながります。格物致知ではないけれど、深く理解することは生き方にもつながっていくのだろうと思います。
以上、思いつくままに。来年、経済の見通しがどのようなものになるか分からない、凡庸な政治屋というか、われもわれものどたばた劇が、相も変わらず続くとは思うけれど、僕ら足下を見つめて、しっかり頑張っていきたいと思います。いい年を迎えましょう。
PS
稲葉黙斎顕彰会、山口先生のお誘いで参加できたけれど、そして僕も前段でちょっとモクサイを語る会の報告をしたけれど、田原さんの講演はよかった。率直で、くどくどしくなく、分かりやすかった。資料として、冬至文、黙斎先生冬至文講義および読み下し文、人名、稲葉黙斎先生姫島講義真蹟、諸君子小伝、大学章句、中庸章句、論語集注など、これは親切というもの、田原さんの人柄そのものという感じでした。少し前に仕入れたばかりのパソコンを駆使しての準備、ごくろうさんでした。
それに、カイッチャンを初め、柏木さん、房一さん、土屋さん、われわれも含めて6人の出席、よかったと思います。戸辺さんも予定はしていたのだけれど、生業との絡み、これは仕方がない。みんなで渡ればこわくはない、気持ちの励まされた、、黙斎顕彰会の一日でした。
垓下の歌
力は山を抜き 気は世を蓋う
時は利あらずして騅逝かず
騅は逝かず 奈何すべき
虞や虞や 若(なんじ)を奈何せん
(史記 項羽本紀)
「歌うこと数めぐり、虞美人もこれに和す。項王泣(なみだ)数行下る。左右のものみな泣き、敢えて仰ぎ見るものなし」(史記、項羽本紀)
虞美人の返歌
漢兵己に地を略(おさ)め
四方楚歌の声
大王の意気は尽きぬ
賎妾何ぞ生を聊(やす)んぜん
(楚漢春秋)
四面楚歌(史記)
項羽が垓下で劉邦に包囲されたとき、四方の漢の軍中から楚の歌声が上がった。劉邦が歌わせていたのであるが、其の歌声が降伏した楚人のものと思いこみ、もうほとんど楚の地が漢に降伏し、自分は孤立してしまったと項羽が嘆いた故事。孤立無援であること
抜山蓋世(史記)
「力は山を抜き 気は世を蓋う」。意気盛んで非常に勇ましいこと
垓下の戦い
韓信の勝利、黥布・彭越などの後方撹乱、漢中を拠点としての劉邦の持久戦という図式の中で、ひとまず天下二分の講和が結ばれた。しかし、劉邦は、張良・陳平の策を用いて楚を攻撃、陳平は謀略をもって項羽と范増の間に楔を打ち込み、垓下(安徽省霊璧県の南東)へと迫る。前二○二年、劉邦の軍は楚の項羽をこの地に包囲、羽は四面楚歌のうちに烏江に逃れて自殺、漢の天下統一が実現した。覇王別姫
京劇では名の知られた出し物のようです。最近二度ほどテレビで見ました。京劇そのものではなくて、京劇の世界を舞台にして、文化大革命を背景にした映画でした。垓下の歌を、半身裸で雪の降る中を、何度も何度も繰り返す子供たち。鞭を振り上げて教える親方、幹部。歌い方は、土屋さんのする詩吟によく似ていました。
項羽は、王道ではなく、覇道をまっしぐらに走り抜けたと云うことなのでしょう。
次回開催日程
1、日時 平成12年12月22日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「黙斎先生」(p50の1行目)~「云うたがよ い(p53の6行目)」(柏木恒彦)
(2)「朝鮮之」(p53の7行目)~「なんとして じゃ」(p56の7行目)」(今関弘道)
*冬至文は二講に入ります。
4、第五講関連レポート
準備が整い次第
5、次回レポーターの確認
6、その他必要なこと
7、懇親会
儒学・道学の基本的概念と哲学上の観点について
概念(コンセプト)とは何かということで、今回は認識の表象→概念への過程をたどるはずでしたが、ちょっと息切れ、お休みします。代わりに黙斎に関する若干のメモを準備?しました。よろしく。稲葉黙斎が荀子、手島堵庵を排撃することについて(メモ)
<荀子に対する批判>
(1)荀子に対する批判の論点については、講義文の中では必ずしも明確ではない。のっけから、相手にしないという扱いのようにみえる。
(2)柏木さんに聞いたら、李斯のことなどがあるからではないか。李斯は始皇帝の宰相、焚書坑儒に見られる思想弾圧の張本人、法家といえども儒家のはしくれ、断じて許せない、理はある。韓非子と李斯は荀子の門下、先生も責任は免れない。
(3)礼楽のとらえ方の問題があると思う。荀子は、礼楽を個人の道徳、君子の道徳の枠から解き放してしまった。荀子においては、礼楽は礼制→法制として発展させられるべきものであったし、この課題は韓非子により、論理を基礎においての集大成がなされた。子思、曽子、孟子という系譜においては確かに徳治主義が前面に押し出されていた。しかし、荀子も徳治主義を排除したわけではなかった。いわゆる徳治主義と法治主義を二律背反的にとらえるとしたら、それは形式主義というものである。。礼楽を講究して礼制に行き着いたとしても、それは時代におもねると云うことではない。問題は、礼楽の内容が時代に即してとらえられねばならないというところにある。黙斎と同時代に生きたエンゲルスは、自由という概念をとらえて、生産手段からの限りない自由であるといった。そして、自由と必然という命題を提起した。このようにしてみてみると、礼楽を礼制の方向に発展させたからと云って、必ずしも批判されるべきものではない。夏・殷・周から春秋戦国へと引き続く礼楽を、金科玉条としていたら、それこそ孔子の礼楽のとらえ方とは逆方向、時代を遅れて走らねばならなくなるだろう。述べて作らずどころの話ではなくなる。
(4)古学を標榜した荻生徂徠は、礼楽を礼制に変えてはばからなかった。幕閣に参加もした。宋学も科挙制度を背景にして、士大夫の学ぶべき学問であった。徳治主義だけを掲げていたのではなかった。道の担い手を、いわゆる学者に限ったモクサイ学は、どのようにして道統を発展させていこうとしていたのか。
(5)荀子のもう一つの側面は、諸子百家時代の学問の集大成者であり、世界観としては、外的対象としての自然を肯定していた哲学者であったというところにある。荀子は主宰者としての天、あるいは天帝という超自然の意思を否定した。このあたり、直方もそうだと思うけれど、「居敬窮理」を掲げたモクサイ学の立場の問題があるように思う。朱子学が必ずしも観念論的な哲学とは思わないけれど、居敬窮理の思想に限って云えば、観念論に傾斜しており、荀子の立場とは相容れないものがある。
(6)かつて韓愈は、異国の教えということはさておき、生老病死という余りにも個人的な問題を取り上げ、修己治人という天下国家の問題をないがしろにしているとして、仏教を激しく批判した。そして、道統と云う言葉は使わなかったけれど、儒学の学統を守るべきものとした。話としては明確である。モクサイ学は、道統を守ることによって、何をめざしたのか。聖人になることといっても、これは分かりづらい。修己治人は云うけれど、現実味はない。君側に侍るを潔しとはしないということであればなおさらの感を抱く。
<手島堵庵に対する批判>
(1)手島堵庵に対しては、彼の掲げる心学を、習俗の学として繰り返し、繰り返し批判する。いわゆる学者集団に対しては、聖人になることを目指せ、道統を守れ、重くても荷は捨てるな、死してのちやむ、異学に耳を傾けているいとまはないという。克己復礼、弘毅の心を持てとも云う。モクサイ学派の論理といってしまえばそれまでだけれど。
(2)心学は、平易な言葉、通俗な例えを以て、人の道、倫理を説く学問であった。その対象は、武士ではなくて、台頭しつつある市民階層であったとも言える。いわば、庶民教育、社会教育の先駆けをなしたということでもある。モクサイ学の対象が、中国の士大夫階級にのっとっての、武士、農民上層においていたのとは対照的である。手島堵庵の師である石田梅岩は、社会的職分を遂行するには、商人も武士に劣っていないと公言している。石田梅岩は、丹波の農家の生まれ、京都の商家に奉公した経験を持つ。手島堵庵は、京都の商人である。時代に対して、どちらが進歩的であったかといえば、やはり手島堵庵の方であったといわねばならないだろう。だとすれば、モクサイが心学に対しては、頭から相手にしないという対応は正しかったと云うべきなのかも知れない。何事も述べて作らずの精神である。
最近目にした幾つかの記事を参考としてあげておきたい。
<蒹葭堂遺文、夕陽妄語、加藤周一、朝日新聞>
「一方、蒹葭堂とその周辺の関心が、大阪の山片蟠桃、京の手島堵庵、九州の三浦梅園、東北の安藤昌益に向かっていたという証拠はないらしい。『サロン』はその意味で保守的であった。『光明の世紀』の『サロン』のすべてが新思想に対して開放的であったのではない。しかし、開放的な『サロン』もフランスにはあった。幕藩体制下の日本にはなかったということになろう。そこで保守的な、しかし洗練された、感受性と知識欲にあふれた日本の知識人たちは、どもへ向かおうとしていたのか。知的・芸術的な楽しみへ、すなわち一種の快楽主義へ向かおうとしていたように私には思われる」
*山片蟠桃(大阪)、手島堵庵(京都)、三浦梅園(九州)、安藤昌益(東北)という人に即した思想の流れは、いずれも哲学的には唯物論的な流れを形成していたのではなかったか(H.I)。
<思想の言葉追求したい、辻井喬、朝日新聞>
「日本の弱点は明治以後、地域の文化をダメにしたこと。文化的な伝統と断絶したことが、文学を弱くしたし、思想も伝統から切り離された。日本には、革命思想もあって、石田梅岩、安藤昌益から、大阪の町人のための学問所の懐徳堂にまでつながる。来年は、共同体と伝統について考えます」
<朱子の化石観、地球の歴史、湊正雄、井尻正二、岩波新書>
「東洋では、ダ・ヴィンチよりも200年あまり前に、ダ・ヴィンチにまさるともおとらない化石観が記録されている。たとえば朱子(1130~1200年)は『嘗見高山有螺蚌殻或生石中此石即嘗日之上螺蚌即水中物下者却変而為高柔者却変而為剛』とのべている。この書物は西暦1200年頃のものだ、といわれている。これは貝がら(の化石)が山の高いところから発見されるが、山にある石の中に生じたようだ。この石は、むかしの(海の)泥で、貝は海にいたものである。低地はたかまり(隆起し)、やわらかいものがかたい石に変わったのだ、という意味で、化石の勘どころをいい切っている」
*湊正雄は北大の地質学の泰斗、もう亡くなりました。昔、北方農業という雑誌を出していたとき、原稿を頼んだことがあります。井尻正二は、地質団体研究会を根城にしての、野尻湖の調査で知られます。土屋さんに引っ張られて、ナウマンゾウを見に行ったことがあります。
*朱子の自然観というものを知りたいと思う、ついでに山崎闇斎、佐藤直方、稲葉黙斎などのことも。
モクサイ通信№23(2001.01)
NO.23 2001.01.10
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638
Eメール yv5h-imzk@asahi-net.or.jp
迎春
気持ちを新たにして前へ進んでいきましょう。力を合わせて……。智にして不仁なるも不可、仁にして不智なるも不可なり(荀子)
第25回モクサイを語る会まとめ
1、日時 平成12年12月22日(金)
6:30
2、場所 川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
田原哲三、柏木恒彦、斉藤房一
土屋幸恵、実川嘉一、戸辺博靖
今関弘道
4、ふりかえり・おさらい
50の10行目)」(斉藤房一)
(2)「黙斎先生」(p50の11行目)~「云うたがよい」 (p53の6行目)」(柏木恒彦)
以上を終了させた。
(3)所用があって参加できなかったけれど、山口先生か らみんなに壁掛?けが届けられた。収められている語 は、稲葉黙斎の絶筆。孤松全稿六十八編にある。
恭しく惟るに千載之心 敬者是心之貞
聖人専ら是れ道心 秋月寒水を照らす
(4)語句と意味
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):留意事項。
o「其の心に生じて其の政に害あり」(p43の11行 目):出典は。土屋さん調べ?
o「京めぐり、日光めぐり」(p44の8行目:留意 事項
o「符読書城南一篇足る」(p46の3行目):留意事 項。このような文がどこかにあると考えられる。
o「小杉長兵衛」(p46の19行目):留意事項
o「遠遊紀行、再遊紀行」(p47の7行目):たぶん迂 斎の書ではないか。
o「面り」(p49の5行目):読み方、まのあたりと読 むか(田原)留意事項
o「丁度荀子が人相見をそしるを」(p48の14行 目):留意事項
以上前々回までの事項
o「長蔵追加も出来候間」(p49の19行目):読み。
o「会得成られるべく候」(p49の19行目):読み。
o「先手、後手の棋(場)」(p49の20行目):棋と場、 いずれをとるか。
o「面目も無し次第に候」(p49の20行目):読み。
o「心の外は皆無用の事と合点」(p50の1行目):読 み。
o「事物に応ずるに候。学問は飯の種になるものに之無 きと心得候らわば、一格の價[あたい]と存じ候。田 舎にては仕官の弊はなく候らえ共、人の為を好むの師 の累はあり候。年寄るほど学問さがるものに候。」(p 50の1行目):読み
o「人の為を好むの師の累」(p50の3行目):人に教
えたがる。
o「奉誦す~不克征」(p50の5行目):読み方につ いては保留、どこかに正式な読み方があるだろう。
o「不克征」(p50の7行目):「遺文に奉誦す冬至の 日・・」とあります。その中の「征」の字について ですが、孟子尽心章句下4において、「征は正なり」 と言っており、不正を正す意味があります。征は 「せい」と読んではいかがでしょう?(柏木)。
o「これもはや六十年、感慨のまま抄出し諸賢に示し 候」(p50の7行目):読み。
o「惟秀」(p50の10行目):篠原惟秀。東金市堀上 の人。与五右衛門。医者。1745~1812
o「南至」(p50の11行目):冬至に同じ
o「纎邸録」(p50の12行目): 丙午、花澤文次録、 黙斎冬至文一講を指す
o「吾豈に弁を好まんや。吾已むことを得ざればな り」(p50の20行目):孟子滕文公章句下。
o「 排釈録」(p51の1行目):佐藤直方著。
o「分弁」(p51の4行目):あれこれいう。
o「秉拂(ひんほつ)」(p51の5行目):払子(ホツス) を秉(ト)る意。ヒンポツとも。 首座(シユソ)が住 持に代って払子を取り、法座にのぼって説法する こと。
o「能化(のうけ)」(p51の5行目):一宗派の長老 または学頭。
o「座頭(ざとう)」(p51の6行目):一座の長。当 道座(琵琶法師の座として発足)の四官(検校・ 別当・勾当・座頭)の一。当道座に属する剃髪の 盲人の称。
o「楊廉」(p51の12行目):不詳。
o「淵源録」(p51の12行目):不詳。
o「 万乗)」(p51の2行目):一万台の車。天子(周 代に天子はその直隷地内から兵車一万輛を出す制 であったからいう)。天子の位。天位。
o「事物当然日用当行の理」(p51の4行目):朱子 の言。朱子は「道は日用の事物に当に行わるべきの 理」という。
o「羅漢」(p51の18行目):阿羅漢(アラカン)の略。 仏教の修行の最高段階、また、その段階に達した 人。もとは仏の尊称にも用いたが、後世は主として 小乗の聖者のみを指す。
o「皃」(p51の18行目):ぼう、ばく。かたち。異 体字は貌
o「徳を執ること弘からず、道を信ずること篤からず んば、焉ぞ有りと為さん、焉ぞ能く亡しと為さん」 (p51の20行目):論語子張2
o「 ひだるい」(p52の2行目):ひもじい。
o「至善」(p52の3行目):「大学の道は、明徳を明 らかにするに在り。民に親しむに在り。至善に止ま るに在り」(大学第一段第一節)。
o「 道学標的」(p52の6行目):佐藤直方著。
o「 帯號(えふ)」(p52の7行目):絵符・会符(江戸 時代、幕府・武家・公家などが物資輸送に際して、特 権を表示するため荷物につけた札。荷物などにつける 目じるしの札。
o「 承れば」(p52の8行目):されば、読み。
o「 面々式」(p52の10行目):顔を寄せ合ってだけの、 めいめいのありさま。
o「 教え無ければ、則ち禽獣に近し」(p52の5行目): 「人の道有るや、飽食暖衣、逸居して教えらるる無け れば、即ち禽獣に近し」(孟子滕文公章句上)。
o「 伯者」(p52の17行目):神祇官の長官。神官。
o「 男蛇」(p53の3行目):雄蛇ヶ池のこと
o「 躑躅」(p53の3行目):つつじ、読み。
o「 白扇倒懸東海天」(p52の6行目):石川丈山の詩 句。「白扇倒(サカシマ)に懸かる東海の天」、富士山が 雪を戴いて立つさまをいう。
石川丈山は、江戸初期の漢詩人・書家。六六山人・四 明山人・凹凸窩などと号。
懇親よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。
2000年、最後の「モクサイを語る会」。前半は、モクサイをやって、後半は懇親会をするのが通例のパターン。モクサイを語るについては、柏木さんが先駆けて頑張ったし、田原さんも、職を退くについてのあれこれもおさまって、これから大きな力になるのは確かである。房一さんは、日本朱子学を射程に入れて、余力を残しているし、土屋さんは職場、地域のつきあいを大事にしながら、みんなを支えてきた。カイッチャンは、期待されるところ大、今後どういったような対応を見せていくか楽しみ、ホームグランドづくりの話もある。戸辺さんは、魅力ある事業を始めた。参加の回数は少なかったけれど、真面目さが武器、これから生業を踏まえて、回転をあげていくだろう。僕は、遅ればせながらも、モクサイ通信を月一回出すことが出来た。それに、傍らには桜木さんが立っているし、山口先生は会に参加してくれている。アドバイスは適切、黙斎関係文献のオーソリティ。総じて、みんなの力だとは思うけれども、思った以上に前に進むことが出来たように思う。
加えて、後半の懇親会、これは欠かせない。上総にともに住んでいるわれわれが、胸襟を開いてモクサイを語る場所、あるいは東西の思想を語り合う場所、そして日常のあれこれをやりとりする場所。両輪の輪、唇と歯、飲めない人はおらず、チロリならずぐい飲みなどは、宝物のように大事にするものばかり。たとえ、ホームグランドが出来たとしても、川和伊での懇親会は不可欠のように思う。
ともあれ、7人そろっての、この年最後の語る会、よく語り、よく飲んだというべきだろう。心おだやかに年を越せたように思う。そして、希望を持って、新年を迎えられるように思う。これからも頑張っていきたい。
風林火山(孫子)
ゆえに其の疾きこと風の如く
其の徐かなること林の如し
侵掠すること火の如く
動かざること山の如く
知り難きこと陰の如く
動くこと雷震の如し
呉の孫武(孫子)
春秋時代の呉の兵法家。斉の人。呉王闔閭(こうりょ)に仕え、楚を破り、斉・晋を威圧、闔閭の覇業を助けた。兵法書「孫子」を著す。呉子と併称。孫子は敬称。
孫子は春秋時代の孫武と戦国時代の孫ピンの二人あって、どちらも孫子と考えられている
孫子
呉の孫武の兵法書。一巻一三編。戦略・戦術を総合的に説き、深い思想性をもつ。後世の偽作との説が強かったが、1972年、山東省銀雀山の漢初の墓から孫子のほかに孫ピンピンの兵法の竹簡が出土、孫武著者説が有力になった。
次回開催日程
1、日時 平成13年1月19日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「朝鮮之」(p53の7行目)~「なんとして じゃ」(p56の17行目)」(今関弘道)
(2)「先師送先君」(p56の18行目)~「墜さぬ と云うものぞ(p59の17行目)」(土屋幸恵)
4、第五講関連レポート
準備が整い次第
5、次回レポーターの確認
6、その他必要なこと
7、懇親会
呉越同舟(孫子)
呉の人と越の人が憎みあいながらも、突然の大風で船が転覆しそうになったときは、互いに左手をうてば右手をかばうように、助け合うのと同じことという意味。現在では助け合うという部分が欠落して使われることが多い。
彼を知り己を知らば、百戦するも危うからず(孫子)
敵の能力・限界をよく掴み、見方の能力・限界をよく知った上で戦うならば、百度戦ってたとえ全て勝利しなくても、負ける危険はない。
始めは処女の如く 後は脱兎の如し(孫子) 始めは処女のように見せかけて、敵に油断をさせておき、後にはのがれる兎のようにすばやく行動するの意
逸を以て労を待つ(孫子)
見方は力を蓄えておき、遠くから攻めてくる敵の疲れを待って攻めるの意
儒学・道学の基本的概念と哲学上の観点について
すでに見たように、感覚とは「客観的世界(外的対象)における個々の属性、あるいは側面の、人の脳髄への反映」でした。客観的世界とは、僕らの意識からは独立して存在している物質的な世界です。知覚とは、客観的世界の「一つのある瞬間における一つのまとまった映像」でした。リンゴの例で説明したとおりです。
しかし、感覚・知覚の認識段階では、ゴールデンデリシャス、スターキング、つがる、むつ、ふじといった、品種間の差異は明らかにされていません。リンゴの果実が、カイドウ(海棠)の果実と、同じバラ科に属して近縁にあり、ともに食することが出来るというなことも明らかにされていません。つまりは、「感覚や知覚は、客観的世界の個々の現象を人間の頭脳に反映することは出来るが、諸現象の間の内面的な必然的なつながり(客観的な運動法則)を人間の頭脳に反映することは出来ない」(宮川実)ということになります。
外界の諸現象の間の内面的必然的つながり(連関)を、人間の頭脳に反映させるためには、感覚と知覚をさらに一般化させねばなりません。現象的なものから本質的なものへ、基礎的なものからより上位のものへという、認識の上昇の過程が必要とされます。
この感覚と知覚を一般化する第一段階が「表象(ひょうしょう)」といわれるものです。広辞苑では、「知覚に基づいて意識にあらわれる外的対象の像」と解説されています。マイペディアでは、「通常は知覚や感覚と区別して、再生心像による対象意識を指す」と説明されています。宮川実は、「過去の経験(感覚と知覚)にもとづいて外的対象が意識(心)のなかに再生された(もの)」、そして「表象は、感覚と知覚にもとづいて生まれるものではあるが、感覚や知覚とは質的に異なり、それらを一般化したもの(それらのなかから共通な一般的なものをぬき出してつくったもの)であり、それらを概括したものである」といっています。さらに、井尻正二は「科学論」(国民文庫)で、「ここでいう『表象』とは、いわゆる感覚・知覚・表象の三者を総合した言葉である。ヘーゲル流にいえば、感覚とは、塩の白い色・塩からい味・四角い形といった個々の性質(属性)をさす。そして知覚とは、それらの性質を総合してもつ、塩という物である。表象とは、過去の記憶も加わって再生された意識内容で、塩と岩石の知見から生まれた岩塩といった印象を指している。なお、これらの用語法は、哲学者・心理学者・医学者によって、まちまちである」という。
認識の表象への発展は、具体的にどういうことなのかについて、宮川実を陽光を例にとって、次のように説明する。「太陽の光は、春夏秋冬で、朝と夕とで、晴れた日と曇った日とで、山の頂上と海岸とで、われわれにちがった感覚と知覚とをあたえる。しかしわれわれは、いく百回いく千回となく同じことを経験するうちに、これら種々さまざまな感覚と知覚とを一般化して、太陽の光という一つの表象を意識のなかにつくりあげる。こうしてわれわれは、外的対象のなかに含まれている一般的なものを頭脳のうちに反映し、外的対象に対する認識を一歩ふかめる」。
引用が多くなったけれど、ここでは、感覚・知覚を踏まえて表象の段階に至る、認識の発展過程においては、実践が重要な役割を果たす、欠かすことの出来ない役割を果たすこと、および、表象はさらに高められて、概念に到達しなければならないことに留意して、先に進もうと思います。
モクサイ通信№24(2001.02)
NO.24 2001.02.17
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638
Eメール yv5h-imzk@asahi-net.or.jp
第26回モクサイを語る会まとめ
1、日時
平成13年1月19日(金)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
田原哲三、柏木恒彦、斉藤房一、 土屋幸恵
実川嘉一、戸辺博靖、今関弘道、山口先生
4、ふりかえり・おさらい
(1)「朝鮮之」(p53の7行目)~「なんとして じゃ」(p56の17行目)」(今関弘道)
以上を終了させた。
(2)語句と意味
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):留意事 項。
o「其の心に生じて其の政に害あり」(p43の11行 目):出典は。土屋さん調べ?
o「京めぐり、日光めぐり」(p44の8行目:留意 事項
o「符読書城南一篇足る」(p46の3行目):留意事 項。このような文がどこかにあるだろう。
o「小杉長兵衛」(p46の19行目):留意事項
o「丁度荀子が人相見をそしるを」(p48の14行 目):留意事項
o「先手、後手の棋(場)」(p49の20行目):棋 と場、 いずれをとるか。
o「奉誦す~不克征」(p50の5行目):読み方につ いて保留、正式な読み方があるだろう。
o「楊廉」(p51の12行目):淵源録の序を書いた。
o「淵源録」(p51の12行目):朱子が書いたのではないか。
以上前々回までの事項
o「李退渓」(p53の7行目):朝鮮李朝の代表的儒学 者。名は滉(コウ)。字は景浩。真宝の人。陶山書院に 拠って嶺南学派を興し、日本の儒学にも大きな影響を 及ぼした。著「自省録」など。
o「朱子」(p53の9行目):字は元晦・仲晦、号は晦 庵・晦翁など。一九歳で進士に合格、官途のかたわら 究学、周敦頤(シユウトンイ)・(テイコウ)・程頤(テイイ)ら の学説を総合、いわゆる性理学を集大成した。著「朱 子文集」「朱子語類」「四書集注」「資治通鑑綱目」「近 思録」など。
o「骸」(p53の10行目):ほねぐみ。
o「舎人」(p53の20行目):小野崎舎人、直方の門人。
o「こうして」(p54の5行目):行うして、ともに歩 いて
o「なまだらけ」(p54の9行目):「なま」が未熟者、 「だらけ」が怠け者の意
o「願う所孔子の学」(p54の10行目):「乃ち願う所 は、則ち孔子を学ばん」(孟子公孫丑章句上)。
o「 好学論」(p54の13行目):程伊川著。
o「みんな(皆)になる」(p54の13行目):お開き になる。お終いになる。なくなる。尽きる。
o「無極而太極」(p54の18行目):理、性などととも に、道学の基本的な概念。
o「気質」(p55の8行目):道学の基本的な概念。本 然の性、気質の性。
o「材」(p54の10行目):生れつき有する能力。また、 それを有する人。
o「 知行合一」(p55の20行目):先知後行説、広く 知を致して事物の理を究めてこそ、これを実践しうる
o「道体形の為学」(p51の4行目):為学→為己→弘 毅・博文約礼を加えて→道体為学→知行合一を加えて →道体形の為学
o「天窓」(p56の10行目):頭のこと。あかりとり、 または煙を排出させるために屋根にあけた窓。あかり まど。ひきまど。
懇親よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。
年明け、初めての語る会、全員参加、まずは幸先よしということでしょうか。冬至文講義録も、第一講、第五講を片づけて、未定稿ではあるけれど、柏木さんが頑張って「読み下し文」も完成させた。昨年末から、第二講に入り、今回レポートの割り当ても済んで、先も見えてきたか。いや、三年も続けて来られたのは奇跡的といったばかり、舌の根も乾かぬうちにこのような評価をするのは自讃に過ぎるか、好事魔多し、治にいて乱を忘るな、マッチ一本火事のもと?いろいろな言葉があります。気を引き締めていくという手だね。モクサイ先生も、年をとると、人に教えたがるといっているし。僕らの多くは、気質の性に恵まれている!と思うし、油断は大敵ということなのでしょう。
確かにモクサイは一筋縄ではいかないようです。「道体形の為学……為学→為己→弘毅・博文約礼→道体為学→知行合一を加えて→道体形の為学」、こう言われてみても、心の中になかなか落ちて来ない。無極而太極、陰陽、理気、一元論と多元論はどう違うのか、崎門学派では理気一元論を主張している、ますます混乱してきます。性とは、善とは、本然の性とは、気質の性とは、道学の概念はややこしい。とはいえ、ぶん投げておくとモクサイに笑われる、いや叱られるだろうし、日に三省ではないけれど、謙虚に課題を負っていくことが大切なのでしょう。
追伸1
山口先生より、「佐藤直方全集」(ぺりかん社)を貸して貰いました。全三巻、ザックにずしり、金がさでいうと3000万ぐらいはあるね。カイッチャンと運んだことがあります。第一巻はウンゾウロク、第二巻はウンゾウロク拾遺、ウンゾウロク続拾遺、四編ウンゾウロク(抄)、第三巻は五編ウンゾウロク(抄)、六編ウンゾウロク(二程造道論)、このほかに講学鞭策録、排釈論、鬼神集説、道学標的、冬至文、静坐集説など十四編。それに、池上幸二郎の序文。全巻通して1650ページ、さてどうするか、出るのはため息ばかりなり。それに例えば、鬼神集説のところを開けると、漢字ばかり、白文というのかな、句読点があっても訓点がなくても僕には同じことなのだけれど。講義録は殆どが縮小コピー、冬至文講義録を豆粒ぐらいに縮めたようなもの、虫眼鏡でないと読めないね。いや見えないというのが正確な表現です。でも面白そう、何とかして、分かるところだけでも、アタックしたいと思う。それとも、柏木さんの方にまわした方が、生産的かな。
追伸3
これも山口先生から。考える会での無極而太極、理気論などを踏まえて、僕がレポーターだったこともあってと思うけれど、参考文献を送ってもらいました。「日本朱子学と朝鮮」(阿部吉雄、東京大学出版会)、「支那哲学概論」(宇野哲人、成光館書店)、「経史論考」(諸橋轍次、清水書店)、「東洋思想辞典」(春秋社)の抜粋です。大変参考になりました。著者は中国思想(哲学)の権威ということですが、所論はまちまちです。立場の相違があるのかも知れません。
追伸4
感じたことは、僕らのモクサイを語る会が、新たな局面を迎えているのではないかということです。一つは輪を広めていくことだというように思うけれども、もう一つはモクサイを捉えるに、より広く、より深い観点が必要なのではないか。モクサイそのものを読みこなす、追求するということが前提であることは論を待ちませんが、そのように思います。
追伸5
モクサイを追うものにとっては、山口先生の蔵書は宝の山です。このことは、文書館への先生の寄託、その膨大な文献、関係資料を見ても容易に分かるのですが、われわれの利用という点では、かなり距離があります。その理由はおそらく簡単なこと、われわれのレベルが先生の蔵書を利用するまでには至っていなかったということです。これからのことだけれども、先生の目録関係には、あらためて留意しておいた方がいいと思います。
次回開催日程
1、日時 平成13年2月23日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「先師送先君(p56の18行目)」~「墜さぬ と云うものぞ(p59の17行目)」(土屋幸恵)
(2)「永井先生(p59の19行目)」~「大たいまつ じゃ」(p61の17行目)」(実川嘉一)
4、第五講関連レポート
準備が整い次第
5、次回レポーターの確認
6、その他必要なこと
7、懇親会
家父長的大家族制の成立
周代の封建制は、氏族共同体を基礎としており、部族共同体連合という形での、支配・被支配関係が成立していた。しかし、春秋・戦国時代を経過して、生産力の上昇により、氏族共同体は分解、世襲制が確立し父権が益々強化される中で、家父長的大家族制が成立してきた。したがって、漢代の支配・被支配関係は、氏族共同体を基盤にしたものではなく、元来は共同体の一員である農民家族を基礎単位として構成されるようになる。劉姓にあらざれば王たるを得ず
高祖(劉邦)は在位中、異姓の諸王を抑圧、建国の功臣を次々に粛正した。その跡に、一族同姓の者を据え、同姓王九国の領主は天下五十四郡中、三十九郡を支配するに至った。各々の国は、独立国のおもむきを呈した。「高祖はすなわち起ちて舞い、慷慨傷懐して泣(なみだ)数行下る」(史記、高祖本紀)大風の歌
大風は起こりて雲は飛揚す
威は海内(かいだい)に加わりて
故郷に帰る
安くにか猛士を得て四方を守らん
(漢高祖 史記)
儒学・道学の基本的概念と哲学上の観点について
感覚・知覚から表象の段階に進むに際して、実践が大きな役割を果たすことは何度も強調したとおりです。もう一つ留意しておくべき事は、人の脳髄は一定の時間が経過したあとでも、映像を再生する能力を有しているということです。過去の映像は意識の中に保存され、時間の経過の中で、実践を積み重ねる過程において、新たな映像が再生されてくるということです。
さて、表象は、「ただ一種類の外的対象(例えば太陽の光だとかリンゴだとかいうような)についての感覚と知覚を一般化し概括したものに過ぎない」(宮川 実)という点で、外界を反映する映像としては不十分であるといわれます。
感覚と知覚を一般化する第一の過程を表象とするならば、第二の過程は「概念」の形成です。先ほどの例でいえば、春夏秋冬の太陽、朝夕の太陽、山と海の太陽、晴れと曇りの時の太陽を、何度も何度も経験践)して、「太陽の光」という表象が作り上げられました。
表象としての「太陽の光」は、もはや外的対象物と、感覚・知覚との直接的つながりは失っています。言い換えれば、「太陽の光」は感覚や知覚の段階で認識されたものではありません。逆に言えば、「太陽の光」は、感覚出来ないし、知覚できないということです。
外界に対する認識の深化、「太陽の光」は、さらに一般化されて、「光」として意識(思惟)されるようになります。太陽の光の外に、同じように表象された、月の光、電気の光、稲妻の光、たき火の光などの一般化です。いわゆる「概念の」形成です。光という概念も、表象と同じく、感覚・知覚で直接的に得られたものではありません。
しかし、その背後には外界が存在する、われわれの意識とは独立したものとして、客観的に存在している世界の反映であることは、これまで見てきたところです。客観的な世界、意識から独立した自然は、人の感覚・知覚を窓口にして、脳髄の中に、意識の中に映像を映しだし、さらに外界の反映像は一般化され、表象を経て概念へと高められる
ことになります。
(実臥薪嘗胆(がしんしょうたん)
孫武(孫子)を将軍にして南の大国楚を五度も破った闔閭(こうりょ)は、勢いに乗って越に攻め入る。越王勾践(こうせん)は楚の范蠡(はんれい)を頼り、呉に大勝。闔閭は戦いで受けた傷がもとで死ぬ前に、息子の夫差(ふさ)に無念を言い残す。呉王夫差は越王勾践を討って父の仇を報じようと志し、常に薪の中に臥して身を苦しめ、また、勾践が呉を討って会稽カイケイの恥をすすごうと期し、胆を時々なめて報復を忘れまいとした故事。仇をはらそうと長い間苦心・苦労を重ねること。転じて、将来の成功を期して長い間辛苦艱難すること(史記、十八史略)。
「越の勾践、薪に臥し、胆を嘗めて呉に報いんと欲す」(呉越春秋)
「越王勾践、国に反(かえ)る。乃ち身を苦しめ、思いを焦がす。胆を坐に置き、坐臥すなわち胆を仰ぎ、飲食また胆を嘗む」(史記)
呉王夫差
春秋時代の呉の王。越王勾践を会稽(かいけい)に破り父闔閭(の仇を討ったが、のち勾践に敗れて自殺し、呉は滅びた。(?~前473)
モクサイ通信№25(2001.03)
NO.25 2001.03.04
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638
Eメール yv5h-imzk@asahi-net.or.jp
第27回モクサイを語る会まとめ
1、日時
平成13年2月23日(金)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
田原哲三、柏木恒彦、斉藤房一、 土屋幸恵
今関弘道
4、ふりかえり・おさらい
(1)「先師送先君(p56の18行目)」~「墜さぬ と云うものぞ(p59の17行目)」(土屋幸恵)
以上を終了させた。
(2)語句と意味
o「漢の知力を用いて天下を持つ」(p59の1行目): 出典を含めて調べる。
o「道体形の為学」(p56の6行目):形は「なり」 と読む。近思録に詳しい。道体は理論、眼にみえ ない。為学は実践、形としてあらわれる。道体を 形で行うのが為学。
以上前回の留意事項
o「 朋友には切々偲々」(p56の19行目):「切切 偲偲怡怡[いい]如たる、士と謂うべし。朋友に は切切偲偲、兄弟には怡怡たり」(論語子路)。 切切偲偲は遠慮ない批判をすること。怡怡は柔和 に接すること。
o「親炙(しんしゃ)」(p57の13行目):孟子尽心 章句下)。 親しくその人に接して感化を受けるこ と。
o「秀」(p57の13行目):篠原惟秀。
o「捉飼」(p57の15行目):ここでは、上げ鳥として 理解しておく。
o「首の座」(p57の7行目):打ち首の坐
o「 萬世の為に太平を開く」(p58の7行目):張横渠 の言葉。近思録にもある。「去聖の為に絶学を継ぐ… 万世の為に太平を開く」
o「横渠」(p58の7行目):張載。北宋の儒者。字は 子厚、横渠先生と称。関中(陝西)横渠鎮の人。二 程と交り深く、宋学創始の一。気一元論的な太虚の説 を立て、天地の性・気質の性の説を創出。著「易説」 「正蒙」「張子全書」。(1020~1077)
o「宰我」(p58の10行目):宰予。孔門十哲の一。字 は子我。通称、宰我。魯の人。斉の大夫。
o「子貢」(p58の10行目):孔門十哲の一。姓は端木。 名は賜。子貢は字(アザナ)。衛の人。孔子より三一歳 若いという。
o「有若」(p58の10行目):孔子の門人。魯の人。そ の言貌が孔子に似ていたので、孔子の没後に門人が思 慕したのは有名。有子と敬称。
o「孔子のことを尭舜にまさる」(p58の11行目):「宰 我曰く、予を以って夫子を観れば、尭舜に賢ること遠 し」(孟子公孫丑上)
o「生民自り以来未だ夫子あらず」(p58の11行目): 「子貢曰く、…生民自り以来未だ夫子あらず」(孟子公 孫丑上)
o「未だ孔子より盛なるはあらず」(p58の11行目): 「有若曰く、…生民自り以来未だ孔子より盛んなるは あらざるなり」(孟子公孫丑上)
o「汚なりとも好む所に阿るに至らず」(p58の12行 目):「汚なるも其の好む所に阿るに至らず」(孟子公 孫丑上)
o「 我が寺の佛」(p58の12行目):儒教の先師達を 指す。
o「天の○が慰さる」(p58の16行目):霊の中国語。 僕のパソコンにはありません。
o「程朱」(p59の12行目):程伊川と朱子
o「陸象山」(p59の13行目):南宋の大儒。名は九淵。 字は子静。象山・存斎と号。江西金渓の人。テイコウの哲学を発展、理気一元説を唱え、心即理と断じ、朱熹の主知的哲学に対抗。文安と諡(オクリナ)す。(1139~1192)
留意事項
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目): 意味は。
o「其の心に生じて其の政に害あり」(p 43の11行目):出典は。
o「京めぐり、日光めぐり」(p44の8行 目:出典は。
o「符読書城南一篇足る」(p46の3行 目):このような文がどこ かにあるだろ う。
o「小杉長兵衛」(p46の19行目)
o「先手、後手の棋(場)」(p49の20行 目):棋と場、いずれをとるか。
o「奉誦す~不克征」(p50の5行目):読 み方について、正式な読み方があるだろ う。
o「楊廉」(p51の12行目):淵源録の序 を書いた。
o「淵源録」(p51の12行目):朱子が書 いたのではないか。
懇親よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。
レポーターは土屋さん、「先師送先君子適唐津文曰云々」というところ、スムーズな進行、解説と論議がうまくかみ合って、柏木さんなど「今日はすっきりしていてよかった、久しぶりだ」というような感想。レポートの仕方がよかったのかな、分かることは分かる、分からないことは分からないというようなレポートの仕方か。論語の仲に、こういう一節があったような気がするね。
田原さん、奥さんの入院で大変でした。知らなかったのだけれど、はたから見ても何となく落ち着かないような感じでした。まさかそういうことだとはね。でも、まとまりよければすべてよしです。当初の医者の見立ての問題もあると思うのだけれど、結果としては「大過なし」、よかった。ヤマシゴトも段落を迎える季節、いつものように田原さん一流の分析、鋭い問題の掘り起こしが見られることでしょう。
房一さんは、名会計、語る会のがま口の中には、いつもお金がある。つきざる泉の如し、枯れることがない。「四季の会」の土屋さんみたいです。僕は、そのような能力はまったく持ち合わせていません。
山口先生は所用のために出席できず。本を沢山借りているし、まだ十分に目を通していないという事情もあって、幸いだったか?!戸辺さんは、その日になって急用が出来た、先は長いとはいえ、ちょっと残念。カイッチャンは、税務申告、中谷津の高木さんと隆一さんといったかな、やさい農家、カイッチャンは親切、神様だ、仕方がない。
次回開催日程
1、日時 平成13年3月23日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「永井先生(p59の19行目)」~「大たいまつ じゃ」(p61の17行目)」(実川嘉一)
(2)「先君子(p61の19行目)」~「弟子の手柄な り(p63の13行目)」(戸辺博靖)
4、第五講関連レポート
準備が整い次第
5、次回レポーターの確認
6、その他必要なこと
7、懇親会
歌
北方に佳人有り
絶世にして独り立つ
一顧すれば人の城を傾け
再顧すれば人の国を傾く
寧んぞ傾城と傾国とを知らんや
佳人は再びは得がたし
(漢書、李延年)
o李延年……武帝に仕えた楽師。妹は後宮に入って李夫 人、武帝に重用されたが、彼女の死後寵愛が衰えて、 誅殺された。
儒学・道学の基本的概念と哲学上の観点について
概念(コンセプト)とは何か(6)
感覚・知覚→表象→概念小雪、大雪、そして冬至です。このほかに、雑節というのがあります。同じく一月から並べてみると、土用、節分、彼岸、土用、八十八夜、入梅、半夏生(はんげしょう)、土用、二百十日、彼岸、土用です。この中で、読めないもの、あるいは意味が分からないものがあったとしたら、それは昔の人に対して、豊かな季節感覚を喪失していることになるのだと思います。節気、あるいは雑節を見ただけでも、いかに現代人が自然を疎外しているか、自然を生活の中から遠ざけているかが分かろうというものです。
陰陽の概念は、殷の時代にはすでにあったといいます。当初は、文字通り日陰の場所と日当たりの場所を意味したのだけれども、やがて概念が発展し、「天地万物の生成や変化は、陰と陽の二要素(気)の作用によるものである」(諸子百家、江連 隆)というように、変わってきたと言います。
更に陰陽の概念は、社会現象と結びつけられ、政治、経済、人生などの吉凶禍福を予知し、判断する概念にまで、抽象化(一般化、普遍化)されていきます。すなわち、中国思想の欠かせない概念としての地位を獲得します。わがモクサイの言う一陰一陽は、「一陰一陽、之を道と謂う。之を継ぐ者は善なり。之を成す者は性なり」(易経、繋辞伝)を踏まえています。一陰一陽は、すでに日陰の場所と、日当たりのよい場所ではありません。
二十四節気、雑節が、僕らの使用している1,2,3……という数字のカレンダーに抽象化されてきたことと、陰陽が道や善、性を含む概念に抽象化されてきたことは、形の上ではよく似ています。概念というものは、抽象化されればされるほど、感覚・知覚を通しての外界の直接的な反映像からは離れます。数とか道とかは感覚を通しては、直接的に認識できないからだと思います。でも外界の実在が、正しく反映されている限りでは、概念の抽象化は欠かせません。1,2,3……という数の概念は、節気、雑節をふくめて一年間の季節の動き、法則的な移ろいを、はるかによく説明することが出来ます。また、道とか善とか、性という概念は、人道主義、善人、性格といった具合に日常生活には欠かせません。
問題は、歴史的に、したがって必然的に概念は発展すると思うのだけれど、概念と概念との関連(連関)が正しく捉えられているかが重要です。節気・雑節と数という概念との関連がつけられているか。あるいは自然現象の変化を説明することに始まった陰陽という概念が、道・善・性というそれぞれの概念と関連づけられているかと謂うことです。数の概念については、長い数学の歴史によって、あるいは実践によって正しく外界の対象を反映していると思いますが、陰陽については、あるいは道・善・性については、なかなか難しい。この概念に反映している外界の対象、実在の対象はどういうものなのか、そこの所をもっと追求する必要があるように思っています。
一陰一陽、モクサイによれば、すでに冬至を転換点として、よみがえりの季節に入っていることになります。二月いっぱい、シベリアの上空から冬将軍が南下してきて、ちょっとしびれたけれど、春は春です。川の水はぬるみ、梅のつぼみはほころび、柳は芽吹き、ノビルは青さを増し、青い星のイヌフグリは日溜まりを選んで咲き出しています。薄紅色のホトケノザが「マイ・ガーデン?!」を覆い尽くすのも時間の問題です。山の木々も水をあげています。土屋さんはホダギ作りを終了させましたし、田原さんの枝打ちも間もなく終わります。
自然の働きを、自らに引きつけて、暮らしの中に取り入れてきたと言うことでは、現代人は昔の人に及びません。二十四節気というものがあります。一月から並べてみると、小寒、大寒、立春、雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨、立夏、小満(しょうまん)、芒種(ぼうしゅ)、夏至、小暑、大暑、立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降(そうこう)、立冬、
モクサイ通信№26(2001.05)
NO.26 2001.05.23
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638
Eメール yv5h-imzk@asahi-net.or.jp
第28回モクサイを語る会まとめ
1、日時
平成13年3月23日(金)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
柏木恒彦、斉藤房一、 山口先生、実川嘉一
今関弘道
4、ふりかえり・おさらい
(1)「永井先生(p59の19行目)」~「大たいまつ じゃ」(p61の17行目)」(実川嘉一)
(2)「先君子(p61の19行目)」~「弟子の手柄な り(p63の13行目)」(今関弘道)
以上を終了させた。
(2)語句と意味
o「漢の知力を用いて天下を持つ」(p59の1行目): 出典。
「馬上に居て天下を得るとも、いづくんぞ馬上を以 て天下を治むべけんや」(史記、陸賈伝)
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):意味。
o「其の心に生じて其の政に害あり」(p43の11行 目):出典。
(孟子公孫丑上)にあり。(孟子滕文公下)にも類 似のものがある。
o「京めぐり、日光めぐり」(p44の8行目:出典。
「『京めぐり、日光めぐり』は貝原益軒の著書に京 城勝覧一巻(一名京めぐり)日光名勝記一巻とあ り、『遠遊紀行、西遊紀行』は山崎闇斎の著書のよ うです。遠遊紀行には万治元年春三月、先生初め て江戸に遊び、八月京に帰る往復の紀行の詩百三 十六首を集めて此の書となす。西遊紀行には万治 二年先生再び東武に遊びて、此の編を成すと云う池上 幸二郎氏の解説が山崎闇斎全集に載っています」(山 口先生)。
o「符読書城南一篇足る」(p46の3行目):出典。
o「小杉長兵衛」(p46の19行目)
o「奉誦す~不克征」(p50の5行目):読み方。
o「淵源録」(p51の12行目):
「伊洛淵源録」、十六巻、朱子。
以上前回以前の留意事項
o陳継祖(p60の6行目):
o 蔡西山(p60の6行目):
o 蔡九峯(p60の9行目):
o 古注(p60の17行目):古代の注釈。中国で、宋儒 の経書の解釈に対し、漢・唐時代の訓詁上の注釈の 称。日本では近代以前の注釈または国学の成立以前の 注釈にいう。
o居敬(p60の18行目):宋の程頤(テイイ)の説。常 に一を主として他にゆくことなく、敬(ツツシミ)を以 て徳性を涵養すること。程朱学の窮理と相対する。
o 丹次(p61の2行目):丹治の誤り。三宅尚斎。
o 斎藤主税(p61の9行目):
o 渋谷丹右ェ門(p61の10行目):
o 丹波の湖月(p61の15行目):
o 三輪善蔵(p61の14行目):
o 三宅石庵(p61の14行目):江戸中期の儒学者。名 は正名。京都の人。観瀾の兄。懐徳堂の初代学主。朱 子学に陸王の学を併せた自由な学風を立て、鵺(ヌエ) 学問と評された。(1665~1730)
o 詩文博雑(p62の15行目):詩文と雑学
o 扁鵲(p63の7行目):中国、戦国時代の名医。渤 海郡鄭の人。姓は秦、名は越人。長桑君に学び、禁方 の口伝と医書とを受けて名医となり、趙簡子や・(カ ク)の太子を救ったという。耆婆(ギバ)と並称され る。
o 仲景(p63の7行目):張仲景、三国時代の名医
懇親よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。
モクサイを語る会、五月についてはお休みとなりました。田原さんと土屋さんとカイッチャンは、基本的には春起こしと田植え。「五月雨のそそぐ山田に、早乙女の裳(もすそ)ぬらして」というのは昔の風景。「たまなえ植うる夏はきぬ」という季節感だけが、現代に残っています。田原さんは、顔面神経のことがあって、秀信君の若さを武器に難場を切り抜けよう。もどかしさはあったのだろうと思うけれども、管理労働に。徹し切れたかどうかについてはよく分からない。この道五十年のプロですからね。土屋さんとカイッチャンは、生業だから逃げるわけにはいきません。ミサキなんかで、自由を求める精神をなだめながらの取り組みでした。生業といえば、戸辺さんは漁協のアルバイトから逃れることができました。役場の前の朝市とJA山武の直売所、そして暇を見つけての軽トラによる得意先の開拓、他方トマト、キュウリなど野菜の生育は順調、お手のものです。初志貫徹、アルゼンチンの夢をめざして、楽しみです。
柏木さんと房一さんは、とくに春作業と云うことは無かったのだけれど、協同組合を仕事の場としているわけで、地域の人たちと季節感を共有するという意味では、モクサイのお休みも、なにがしかの意味があったのでしょう。この間、おそらくモクサイ講義録をひもといて、大いに前に進んだことだろうと推測する次第。山口先生はお元気です。この前も、池上幸二郎さんの著作を送ってもらったりして、勇気づけられます。本当は、モクサイを語る会がお休みの時は、「モクサイ通信」がみんなをつなぐ役割を果たさなければならないのにね。第二の故郷北海道、モクサイ講義録を抱えて渡ったのだけれど、開かず仕舞い。昔の友人たちと、酒を飲んで、話をして、歌をうたって、あっという間に半月が過ぎてしまいました。楽しみの時は過ぎた、腰を落として頑張っていこう。
次回開催日程
1、日時 平成13年5月25日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「佐藤子卒して(p63の15行目)」~「あやは そこ(なり)」(p66の2行目)」(田原哲三)
(2)「門風を峻くして(p66の3行目)」~「先生 これを掛けり(p67の18行目)」(斉藤房一)
4、第五講関連レポート
準備が整い次第
5、次回レポーターの確認
6、その他必要なこと
7、懇親会
悲愁歌
吾が家は我を天の一方に嫁し
遠く異国の烏孫王に託す
穹廬を室と為し 氈を牆と為す
肉を以て食と為し 酪を漿と為す
居常土(くに)を思いて心内傷む
願わくは鴻鵠となりて故郷に還らん
(史記、烏孫公主)
o烏孫公主(劉細君)は、武帝の甥劉建 の娘。劉建は不品行を武帝に咎められ て自殺。劉細君は武帝の命で、和蛮公 主として烏孫(うそん)王昆莫(こん ばく)の妻になる。昆莫の死後はその 孫岑陬(しんすう)の妻となる。昆莫 は、匈奴の部将から身を起こし、今の 新彊省のイリ川流域に独立国を建てた 英雄。
o悲愁歌は当時の人が細君に代わって、 異郷に嫁した悲しみを歌ったもの
o穹廬…遊牧民族の使用するフェルト製 のテント。
安藤昌益と聖人君子
<安藤昌益と聖人、H.I>
昌益については、上総道学の延長線上で、いずれはお目にかかることになると思われるが、ここでは聖人についての昌益の言及について、参考程度に見ておくこととする。
「耕さずして貪り食うは転定(天地)の真道を盗む大罪人なり。……聖釈、学者、大賢といえども、盗人は乃ち賊人なり」(統・万国)。
「故に悪嫌すべくして貴ぶべからざる者は聖人なり。賤嫌すべからずして至信に貴ぶべき者は直耕の人なり」(統・糺聖)
「聖人とは罪人の異名なり」(同上)
「君子と云うは道盗の大将なり」(同上)
「帝聖と云うは強盗の異名なり」(同上)
昌益は、自ら生産労働をしないで、他人の労働に寄生する「不耕貪食の徒」を激しく弾劾する。名指しで批判されている者は、凡そ次のとおり。
伏犠(伏羲)、神農、黄帝、尭、舜、禹、湯、文王、武、周公、孔子、孟子、周子、程子、朱子。太公望、孫子、呉子。釈迦、達磨、老子、荘子、列子、淮南子。厩子(聖徳太子)、道春(林羅山)、荻生徂徠などである。昌益の意気は高い。
<蒹葭堂遺文、夕陽妄語、加藤周一、朝日新聞…22号より>
「一方、蒹葭堂とその周辺の関心が、大阪の山片蟠桃、京の手島堵庵、九州の三浦梅園、東北の安藤昌益に向かっていたという証拠はないらしい。『サロン』はその意味で保守的であった。『光明の世紀』の『サロン』のすべてが新思想に対して開放的であったのではない。しかし、開放的な『サロン』もフランスにはあった。幕藩体制下の日本にはなかったということになろう。そこで保守的な、しかし洗練された、感受性と知識欲にあふれた日本の知識人たちは、どもへ向かおうとしていたのか。知的・芸術的な楽しみへ、すなわち一種の快楽主義へ向かおうとしていたように私には思われる」
<唯物論的な流れ、H.I、22号より>
山片蟠桃(大阪)、手島堵庵(京都)、三浦梅園(九州)、安藤昌益(東北)という人に即した思想の流れは、いずれも哲学的には唯物論的な流れを形成していたのではなかったか(H.I)。
<思想の言葉追求したい、辻井喬、朝日新聞…22号より>
「日本の弱点は明治以後、地域の文化をダメにしたこと。文化的な伝統と断絶したことが、文学を弱くしたし、思想も伝統から切り離された。日本には、革命思想もあって、石田梅岩、安藤昌益から、大阪の町人のための学問所の懐徳堂にまでつながる。来年は、共同体と伝統について考えます」
概念(コンセプト)とは何か(7)
感覚・知覚→表象→概念
概念とは何か、どのようにして形成されてくるのか、くどくどと書いてきました。もう、あんまり書くことはないようです。感覚・知覚→表象→概念という順序で、形成過程を順序づけてみました。でも、振り返ってみて、「表象」というような言葉が、耳慣れないならば、概念という言葉に置き換えてもいいのではないかと思っています。同じことなのだけれども、概念の最高に発展したものが範疇(カテゴリー)であるという規定付けもあります。宮川 実などのそうなのだけれども、そして内容として時間、空間、因果律などを云うのだけれども、これも概念という言葉でくくっても、差し障りは無いように思います。この場合には、概念というものは、歴史的に、実践を経て発展してきた、これからも自然科学、社会科学、思惟の科学(認識論、論理学、弁証法といった分野の科学)の発展に応じて、概念自体も発展していくんだという、観点だけを保持していればいいように思います。
もう一つは、何度も繰り返して書いてきたけれども、概念というものは、運動する世界ないしは世界の運動が、人間の意識に反映して形成されてきたということです。同じことなのだけれども、この場合の世界(自然、社会)は、人間の意識とは独立して存在していると云うことです。このように考えていくと、われわれが持っている世界像(世界に対する認識)あるいは世界観というものは、歴史的に形成されてきたところの、概念の組合せということになります。概念が、歴史的・実践的に深まれば、われわれの世界像、世界観もそれだけ深まるという関係です。概念を規定するものは、基本的には客観的実在としての世界の運動であるし、世界の認識を保証するところの歴史性・実践性ということでしょう。
これも先の繰り返しになりますが、世界の運動を反映して、概念が形成される入り口が「感覚・知覚」ということになります。人間は、感覚器官(感覚・知覚)を通してしか、世界の運動を認識することはできません。
モクサイ通信№27(2001.06)
NO.27 2001.06.10
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638
Eメール yv5h-imzk@asahi-net.or.jp
第29回モクサイを語る会まとめ1、日時
平成13年5月25日(金)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
柏木恒彦、斉藤房一、 山口先生、実川嘉一
今関弘道、後藤 宏、田原哲三
4、ふりかえり・おさらい
(1)「佐藤子卒して(p63の15行目)」~「あやは そこ(なり)」(p66の2行目)」(田原哲三)
以上を終了させた。
(2)語句と意味
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):意味。
o「符読書城南一篇足る」(p46の3行目):出典。
o「小杉長兵衛」(p46の19行目):江戸時代後期、 下総古河藩家老、?~文政三年(1820)
o「奉誦す~不克征」(p50の5行目):読み方。
o陳継祖(p60の6行目):沈継祖 しんけいそ? 南宋の監察御史、朱子を皇帝に対して不敬、国家 に対して不忠として弾劾。すなわち、母親に貧し い食事を出したことは不孝、朝廷の官職任命を拒 んだことは不敬、妖しい人物である蔡元定などを 味方にして孝宗の御陵建設に異論を挟んだことは 不忠などなど。陳継祖は、朱子を落職罷祠(らく しょくしし、職をやめさせる。1196年)、同年蔡元 定を道州(湖南省道州県)に流した。蔡元定は間 もなくその地で死去、門人ではあるが学友として 遇していた朱子にとって二重の痛手。四年後朱子は没した、七十歳。
o 蔡西山(p60の6行目):蔡元定 さいげんてい
1135-1198 南宋の学者。字は季通。西山先生とも称 す。朱熹(朱子)の門人。北宋の程氏,邵氏,張氏の 学を受け継ぎ,その学は精識博聞。天文地理律暦の説 に詳しく,特に邵雍(しょうよう)の数学をとりあ げ,朱熹と討議して《易学啓蒙》《通鑑綱目》をつくっ た。また,音楽理論にも功績をのこした。著書《律呂 新書》《大衍(だいえん)詳説》《皇極経世・太玄・潜 虚指要》(マイペディア97)
朱子は学友として接した。沈継祖(しんけいそ)に より、道州(湖南省道県)に流され、そこで死去した。
蔡西山…蔡李通。蔡元定。韓佗胄の偽学の禁によ り道州に流される。
o 蔡九峯(p60の9行目):蔡九峯…蔡西山の子。
蔡信、字は仲黙 1167~1230、朱子 の門人。
o 斎藤主税(p61の9行目):
o 渋谷丹右ェ門(p61の10行目):
o 丹波の湖月(p61の15行目): 湖月…古月禅材 (1667~1751)?禅僧。柏木さんのヒット。
o 三輪善蔵(p61の14行目):三輪執斎 みわしっさ い 1669-1744 江戸中期の陽明学者。名は希賢,字 は善蔵。京都の人。佐藤直方に学ぶ。致良知の説を尊 び,1712年王陽明の《伝習録》に標注を加えて翻刻 し,中江藤樹,熊沢蕃山なきあと江戸の地での陽明学 の先駆をなした。和歌もよくした。著書《伝習録講 義》《周易進講手記》《古本大学講義》など(マイペ ディア for Mac)
o 扁鵲(p63の7行目):へんじゃく 中国,周時代の伝説的名医。《史記》によれば,姓は秦,名は越人。長桑君という老人に医術を学び,諸国を遊歴,(かく)の国の太子を死からよみがえらせた。耆婆(きば)と並称される(マイペディア for Mac)
なお、耆婆(きば)とは、釈迦時代の伝説的名医。サンスクリットのジーバカJャvakaの漢訳。ギリシア植民地に近いタクシャシラー(タクシラ)で医学を学び,王舎城に帰ってビンビサーラ,アジャータシャトル両王の 侍医となる。深く釈迦に帰依し,弟子の病を救った といわれる(マイペディア for Mac)
o 仲景(p63の7行目):張仲景 ちょうちゅうけ い 140ころ-210ころ 中国,後漢時代の医者。 名は機。仲景は字。南陽の人。長沙の大守となる。 一族200人の過半数が傷寒(急性熱病)で死んだ のでその治療法を研究し,《傷寒論》を編したとい われる(マイペディア for Mac)
以上前回以前の留意事項
o 八宗兼学(p64の4行目):ひろく八宗の教義を 兼ね学ぶこと。八宗とは、南都六宗(奈良時代にお ける仏教の宗派。すなわち三論・法相(ホツソウ)・華 厳(ケゴン)・律・成実(ジヨウジツ)・倶舎(クシヤ)の 六宗)に、平安二宗の天台・真言を加えたもの。
o 死ぬとも念佛は云わぬ(p62の15行目):南無妙 法蓮華経と唱えたということ
o 三宅先生が難に遇われた(p64の6行目):宝永 四年(1707)五月、四十六歳の時から三年間、 忍藩城内に投獄となったこと。
o 後藤松軒(p64の8行目):
o 郷人の善き者は之を好み、其の善からざる者は之 を悪む(p64の14行目):論語子路24。村の善 良な者からは好かれ、悪い者からは憎まれる。そん な人が申し分のない人物である。
o 盗人同前のもの(p65の2行目):戦国下克上の 中で、君主となった者を言う。覇者。
o 序す(p65の3行目):序には学ぶという意味が ある(田原)
o 万章(p65の4行目):孟子の弟子。
o 一両人(p65の4行目):万章(ばんしょう)と 公孫丑(こうそんちゅう、孟子の弟子)を指す。
o 門礼(p65の6行目):門口だけの礼、あいさつ
o 直方の旦那寺とおれが云うも、しゅこうの有るこ とと(p65の6行目):藤門学派を直方の旦那寺と いっている
o 和尚(p65の7行目):藤門学派の学者、あるい は一般の学者
o よめ【嫁・娵・婦】(p65の10行目):息子の妻。 結婚した当座の女子の称。新婦。妻。人妻。
o 比賣加賀美(p65の10行目):姫鑑。女性として 守るべき事柄。
o 英才を得て之を教育す(p65の15行目):「孟子 曰く、君子に三楽あり。父母ともに存し兄弟故無き は一の楽なり。仰ぎて天に愧じず俯して人にはじ ざるは二の楽なり。天下の英才を得て之を教育す るは三の楽なり…」(孟子尽心章句上)
o 堪忍大明神(p65の17行目):参考として、勧進 聖 かんじんひじり 諸国を廻って勧進を行った 僧。勧進僧・勧進上人・勧化(かんげ)僧などとも いう。勧進は本来は衆生の救済のため諸国をめぐって 念仏を勧めることで,のちには寺院(あるいは神社) の堂塔や仏像,鐘,または橋などの造立に要する資財 を調達することを目的にする聖を勧進聖と称するよう になったが,これに伴って仏教の民間布教にもなって いた。奈良期の行基,鎌倉期の俊乗坊重源(ちょうげ ん)らのほか多数の勧進聖・勧進比丘尼(びくに)ら が活動し,芸能の流布にも貢献した側面がある。後代 には勧進を名目に遊行した乞食僧が現れ,門付(かど つけ)芸人となる例もみられた。
門付 かどづけ 大道芸の一種で,門ごとに訪れ銭 を請う芸人。季節に応じて神が祝福をもって訪れると いう民俗信仰に基づき,その神を装ってくる祝言人 (ほがいびと)の芸能に由来する。江戸時代には万 歳,鳥追,夷(えびす)舞,大黒舞,獅子舞,ちょろ けん,猿回し,厄払い,節季候(せきぞろ)などが あった。また女太夫,傀儡(くぐつ),説経,祭文(さ いもん),住吉踊,流しなどは季節に関係なく訪れた。
→関連項目
勧進聖|瞽女|三河万歳|厄払い(演劇)|弥次郎兵 衛 マイペディア for Mac株式会社日立デジタルo 四品(p65の18行目):令制で、親王の位(一品 から四品に至る)の初位。四位[しい]の異称。
o 侍従(p62の15行目):君主の側近くに仕えること。 その人。天皇に近侍する職員。
o 風俗(p66の1行目):一定の社会集団に広く行わ れている生活上のさまざまなならわし。しきたり。風 習。容姿と身のこなし。身ぶり、態度。
o 思うこと其の位を出でず(p66の1行目):「曾子曰 く、君子は思うことその位を出でず」(論語憲問2 8)。君子は人の領域を犯さない。
o 巻軸の善治と真儒:(p66の1行目):孟子の巻き軸 にある善治(よく治めること、善政)と真儒(本当の 儒学、儒者)
o 詩文博雑(p62の15行目):詩文と雑学
o 詩文博雑(p62の15行目):詩文と雑学
o 詩文博雑(p62の15行目):詩文と雑学
o 詩文博雑(p62の15行目):詩文と雑学
次回開催日程
1、日時 平成13年6月22日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「門風を峻くして(p66の3行目)」~「先生 これを掛けり(p67の18行目)」(斉藤房一)
(2)「三講冬至文 辛亥(p68の1行目)」~「我党の旨訣なり(p70の11行目)」(柏木恒彦)
(3)「冬至文は附録を(p70の11行目)」~「此の如く厳なるものか(p72の13行目)」(土屋幸恵)
4、第五講関連レポート
準備が整い次第
5、次回レポーターの確認
6、その他必要なこと
7、懇親会
儒学・道学の基本的概念と哲学上の観点について
井尻正二というと、野尻湖、ナウマン象の実践、北大の湊 正雄と「地球の歴史(岩波新書)を書いたこと、それに若干の著書を通じてしか知らないのだけれど、いわゆる在野の学者(研究者)として、なかなかに魅力ある人のようです。
彼は、認識論、概念の形成について、およそ次のようなとらえ方をしています。
(1)感性……表象
(2)悟性……概念
(3)理性……理念
先に、表象、概念、範疇といった、世界をとらえる言葉を、概念という言葉でくくってしまっても、僕らに(僕に)とって、それほど不都合は感じないと書きましたが、井尻正二は概念を三段階に区分します。
人間の認識は、基礎的なものから上位のものへと、現象的なものから本質的なものへと、段階的に進んでいくという考え方です。だから、「概念の内容も、これをいくつかの段階に分けることができる」ということになります。
認識の歴史的発展、概念の段階的発展については、まったくその通りだと思います。彼が認識と実践について、「認識することは実践することであり、実践することは認識することである」と書いているとおりです。ただ僕らは、シロウトなので、こんがらからないように、概念の歴史的発展・段階的発展を確認しておけば、それで事足りると考えただけのことです。
井尻正二の考え方では、まず、感性がとらえる外界の像を表象として規定します。感性とは何かというと、「感覚器官を通じて客体を反映し、感覚器官を通じて反応(作用)する思惟能力である」、「全肉体的な活動の感覚器官への集中である」というように説明されます。
認識の次の発展段階は、悟性に基づいた概念の形成です。ここで云う概念とは、悟性に規定された狭義の意味での概念です。悟性とは、「(感性が)対象の属性をばらばらに、現象的に(主観的に)反映する能力であったのに反して、(悟性は)対象を、その属性を通じてあらわれる合法則性において、より本質的に(客観的に)反映する能力である」と説明されます。あるいは、「表象を規定的に統合する思惟能力である」と説明されます。
かくして、感性がもたらした対象(客体)=外界の表象は、悟性の働きによって、概念の形に高められます。とはいえ、彼は、表象と概念との区別について、必ずしも明らかではないとも述べています。このあたりが面白いところです。
前にも見たけれど、井尻正二の表象は次のようなものです。「対象に対してまず第一に印象するもの」、「対象の主観的な、ばらばらな、漠然とした意識内容」、「感覚器官を通して受け入れられた客体の反映したもの」、「対象のばらばらな属性であり、たかだか個々の属性の機械的な集合形態であり、これを主体に即してみれば、意識ないし対象を現象的に反映したもの」である。さらに次のようにも云います。「ここでいう『表象』とは、いわゆる感覚・知覚・表象の三者を総合した言葉である」、「ヘーゲル流にいえば、感覚とは、塩の白い色、塩辛い味、四角い形といった個々の性質(属性)をさす。そして知覚とは、それらの性質を統合して持つ、塩という物である。さらに表象とは、過去の記憶も加わって再生されたい史記内容で、塩と岩石の知見から生まれた岩塩といった印象を指している」。
街のどこかで さびしがりやの星が 今にもなきそうに……
懇親よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。
今回のモクサイを語る会、ニュースは何といっても、後藤さんの初参加。畜産のオーソリティー、JA山武にいたときは、書記長だったかな、みんなの面倒を見ていた。そういう意味では、カイッチャンも柏木さんも房一さんも同じか。田原さんと戸辺さんは、同じ釜の飯。僕もそうだけど、例の一軒家を訪ねて、イタリア民謡などフロッピーに移してもたったりした。音楽が好き、旅がすき、酒も好き、太平天国も好き、ロマンチストなのかも知れません。
今までの出入りが思い出される。桜木先生が来られて、山口先生が参加されて、ヤスナリトッつぁんが出て、戸辺さんが入った。そして後藤さん、モクサイを語る会をもう少し丈夫にしよう、地域の知恵を集めて、頑張っていこう。年明けに話し合ったこと、本当によかったと思うね。
モクサイが繰り返して云うことは、自分のために学ぶという姿勢、そして得るものは全世界?! 現代に生きる僕らにとっては、この言葉をどう解釈し、位置づけるかという問題はあるし、また、このことはそれぞれの立場によって異なるとは思うけれども、モクサイ学に特別な道は用意されていないようだしね……、下学上達かな。モクサイの講義録を、まずは自ら読み下して、難しい(経験的に云って)と思うけれども、何をモクサイがいわんとしているのかを、自分なりにつかみ取ると云うことが大切だと思います。僕らには道統を継ぐ、聖人をめざすという目的は、おそらくないんだろうと思うけれども、だとすればモクサイの意を汲み上げる作業の中から、われわれの目的、目当てとするものを作り上げていく必要があるのかも知れません。
ともあれ、後藤さんの参加、波長が合うといい、一緒にやれるといい、そしてこれまでに得てきたものを、これから得るものを、僕らに分けてくれるといい、そのように思っています。
衛青・霍去病による西方制圧
o衛青……前漢の武将。字は仲卿。霍去病(カクキヨヘイ)の叔父。匈奴を征すること十数回、武名高く長平侯に封。大将軍、のち大司馬。諡(オクリナ)は烈侯。(―~前106)。衛青・霍去病の2将軍による東西2道の遠征により、匈奴は大打撃を受け、勢力は大きく後退した。
o霍去病……前漢の将軍。衛青の甥。武帝の時、匈奴(キヨウド)を討ち、大功を以て冠軍侯に封。驃騎将軍、大司馬に任じられた。諡は景桓侯。(前140頃~前117)。「匈奴未だ滅びざるに 家を以て為す無きなり」(史記)。霍去病は河西を制圧、匈奴の漢に対する前進基地を破壊し、戦略的後退を余儀なくさせると共に、祁連山の麓から匈奴を追い、経済的打撃をも与えた
o匈奴に対する漢の優勢は、その後も続いた。昭帝(在位前87~74)および宣帝(在位前74~49)は、烏孫を助けて匈奴を撃破。西域36国、西域都護のもと、尽く漢の威令に服した。
o祁連山……中国、漢魏時代の歴史に名高い山。中国甘粛省張掖・酒泉両県の南西、エチナ河の発源するあたりの山脈という。
匈奴の歌謡
我が祁連山を失う
我が六畜をして蛮息せざらん
我が焉支山を失い
我が婦女をして顔色なからしむ
(史記)
モクサイ通信№28(2001.06)
NO.28 2001.06.17
発行者 今関弘道
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「課題」への取り組みについて
アタックしてみましょう! 「モクサイを語る会」(モクサイ通信)の「次回開催日程」の「4、第五講関連レポート」には、「準備が整い次第」と書かれています。「課題」というのは、「モクサイを語る会」(14、2000.04.29)に「第五講関連レポートの分担」として載せてある次のものです。
【第五講関連レポートの分担】
このことについては原案どおり、次のように分担を決めた。
<道(天道、人道)という概念の形成過程>
(1)天命、道、性、誠、徳、仁とは、どのような概 念なのか。歴史的な概念の形成過程、および朱 子における概念の規定(戸辺博靖)
(2)天道と人道との関連、「どうしておいても道は ついてくる」という楊子の説に対する、反論の 根拠は?(田原哲三)
(3)朱子の「先知後行説」では、「致知」の「知」を 経験的知識とし、広く知を致して事物 の理を究めてこそ、これを実践しうる とした(柏木レポート)。この場合、人 における「致知」の「知」、および事物 の理というものは、「天」が大きなふい ごと、たたらで万物を作ったときから 備わっているという理解でよいか。だ とすれば、人が経験的知識を深め、こ れを実践すると言うことが、道に任じ ると言うことになるか。この場合、事 物の理、万物はそれ自体発展し変化す る、したがって人の認識も、その反映 として発展し変化する、というような考えは、 朱子学にはなかったのか(今関弘道)
(4)再度、朱子の理気二元論で万物の生成、人の生 成、天道、人道の生成を説明すると、どういう ことになるか(柏木恒彦)
(5)陸象山、王陽明が道統の学から排除されている のは、どのような理由によるのか(土屋幸恵)
<道統の学について>
(1)道統の学はどのようにして形成されてきたのか (柏木恒彦)
(2)聖人として位置づけられる、神農・黄帝・尭・舜・ 湯・文・武において、いわゆる異端の学からはどの ような批判がなされているか(同上)
(3)「孔門三千人のうちから、身通六芸者七十二人ぎ り。それをえったら、たった顔子、曾子二人なり」 といわれるが、戦国時代にかかって、孔門三千人、 身通六芸者七十二人という人たちは、彼らの儒学を どのように発展させていったのか(同上)
(4)道統の学において、枢要の書とされている四書 (論語・大学、中庸・孟子)は、何時何処で、どの ような人たちが、どのような目的を持って創りあげ てきたものなのか。朱子はこれらの経書に対し、ど のように関与したのか、あるいは位置づけをしたの か。直方は、「道学標的に」ということで、孔子・曾 子・思子・孟子・周濂渓・程伊川・張横渠・朱子を あげている(同上)
<古文辞(こぶんじ)学について>
古文辞学派の祖といわれる荻生徂徠の学問とはどう いうものなのか。なぜ、道統の学から排斥されたの か。関連して、復古学をとなえた山鹿素行(やまがそこう),伊藤仁斎(じんさい)らの学問とはどういうものだったのか。道統の学はこれに対してどのように対応したのか(斉藤房一)
<室 鳩巣(むろきゅうそう)について>
室 鳩巣は、どういう理由で直方から、あるいはモクサイから疎まれたのか。おさらいとして、藤原惺窩(せいか)を祖とし、林羅山(らざん)・松永尺五(せきご)、そして新井白石(あらいはくせき)・室 鳩巣とつづく、京学の流れとはどういうものか(斉藤房一)
<道統と太公望について>
周王朝創立の第一の功臣は呂尚(太公望……斉の祖) ではなかったか。周公、召公だけが道を担ったもの として認められているのか。朱子の評価はどうな のか (実川嘉一)
進捗状況について云えば、柏木さんから、墨子に関するレポートを貰っていること、田原さんが楊朱について検討中だということでしょうか。そして、例の房一さんのレポート…「日本における近世朱子学の興隆」、柏木さんのレポート…「今関氏の第一回問題提起に対する小考察」、「(無題)─日本における宗教・哲学の流れ、中国における宗教・哲学の流れに関するレポート」をみると、「課題」のかなりの部分に答えているように思います。課題の設定の仕方が悪かったのかも知れません。
けれども、課題は課題です。あのときから一年有余の時間が流れています。冬至文講義録も第五講から、第一講の積み残し分をこなし、第二講も終了間際です。新たな認識の上に立って、課題に再アタックするのも悪くないと思います。
そこで特集号の話です。ここで、課題を消化していきたいと考えます。順次掲載し、必要に応じてみんなで検討して、確認して前に進みたいと思います。多くはこれからのことになると思うので、課題に即してのレポート、そして関連してのレポートでも結構ですから、努力してみてください。印刷(手書き)でもいいけれど、できればEメールの方が編集上では好都合です。
追伸
(1)基本的な観点は、モクサイ学をよりよく理解す ると云うことだと思います。
(2)房一レポート、柏木レポートを踏まえ、課題に 関連して記事にできるものは載せていきたいと 考えています。
(3)つなぎとして、間接的な記事も載せざるを得な いかな。
(4)僕らの到達点を、レポートにしておくことは、 悪いことではないと思います。も血統の上でも融和を進めていった。防御以外、必要以上に武力による征服の手段を用いることは非常に少なかったからである。それゆえに、中国の歴史と文化の伝統には、「歴史の継続性」と「文化の包容性」がはっきりと現れている。
一方、中国の哲学思想には、古くから「諸子百 家」といわれるものがあった。その中でもっとも有名なのが、儒家・道家・墨家・名家・法家である。中古以降、「玄学(老荘の哲学)」と「仏学(仏教に関する学問)」も生まれ た。「仏学」には有名な「禅宗」のほか、数多くの宗派が存在した。西暦1,000年以 降、中国の宋の時代には「新儒学」もおこり、600年余りにわたり発展し続けた。儒学、 仏学、新儒学は、中国の周囲の国々、たとえば日本、韓国、ベトナムなどにも大きな影響を及ぼした。中国の文化と哲学思想は、たいへんに豊かである。こうした「歴史の継続性」「文化の包容性」「思想の豊かさ」こそが、中国の文化伝統の重要な特徴なのである。中国のほとんどの哲学者は、「天道」と「人道」を重 くみている。「天」とは、単なる「天地自然の天」ではなく、生命と人生の価値との全ての根源としてとら えられているのである。天は宇宙であり、生命の創造力に満ちあふれた有機体である。しかも、生命の創造は単に物質的、機械的なプロセスではなく、精神的で目的を持ったものなのである。言い換えれば、「天」は休むことなく、 更に新しく、更に智恵のある生き物を作り出している。それがつまり、人間である。人間は天から授かった知恵と徳性によって、さらに優れた精緻な文化と文化的価値を作り出していく。新しい生命と新しい価値は、宇宙と人間社会の中に絶えず湧き出てくる。前者を「生生」と称し、後者を「盡性」と称し、あわせて「天人合一(人の言行が正しければ天の意志と合致する)」、あるいは「天人合徳」と称している。 このような哲学思想は、儒家及び新儒家が主に提唱したものである。 また、「道家」と「仏家」の思想も同様だ。ただ、それぞれの文化的価値観は異なっている。儒家は「倫理的な価値」を、道家は「芸術的価値」を、「仏家」は「宗教的価値」を重んじている。「天人合一」という哲学思想は、中国人の「天命を楽しみ、分に安んずる」という人生観を育んできた。それによって中国人は、更に身近に自然界にお ける無限の心地よさを体験できるようになった。また、倫理の世界にある豊かな情を深く享受し、それほど不満もなく仕事に精を出すことができるようになった。人間の仕事はつまり天の仕事。こう考えることによって、宗教的な慰めを得ることができたのである。
「生生之徳」「天人合一」という生命哲学によって、中国人は人間の倫理的な情感である「仁」を重んじ、その一方で、社会秩序と人間の道理にかなった行動規範である「礼」を重んじようになった。「仁」とは、人間の先天的な道徳感情であり、広い無私の愛である。心の内から自然にあふれてくるものであり、豊かであればあるほどよい。すなわち「博愛之を仁という」。「礼」とは、人間の理性的な考えであり、自己規制である。そのめざすもの は、社会の倫理秩序を守り、集団生活の共同発展を促進させることである。これは慎み深い ほどよい。「仁」と「礼」、この二者は分かちがたい。どちらも人が生まれながらに持って いるものであり、互いに補い合って発展し、孝行・恩いやり・信義などの美徳を形成しているのである。 中国人は「孝」の美徳をことのほか重んじる。狭義には「孝」は家父長制社会の中の家族倫理であるが、実際にはこれにとどまらず、「宇宙の倫理」ともいうべきものだ。なぜならば、人間の個々の生命と、 宇宙の大きな生命とは切り離すことができないからだ。一人一人の人 間が生命を尊重し思いやるのも、生命的な有意義で重要な体験を覚え ているからである。人類は父母への孝行を通じて、初めて生命の源へ の尊重と思いやりとを適切に表現することができる。さらに、人間は、父母への孝行と子供に対する慈愛を通して、自分自身の生の経験を、過去現在から未来へとつながる一つの連続した生命の流れとして 感じることができ、宇宙の創造の継続性を表現できるのである。
★「<実在>観の反動、あるいは否定として、それを裏 返しにした<思想>が、出てきても不思議ではない」
★「思想史の流れで云えば、『怪力乱神を語らず』、『生 を知らないのに、どうして死について言えよう』という、孔子(孔丘)の<儒教>、およびその流れを汲む墨子(墨テキ)の学派が、<実在の思想>とすれば、これに反撥・対立して出てきた、老子(李耳)、荘子(荘周)の、<老荘思想>が、<超越の思想>ということになる」
★天について
(1)「崇拝、あるいは信仰の対象である、神(至上神)の観念がなかったわけではない。それ『帝』といい、彼らの祖先のことであった」……「殷末周初、紀元前十二世紀の終わり頃…『帝』はやがて、『上帝』というようになり、さらに『天』と呼ばれるようになった…自然の一部、<頂上>にある存在としての『天』と、信仰の対象としての『帝』の合体が、実現した」
(2)「殷の人々にとって、『帝』と呼ばれる祖先神=至上神は、意志を持つ人格的な存在であり、かつ、万能であった……こうした『帝』の性格は、『上帝』としての『天』にもうけつがれた……天を『上帝』というとき、当然、そこには『下帝』つまり、地上の天である帝王=皇帝が、投影され、民衆もそのようにうけとる。帝王は、天を権威として認め、自己をその天に近づけるー天と民衆との間に介在するーことによって、民衆から見た自己を、『上帝』の天の権威と一体の印象をあたえたのである。これは、『天』信仰と融合した。中国古代の政治思想ということができる」
★禅譲と放伐について
殷の湯王は夏の傑王を追放、周の武王は殷の紂王を討伐、臣下が主君を弑してよいかの問い。「仁を賊(そこな)う人を賊といい、義を賊う人は残という、残賊の人は一夫(いっぷ)という。一夫である紂を誅した話は聞いているが、君主を弑したとは聞いていない」(孟子、梁恵王・下)。
「中国の思想」(竹内実 NHKブックス)抜粋
★「<中国の思想>における大きな特色は<実在>の 重視にある」
★「神と悪魔、唯物論と観念論、このように絶対的に あい容れぬ二者の対立関係は、中国の思想にはない と断定してよい」
モクサイ通信№29(2001.07)
NO.29 2001.07.20
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638
Eメール yv5h-imzk@asahi-net.or.jp
第30回モクサイを語る会まとめ
1、日時
平成13年6月22日(金)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
柏木恒彦、斉藤房一、 山口先生、田原哲三
今関弘道、後藤 宏
4、ふりかえり・おさらい
(1)「門風を峻くして(p66の3行目)」~「先生 これを掛けり(p67の18行目)」(斉藤房一)
以上を終了させた。
(2)今回で第二講終了、読み下し文の整理は柏木さんに任された。機会をとらえて、再確認の必要あり。
(3)語句と意味
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):意味。
o「符読書城南一篇足る」(p46の3行目):出典。
o「奉誦す~不克征」(p50の5行目):読み方。
o陳継祖(p60の6行目):沈継祖(しんけいそ)が 正しい。
o 斎藤主税(p61の9行目):
o 渋谷丹右ェ門(p61の10行目):
o 後藤松軒(p64の8行目):
o 堪忍大明神(p65の17行目):
以上前回以前の留意事項
o不了簡(p66の3行目):考えもしない、しない、 許さない。
o重次(p62の13行目):中田重次。十二とも言う。 博徒から三十歳頃に黙斎に入門。~1798
o 與五右衛門(p66の14行目):篠原惟秀。
o 源遠にして末益々分る(p66の16行目):始まりは 一つで遠くに有ったが、末は益々多岐にわたる、出典 不明。
o 田子方(p66の16行目):魏の文公の賢臣。
o 斎 ものいみ(p66の19行目):ある期間、飲食・ 行為をつつしみ、身体を浄め、不浄を避けること。
o居処を思い、笑語を思う(p66の19行目):亡くなっ た親の住んでいた家や、笑って話をしている姿を思う
oあまり吟味づよいと云う程のことなり(p67の1行 目):非常にに詮議がきついというほどのことである。 程伊川の言に対して肯定的
o すいの漉し(p67の7行目):混じりけのない漉し たもの。
o 絹篩(きぬぶるい)(p67の7行目):絹布を底に張っ た篩。細粉をふるうのに用いる。
o 伯者めいた(p67の11行目):神官めいた、物知り めいた、知ったかぶりをする
o 鈴木恭節(p67の16行目):清名幸谷の人。二十八 歳の時に黙斎の推薦で館林藩の儒臣となる。1762~ 1830
o 垂加(p67の17行目):山崎闇斎
o 絅(p67の17行目):浅見絅斎
o 尚(p67の17行目):三宅尚斎
次回開催日程
1、日時 平成13年7月27日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「三講冬至文 辛亥(p68の1行目)」~「我党 の旨訣なり(p70の11行目)」(柏木恒彦)
(2)「冬至文は附録を(p70の11行目)」~「此の 如く厳なるものか(p72の13行目)」(土屋幸恵)
4、第五講関連レポート
理気哲学について
5、次回レポーターの確認
6、その他必要なこと
7、懇親会
儒学・道学の基本的概念と哲学上の観点について
概念(コンセプト)とは何か(9)
科学(井尻正二、国民文庫)よりみ た概念の規定(2)
表象に対して悟性の作り上げる「概念」とは、「感性と理性との中間の段階にある対象の客観的な認識、すなわち対象の最初の概念を作り上げる」、「対象の主観的な、単純な、ばらばらな、漠然とした、現象的な映像」を抽象し、「対象の客観的な、普遍的な、しかも静的で規定的な、相対的に本質的な反映物、すなわち概念」ということになります。このあたり、それこそ抽象的な概念が並ぶ説明になっています。
認識の最終段階(第三段階?)は、理性による理念の形成です。前段階での概念の形成にあずかった悟性という思惟能力には、自己矛盾、自己運動、生成発展などの要素が欠けているからだといいます。
ならば、理性とは何か。それは対象の属性と属性との間の、あるいは対象と対象との間の、必然関係=連関=運動を反映する思惟能力です。
彼は、「(理性とは)思惟の作用であって、著しい抽象力、統合力、類推(推理)力、体系力などをもって特徴づけることができる」、「認識論的には、概念を総合し体系化する、思考能力を持った、最高の段階にある人間の思惟である」、「対象を対立物の統一、自己矛盾、自己運動、生成発展」としてとらえることのできる能力である。そして、「理性とは感性に基づいて、客観的事物の変化・発展としての運動をとらえる思考の働き、いいかえれると、客観的存在の弁証法的運動を反映してとらえる、弁証法の働き(である)」を哲学事典から引用しています。
井尻正二の認識論に対して、理解する限りでは異論を差し挟む余地はないように思います。しかし僕らは、認識論のプロフェッショナルではないし、認識論の細部に渡って取り組んでいるわけでもありません。だから概念の形成を段階的にとらえて、それを理解するに、「感性」、「表象」、「悟性」、「理性」、「理念」という『新たな概念』をもって、これを理解する余裕はないように考えられます。新たな概念の導入は、下手をするとある種の混乱を招きかねないし、僕らの意図する範囲を越えるように思います。とくにここにあげられている概念は、カントとかヘーゲルとか、西洋哲学に根っこをもつもので、理解するにはそれだけのエネルギーが必要とされます。また、これらの概念の使用については、学者においてもまちまちです。
明治維新より130年余り、これらの概念の日本の風土に定着するには、それなりの時間が必要なのかも知れません。「概念の翻訳とは、日本語だけを使って体系的な理論の説明までできるようにすることである」(日本の科学思想、辻哲夫、中公新書)、「科学・技術が翻訳文として成立しうるまでには、この概念の翻訳に努力をかたむける期間が、日本の場合にもそうとうながくつづいたことは、とくに注意を引くことである」(同上)という見方もあります。科学や技術が日本の風土に定着するには十九世紀のほぼ100年間を必要としたというのだけれども、思惟の科学としての哲学、認識論といった分野での概念については、僕らのレベルでは、未だ未定着であるといった方が、正しい評価のように思われます。
概念の形成を云う僕らの直接的な契機は、モクサイ学をよりよく理解すると云うところに置かれています。歴史的に培われてきた概念を、道学理解の武器にしたいということです。この場合、僕らのアタックする世界の概念は、西洋哲学とは異なったものが多くあります。例えばそれは、陰陽、気、五行、天といったものです。このような東洋思想における概念をどう理解するかと云うことについては、西洋に生起した概念の歴史を細部踏まえて、東洋における概念を照射するという方法もあると思うのだけれど、むしろ、西洋を中心とした概念の到達点をとらえて、これをもって中国思想にあらわれた概念を理解するという方法のほうが、僕らにとってベターであるというように考えていることもあります。
よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。懇親
冬至文講義録第二講終了。これで読み下し文は、未定稿ながらも第一講、第二講、第五講の三つになりました。第三講、第四講は年内に終わります。およそ七道の扱いとあわせて、次のテキストに何を選ぶかという課題を持ったことになります。加えて謂えば、そろそろ冬至文読み下し文の扱いも考えておかねばなりません。
モクサイ通信№30(2001.07)
NO.30 2001.07.20
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「課題」:朱子の理気二元論による万物 天道 人道
柏木恒彦
広辞苑における理気説の説明は以下の通り。
太極・気・陰陽など道家・陰陽家らの伝統的な概念と、唐代華厳経の理事説などをとり入れて、儒家の立場から体系化した朱子学の宇宙論。朱熹の説は、万物の生成を気の陰陽の働きによるとしながら、一方その働きの根拠に太極としての理があるとする理気二元論の立場。明代に入ると羅欽順らの、理を気の条理とする一元論が現れ、以後それが主流となる。理気二元論の基になるのは周廉渓の『太極図説』である。よって、近思録道体初条の吟味から始める。
近思録道体初条は「無極而太極」であり、全文は以下の通り。
濂渓先生曰く、無極にして太極なり。太極動きて陽を生じ、動極まりて静なり。静にして陰を生じ、静極まりて復[また]動なり。一動一静互いに其の根を為し、陰に分れ陽に分れて両儀立つ。陽変じ陰合して水火木金土を生じ、五気順布して四時行[めぐ]る。五行は一陰陽なり。陰陽は一太極なり。太極は本[もと]無極なり。五行の生ずるや各[おのおの]其の性を一にす。無極の真、二五の精、妙合して凝[こ]る。乾道は男を成し、坤道は女を成し、二気交感して万物化成す。万物生々として変化窮[きわ]み無し。惟[ただ]人のみ、其の秀を得て最も霊なり。形既に生じ、神發して知る。五性感動して善悪分れ、万事出づ。聖人之[これ]を定むるに中正仁義を以って、聖人の道は仁義中正のみ。して静を主とす。無欲故静。人極を立つ。故に聖人は天地と其の徳を合し、日月と其の明を合し、四時と其の序を合し、鬼神と其の吉凶を合す。君子は之を修めて吉、小人は之に悖[もと]りて凶なり。故に曰く、天の道を立つるに、陰と陽とを曰い、地の道を立つるに、柔と剛とを曰い、人の道を立つるに、仁と義とを曰う。又曰く、始[はじめ]を原[たづ]ね終[おわり]に反[かえ]る。故に死生の説を知る、と。大なるかな易、斯れ其れ至れり、と。濂渓先生曰く、無極にして太極なり。
周易繋辞伝にある「無極而太極」によって、この世界は太極でできているとする。孔子が「易有太極」と言い、太極が万物の基であるとしたことを、周廉渓は無極而太極として、太極は有るがその形は無いのだと説明し、朱子は「無形而有理」であると説明した。朱子によれば、無極とは極に形の無いことを意味し、その極とは太極のことで、太極を換言すると理だということになる。
太極動きて陽を生じ、動極まりて静なり。静にして陰を生じ、静極まりて復動なり。一動一静互いに其の根を為し、陰に分れ陽に分れて両儀立つ。陽変じ陰合して水火木金土を生じ、五気順布して四時行る。五行は一陰陽なり。陰陽は一太極なり。太極は本無極なり。五行の生ずるや各其の性を一にす。無極の真、二五の精、妙合して凝る。乾道は男を成し、坤道は女を成し、二気交感して万物化成す。万物生々として変化窮[きわ]み無し。
周廉渓は気一元論である。彼によれば太極は気であり、しかもその始めは形を持たない状態にあるとする。朱子は、太極とは理であり、気は理を乗せる器だと言う。太極を理とするのなら、上の「太極動きて陽を生じ」は理の動静で陰陽が生れる、となる。しかし朱子は、気は凝集し、営為し、万物を生成発育するが、理はいかなる能動的な働きをも持たないと言っているから、やはり一気の動静で陰陽が生れると解釈すべきだろう。そして、陰陽の変化が五行となる。五行が妙合して固まり、物が生れる、となる。この文では、「二五の精、妙合して凝る」とある。陰陽の二気、それは五行の気でもあるが、それを「精」と言い、この精が固まって初めて物となるとするのである。気には姿の無い状態と有る状態があり、五行がその分かれ目(五行にはそうの双方がある)である。それは魂魄に対する見方にも表れる。朱子は気を魂、身体を魄とする。人が思慮・計画できるのは魂の働きで、記憶・弁別できるのは魄の働きである。魂が尽きると身体は死ぬ。魂は形の無い気で、魄は形の有る気(形質)である。
ここで、周廉渓は気一元論だから、気自体が動いて陰陽五行となるので、理気の問題は無いが、朱子の解釈によれば、理が気を造るのか?という疑問が起こる。加地伸行は、陰陽は無極が具体化されたものであって、質料(matter)である。理は太極が具体化されたものであり、形相(form)であるとし、「無極にして太極」とは形相と質料との一致ということである。無極が陰陽という質料を、太極が理という形相を示す。そこで朱子は「太極(理)は形よりして上(形而上)の道なり。陰陽は形よりして下(形而下)の器なり」と解釈した、と言う。確かに、存在論から言えば、理は形相、気は質料と考えられる。そして、形相が質料自体を造ることは無いから、理とは別に気が存在すると見るべきだろう。理は道理として在る。気は万物を造るが、その際に理の通りに造るか否かは気次第で、理は生成自体には参加しないと考えられないだろうか?そうでなければ悪は生れる筈が無いし、天地は贔屓をしないと黙斎も言っている。それとも理が生成に加わって、悪も造ると言うのか?形相〔哲〕(idea; eidos ギリシア・form イギリス) 精神の眼で観られたかたちで、質料をして一定の現実的形態を採らせる原理。これを、プラトンは超越者とし、アリストテレスは内在原理とし、以後現代に至るまで哲学の基本概念の一つ。
質料〔哲〕(matter イギリス・hyle ギリシア・materia ラテン) 形式を具備することによって初めて一定のものとなる材料的なもの。アリストテレスは、質料を形相と共に存在の根本原理と考えた。例えば家の構造は形相で材木は質料。乾道は男を成し、坤道は女を成し、二気交感して万物化成す。万物生々として変化窮[きわ]み無し。
始めは気化によって物ができる。その後は形化によって万物が生じる。
惟人のみ、其の秀を得て最も霊なり。
男女二気の秀なるものを得たものが人、不秀なるものを得たものが物である。
山田慶児は以下の通り説明する。
朱子にとって、人間とは一気に他ならない。人間が生まれてくるとき、先ず気があって、それから形ができる。その後で精神・知覚が生じる。気には清濁があって、清んだ気は気となり、濁った気は質となる。動静の観点からいえば、清んだ気は陽に属し、濁った気は陰に属す。動的な知覚・運動は陽であって気の動きであり、静的な形体は陰、即ち質の働きである。
また、朱子は言う。人間や生物が生まれるときに受ける気の偏正は初めから異なる。しかも、偏正の中にも更に清濁ないし昏明の違いがある。偏正の点からいえば、正しくて通じた気を受ければ人間となり、偏って塞がった気を受ければ他の生物となる。清濁の点からいえば、人間は清なる気から成り、禽獣は濁なる気から成る。人間は正しい気を受けているから、道理を識り、知識を持つ。動物の中にも知を備えたものがいるが、ただ一つのことに通じているに過ぎない。例えば、犬は守ることができ、虎や狼は仁に通じ、蟻や蜂は義に通じてはいるが、ただ一つのことに通じているに過ぎない。動物なら一つのことに専念できるが、人間は何でもできるので逆に迷いが生じ易い。気質の違いは個体差にも現れる。
天道と人道はいずれまた
理気・無極太極について
朱子文集・語類より(抜粋)
o「いわゆる理と気とは全くべつべつのものです。ただ物についてみるなら両者は渾然として分かちがたく、それぞれ同じ場所にあります」(文集46、劉叔文に答える)
o「理について看るなら、物を構成する以前から、物の理は存在しているのです」(文集46、劉叔文に答える)
o「天地が出来る以前には、要するに理だけが存在するのである。理があるから、天地がある。もし理がなければ、天地もなく、人もなく、物もなく、全く何もかもなくなってしまう。理があれば気があり、あまねく活動して万物を発育する」(語類巻1)。
o「この世には理のない気はなく、気のない理もない」(語類巻1)
*理≠気 *理気不可分論
*理は物を構成する(理と気が結合して)以前から存 在した。
*理は物でないとしたら何か、物以前に存在したとは どういうことか。
*気は物であるといってよいか
*物=物質と考えて いいか。o「天地の間には、理と気があります。理は形而上の道であり、物を生じる根本です。気は形而下の器であり、物を生じる素材です」(文集58、黄道夫に答える)
o「そこで人や物が生じる際には、必ず理を受けて、はじめて本性がそなわり、必ず気を受けて、はじめて形体が備わります」(文集58、黄道夫に答える)
o「詩経に『天がもろもろの民をうむにあたっては、物があれば則(のり)がある』(大雅、蒸民篇)とあり、周濂渓は『無極の真と二五の精とが結合して凝縮する』といいました。ここにいう真とは理のことであり、精とは気のことであり、則とは性のことであり、物とは形のことです」(文集58、黄道夫に答える)
*理=形而上のもの=道=真=性=則*気=形而下のもの=器=精=五行 *物=形(理と気が結合して物という 形を取る)=形体
*二五の精とは、二気と五行のこと
*気は物質、理は宇宙(世界)の法則のように考えら れるがどうか。法則が物質=気の運動の反映である としたら、理はどういうことになるか。
*「この世には理のない気はなく、気のない理もな い」(語類巻一)という命題と『運動のない物質が ないように、物質のない運動はない』という命題と は、どういう関係にあるか。o「太極とは、まさに理の極地をいいます。理があれば、同時に物があり、そこには取りたてていうべき先後の順序はありません。それゆえ『易に太極あり』(易経、繋辞上)とあるのは、太極が陰陽の中にあって、陰陽の外にあるのではないということをいったものです」(文集37、程可久に答える)
o「気は必ず(陰と陽の)両(ふた)つから成り立っています。それゆえ易経に『太極は両儀を生ず』(繋辞上)とあるのです」(文集37、程可久に答える)
*太極は理の極地(理が一つになっている、一つに凝縮 しているさま)
*太極=理は、陰陽すなわち二つの気をつらぬいている。*気=陰陽=陰陽二気o「天地の間には、動と静の両端があって、たえず循環しているばかりで、その外には何もありません。それぞれによって来るべき理が必ず備わっています。これが太極というものです」(文集45、楊子直に答える)
o「私は以前、太極は体であり、動静は用であるとしましたが、この言葉にはもちろん欠点があります。その後改めて(太極図説解の中では)『太極は本然の霊妙性であり、動静は(太極が)乗ずる所の機(はずみ)である』としました」(文集45、楊子直に答える)
*理=太極=動静 *太極は体、動静は用……、いわゆる体用の考え方。o「無極にして太極とは、人が太極を一つの形体をもったものとしてみてしまわないことを憂えたために、それでさらに無極と説き、それが理にほかならないことを示したのである」(語類94)
o「無極にして太極とは、形がなくて理があると説くことにほかならない」(語類巻1)
o「(周濂渓が)さらに無極というのは、その無声無臭の妙をあらわすためです。けれども(太極図説に)『無極にして太極、太極はがんらい無極』とあるのは、無極の後に太極を生じて、太極の上に先ず無極がある、というのではありません。また『五行は陰陽にほかならず、陰陽は太極を離れない』とあるのは、太極の後に、別に(陰陽の)二気や(木火土金水の)五行を生じて、二気五行の上に先ず太極がある、というのでもありません」(文集45、楊子直に答える)
*無極≠太極……無声無臭、限りないというような意味 合いをふくめての、太極の形容。
o「理があれば気があって、(その気によって)あまねく流動し発育するが、しかし理は形態をもたない」(語類巻1)
o「(理気について)これはもともと、先後についてはいえないものだ。しかしその由来をきわめるとなると、先に理があるといわねばならない。しかし理は、別に一つの物としてあるのではなく、気の中にある。気がなければ、理はよりつく場がないのだ。気は金木水火であり、理は仁義礼智である」(語類巻1)
*理気不可分論・(不分離論)
*理先気後論・主理 論
*理気一元論への傾斜、気一元論と理の形而上的実 体論との分岐 *理は気を貫いている
*理=仁義礼智……理は自然を貫いているとともに、 人間の社会的意識(道徳、人倫)をも貫いている。 理=自然の条理=社会の条理
*気=五行=金木水土=物質的(実体的)
o「人が生まれるのは、理と気とが結合するからである」(語類巻四)
o「およそ人が、しゃべったり、動いたり、思慮したり、仕事したりすることができるのは、みな気によるものであるが、しかもそこには理がちゃんと備わっている。だから(人間の言語動作に)孝弟忠信・仁義礼智となってあらわれるものは、みな理なのである」(語類巻4)
*人の感覚・知覚、これにもとづく作用(実践)、反映 としての自然・社会に対する意識(概念の形成)は、 気によってだけでも説明されるように思われる。
*理=孝弟忠信・仁義礼智
*理=聖人を望む朱子哲学 の楽天性
o「清(す)んだ気をうけるものは、人となり、濁った気をうけるものは、物となる。たとえば、大きな鞴(ふいご)で鉄をとかすのに、上質のものは(下の方の)一つところにあり、かすは(あわのように)別のところにあるようなものだ」(語類巻17)
o「物は天地の備わった気をうけている。それゆえ禽獣は横向きに生まれつき、草木は(生存のもととなる)根が下に向かって生え、末端の方があべこべに上にある。動物でたまたま知識があることがあるが、これはただ一面に通じているに過ぎない。たとえば鳥が親孝行を知っており、川獺(かわうそ)が先祖の祭りを知っており、犬は番をすることだけができ、牛は耕すことだけができるといったようなのがそれだ」(語類巻4)
*人と物とのちがい=気の清濁*物=動物、植物
*清濁の差=行動・思 考の一 面化と多面化
*天地生成=ふいごの例に留意 のこと
o「天から受けた素質についていえば、やはり昏明清濁のちがいがある。よって最上の知者や生まれながらの知者の資質は、気が清明純粋であって、少しの昏濁もない。ゆえに生まれながらにして道を知り、努力しないで道を行いうる人は、学問をしなくても、それができるのである。たとえば、尭舜がそうである」(語類巻4)
*人と人との差異=気の清濁
*理は気を貫いているが、気の清濁によって差異?がで きる。格物致知の根拠と朱子学の楽天性
o「人の一身はもちろん父母から生まれたものです。けれども父母が父母たる根拠は乾坤(けんこん)にほかなりません」(文集36、陸子美に答える)
*父母たる根拠=乾坤=理
*乾坤の否定=仁義礼智へ通じる道の否定=天地に通じ る聖人への道の否定o問う、「天の道を立てて陰陽という(易経)。道とは理のことであり、陰陽とは気のことです。どうして陰陽を道とするのですか」。先生いう、「形而上のものを道といい、形而下のものを器という(と易経にある)」(語類巻77)
o「理は全く器に即してこそあるのであって、理と器とは離れたことはない」(語類巻77)
o「一陰と一陽とが交錯する、その根拠となるものが道なのである」(語類巻77)
o「この陰陽循環の秩序が道にほかならない」(語類巻77)
*道=理=形而上のもの
*気=器=形而下のもの=陰陽*形而上のものと、形而下のも のとは離れて存在できないと いう理解にたつ答え(理気不 可分論)。
o「程伊川が『理一にして分殊(分殊)』とうまく説いている。天地万物をまとめていえば理は一つであるが、人間にそなわるときは、各自に一つずつの理があるわけである」(語類巻1)
o「太極は、別に一つのものとしてあるのではない。陰陽に即しては陰陽にあり、五行に即しては五行にあり、万物に即しては万物にある。一つの理にほかならないからだ」(語類94)
*理一分殊論…理は気を貫いている…自然律である とともに社会律(道徳律)・自然を律するととも に、人間の意識、人間社会をも律している。
*理≠物(非物質的なもの)
モクサイ通信№31(2001.08)
NO.31 2001.08.12
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638
Eメール yv5h-imzk@asahi-net.or.jp
第31回モクサイを語る会まとめ
1、日時
平成13年7月27日(金)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
柏木恒彦、実川嘉一、 山口先生、後藤 宏
今関弘道
4、ふりかえり・おさらい
(1)「三講冬至文(p68の1行目)」~「我党の旨 訣のなり(p70の11行目)」(柏木恒彦)
以上を終了させた。
(2)「課題」:朱子の理気二元論による万物、天道、 人道について論議した。なお継続の必要あり。
(3)モクサイを語る会の場所、時間の再設定につい て話し合った。観点は、一回り輪を大きくすること。
(4)語句と意味
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):意味。
o「符読書城南一篇足る」(p46の3行目):出典。
o「奉誦す~不克征」(p50の5行目):読み方。
o 斎藤主税(p61の9行目):
o 渋谷丹右ェ門(p61の10行目):土佐の人、阿波 藩に仕えた。元文5年没、79歳。
o 後藤松軒(p64の8行目):三河の人、江戸中期 の儒者、会津藩に仕えた。没年86歳。瞽者(こ しゃ、盲目の人)であった。
o 堪忍大明神(p65の17行目):
以上前回以前の留意事項
o 源遠にして末益々分る(p66の16行目):出典は礼 記祭儀
o 伯者めいた(p67の11行目):聖人ではなく、しか し権力を持っている。欲に染まった人、孟子に王覇の 人という言い回しがある。
o 一六談柄(p68の1行目):冬至の日。毎月一と六 のつく日。この日は、休日・稽古日・寄合日・講釈日 などであった。一六日。一八七六年(明治九)以後、 官公署は日曜休日となった。
o 談柄(p68の1行目):はなしのたね。話柄。
o 昇平(しょうへい)(p68の5行目):升平とも、国 運が盛んで、世の中が平和に治まっていること。
o 外面皮毛の商量(p68の6行目):うわべを飾っ てあれこれ考える
o 汗出赤発(p68の6行目):発するものが何もなく、 汗がでるだけ。赤面の至り。
o 信深ければ(p68の8行目):信心深ければ
o 消息ありて(p68の9行目):様子があるといって
o 左国史漢(p69の4行目):春秋左氏伝、国語、史 記、漢書
o (p69の6行目):カン(いとへんに丸)羅=綺 羅:あやぎぬとうすぎぬ。美しい衣服。
o 提撕(p69の10行目):ひっさげること。儀後進者 を教導すること。奮いおこすこと。盛んにすること。
o 日新(p69の11行目):日々に新しくなること。毎 日旧来の悪習を改めること。
o 滑稽発句、俳諧歌(p69の15行目):滑稽味を帯び た和歌の一体。万葉集の戯笑歌の系統をひき、古今集 巻一九に誹諧歌として多くの作を収める。ざれごとう た。はいかいうた。鹿都部真顔(シカツベマガオ)が一八 ○八年(文化五)頃から主張した狂歌の作風。天明 調狂歌の方向を是正するため、古今集以来の俳諧歌に 依拠しようとしたもの。
o 歳旦(p69の16行目):[後漢書呉良伝] 新年の第一日。元日。元旦。季・新年。歳旦を祝う句。歳旦開きで披露する句。
o 寄合(p71の12行目):会合。集会。 戯連歌・俳諧で、前句の中の詞(コトバ)と縁のある詞。例えば、松に鶴、柳に燕。「―付(ヅケ)」
o 東都(p69の16行目):東方の都。特に、江戸ま たは東京を指す。
o 実験(p69の17行目):[顔氏家訓帰心] 実際の 経験。
o 格致(p70の2行目):格物致知、学問・修養法 の一。朱子学では、後天的知を拡充(致知)して 自己とあらゆる事物に内在する個別の理を窮め、 究極的に宇宙普遍の理に達する(格物)ことを目 指す。陽明学では、先天的道徳知としての自己の良 知を十分に発揮(致良知)し、それによって物事 に正しく処する(格物)ことを目指す。
o 陳師徳(p70の3行目):
o 朱明孫(p70の4行目):
o 節要(p71の18行目):朱子書節要、李退渓
o 集註(p72の1行目):しっちゅう、読み。
懇親
よく遊びよく学ぶ。
土屋さん、房一さん、田原さん、戸辺さんの都合がつかず。ちょっとさびしい会になりました。山口先生、柏木さん、後藤さん、カイッチャン、それに僕の五人、頑張りました。
もう少し、足腰の強い語る会にする必要があるように思います。そのような観点から、懇親の席上、会場を成東の菜の花会館といったところに移して、語る会も土曜日に持ってきたらどうか。そうなれば、外的要因に左右されずに、スケジュールの組み方で、参加の条件を作ることが出来るのではないか。このような話が出ました。かつて、トサキの嘉一邸のはなれをという話があったけれど、同じような性格を持つ問題の提起でした。検討してみる必要があるように思います。
次回開催日程
1、日時 平成13年8月24日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「冬至文は附録を(p70の11行目)」~「此の如く 厳なるものか(p72の13行目)」(土屋幸恵)
4、第五講関連レポート
理気哲学について:前回の続き。「特集号」30号を持 参ください。問題の所在は、理と気の関係、理と気は 物質的なものなのか、それとも非物質的なものなの か。物質的、非物質的とはどういうことなもななどな どです。
5、次回レポーターの確認
6、モクサイを語る会について。その他必要 なこと
7、懇親会
儒学・道学の基本的概念と哲学上の観点について
陰陽・気・五行を考える(1)
陰陽・気・五行ということばが、いつの時代に発生し、誰によって唱えられたかというようなことについては、分かっていない。発生の起源は殷周時代にさかのぼることが出来るのだろう。たとえば、陰陽という言葉は、詩経の大雅篇に「其の陰陽を相(み)、其の源泉を観(み)る」という一節があり、山の日陰になる場所と、日の当たる場所を見て、流れる川の状況、用水の便を推察するという意味に訳されている。自然という外界を反映した素朴な概念として成立したことが分かる。
陰陽・気・五行ということばが一人歩きをする、概念として発展するのは、春秋戦国時代からである。いわゆる諸子百家の時代、百花斉放、百家争鳴といわれる如く、古代中国思想の花開いた時代、神話による世界解釈からの決別の時代である。この時代になると、誰があるいはどの集団がどのような学説をたてたのか、その中で三つの概念がどのように使われたのかが明らかになってくる。陰陽・気・五行ということばが、概念として発展を開始ししたということでもある。
諸子百家の時代は、殷周革命を経て、奴隷制的社会から、封建制的社会への移行期、あるいは別の角度から見るならば、氏族共同体の解体の時代にあたる。春秋戦国時代から秦漢の中央集権的・専制国家の成立に至るまでの混乱期、政治・経済体制の再編成期にあたる。社会体制の変革期における自由な一時期、当然にも社会の様相としては、激烈な階層分解、上向・下向運動、いわゆる下克上のを伴うのであるが、この社会的変革期の中で、相対的な自由を獲得した思想家群こそが、諸子百家に他ならない。諸子百家が、それぞれの階級ないしは階層の利益を代表したことは推測にかたくない。
モクサイ通信№32(2001.09)
NO.32 2001.09.28
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638
Eメール yv5h-imzk@asahi-net.or.jp
第32回モクサイを語る会まとめ
1、日時
平成13年8月24日(金)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
柏木恒彦、実川嘉一、 田原哲三、後藤 宏
斉藤房一、今関弘道
4、ふりかえり・おさらい
(1)「冬至文は附録を(p70の11行目)」~「此の 如く厳なるものか(p72の13行目)」(今関弘 道)
以上を終了させた。
(2)理気二元論について
二回にわたる理気二元論の討議の中で、朱子学の枠内において確認される、概念の相互関係は次のようです。理ないし気という概念が物質的なものを意味するか、あるいは非物質的なものを意味しているのかに付いては、なお検討の結果を待ちたいと思います。
★理……形而上のもの、太極、乾坤、道、性、真、則、 仁義礼智、孝弟忠信etc
★気……形而下のもの、器、精、五行、金木水土、陰 陽、陰陽二気、人欲etc
★理気の関係……理気不分離論(不可分論)、理先気 後論(主理論)
★理気一分殊論……理は気を貫いている。
★人と物(動物、植物、鉱物)との違い…気の清濁
★人と人との違い……気の清濁
(3)語句と意味
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):意味。
o「符読書城南一篇足る」(p46の3行目):出典。
o 斎の日思居処思笑語(p66の19行目):出典は礼 記祭義。
o 源遠にして末益々分る(p66の16行目):出典
o 消息(p68の9行目):しょうそこ、読み
o 陳師徳(p70の3行目):
o 朱明孫(p70の4行目):
以上前回以前の留意事項
o 奥書(p70の9行目):著述・記録などの末尾につ けた由緒書。著作・筆写・伝書の年月日、著者・筆者 の氏名・来歴などを書き記す。
o 易簀 えきさく(p70の9行目):曾子が死に臨ん で、季孫より賜った大夫用の簀(スノコ)を分不相応だ として易えた故事(礼記檀弓上)、 病床をとりかえる こと。転じて、学徳ある人の死。
o 谷(p70の10行目):谷重遠
o 水損旱損(p70の13行目):洪水干害、天下を憂え ることか
o 西銘(p70の13行目):張横渠の書、張横渠
o 無跡(p70の5行目):跡を残さない、無口、寡黙
o 高明正大(p70の7行目):高くて明らかな、正し く大きなさま。意志・言行が、正しく堂々としている こと。
o 疎暢洞達 そちょうどうたつ(p70の7行目):の びのびと通った性格を持ち、識見・技能に通じてい る、道に通じている。
o 折戸京二(p70の8行目):鈴木兵衛門、上総八子
o 不気象(p70の8行目):心持ち悪い、気持ち悪い
o 品題(p71の2行目):品定め
o 邪態(p70の7行目):読み
o 群小(p71の4行目):多くのとるに足りないもの。 多くの凡人。
o 陰類(p71の4行目):明らかでないもの、暗いも の
o 伊川人の為に執ると、朱子の云わるる場だけ(p71 の11行目):伊川が人の為に執ると、朱子が云われた ところだけ
o 気習ある(p71の12行目):気に習う、気質の性 にならう。
o 父師(p71の13行目):迂斎
o 疎通・疏通(p71の16行目):さわりなくとおる こと。ふさがっているのを開き通すこと。意思の通 ずること。条理のよくとおること。
o 周密(p71の16行目):注意・心づかいなどが、 細かい所までゆきとどくこと。
o 気散じ(p70の7行目):気の散っていくこと、 心の憂さをまぎらすこと。きばらし。
o 朱解の後一人(p71の18行目):石原先生のこと
o 徳輕此の如し(p71の18行目):徳の軽きこと、 徳は重いものではなく、羽のように軽くさらりと しているもの
o 怡楽(いらく)(p72の1行目):よろこび楽しむ こと
o 悚動=竦動(しょうどう)(p72の1行目):慎み かしこまること
o 興国寺(p72の5行目):
o 修敬録(p72の9行目):酒井修敬、凡そ七道
o 鋒鋩(p72の10行目):気性や言葉の鋭いこと
o 持敬涵養(p72の10行目):身を慎んで徐々に 育っていく
o 售り(p72の12行目):うり、読み。
o 菅野(p72の13行目):
懇親よく遊びよく学ぶ。過ぎたるはなお及ばざるが如し。
前回、今回、おそらく次回も含めて胸突き八丁という感があります。孔子、孟子から朱子に至る道統の学を踏まえての、モクサイすなわち藤門学派の主張がなされ、しかもベースとして理気二元論が引きつけられている、という事情によるのだろうと思います。
僕らは学者ではないし、聖人を目指すを意思確認して、集まりを持っているわけではないけれど、上総道学についてよりよく知りたい、理解したいという欲求は基本的にあります。
焦ったところでどうしようもないこと、一人一人が頑張って、その上でお互いに知恵を出し合っていく以外にないということでしょう。三人よれば文殊の知恵、「世界がぜんたい幸せにならないうちは個人の幸福はあり得ない」といったのは宮沢賢治でした。
とはいっても癪だから?!「凡そ七道」あたりを詰めるべきだ、なんて考えたりします。柏木さんのレポート(ダイジェスト)はすでに持っているのだけれど……。
次回開催日程1、日時 平成13年9月28日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「佐藤子顔子家訓(p72の13行目)」~「面白き話 なり(p774の7行目)」(後藤 宏)
4、第五講関連レポート
お休み
5、次回レポーターの確認
6、モクサイを語る会について。その他必要 なこと
7、懇親会
儒学・道学の基本的概念と哲学上の観点について
陰陽・気・五行を考える(2)
陰陽・気・五行という概念は、長い中国思想史あるいは哲学史の中で発展してきた。時代によって、また論者によって、あるいは社会的立場によって、これらの概念の解釈の仕方は違うのだけれど、世界を説明する概念として使用されてきたということでは一致している。
現代において、これらの概念がどのように説明されているか、広辞苑によると次の通りである。「陰陽、中国の易学でいう、相反する性質をもつ陰・陽二種の気。万物の化成はこの二気の消長によるとする」、「気、天地間を満たし、宇宙を構成する基本と考えられるもの。また、その動き。風雨・寒暑などの自然現象。万物が生ずる根元。(全般的に見て) 精神」、「中国古来の哲理にいう、天地の間に循環流行して停息しない木・火・土・金・水の五つの元気」。
このような説明の中では、気がキーポイントになると思う。朱子の理気哲学においては、気=陰陽=五行としてとらえている。この場合、気は物質的なものであるのか、非物質的なものであるのか、別れるところでもある。どちらかといえば、物質的なものとしてとらえる論の方が多いのではないか。
モクサイ通信№33(2001.10)
NO.33 2001.10.10
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市1612
TEL (043)485-7638
Eメール yv5h-imzk@asahi-net.or.jp
第33回モクサイを語る会まとめ
1、日時
平成13年9月28日(金)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
柏木恒彦、実川嘉一、 斉藤房一、 後藤 宏
今関弘道
4、ふりかえり・おさらい
(1)「佐藤子顔子家訓(p72の13行目)」~「面白 き話なり(p774の7行目)」(後藤 宏)
以上を終了させた。
(3)語句と意味
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):意味。
o「符読書城南一篇足る」(p46の3行目):符読書 於城南…「符、書を城南に読む」。韓愈の詩。符は 韓愈の子。城南は韓愈の別荘のあった所。子の符 がまだ幼年の時に、学問をするにあたって勤学を 勧めた詩。元和11年秋の作。但し、子供への教え とは言え、学問をすれば利禄をも得ることができ ると言うところで、評価が分かれている。(柏木 恒彦)
o 源遠にして末益々分る(p66の16行目):出典
o 陳師徳(p70の3行目):李退渓の門下
o 朱明孫(p70の4行目):李退渓の門下
o 興国寺(p72の5行目):
o 谷(p70の10行目):谷秦山:1663~1718 名 は重遠、通称丹三郎、土佐の人。山崎闇斎、次い で浅見絅斎に師事、崎門の学を究め、野中兼山失 脚後、南学を復興し、その門流に多くの人材を輩 出し、維新における土佐藩活動の源泉をなすに 至った。秦山は神道をも究め、闇斎、絅斎の名文の学 を発展させた。
o折戸京二(p70の8行目):松尾に折戸(おっと)と いう地名がある。
o不気象(p70の8行目):ぶきしょう、読み。
o菅野(p72の13行目):菅野兼山 すがのけんざん
佐藤直方に十四歳で入門、三宅尚斎に師事。七十歳で 没。
1680-1747 江戸中期の儒者,闇斎(あんさい)学 者。武蔵(むさし)の人。三宅尚斎(しょうさい)・ 佐藤直方(なおかた)に学ぶ。将軍徳川吉宗の時,幕 府の財政的援助を受け,江戸の深川(ふかがわ)に 私塾会輔堂を創設し,儒学によって武士・庶民を教導 した。半官半民の学校の初めで,大坂の懐徳堂(か いとくどう)の先駆となった。マイペディア97
以上前回以前の留意事項
o 顔子家訓(p72の13行目):顔之推 がんしすい
531-590? 中国,六朝末の学者,文人。戦乱と貴族 社会解体の時代に流浪生活を送り,諸王朝に仕えた。 その著《顔氏家訓》は家族生活を中心とした実際的訓 戒を示し,六朝史研究の好史料。顔師古は孫,顔真卿 は5世孫。マイペディア
o 大学或問(p72の14行目):
o 行宮便殿(p72の14行目):
o 通鑑(p72の15行目):資治通鑑 しじつがん
中国の史書。宋の司馬光の編著。本文294巻。英宗 の援助を得て,1066年―1084年に完成。前403年 (戦国時代)から959年(五代末)の史実を編年体で 記す。史料は正史のほか実録から小説まで322種の 書を参考にしている。開巻第一に名分論があるごと く,本書の目的は君臣の義を明らかにして治政に資せ んとするところにあった。マイペディア
o 南軒(p72の17行目):張南軒:1133~1163 張 ショク、道学を理解し、朱子の学友としてあった。二 人はほぼ一致した見解を持っていた。
o 元晦(げんかい)(p72の17行目):朱熹 朱子と 尊称。字は元晦(げんかい),晦庵などと号した。
o 若林(p72の18行目):若林強斎:浅見絅斎の門 人
o 東莱(p73の3行目): 呂東莱:名は祖謙。字は伯 恭。宋代官界で代々要職を勤めた家系。朱子の講 友。鵝湖の会の主催者。近思録の共同編纂者。 1137~1181
朱子の学友、張南軒により引き合わせられる。朱子 とは学問の傾向を異にしていたが、道学には強い 関心を抱いていた。朱子と共同で近思録十四巻を まとめた。
朱子は、呂東莱が六経、論語、孟子などより史記を 称揚していることをもって、歴史を語るだけで、心 を養い身を修めること(居敬)を放棄していると批 判した。
o 呂居仁(p73の8行目):朱子の門下?
o 土佐(p73の8行目):土佐、長島、新発田の諸 侯は迂斎の門に入り子弟の礼を取る。唐津、館林、 筑前、秋田、阿波、亀田、岩村、大多喜の諸侯も賓 礼をもって迂斎を遇した。
o 谷丹三郎(p73の8行目):谷重遠、通称丹三郎、 土佐の人
o 箕浦宇源(p73の13行目):土佐藩の儒者
o 中山伝左衛門(p73の13行目):秋田藩の儒者
o 大内忠太夫・水野・迂斎の関係(p74の3~7行 目):
懇親よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。
あまりいいニュースがない。目には目を、歯には歯を、仕返しは目と歯だけにとどめる。このような意味があったと朝日の解説。21世紀のブッシュの思考はどのような距離にあるのか、そしてネズミオトコ君の距離は。北欧では対外平和と対内福祉が国是、いわば国の哲学。70歳有料化、受験地獄の放置、規制緩和、いわば弱肉強食、ウバステの論理、住みずらい世の中だね。ワクイ、われわれを除くと客は二人だけ、食の安全については論をまたない。さしあたり、消費者は食べないでしのげる、牛飼いはどうしのぐか、焼き肉屋はどうしのいでいくのか。テレビで焼き肉を食って見せるのが能ではない。
さて、僕らのモクサイを語る会、初めての後藤さんのレポート、分かりやすくていい。読み下しを踏まえての、モクサイの言わんとするところの解釈、これを自らに引き付けてレポートするという思考が、分かりやすさにつながっているように思うね。
ヒットというべき、いやランニングホームランかな。喉に刺さった小骨、まさか韓愈とは、入り口がインターネットとはね。柏木さんは、相変わらず先頭を走ってる。僕らは鼻先、頭一つ、一馬身、二馬身……?!、でもそれぞれの持ち味があるからいいか。
次回開催日程
1、日時 平成13年10月26日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「乙卯(p74の11行目)」~「実心実功と云もの(p 76の2行目)」(斉藤房一)
(2)「何となく道を(p76の2行目)」~「吾友如何々々 (p77の6行目)」(実川嘉一)
4、第五講関連レポート
お休み
5、次回レポーターの確認
6、モクサイを語る会について。その他必要 なこと
7、懇親会
儒学・道学の基本的概念と哲学上の観点について
「気は第一あるいは原初の意味もあるが、それよりもっと本根(荘子の語)の意味がある。主としてそれは論理分析による推論から引き出されたものではなく、それは感に多く頼っているからである」(東洋思想と新しい世紀、謝遐齢)。感とは直観であり、直観は物質世界の反映としてあるというとらえ方だろうと思われる。
「気とは気体であり、物質の最小構成単位であり、生命を担い、精神を活動させるものである」(老荘を読む、蜂屋邦夫)
「中国古代の書物には、気がたくさん出てくるが、気という概念の発明は、中国の思想に奥行きを与え、豊かなものにしたと同時に、曖昧でわかりにくいものにもしてしまった。気は、まことに神秘的な存在であるというほかない」(同上)。
気が神秘化する場合は、気を非物質的なものとしての位置づけが与えたられた時ではないか。
モクサイ通信№34(2001.11)
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市六崎1612
TEL (043)485-7638
Eメール yv5h-imzk@asahi-net.or.jpNO.34 2001.11.21
第34回モクサイを語る会まとめ
1、日時
平成13年10月26日(金)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
柏木恒彦、実川嘉一、 後藤 宏
今関弘道、山口先生、土屋幸恵
4、ふりかえり・おさらい
(1)「乙卯(p74の11行目)」~「実心実功と云も の(p76の2行目)」(後藤 宏)
(2)「何となく道を(p76の2行目)」~「吾友如 何々々 (p77の6行目)」(実川嘉一)
以上を終了させた。
(3)語句と意味
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):意味。
o 源遠にして末益々分る(p66の16行目):出典
o 興国寺(p72の5行目):
o 大学或問(p72の14行目):
o 行宮便殿(p72の14行目):
以上前回以前の留意事項
o 大内忠太夫(p74の3~ 7行目):水野忠邦に 仕える儒者
o 謾書(p74の10行目):
o 謾:あざむく、あなどる、軽んじる
o 大哉聖人の道(p74の11行目):大なる哉聖人の 道、中庸第十五章
o 待其人而行る(p74の12行目):その人を待っ て而して(後に)行われる、中庸第十五章
o 道不遠人(p72の14行目):道は人に遠からず、 中庸第三章
o 不誠無物(p75の2行目):誠ならざれば物無し、中 庸第十四章、誠によって、誠実に行うのでなければ物 事は成り立たず、存在しないのだ
o 天命性(p75の5行目):天命謂性、天の命じるこれ 性と謂う、中庸第一章
o脩道之教(p75の7行目):道を脩むるをこれ教えと 云う、中庸第一章
o 西銘(p75の13行目):張横渠の書、転じて張横渠 のこと。書斎の西側に掲げた文章で「天地は我が父 母、人類は我が同胞」という、四海同胞、万物一体の 考え方を述べたもの。朱子が注釈して「西銘解義」一 巻として刊行。
o 訂頑(p72の14行目):ていがん、頑なをただす。西 銘のもとの名前、伊川が変えさせた。
o 末世(p76の2行目):上代を理想の世とし、今を道 徳の衰えた末の世とする言い方
o 不越言語文字の間(p76の5行目):言語文字の間に 越えず、中庸章句序第六節
o 記誦詞章(p76の6行目):文章の暗誦と美文の修辞、 大学章句第四節
o 中和を致すれば(p75の10行目):中和を致して天 地位し、万物育す、中庸第一章
o 博施済衆(p76の9行目):博く施して衆をすくう= 博く民に施してよく衆をすくわば、如何、仁と謂うべ きか。論語雍也30
o 手足を啓(ひら)き、今にて免る(p76の10行目): 論語泰伯第八
o 朝=あしたに道を聞きては(p76の12行目):論語 里仁第四八
o 好学論を学ぶは以て聖人の道に至る也(p76の12行 目):近思録為学
o 経済(p76の13行目):[文中子礼楽]国を治め人民 を救うこと。経国済民。政治。
o 宰相は命を言わずと云うは(p76の14行目):宰相 は天命(誠、性)といわず、為学につとめるという意 だろう。
o浩然(こうぜん)の気(p76の19行目):孟子公孫 丑上「我善養吾浩然之気」天地の間に満ち満ちている 非常に盛んな精気。俗事から解放された屈託のない心 境。
o四端(したん)(p76の19行目):[孟子公孫丑上]
仁・義・礼・智の道に進むいとぐち、すなわち惻 隠・羞悪・辞譲・是非の四つの心。孟子は人は生れ ながらにしてこれを持つとして性善説を立てた。
o 伯夷・叔斉(p77の2行目):殷の処士。孤竹君 の次子。伯夷はくいの弟。父に自分を世嗣にする心 があったが、弟であるというので受けなかった。周 の武王が殷の紂王を討つに当って、伯夷と共に、臣 が君を弑する不可を説いて諫めたがきかれなかっ たので、周が天下を統一するや、その粟を食らうこ とを恥じて首陽山に隠れ、わらびを食って共に餓 死したと伝える。
o 柳下恵(p77の2行目):魯の賢大夫
よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。懇親
今回の房一さんと嘉一さんのレポートで、第四講を終了させることが出来ました。これでモクサイの冬至文講義録の読み下しを第一講から第五講まで、何とかやり遂げたことになります。凡そ四年の歳月が要されています。僕らの語る会、蝸牛の歩みの如くという表現がぴったりです。あっちへ突き当たり、こっちでつまずき、今でもよく分からないところが少なくありません。それでも続いてきたということは、あの魅力ある懇親会のせいだけではない、モクサイへの関心が深まりつつあるのだろうと思います。上総で生を終えたモクサイと、モクサイを囲む人たちの、江戸から明治へと移りつつある時代の中で、生き方をかけて真摯にきり結ぶ姿が、おぼろげながら見えてきたのかも知れません。加えて、モクサイを通してではあっても、古学を含めて日本朱子学をかいま見ることの出来るのも、大きな魅力なのだろうと思います。論語に古きを温(たず)ねてとありますが、僕らにとっての日本朱子学は、これから世を渡っていくについて、とても大事なものを含んでいるように思われます。過去を知ることなしには現在を確定できないし、したがって未来をも推し量ることは出来ないということなのでしょう。さらに日本朱子学は、朝鮮、中国へと広がりを見せ、好むと好まざるとにかかわらず、僕らを東洋哲学というような世界に誘っていきます。僕らが西洋哲学をきちんと学んでいるということではないけれど、明治維新以来の西洋文化の導入という流れの中では、このことは大きな意味を持っています。
下学上達、孔子の教えもあることだから、あんまり飛び上がったことを言うと、モクサイに叱られそうですが、モクサイを通して、いわば時代の知的好奇心というようなものを、僕らなりに広げていくことは、許されることだろうと思います。
田原さんに印刷して貰った第一講から第五講までの冬至文講義録、赤い線があっちこっちに入り、書き込みで大分汚れ、表紙が取れそうになっています。いわば、僕らの勲章のようなものです。
今回で、講義録自体は終わったことになりますが、モクサイの付した三子の遺文、直方の迂斎にあてた手紙、そして凡そ七道があります。このうち三子の遺文は消化したのだけれど、後の二つの文は柏木さんのダイジェストで止まっています。今回の語る会では、この二つの文をやって、モクサイの冬至文講義録を終了させることにしようと決めました。エネルギーの再生産があったのだろうと、これは誇りにしていいことのように思っています。いま11月だから、終わるのは年を越すかも知れません。来年にかけて、これまでの読み下しを踏まえての、柏木さんの冬至文講義録の定稿、そして次は何をするか、気が早いけれども、二つの課題を楽しみにしながら、いい感じで年を越すことが出来そうです。
次回開催日程
1、日時 平成13年11月22日(木)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「佐藤子江戸より(p5の11行目)」~「寛政戊午冬至……(p6の5行目)」(柏木恒彦)
(2)「佐藤先生冬至文附録(p6の11行目)」~「可慮々々(p8の15行目)」(実川嘉一)
4、次回レポーターの確認
5、その他必要 なこと
6、懇親会
モクサイ通信№35(2001.12)
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市六崎1612
TEL (043)485-7638
Eメール yv5h-imzk@asahi-net.or.jpNO.35 2001.12.07
第35回モクサイを語る会まとめ
1、日時
平成13年11月22日(木)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
柏木恒彦、 後藤 宏、田原哲三、今関弘道
4、ふりかえり・おさらい
(1)「佐藤子江戸より(p5の11行目)」~「寛政戊 午冬至……(p6の5行目)」(柏木恒彦)
(2)「佐藤先生冬至文附録(p6の11行目)」~「可 慮々々(p8の15行目)」(今関弘道)
以上を終了させた。ただし欄外の説明については、次回まわしとした。
(3)語句と意味
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):
o 源遠にして末益々分る(p66の16行目):出典
o 興国寺(p72の5行目):
o 大学或問(p72の14行目):朱子著
o 行宮便殿(p72の14行目):朱子著
o 謾書(p74の10行目):拙著というような意味
以上前回以前の留意事項
o 佐藤子江戸より(p5の11行目)~寛政戊午冬 至……(p6の5行目):直方から迂斎にあてた手 紙の読み下しについては、さしあたり稲葉黙斎顕 彰行事で渡された、田原さんのレポートを参照の こと。
o 天木時中(p6の13行目):元禄九年(1696)生 まれ。名は時中、通称は善六、はじめ越智氏を称 した。享保三年(1718)三十三歳の時に佐藤直方 に入門するが、翌年に直方は死去。その後、三宅 尚斎に師事。元文元年(1736)四十一歳で亡くなる。
o 謹厚卑陋(きんこうひろう)(p7の3行目):慎まし くも狭い
o 輯略(しゅうりゃく)(p74の10行目):とりまとめ ること
o 胸次擾々昏塞滞礙 きょうじじょうじょうこんそくた いがい(p7の9行目):胸中はさわがしく、くらく ふさがり、とどこおり前に進まない
o 次:宿ること。泊ること。
o 礙(がい):碍の本字、さまたげること。さえぎるこ と
o 鹵莽(ろもう)(p7の11行目):軽率で不用心なこ と。事をなすのに粗略なこと。粗忽。
o 王梅渓文集の(p7の14行目):
o 庸常(p7の14行目):かわらない、つね
o 易説を推す(p7の14行目):易経を学ぶ
o 雷霆(らいてい)(p7の15行目):読み
o 瑣細(ささい)(p7の18行目):とるにたりない
o 磊々(らいらい)落々(らくらく)(p7の18行目): 心が大きく物事にこだわらない
o 繊芥(p7の17行目):こまかい
o 方物(p7の18行目):識別する
o 撃慇?(p8の1行目):
o 心廣体胖(はん)(p8の5行目):心が広く豊かなこ と
o 吟風美日?(p7の6行目):
o 珍快 ちんかい(p8の13行目):読み
懇親よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。
今回の出席は田原さん、柏木さん、後藤さん、そして僕の四人。土屋さんとカイッチャンは、町長選が尾を引いて?酒は百薬の長よろしく、頑張らざるを得ない状況があるらしい。房一さんは会計検査、JA山武の実質的責任者の一人、致し方ないね。山口先生は明後日に「稲葉黙斎顕彰行事」をひかえて忙しい。「黙斎学会」の会長だからね。ということで四人で頑張った。はじめは迂斎にあてた直方の手紙、江戸かな文、そうろう文、どうなることか。さすがは柏木さん、桜木さんにも相談したりして、準備万端おこたりなく、胸のつかえが下りたよう、とてもよかった。天木時中のところは僕のレポート、こちらはみんなに助けられながら、何とか切り抜けることが出来た。三人よれば文殊のというけれど、地でいったような課会だった。
追伸
11月25日PM1:00,場所は成東町文化会館のぎくプラザ、山口先生と教育委員会が主催する「稲葉黙斎顕彰行事」、われわれモクサイを語る会のメンバー、戸辺さんをのぞいて全員参加。山口先生の挨拶の後、桜井計敏さんの「稲葉黙斎先生と鵜沢近義」と題する講演を聴く。近義は桜井さんの六代さかのぼった先祖、代々続いた名主の家系。黙斎の農村における依拠した階層が伺えたりして、それなりに面白かったと思う。講演が終わって、元倡寺にお墓まいり、そのあと山口先生を含めてモクサイを語る会で、結城屋に流れて懇親。先生の方からあらためて、冬至文講義の読み下しが終了するを踏まえて、記録にとどめておいたらいいのではないか。それを受けて来年は頑張ろうかという話。あるいは次のテキストには何を選ぶかという話。どうしてそうなったか忘れたけれど、佐野学、福本和夫、はては実川清をめぐる話など。懇親会もまた、なかなかのものだったといえるね。
西極天馬の歌(抜粋)
太初四年、大宛の王を誅し大宛の馬を獲て作る
天馬来る 西極よりす
流沙を渉り 九夷服しき
天馬来る 泉水より出ず
虎の毛並みに似て 変化鬼神の如し
天馬来る 草なき道をへ
千里を渉り 東への道を至る
天馬の来たりしは 執徐の時
まさに高くのぼらんに 誰とともにかこれを期せん
天馬の来るを はるかに遠く門を開きて待つ
願わくはわが身をたかくあげて崑崙に逝かん
すでに天馬の来れるは これ竜の至るしるし
(李延年) o李広利の大宛(フェルガナ)遠征
李広利の第1次フェルガナ遠征は失敗するも、前102大2次遠征は成功、都貴山城を落とし、汗血馬3000頭を引き連れて帰る。
次回開催日程1、日時 平成13年12月21日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「出渕立恒自責(p8の16行目)」~「但勿急迫(p 10の15行目)」(後藤 宏)
(2)「酒井修敬録(p10の20行目)」~「致思而勉励 也(p12の15行目)」(土屋幸恵)
4、次回レポーターの確認
5、その他必要なこと
6、懇親会(忘年会)
モクサイ通信№36(2002.01)
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市六崎1612
TEL (043)485-7638
Eメール yv5h-imzk@asahi-net.or.jpNO.36 2002.01.20
迎春
平和で豊かな世の中になることを願って、モクサイを語る会ともども頑張っていきましょう。
本年度の課題について
謹賀新年
モクサイを語る会、かなり定着してきたように思います。冬至文講義録、凡そ七道なども含めて、まもなく終了させることが出来ます。5年以上の歳月をかけて取り組んできた、形の上にあらわれた成果、定着の証とも思います。
日本朱子学とはどういうものであったのか、明治以前の日本文化あるいは思想形成の中で、日本朱子学はどのような役割を果たしてきたのか、ひるがえって上総道学が僕らの住んでいる地域に与えた影響とは何だったのか、まずはモクサイを通してその入り口を通過しつつあるように思います。加えて、中国哲学の集大成とも云われる朱子学そのもの、そしてその向こうにある東洋思想に分け入る、かすかな手がかりを掴みつつあるのではないか、とも思います。4~5年の取り組みで、過大な自己評価をするのは、口幅ったいことを云うのは、モクサイの教えるところではないけれども、歩んできた道筋だけは確認できます。誇りにすることも出来ます。
2002年の春を迎えて、僕らの為すべき事は何か。第一には、冬至文講義録をきちんと終了させることでしょう。百里を行くものは九十里をもって、最後が大切だと思います。第二には、冬至文講義録の読み下し文、第一講から第五講までの読み下し文を定稿化することだと思います。この作業を通じて、あらためてモクサイを振り返り、これまでの学習の総括をすることが大事です。第三には、一段とレベルアップする見地から、新しいテキストの選択をし、これへの取り組みを強めることでしょう。何を選ぶか楽しみです。
なお課題をあげるとすれば、第一から第三までの、取り組みの観点に沿った形で、およそ次の事柄をあげることが出来ると思います。
(1)定稿化された読み下し文をどうするか。この課題は相当なエネルギーを要するでしょうし、経済的な要素が絡みます。
(2)モクサイの取り組みにあたって、山口先生の蔵書・目録を意識的かつ組織的に活用することが必要ではないか。宝の山、上総道学の森の中にに手ぶらでは入っていけない。モモタロウで云えばキビダンゴのようなものです。
(3)多様な形で輪を広げていくこと。昨年と一昨年、会として、モクサイの集いに参加しました。こういった経験を踏み台にして、さらに地域をはじめ関係機関・組織の掘り起こしを追求していくことが出きればと思います。
もう一つは、モクサイを語る会のこと、後藤さんの参加で活気づいたことは周知の通り。しかし、僕らのメンバーは桜木さんを含めて10人いるのだけれど、時としては4人ぐらいになる、これはさびしい。地域の知恵をもっと探し当てる必要があると思います。
(5)会員相互の意志疎通をいかにして図っていくか、昨年に引き続いた課題です。モクサイ通信の充実、パソコンの有効的な利用、考えていきましょう。
モクサイ通信№37(2002.02)
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市六崎1612
TEL (043)485-7638
Eメール yv5h-imzk@asahi-net.or.jpNO.37 2002.02.09
第37回モクサイを語る会まとめ
1、日時
平成14年1月25日(金)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
柏木恒彦、 斉藤房一、土屋幸恵、実川嘉一
今関弘道
4、ふりかえり・おさらい
(1)「酒井修敬録(p10の20行目)」~「致思而勉 励也(p12の15行目)」(土屋幸恵)
以上を終了させた。
(3)語句と意味
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):
o 源遠にして末益々分る(p66の16行目):出典
o 撃○……撃慇?(p8の1行目):
o 程子の吟風美日(p8の6行目):
o 獪(カイ)……狡与(と)猾、同じく黠悪(カツ アク)なり、方言(きちんとした言葉)、小貌(こ ざかしい顔)、多く詐る。曰く狂猾(キョウカツ) なり?(p8の欄外):
o 詛(ショ、のろう、禍を嫌いな人に加えるように 神仏に願う)……盟詛(メイショ、いけにえをさ さぎ禍を加えるよう神仏に祈る)、過去を詛(の ろ)い、以て禍福をなす。○○曰くー
(p8の欄外):
o 矢田切○頭門中也(p8の欄外):
o 興国寺(p72の5行目):
以上前回以前の留意事項
o 出淵(いぞぶち)立恒(p8の16行目):読み
o かなわぬの真知でないで、行に出ぬのということ は(p9の3行目):いずれは届く真知だが、行に出 るほどには至っていない
o 闕丞(けつじょう)(p9の5行目):欠勤する
o山犬の衣でおるは(p9の5行目):人欲に包まれて
o 傍輩たちに悪まれ那の域を免れぬ(p9の20行目):
o溝壑(こうがく)(p10の1行目):谷間、孟子滕文公 下
o どこか五年学んで(p10の5行目):どうにか五年学 んで
o 深川の病家(p10の18行目):永井宅
o 嘉右衛門(p7の6行目):山崎闇斎
o 周茂叔(p11の8行目):周濂渓
o 大顛(だいてん)(p11の9行目):禅僧
o 班固(p11の11行目):後漢の歴史家。字は孟堅。父 班彪(ハンピヨウ)の没後、「漢書」の編述完成につとめ た。一部未完成の部分は妹の班昭が補った。匈奴討伐 に従軍、敗戦の罪に座して獄死。編著「白虎通」など。 (32~92)
o かいしき(p11の20行目):まったく
o 心経(しんぎょう)(p11の20行目):般若心経(ハ ンニヤシンギヨウ)の略
o 人心(p12の2行目):本然の性でない心。私欲にお おわれた心。
o 道心(p12の2行目):[書経大禹謨] 天理の発露す る心。本然の心。私欲におおわれない心
o 放心を求む(p12の2行目):人欲から心を解き放つ
o 心法(しんほう)(p12の3行目):宋の儒学で、心 の体用を存養省察する道をいう。童子問「程子、中庸 を以て孔門伝授の―とす」
o 朱子がこしゃくで孔子の教えに禅学をこだねつけた (p12の4行目):朱子がこざかしくも孔子の教えに おいて、禅学に文句を付けた、異端とした
o 先ず近代の学問にさようなことはござらぬ、大方上古 も同じこと(p12の4行目):聖学を目指す学問は無 かったとの意
o 険巧(p12の19行目):わるがしこい
o 桀黠(けつかつ)(p12の19行目):さといがあらあ らしい
o 良に(p12の20行目):まことに
よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。懇親
身体が第一、黙斎も脊梁骨を建立してと、でも原因が分かってよかった。あとは、然るべく措置をして、きちんと療養すればいいと思う。大変だけれども、六月ぐらいまで、お酒は誘わないことにしよう。
新年会はそれなりに、屠蘇を沢山いただいて、もっともこれはいつもの通りだけれど。はずみがついて、土屋さん、カイッチャン、僕の芝山グループ?は、テマリへ行ってしまった。土屋さんのニリンソウは絶品、江南の春も絶品だけれどね。カイッチャンはすやすや??、僕は何を歌ったかな、昔歌ったものだと思うね。AM3:00帰宅。
新テキストについて、論語の講義録という声があって、とくに異存はないのだけれど、どこにあるのか田原さんに聞いたら、山口先生の所、熱田さんの所にあるとのこと。それならそれで、早く決めてしまったほうがいいのではないか。コピーをみんなの手元に届けておくことがいいのではないか。暇を作って、事前に?読み下しておこうという頑張り屋居士が、わがメンバーの中にいるかも知れないしね。
山口家保管写本の部(目録)をめくっていて思ったこと。黙斎先生道学標的講義、黙斎先生訓門人開巻講義、黙斎先生排釈録講義、黙翁鬼神集説といったところ、できれば近思録講義もかな、やはり各自に配布しておいた方がいいのではないかな。われわれの黙斎を学ぶ、共通の参考文献として役立つと思う。とはいえ、読み下しての話ということになる。各自の、したがってモクサイを語る会のレベルが問われるか。
次回開催日程
1、日時 平成14年2月22日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「佐藤子(p13の1行目)」~「考べし(p14の 3行目)」(斉藤房一)
(2)「佐藤子(p14の4行目)」~「無之候(p15の 19行目)」(実川嘉一)
4、次回レポーターの確認
5、その他必要なこと
6、懇親会
飲中八仙歌
知章の馬に騎るは舟に乗るに似たり眼花み 井に落ちて水底に眠る
汝陽は三斗にして始めて天に朝し 道に麹車に逢えば口より涎を流す 恨むらくは封を移して酒泉に向かわざるを
左相は日興 に方銭を費やし 飲むこと長鯨の百川を吸うが如し 杯を銜みて聖を楽しみ 賢を避くと称す
宗之は瀟灑 たる美少年 觴 を挙げ白眼もて青天を望む 皎けきこと玉樹の風前に臨むが如し
蘇晋は長斎す 繍仏の前 酔中 往往にして逃禅を愛す
李白は一斗にして詩百篇 長安市上 酒家に眠る 天子呼び来るも舟に上らず 自ら称す 臣は是れ酒中の仙なりと
張旭は三杯にして草聖伝う 帽を脱し頂を露わす王公の前 毫を揮いて紙に落とせば雲烟の如し
焦遂は五斗にして方に卓然たり 高談雄弁 四筵を驚かす
(杜甫)
モクサイ通信№38(2002.04)
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市六崎1612
TEL (043)485-7638
Eメール yv5h-imzk@asahi-net.or.jpNO.38 2002.04.19
第39回モクサイを語る会まとめ
1、日時
平成14年2月22日(金)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
柏木恒彦、 斉藤房一、土屋幸恵、実川嘉一
今関弘道
4、ふりかえり・おさらい
(1)「佐藤子(p13の1行目)」~「考べし(p14 の3行目)」(斉藤房一)
以上を終了させた。
(3)語句と意味
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):
o 源遠にして末益々分る(p66の16行目):出典
o けい懃、けいぎん(p8の1行目):けいは敬の下 に手、うやうやしくささげる。
o 程子の吟風弄月(p8の6行目):美月
o方言、小児、多く詐る(p8の欄外):方言や小児は多くいつわりがあるの意
o○○曰く(p8の欄外):
o 矢田切窺頭門中也(p8の欄外):
o 興国寺(p72の5行目):
以上前回以前の留意事項
o 朱子がこしゃくで孔子の教えに禅学をこだねつけた(p12の4行目):朱子が孔子の教えに禅学、すなわち心法をいれた。
o桀黠(けつかつ)(p12の9行目):わるがしこい
o叶韻きょういん(p13の4行目):他の韻の字を同一の韻の字として用いること。例えば、詩経の韻を楚辞でつかうなど。
o律侶新書(p13の5行目):新しい音楽理論の書
o小学の嘉言に(p13の8行目):小学の中に、小学に引用されて
o人の学を為す所以は、心に理を与えるのみ云々(p13の10行目):読み、己れはのみと読む。矣は読まない。
o奏剳、そうとう(p13の13行目):奉った文章、朱子文集の中にある。
o此事大に(p13の14行目):此の事体大いに、此の事体大なり。
o手に到れば(p13の20行目):
o揚亀山(p14の3行目):ようきざん、1053~1135、北宋の儒者、福建省生まれ、亀山は郷里の名前。二程子に学び、南宋儒学のタネをまいた。
春暁
春眠暁を覚えず
処処啼鳥を聞く
夜来 風雨の声
花落つること多少を知る
(孟浩然)
よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。懇親
酒を飲んで、焼き肉を食べながら、胸の内をからり合うということは悪くない。川和伊はモクサイから学ぶための場所でもあるのだけれど、モクサイを引きつけながら、お互い同士の思いを話し合う場所でもある。
そこが例えば公民館の一室を借りての勉強会とは違うように思う。嘉一邸、なのはな会館など場所のことを論議したけれど、焼き肉を食べながらの魅力を、少しばかり軽視したようにも思う。両々相まってということが大切と思うね。そんなことをちょっと考えた次第……。
クニちゃんがダンナと子供を連れて、リターンしてくる。この前親父さんが、話していた。うれしそうだったね。まもなく彼女から電話を貰った。韓国へ行っていたのは二年間、異人さんに連れられてといった感じはないね。何といっても朝鮮半島は日本文化のふる里、ちょっと歴史を掘り下げると必ずぶつかる。いわば兄貴分のようなもの。帰ってきたら、帰還祝い?をしてあげたいね。5~6年はこちらにいると言っていた。
田原さん、動脈の手当も無事に済んで、次回には顔を見ることが出来るかも知れない。血液をさらだらにする薬を貰っていて、その薬の袋には、酒を飲んではいけませんと大書してあるよし。無理に勧めてはいけません。そのうちにということだね。まずは良かった。
酒を飲んで、焼き肉を食べながら、胸の内をからり合うということは悪くない。川和伊はモクサイから学ぶための場所でもあるのだけれど、モクサイを引きつけながら、お互い同士の思いを話し合う場所でもある。
そこが例えば公民館の一室を借りての勉強会とは違うように思う。嘉一邸、なのはな会館など場所のことを論議したけれど、焼き肉を食べながらの魅力を、少しばかり軽視したようにも思う。両々相まってということが大切と思うね。そんなことをちょっと考えた次第……。
クニちゃんがダンナと子供を連れて、リターンしてくる。この前親父さんが、話していた。うれしそうだったね。まもなく彼女から電話を貰った。韓国へ行っていたのは二年間、異人さんに連れられてといった感じはないね。何といっても朝鮮半島は日本文化のふる里、ちょっと歴史を掘り下げると必ずぶつかる。いわば兄貴分のようなもの。帰ってきたら、帰還祝い?をしてあげたいね。5~6年はこちらにいると言っていた。
田原さん、動脈の手当も無事に済んで、次回には顔を見ることが出来るかも知れない。血液をさらだらにする薬を貰っていて、その薬の袋には、酒を飲んではいけませんと大書してあるよし。無理に勧めてはいけません。そのうちにということだね。まずは良かった。
次回開催日程1、日時 平成14年3月29日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「佐藤氏(p14の14行目)」~「無之候(p15の19行目)」(実川嘉一)
(2)「浅見氏谷重任に答えて(p15の19行目)」~「信識(p18の9行目)」(今関弘道)
4、次回レポーターの確認
5、その他必要なこと
6、懇親会
(提案)広い世界からモクサイを見ることについて
(1)主旨については懇親に書いたとおり。モクサイを通して中国、朝鮮、日本の歴史・哲学をかいま見ると言うことの反面は、モクサイの中に落ち込んでしまう。結果、モクサイがよく見えなくなってしまうことにある。
(2)あらためて、われわれの、具体的には各自の関心事を出発点として、広い世界をのぞいてみたらどうか。それも、各自の関心事、おおかたの関心事は、人を通して広い世界に入っていくことにあるのではないか。だとすれば、いわゆる課題の設定は、みんなで話し合いながら、人に即して各自が独自に課題を設定したらいいと思う。
(3)たとえば、
o神話時代、三皇五帝とは何か、神農、フツギ、ジョカ、黄帝とシユウ、シュクユウetc……今関
o前漢時代、項羽と劉邦、ショウカとカンシンetc……
o三国時代、カンウ、チョウヒ、チョウウン、曹操とソウショク、コウメイとシバイチュウタツetc……
o太平天国と孫文etc……
(4)レポート制、各自のまとめの時点をはかって、モクサイ会の俎上にあげたらどうか。レポートは、時代を行き来したようなものでもいいのではないか。例えば、孔子を論じるに、孟子ー荀子ートウチュウジョー韓愈ー朱子ー王陽明というように、必要ならば設定してもいいのではないか。うまくいけば幸い。とはいえ、基本線はモクサイへの取り組みにあることは前提としてです。
モクサイ通信№39(2002.04)
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市六崎1612
TEL (043)485-7638
Eメール yv5h-imzk@asahi-net.or.jpNO.39 2002.04.19
第39回モクサイを語る会まとめ
1、日時
平成14年3月29日(金)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
柏木恒彦、 斉藤房一、土屋幸恵、実川嘉一
今関弘道、後藤 宏、山口先生
4、ふりかえり・おさらい
(1)「佐藤子(p14の4行目)」~「無之候(p15 の19行目)」(実川嘉一)
(2)「浅見氏谷重遠に答えて(p15の19行目)」~ 「たたり有るべく候(p17の12行目)」(柏木恒 彦)
以上を終了させた。
(3)語句と意味
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):
o 源遠にして末益々分る(p66の16行目):出典
o けい懃、けいぎん(p8の1行目):けいは敬の下 に手、うやうやしくささげる。ぎん?跪?
o 程子の吟風弄月(p8の6行目):字と読み
o○○曰く(p8の欄外):
o 矢田切窺頭門中也(p8の欄外):
o 興国寺(p72の5行目):
以上前回以前の留意事項
o ○宿候いでと存じ入り(p14の6行目):帰、読 み。
o兎角峯の松独り春(p14の8行目):佐藤直方の 作った文章、独立独歩で学問をやっていくという 主旨。
o一つ兼ねて(p14の13行目):読み
oとうほうもなき方に存じ寄り、(p15の8行目):節 の区切り、方はほうと読むこと。
oふすぼり(p15の11行目):ふすぼる→ふすぼり
o鑑戒(p15の13行目):かんかい、いましめとすべき 手本。
oうんじはて(p15の18行目):あきあきする。うむと いう動詞から来る。
o鄙劣(p16の1行目):ひれつ。品性・行為などの、い やしく下劣なこと。
o気に勝つところ、習いに奪(うばう、うちかつ)所、 当に志を責める(p16の11行目):近思録にある。
o敬斎箴(p16の12行目):
o存違先非(p17の1行目):ちがい、たがい?
元二の安西に使いするを送る
渭城の朝雨 軽塵をうるおし
客舎青青 柳色新たなり
君に勧む 更に尽くせ一杯の酒西の方陽関を出れば 故人無からん
(王維)
よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。懇親
(1)モクサイの冬至文講義を始めてからまる4年、はるけくもきつるものかなの感なきにしもあらず。この中から五木寛之ではないけれど、生きるヒントのようなものが見つかれば何よりと思う。一筋縄では行かないと思うけれど。振りかぶった言いぐさではないとして……。
(2)後藤さんと飲みながら?話したこと。モクサイを学ぶ中から、広い世界をかいま見るのは魅力だけれど、逆に広い世界からモクサイを見るのも悪くない。広い世界とは、中国、朝鮮、日本の歴史、思想・哲学と理解する。それも、それぞれの歴史的舞台で活躍した人を通してみることが、面白そうでいいのではないか。
これまでに、古代ギリシャ哲学、「課題」というものを立てて取り組んできた経緯はある。もう少しわれわれの関心事に引きつけてということなのだろう。傾聴に値する。
(3)クニちゃんが、男の子を連れてダンナと一緒に帰ってきた。韓国滞在2年、これから5~6年は日本にいるとのこと。2年間のうちに、彼女は韓国語をマスターした。歴史の発展は平板ではなくらせん状に上昇するというけれど、新たな再会はどのように評価されるかな。われわれもこの2年間を通して、何らかの上昇の軌跡は描いてきたと思うのだけれど。
(3)懇親会を終わって、土屋さんとカイッチャンと手まりへいった。カイッチャンは例によってすやすや?運転手だからね。土屋さんはニリンソウ、キミコイシ、アイシュウレッシャ、etc。声に艶がある、漢詩を吟じるわけにはいかないのが残念、僕は韓国から昼過ぎに帰港、あたふたしながらモクサイに臨んで、手まりへ行って、帰宅したのがAM3:30。三人共にそれなりの元気はあるということか。
(4)柏木さんは冬至文講義の取りまとめ、最後の追い込み。好きな近思録!を一時中断して取り組んでいる。房一さんは、これまでため込んできたものが沢山ある。謙虚さは宝なのだけれども、彼の手文庫の中から、魅力ある物をわれわれが引っぱり出すというアプローチが必要かも知れない。そのように思うね。後藤さんの世界はパトス、いわば情熱、ロマンに満ちている。モクサイの会に、ある種の風を送り込んでいることは確かだ。5月に房一さんと、ソシュウ、ケイリン行く。土産話が楽しみだ。
(5)田原さんは、だんだんと元気を回復しているように思う。碁に対する、モクサイに対する熱意は変わらない。エビガニ、タニシ、枝打ちもかな。今、モクサイの論語講義録を求めてあちこち動いている。おそらく次のテキストになる。田原さんの元気にしたがって、モクサイの方も元気になるように思う。だとすれば、モクサイのこれからは明るい。戸辺さんは、アルゼンチンの夢、野菜の生産と販売にかけている。貧困な農政に切り結んでいる。モクサイへの参加は、もう少し時間が必要なのかも知れない。地域の知恵を集めて!メンバーとしての戸辺さんは離せない。
(6)山口先生は、この会の顧問のような位置づけだ。これまでもお世話になってきたし、これからもお世話になるだろう。モクサイ学において、いろいろな意味を含めて第一人者であることは論を待たない。モクサイを学ぶもの、われわれも学者を始め専門機関で学ぶ人たちも、先生の処を素通りするわけには行かない。何度か言ってきたけれど、山口先生の蔵書、文書館、さしあたり目録整理作業からは目が離せない。桜木さんについての情報は持っていないのだけれど、元気だと思う。便りの無いのはいい便り。今年で91歳か、暮津に舟をつなぐなどと言える人は、桜木さんを除いていない。……以上思いつくままに、なぐり書き(H.I)
1、日時 平成14年4月26日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「佐藤氏谷重遠に答えて(p17の13行目)」~ 「信識(p18の9行目)」(今関弘道)
4、次回レポーターの確認
5、その他必要なこと
(1)新しいテキストについて
(2)提案について
6、懇親会
(提案)広い世界からモクサイを見ることについて
(1)主旨については懇親に書いたとおり。モクサイを通して中国、朝鮮、日本の歴史・哲学をかいま見ると言うことの反面は、モクサイの中に落ち込んでしまう。結果、モクサイがよく見えなくなってしまうことにある。
(2)あらためて、われわれの、具体的には各自の関心事を出発点として、広い世界をのぞいてみたらどうか。それも、各自の関心事、おおかたの関心事は、人を通して広い世界に入っていくことにあるのではないか。だとすれば、いわゆる課題の設定は、みんなで話し合いながら、人に即して各自が独自に課題を設定したらいいと思う。
(3)たとえば、
o神話時代、三皇五帝とは何か、神農、フツギ、ジョカ、黄帝とシユウ、シュクユウetc……今関
o前漢時代、項羽と劉邦、ショウカとカンシンetc……
o三国時代、カンウ、チョウヒ、チョウウン、曹操とソウショク、コウメイとシバイチュウタツetc……
o太平天国と孫文etc……
(4)レポート制、各自のまとめの時点をはかって、モクサイ会の俎上にあげたらどうか。レポートは、時代を行き来したようなものでもいいのではないか。例えば、孔子を論じるに、孟子ー荀子ートウチュウジョー韓愈ー朱子ー王陽明というように、必要ならば設定してもいいのではないか。うまくいけば幸い。とはいえ、基本線はモクサイへの取り組みにあることは前提としてです。
モクサイ通信№40(2002.05)
発行者 今関弘道
住所 〒285-0812佐倉市六崎1612
TEL (043)485-7638
Eメール yv5h-imzk@asahi-net.or.jpNO.40 2002.05.23
第40回モクサイを語る会まとめ
1、日時
平成14年4月26日(金)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
柏木恒彦、 斉藤房一、土屋幸恵、実川嘉一
今関弘道、後藤 宏、田原哲三、山口先生
4、ふりかえり・おさらい
(1)「佐藤子谷重遠に答えて(p17の13行目)」~ 「信識(p18の9行目)」(今関弘道)
以上、今回で冬至文講義録全五巻終了。平成10年5月~平成14年5月の4年間、開催回数40回、よく頑張ったと思う。
(2)語句と意味
これについては、柏木さんの準備している、冬至文講義録の定稿化作業に譲ることとする。
(3)新テキストの決定と配布
新テキストはモクサイの論語講義録、はっきりしないところがあるのだけれど、朱子の論語集註のモクサイ講義録と言ってもいいと思う。ただ、モクサイの論語講義録のすべてを、手にしているわけではない。山口先生、田原さんを中心としての収集作業が併行する。
(4)新テキストが朱子の集中をベースとしていることもあって、冬至文講義録に比して、取り組みの世界が大きく広がってくる。はじめの方だけでも、史記の世家・列伝、左伝、時代としての魯、斉、衛、陳、齊、蔡、晋などの動静、そして孔子の十哲、晏嬰、陽虎などの軌跡とこれへの評価、時系列的には神話時代から宋の時代まで。前々回か、後藤さんの提案になる、各自関心のある事柄についてのレポート、巧まずしての感がある。
子の曰く、吾十有五にして学に志し、三十にして立つ。四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず(論語、為政)
私は十五才で学問に志し、三十になって独立した立場を持ち、四十になってあれこれ惑わず、五十になって天命をわきまえ、六十になって人の言葉がすなおに聞かれ、七十になると思うままにふるまってそれで道をはずれないようになった(論語、金谷 治)。
孔子、すなわち聖人の述懐、凡人は四十にして惑わず、五十にして天命をというわけには行かない。でも目途とすることは出来るかも知れない。なお、天命の理解について、朱子(新註)では、天が物に賦与した正理と理解する。用例から帰納すると、天の定めごと、人間の力を越えた運命としての意味が強い、天は不可知なものである(金谷 治)とのこと(H.I)
よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。懇親
(1)モクサイを考える会、まるまる4年、感慨はある。働きながら、地域で仕事を持ちながらやってきた。誇っていいかとも思う。上総道学を真ん中にすえて、お互いに支えながら、それぞれの世界を広げ深めてきた。モクサイは日本、中国の思想・文化の継承者を、いわゆる学者、儒者に限った。われわれは一般人間の立場から取り組んだという点で、モクサイと異なる。上総道学を、地域の発展の歴史につなげ、その中からプラスとなるものを汲み上げ、そして自分たちの生き方につないでいこうという観点が、僕らにはある。地域の知恵を集めてとは思うけれども、それは偏狭なエリート意識とは別のものだと思う。
(2)当初のことを思い出す。カイッチャンとは、酒を飲みながら、会の性格、メンバーの選択?場所、開催回数などをつめた。芝山について言えば、3~4人の名前を挙げて、すべてにあたったわけではないが、土屋さんに「面白そうだ」と言われたときには、これで何とかなると思った。何をテーマにと言うことでは、田原さんとよく相談をした。会の設立については、相互に意思確認をしていた。「モクサイをやるのなら、私の所に資料はある」といった。僕はモクサイについて、ほとんど知らなかったわけで、果たしてうまくいくのかどうか自信はなかったけれども、心強かった。柏木さんに相談をかける段階で、モクサイでいけるのではないかと思うようになった。柏木さん、すなわちうそつき恒ちゃんは、三国志の権威であった。僕も三国志を看板にしていた?カイッチャン、土屋さん、ヤスナリ先生もいたかな、随時経過を報告していたように思う、経過の報告は、すなわちいっぱいやることだから、成東と芝山の距離は全く苦にはならなかった。田原さん、柏木さんとは成東で連絡が取れた。田原さんとはよく飲んだ、そして僕が先に酔っぱらった。房一さんの名前を挙げたのは、カイッチャンか恒ちゃんか。JA山武本所の裏口で主旨を話すと、言下に参加するだった。隠れた賢人、後藤さんならうまい表現が見つかると思う。カイッチャンから房一さんまで、いや後藤さんまで組合活動の大幹部。僕は後藤さんとはつきあいがあって、それなりに知っていたけれど、発足段階では声をかけるを留保した。野に伏す虎という趣があって、呑み込まれてしまうと大変だというような、ある種の懸念が、あったのかも知れない。声をかけるのは遅れたけれど、戸辺さんは二つ返事で賛意を示してくれた。茨城大学を出てアルゼンチンに渡り、しかし山武農協に流れてきた。流れてきたと言うことでは、僕も同じかも知れない。若い頃司馬遷に関心を持ち、史記にも目を通したと言うことだった。しかし、二十数年日本国を留守にしていた。
すべてが順風満帆と言うわけではなかった。タエコさんには、オレキレキに交じって参加するには、おそれ多いと婉曲に断られた。これは残念なこと、今もってモクサイを語る会には女性の参加を見ていない。ヤスナリ先生の参加は否応なかった!しかし、ちょっとすれ違った。懇親会だけなら、あるいは農業・農協問題をテーマとして取り上げていたら、違った結果になったのかも知れない。(以上思いつくままに)
(3)モクサイをテーマにしたとはいえ、はじめから冬至文講義録に取り組んだ訳ではなかった。上総道学とは一体どういったものなのか、資料集めから始まった。田原さん、柏木さん、房一さんが資料を集めてきた。田原さんはモクサイそのものの資料、房一さんは日本朱子学、柏木さんは春秋・戦国から朱子による儒学の集大成まで、と言うように。同時に、古代ギリシャから始まる西洋哲学史にもアタックした。冬至文講義録にたどり着くには、それなりに時間がかかったと言うことだろう。
(4)結果として、佐藤直方の冬至文、これに