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 今関弘道

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№71~№80

モクサイ通信№71(2005.01)
モクサイを語る会
第71回モクサイを語る会まとめ
1.日時 平成16年12月18日(土)PM6:30
2.場所 川和伊
3.出席 柏木恒彦、後藤 宏、実川嘉一、土屋幸恵、今関弘道
4.ふりかえり・おさらい
 (1)道学標的講義(稲葉黙斎)
  「大学曰大学の道(p32の16行目)~ここがべったり
  と太極なり(p41の10行目)」(斎藤房一)以上を終
  了させた。
 (2)語釈
  p5の4行目 我甘盤に学ぶ:保留。
  p7の17行目 年玉:保留。
  p12の8行目 許渤:保留。
  p12の20行目 許魯斎:保留。
    (以上保留事項……70回まで)
  p33の8行目 トウ:どのように。
  p33の20行目 帰して:読み。
  p34の13行目 招虞人以旗不至:虞人を旗を振っただけで呼び寄せる、集める
   ことは出来ない。虞人は同族でも家臣団でもない。それぞれの招き方がある。出
   典は孟子。
  p35の15行目 何ニズリノナニカタ気ノ:何にすぐれているのか、どんな性格
   であるのか。
  p35の20行目 ヤスクセヌコトナリ:読み。
  p36の3行目 真ン誠ニ:まんまことに、読み。
  p36の13行目 大切ナリ:読み。
  p36の14行目 編み:あみ、読み。
  p36の20行目 何々ト:読み。
  p37の3行目 的々ノ伝:読み。
  p37の3行目 計ノ時:ばかりのとき、読み。
  p37の6行目 友部安崇:保留。
  p37の11行目 大学者大人の学:大学はたいじんの学、読み。後述の大人はお
   となと読む、使い分け。
  p38の2行目 ボツツケル:読み。
  p33の8行目 吾道南スト云顔デ:保留。
  p38の20行目 チイサクスル:読み。
  p39の1行目 処ハ:読み。
  p39の14行目 大哉:大なるかな、読み。
  p39の20行目 振舞テモ:読み。
  p40の11行目 ヲツメテイエバ:読み。
  p40の16行目 胸をたたいて:読み。
  p40の20行目 ユエ:読み。
  p41の1行目 気メキテモ:読み。
  p41の3行目 周伯人:保留。

俳句・短歌
若の浦に潮(しお)満ち来れば潟(かた)を無(な)み 葦辺(あしべ)をたして鶴(たず)鳴き渡る(山部赤人)
若の浦に潮が満ちてくると、干潟が無くなるので、葦の生えている岸辺に向かって、鶴が鳴きながらわたっていく。
*干潟で餌(えさ)をあさる鶴が、満ち潮となり移動する光景を詠む。

默齋講義関連資料
儒教における天・太極・理・性、天人合一、理性合一、天理・理性同源について(道学のとらえ方)
 「有史以来四千年の歴史を持った中国ではあるが、その間に王朝の変転はしばしばくりかえされ、上代人は人も土地にも安住の場所を持つことも出来なくなり、ただ「天」のみを頼りにするようになったのである。
 そしていつとはなしに、人の運命は勿論、あらゆるものが皆天から与えられたものと考え、天は万物の本源であり、天のみが宇宙の根本原理であると考えたのである。「天帝」と云う言葉に表現されているように、天と人間とが結びつき、別物でないと云う考えが起って来た。(天人合一の思想)。
 万物の本源を天と考えた儒教は、後に天に代って「太極」と云う言葉を使うようになった。万物の根源を天と考え、それが絶対普遍と信じて、これを「太極」と称し「理」と称した。
 天が万物を化生すると同時に、それぞれこれに天理を賦与する。これを天の命と云い、その理が性であると解し、理と性が一つのものであり、天理と人性は同源のものであり、人性の研究が同時に天理の研究となり、宇宙の研究が同時に人間の研究になると云うのである。物を知るのは己を知る為であり、天理を知るのは、人性を知る為である。」(山口 巌、稲葉黙斎と孤松全稿より抜粋)
 
懇親 よく遊びよく学ぶ 過ぎたるは猶及ばざるがごとし
 謹賀新年
 トリ年、鶏鳴、世界の邪気を払い、新たな地平を開くとか。モクサイを語る会、地に足をつけて、一歩一歩前に進むと言うことだろうね。
 旧年中に確認したことではあるけれど、モクサイ講義録をきちんと踏まえて、インターネットの舞台をより魅力的、活動的なものにしていく。加えて言うならば、こういった取り組みの中で、黙斎、直方、闇斎、朱子などの思想ないし哲学といったものを、明らかにしていくということかな。
 いずれにせよ、そういった地点にさしかかっていることは確かだと思う。本年もよろしく。

故事・成語の散歩道 三国(魏・蜀・呉)時代 
『登竜門』
 立身出世の関門。竜門は黄河の流れの中で、非常な急流をなしているところの名。黄土高原を南下してきた黄河が、滝のようになって落ち込んでいる。鯉などの魚もこの急流を上りきれず、もし登り切ったとすれば、その魚はたちまちにして竜に化するといわれる。
 時は後漢の末期、桓帝・霊帝を擁する宦官・外戚(幼帝を擁する皇太后の一族)の専横、政治の私物化がすすむ。かたや、知識階層を自任する中央および地方の高級官僚、儒学者、官吏養成機関である太学で学ぶ学生よりなる、党人派と呼ばれる対抗勢力。
 父祖以来の名士である党人派の李膺(りよう)、司隷校尉(しれいこうい、都城の犯罪の取り締まりの役)となって、宦官・外戚の不正に立ち向かう。洛陽郊外にあった太学の三万の学生は大喝采。『天下の模楷(もかい、手本)は李元礼(元礼は李膺の字)』(後漢書、李膺伝)と評される。李膺に対する期待は高まるばかり。『李独り風裁を持し、以て声名自ら高し。士、其の容接(ようせつ、拝謁のかなう)を被る者あれば、名づけて登竜門と為す』〔同上〕。
 李膺は、学生の期待を裏切らなかったと言うべきである。『事(つか)えて難を辞せず、罪して刑を逃れずは臣の節なり』〔同上〕。二度にわたる党錮(とうこ)の禁(党錮の獄、党錮の禍)、ついには獄死を免れなかった。李膺の学とは、節を曲げることのないものであった。『曲学阿世』〔きょくがくあせい、学を曲げて権力者や世俗におもねること〕という言葉は、すでに前漢の轅固生(えんこせい)によって発せられている。現代においても、学を曲げて、節を曲げて人の前に立とうとするものは少なくない。登竜門という李膺の故事が、生き続けている所以(ゆえん)である。

論語の言葉
『子曰く、如(も)し王者あらば、必ず世にして後に仁ならん』(論語、子路篇、金谷 治訳)
 
もし王者が出現しても、このような乱世では、きっと一代、三十年経ってから、はじめて仁の世界になるのだろう。
 王者とは、孔子の待望した聖王・聖人であり、仁の世界とは、まごころとか思いやりとかいった、人と人との関係をベースとして、 社会の秩序が保たれている世界と解される。春秋から戦国にかけての社会的変動が、いかに激烈なものであったか。眼前に見るのは、聖王・聖人の出現を以てしても、なかなかに治めることの出来ない、乱れに乱れた政治状況であった。

中国古代歌謡
詩経……黄河流域の歌
 詩経とは渭水も含め、黄河流域に立地した、氏族共同体の歌謡を集めたものである。古代歌謡とは、本来的には、歌詞と曲と舞踏が一体化されたものであるが、現在詩経として伝わっている古代歌謡は、歌詞のみである。時代としては、夏・殷・周・春秋ということになるが、実際のところは周の全盛期から衰退期までの歌謡がおさめられている。
 収録は孔子によって行われたと言われる。「子曰く、詩三百、一言(いちごん)以てこれを蔽(おお)う、曰く思い邪(よこしま)なし」(論語、為政篇)。心の思いに邪なし、これをどのように解するかは難しいけれど、ここでは孔子の心の広さというように受け取っておこう。
「詩三百」とは、前十二世紀から前七世紀までの三百年ないし四百年間の、三百五篇の歌謡である。
内訳は、(1)風(国風)といわれる十五国の民謡百六十篇、国とは黄河流域に立地した氏族共同体ないし氏族共同体連合の呼び名、あるいはその地方の呼び名である。(2)雅(小雅・大雅)百五篇、周王室の歌、宮廷の宴会で演奏されたものである。(3)頌(しょう)四十篇、王朝の祖先を祭る歌である。周頌は周王朝の祖先を祭る歌、魯頌は周公を始祖とする魯王朝の祖先を祭る歌、商頌は殷(商)の違民が祖先を祭り歌ったものである。総じて、詩経とは中国最古の歌謡であり、古代漢民族の歌謡と言うことが出来る。

次回開催日程
1, 日時 平成17年1月21日(金)6:30
2, 場所 川和井
3, 道学標的講義(稲葉黙斎)
「明徳は天から(p41の16行目)~引てきたせんがない(p51の2行目)」(今関弘道)
4,懇親会


モクサイ通信№72(2005.02)
モクサイを語る会
№72 2005.02.01
  発行者 今関弘道
  黙斎を語る会のホームページ   http://mokusai.web.infoseek.co.jp/
第72回モクサイを語る会まとめ
1, 日時 平成17年1月21日(金) 6:30
2, 場所 川和井
3, 出席 柏木恒彦、後藤 宏、斎藤房一、今関弘道
4, ふりかえり・おさらい
【道学標的(稲葉黙斎)】……「道徳は天から(p41の16行目) ~
手水をつかうようにすること(p46の14行目)」(今関弘道)。以上を
終了させた。
【語釈】
   p5の4行目 我甘盤に学ぶ:保留。
p7の17行目 年玉:保留。
p12の8行目 許渤:保留。
p12の20行目 許魯斎:保留。
p37の6行目 友部安崇:保留。
p33の8行目 吾道南すと云顔で:保留。
p41の3行目 周伯人:保留。(以上、保留事項……71回まで)
p41の20行目 有物有則:ものあればのりあり、読み。
p42の16行目 廻状:有時而昏に対する黙斎のとらえ方、理解の仕方。
p43の16行目 明明之:明は之を明にす、読み。
p44の19行目 ぶんのものになった:一人前になった、相応のものになった。
p45の6行目 間地をうって:保留。

俳句・短歌
み吉野の 象山(きさやま)の際(ま)の 木末(こぬれ)には ここだも騒ぐ 鳥の声かも (山部赤人)
吉野の象山の山あいの木々の梢では、たくさんの啼き騒ぐ鳥の声がすることだ。早朝の山中の光景をうたい、離宮の地をたたえた。

默齋講義関連資料
モクサイ講義における理気論
(1) 稲葉黙斎にあっては、天=理=太極=真=心の徳=性の徳=仁義礼智=仁という図式が見
られる。
「天は即ち理なり。理は即ち太極なり。無声無臭の真なり。乃ち、自然の謂にして、その実は亦に
出ず。己に備われる心の徳とも云う。性の徳とも云う。小割に云えば、仁義礼智とも云う。大割に
いえば仁とも云い、皆彼の天なる者にして、戸を出て窺うを待たず」(姫嶋講義、孔曽思孟周程張
朱之語八道)
(2) 黙斎にあっては、天は純然たる自然ではない。
  「天とは何ぞ。蒼々たる青空と思うや。曰く、然り、非ずか。曰く非ず」(同上)
(3) 天は、万古不易流行しているものである。しかし、「天の子」でありながら、人には「気質人欲
 」というものがある。
  「ただ天の機嫌を取るが誠に難し。何をして天の気に入るべきや。唯天をつくづくと見、あの天に
似る様に違わぬ様にとすれば、天の機嫌はよし。看よ、天は万古かわらず流行し、達者にめぐら
るるに、吾人其の天の子で居て、気質人欲に蔽(おお)い拘われ、我儘気隋(わがままきまま)に
安んじ、ぶらぶらを怠りたる姿は、なんと天とは大いに違いたるに非ずや」(同上)。

 懇親 よく遊びよく学び 過ぎたるは及ばざるがごとし
(1) モクサイを語る会、ゆらゆらと船出した。差し当たっての乗組員は五~六人、でも停泊地には
知り合った人がいるし、増えてもいる。ラム酒でも飲んで、元気をつけることも出来る。全体から
見たところの会の形も、おいおい考えていこう。
(2) 年末年始、ホームページとの関連で、なれないことが多く、ちょっと疲れた。PDF形式、HTML
形式、添付の方法、はては光ファイバー。前門の黙斎、後門のインターネットかな、立ち止まって
はだめなんだろうけれど。
(3) NHKの釈明番組、アベ、ナカガワ、何とか局長、あれは一体何だ。とっちゃんぼうやみた
  いな、NHKの幹部、魂の抜け殻の様にして、ジャーナリズム界を浮遊してるんだね。言い難し。
 
故事・成語の散歩道 三国(魏・蜀・呉)時代
『梁上(りょうじょう)の君子』(後漢書、陳寔)
 「後漢の地方官、字は仲弓。河南穎川(えいせん)の許の人。県吏となり累進して太丘県長となり、徳をもって治める。盗賊が入って梁上に隠れた時、弟子を訓戒し、『梁上の君子を見よ』といって盗賊を悔悟させた逸話は有名」〔広辞苑〕。
人の性は、元来善良なものであるが、誤って悪人となることがある。この梁上にいる君子もそれだ。泥棒はその言葉に感じ入り、飛び降りて許しを請うた。陳寔(ちんしょく)は絹を与えて帰してやった。
 後漢末、外戚(幼帝を擁する皇太后の一族)とともに威をふるい、私利私欲に狂奔する宦官。これに対して儒学を修め、地方長官の推挙によって役人となった官僚。前者は濁流と呼ばれ、後者は清流と呼ばれた。清流、つまり党人派の勢力は、中央の官僚、地方の儒学者、それに三万といわれる太学の学生を巻き込み、一大勢力を作り上げていた。陳寔も清流に属した官僚、儒学者である。
 危機を先取りした宦官勢力、これから先は、おきまりのコース、第一次から第二次にわたる党錮の禁がそれである。名のある官僚、儒学者百余名が殺害され、数百名が官界から追放された。かくして、宦官全盛時代の現出、しかし夢のあと、後漢帝国の弔鐘「黄巾の乱」まで二十年とはかからなかった。

論語の言葉
『名正しからざれば則ち言順(したが)わず、言順わざれば事成らず、事成らざれば則ち礼楽興らず、礼楽興らざれば則ち刑罰中(あた)らず、刑罰中らざれば則ち民手足を措(お)く所なし。故に君子は名づくれば必ず言うべきなり。これを言えば必ず行うべきなり。君子其の言に於いて、苟もする所なきのみ』(論語、子路篇、金谷 治訳)。
『必ずや名を正さんか』(同上)。
 せめて名を正すことだという、孔子の正名論は、弟子である子路(しろ)との問答の中にある。名が正しくなければ、言葉も順当でなく、言葉が順当でなければ、仕事も出来上がらず、仕事が出来上がらなければ、刑罰もぴったりゆかず、刑罰がぴったりゆかなければ、人民は〔不安で〕手足の置き所もなくなる。だから君子は名をつけたらきっと言葉で言えるし、言葉で言ったらきっと実行できるようにする。君子は自分の言葉については、決していいかげんにしない。
  孔子は社会の混乱を、名を正すことから始めようとする。名を正すとは、社会の実態にあった、概念の構築から手がけられねばならない。氏族共同体の解体期を迎えて、上部構造である礼楽はゆらぎにゆらいでいる。身分制度も然り、刑罰体系も然り、昨日の君臣間の関係は、今日の君臣間の関係ではありえない。激しい階層分解の中から、士という階層が装いを新たにして、自らの才能、才覚をたよりに、中原諸国をわがもの顔に徘徊している。手足を措くところのない庶人が巷にあふれ、政を恨む声は、天下に充ち満ちている。

中国古代歌謡
関雎(かんしょ)……国風、周南
関関(かんかん)たる雎鳩(しょきゅう)は  河の洲に在り
窈窕(ようちょう)たる淑女は  君子の好(よ)き逑(たぐ)い
カーン、カーンとミサゴが、河の中州で仲良く鳴き交わしている。そのように、たおやかな乙女は、君子のよきつれあいになるだろう。
第二節では、長短さまざまなアサザが右に左に揺れるように、君子はたおやかな乙女をさがしもとめる。寝ても覚めても、思い焦がれる。夜もすがら寝返りを打つ、と歌う。
参差(しんさ)たる?菜(こうさい)は  左右に之を采(と)る
窈窕(ようちょう)たる淑女は  琴瑟(きんしつ)もて之を友(いつく)しまん
参差(しんさ)たる?菜(こうさい)は  左右に之を?(えら)ぶ
窈窕(ようちょう)たる淑女は  鐘鼓(しょうこ)もて之を楽しましめん
長短さまざまなアサザは、右に左に摘む。そのようにして得たたおやかなよき乙女は、琴(こと)や瑟(しつ)をかなでて慈しもう。長短さまざまなアサザは、右に左にえらび取る。そのようにして得たたおやかな乙女は、鐘や太鼓を鳴らして楽しませよう。
関雎は、周南第一巻、周の南の一帯(今の陝西省)における、美しい乙女を恋い慕う、君子の歌謡である。詩経の巻頭におかれ、修辞的にもっとも洗練された一篇といわれる。ここで言う君子とは、周初のよりよき時代、太夫や士といった貴族階層の子弟とであっただろう。

次回開催日程
1, 日時 平成17年2月18日(金) 6:30
2, 場所 川和井
3, 道学標的講義(稲葉黙斎)
「止者必(p46の14行目)~引てきたせんがない(p51の2行目)」(今関弘道)
「中庸曰(p51の3行目)~大きなことを云えたものなり(p54の2行目)」(後藤 宏)
4,懇親会


モクサイ通信№73(2005.03)
№73 2005.03.29
  発行者 今関弘道
  黙斎を語る会のホームページ   http://mokusai.web.infoseek.co.jp/
モクサイを語る会まとめ
1, 日時 平成17年2月18日(金) 6:30
2, 場所 川和井
3, 出席 柏木恒彦、土屋幸恵、斎藤房一、今関弘道
4, ふりかえり・おさらい
【道学標的(稲葉黙斎)】……「止者必(p46の14行目)~引てきたせんがない(p51の2行目)」(今関弘道)。以上を終了させた。
【語釈】
 p5の4行目 我甘盤に学ぶ:保留。
 p7の17行目 年玉:保留。
 p12の8行目 許渤:保留。
 p12の20行目 許魯斎:保留。
 p33の8行目 吾道南すと云顔で:保留。
 p41の3行目 周伯人:保留。(以上、保留事項……72回まで)。
 p47の5行目 桐の処:保留。
 p47の16行目 鄧伯道:保留。
 p47の17行目 王凝:保留。
 p48の19行目 屋漏に愧じず:読み

俳句・短歌
ぬばたまの夜(よ)の更(ふ)けゆけば  久木(ひさき)生(お)ふる清き川原に千鳥しば鳴く(山部赤人)
夜が次第に更けてゆくと、久木の生える清い河原で千鳥がしきりと鳴いていることだ。
ぬばたまのは夜の枕詞。久木は未詳。きささげ、あかめがしわなどの説がある。夜の山中の静寂を千鳥の声により表現した。

默齋講義関連資料
理気説について1(三浦国雄、理気説、世界大百科事典より抜粋)
(1)「理は事物の法則性をあらわす概念として先秦時代から使われ、気も古代以来、事物を形づくりそれに生命を与えるガス状の物質と考えられ、中国人にはきわめてなじみ深いものであった」。
(2)「気を自覚的にその哲学体系に組み込み、気の存在論を作り上げたのは北宋の張載(横渠)が最初で(あった)」。
(3)「気に対して理を立て、理と気によって世界をとらえようとした(のは)程頤(伊川)にはじまる。程頤は気の現象する世界の奥に、それを支え秩序づける存在を推定してこれを理と呼び、この理を究明すること(窮理)が学問の要諦だとした」。

懇親 よく遊びよく学ぶ 過ぎたるは及ばざるがごとし
ホームページ、邦ちゃんの参加。僕はEメールを知っていたわけだから、もっと早くに知らせてあげるべきだった。韓国は、儒教の国、李退渓の国だしね。
ひとりごとと掲示板を二日に一度ぐらいの間隔で開く。後藤さんの記事もあったりして面白い。
柏木さんの読み下しの作業、着実に進んでいるようだ。われわれとしても、プリントアウトして、目を通しておく必要が、実にあるね。モクサイを語る会、ホームページを共有するためにも。
 
故事・成語の散歩道 三国(魏・蜀・呉)時代
『兄(けい)たり難く弟(てい)たり難し』(世説新語)
二人の間の才能や徳性が同じくらいで優劣をつけられないこと。「各々その父の功徳を論ず、之を争いて能く決せず。太丘(たいきゅう)に諮る。太丘曰く、『元方(げんぽう)は兄と為し難く、季方(きほう)も弟と為し難し』と」(世説新語)、劉義慶)。

「梁上の君子」でみた陳寔(ちんしょく)は、後漢末期、清流に身を置いた名士であり、長男の元方、次男の季方もそれぞれ儒学を修め、「三君」と謳(うた)われている。他方における宦官の国政壟断、党錮の禍。陳寔は、自分が入獄しないと、獄中の友人は頼る者が居ないとして、自ら入牢する。
清流の大立て者、李膺(りよう)と陳番は死んだが、陳寔は赦免された。時は宦官の全盛時代、足早に黄巾の乱へと向かっていた。清流の出番はすぎてしまったというべきか。陳寔はその後、大将軍何進(かしん)などに仕官を求められたが、二人の息子ともども、言を左右にして、職に就こうとはしなかった。
ところで、『兄(けい)たり難く弟(てい)たり難し』は、孫の父親自慢に対しての祖父、陳寔の裁定である。年齢では兄弟であるが、学問、道徳上では差異はない。
なお、世説新語に、弟の陳季方が語った言葉がのせられている。「父は泰山の麓に立つ桂の木のようなもので、上には泰山の高さがあり、下には深淵の深さがあるが、当の桂の木は泰山の高さも淵の深さも知らぬように、父も自分の徳行や功績についての意識はないのです」。泰山を天子に、淵を万民に読みなぞらえている。

論語の言葉
『陽貨、孔子を見(まみ)えんと欲す。孔子見えず。孔子に豚を帰(おく)る。孔子其の亡(な)きを時として往(い)きてこれを拝す。塗(みち)に遇(あ)う。孔子に謂いて曰く、来たれ。予(われ)爾(なんじ)と言わん。曰く、其の宝を懐(いだ)きて其の国を迷わす。仁と謂うべきか。曰く、不可なり。事に従うを好みて亟(しばしば)時を失う。知と謂うべきか。曰く、不可なり。日月逝く、歳我と与(とも)ならず。孔子曰く、諾(だく)。吾れ将に仕えんとす』(論語、陽貨篇)。
 子豚を贈られた孔子、陽虎(陽貨)の留守を見はからって、その家に出かける。途中でばったり陽虎に出会ってしまう。陽虎、さあ私はあなたと話をしたいのだ。いったい宝を胸に抱きながら、その国の人々をほおって於いて、彼らにどうしたらよいか迷わせている。仁と言えるのか。孔子、仁と言えません。政治に関心を持っているのに、たびたびその機会を逃している。知と謂うことが出来るか。孔子、出来ません。月日は過ぎていく、歳は待ってくれない。孔子、分かりました。私もそのうちに仕官しましょう。
 陽虎は、魯の国の国政を牛耳ってきた太夫、季孫氏の家臣。すでに主家(季孫氏)をおさえて魯の国政に、大きくくちばしを差し挟んでいる。孔子は、陽虎の申し出を歓迎しないのだけれども、陽虎の問いかけを否定してはいない。下克上の時代、在来の身分制度を打ち破っていく、新興階層の高い志がうかがわれておもしろい。ここでは陽虎は太夫として、孔子は士として描かれている。当時の身分制度は、天子を頂点として、諸侯、太夫、士、庶人、奴隷というように定められていた。
 
中国古代歌謡
桃夭(とうよう)……国風、周南
桃の夭夭(ようよう)たる  灼灼(しゃくしゃく)たる其の華(はな)
之(こ)の子  干(ここ)に帰(とつ)がば  その室家(しっか)に宜(よろ)しからん(第一節)
桃の木は若く、その花は燃え立つように輝いている。この娘がお嫁に行ったら、嫁ぎ先にふさわしい妻になるだろう。夭夭……気が若く盛んな様。灼灼……花の燃え立つように輝いているさま。室家……嫁いでいって作る家。
桃の夭夭(ようよう)たる  其の葉  蓁蓁(しんしん)たり
之(こ)の子  干(ここ)に帰(とつ)がば  その家人(かじん)に宜(よろ)しからん(第三節)
桃の木は若く、その葉はふさふさと茂っている。この娘がお嫁に行ったら、家中の人に喜ばれる妻になるだろう。
桃夭は関雎と同様、詩経の第一巻、周南の巻におさめられている。国風のうち、十五巻の最初の二巻を正風といい、周王朝の創業期、黄金時代の意という。概して、平和で幸せな人々の姿が歌われている。先の関雎の君子が貴族の若者であるならば、桃夭の之の子は、幸せな貴族の娘であるだろう。

次回開催日程1, 日時 平成17年4月1日(金) 6:30
2, 場所 川和井
3, 道学標的講義(稲葉黙斎)
「中庸曰(p51の3行目)~大きなことを云えたものなり(p54の2行目)」(後藤 宏)
4,懇親会


モクサイ通信№74(2005.04)
モクサイを語る会
gooseberry
№74 2005.04.20
white birch
  発行者 今関弘道  
  黙斎を語る会のホームページ   http://mokusai.web.infoseek.co.jp/
第74会モクサイを語るかいまとめ
1, 日時 平成17年4月1日(金) 6:30
2, 場所 川和井
3, 出席 柏木恒彦、後藤 宏、斎藤房一、今関弘道
4, ふりかえり・おさらい
【道学標的(稲葉黙斎)】……「中庸曰(p51の3行目)~大きなことを云えたものなり(p54の2行目)」(後藤 宏)。以上を終了させた。
【語釈】
 p5の4行目 我甘盤に学ぶ:保留。
 p7の17行目 年玉:保留。
 p12の8行目 許渤:保留。
 p12の20行目 許魯斎:保留。
 p33の8行目 吾道南すと云顔で:保留。
 p41の3行目 周伯人:保留。
 p47の5行目 桐の処:保留。
 p47の16行目 鄧伯道:保留。
 p47の17行目 王凝:保留。(以上、保留事項……73回まで)。
p51の8行目 さんきらい:薬の名。
 p51の10行目 くさめ:くしゃみ。
p53の3行目 ぐんぜより:かんぜより、こより。
p53の5行目 高卑を一にして遠近を合するは:読み。
p54の9行目 ?:げん、おおがめ。
p54の9行目 ?:だ、た、わに。
p54の10行目 鮫龍:こうりょう、みずち。

俳句・短歌
春の野にすみれ採(つ)みにと来(こ)し我そ  
      野をなつかしみ一夜(ひとよ)寝にける(山部赤人)
  春の野にすみれを摘みに来た私は野辺にすっかり心惹かれて、一夜を明かしてしまったよ。春の野遊びをたたえる歌だけれども、野辺は美しい女性のたとえともとれる。古今集の仮名序、源氏物語にも引用されている。

默齋講義関連資料
理気説について2(三浦国雄、理気説、世界大百科事典より)
(1)程伊川を継承した南宋の朱子は、「理と気の性格およびその関係に思索をこらし、理気二元論哲学を大成した」。
(2)理は形而上のもの、気は形而下のもので、「両者はまったく別の二物」である。しかし、理が在れば気が在り、気が在れば理が在るというように、「両者は単独で存在することができない」。
(3)「また、気が運動性をもつのに対して理は無為であり、気の運動に乗っかってそれに秩序を与えるだけである」。
(4)伊藤仁斎は、「戴震(たいしん)より早く<理は気中の条理のみ>(語孟字義、天道)と言い切っている」。

懇親
(1)シュクスイ三日に及ぶ、自慢できることではない。ひっくり返って後頭部打撲、鈍痛七日に及ぶ。なおさら自慢できないね。いつまでも若くはない、とはいえ軽々に老いぼれたくもない。黙斎は三十代後半まで、浮き世の塵に染まっていた。われわれは凡人、野に帰り地を耕す方だから、六十代前後としようか。でも五分の魂、五風十雨、晴耕雨読など強がりも言ってみたい。
(2)バッカスが火をあおりたてるときには、ヴィナスが炉端に坐っている。西洋の俚諺(りげん)だ。別にヴィナスがいなくても、僕は十分に頑張ることが出来る。いい酒、いい肴、いい話があれば十分だ。たとえて言えば、八海山があって、ホルモン焼きがあって、土屋さん、カイッチャン、後藤さん、だれか一人でもいればいい酒が飲めると思うよ。ところで、デオニッソスの巫女と地中海の泡より誕生したアフロディテとは、どんな関係にあったかしら。
 
故事・成語の散歩道
『月旦評』(後漢書)
月旦評とは人物評をいう。月旦は評が略されたものである。
後漢末、汝南の許劭(きょしょう)というものが、従兄弟の許靖(きょせい)と二人で、毎月はじめ(月旦)に郷党(きょうとう)の人物の批評を行った。評判になったのは、人物評が的確であったと云うだけでなく、評された何人もの人間が、世に出る機会を得たからでもあった。許劭は靖と共に地元(汝南、平興)では知名の人であったが、郷里の近かった陳寔(ちんしょく)や陳蕃といった、清流の著名人とは、親しまなかったようである。
ここで、若き日の曹操が登場する。許劭の評判を聞いて、曹操が汝南を訪れる。はじめは辞を低くして、許劭がイエスを云わないのを見ると、わざわざきたのに、評を得ずには帰らない。その豹変ぶりをみたあとで、許劭は次のように評した。
『君は清平(せいへい)の奸賊(かんぞく)にして、乱世の英雄なり』(後漢書)。あなたは治安がいい時代なら悪党でしかないが、乱世なら英雄だ。曹操は大いに喜んで立ち去ったという。
この話は、「三国演義」では次のようになる。『子は治世の能臣にして、乱世の奸雄なり』。英雄と奸雄の間、しかし曹操は評を聞いて喜んだと云うことになっている。三国演義では、はじめから、奸雄としてのスペシャル・シートが用意されている。

論語の言葉
『衛霊公、陳(じん)を孔子に問う。孔子対(こた)えて曰く、俎豆(そとう)の事は則ち嘗てこれを聞けり』(論語、衛霊公篇)。
  衛の霊公が孔子に戦陣のことをたずねた。孔子は答えて、お供えの器のことなら前から知っているけれども、軍隊のことは学んでおりません。俎はひら台、豆はたかつき、ともに祭りの供物を盛る器である。『孔子、児(じ)たりしとき、嬉戯(きぎ)するに常に俎豆を陳(つら)ね、礼容を設く』(史記、孔子世家)。礼容とは、礼儀正しい態度、様子の意である。
『吾れ少(わか)くして賤(いや)し、故に鄙事(ひじ)にして多能なり。君子、多ならんや。多ならざるなり』(論語、子罕篇、金谷 治訳)。
  私は若いときには身分が低かった。だからつまらないことがいろいろできるのだ。君子はいろいろするものだろうか。いろいろとはしないものだ。
孔子の父方は下級の士であったけれども、母方は葬送の儀式にたずさわる巫祝(ふしゅく、神に仕えて儀式を行うもの)であったといわれる。だから、孔子が子どものころ、礼器をならべて、葬式や祭礼のまねごとをして遊んでいたとしても、少しも不思議なことはない。
  ここで留意すべきは、孔子の家系は身分が低く、貧困であったとしても、幼少時代から礼を学ぶ環境を手の内にしていたということである。礼は学につらなっており、当時においては、唯一知的な職分と謂うことでもあった。
中国古代歌謡
伐檀(ばつだん)……国風、魏風
坎坎(かんかん)と檀を伐り  之を河の于(みぎわ)に寘(お)く
河水は清く且つ漣(さざなみ)たつ
稼(う)えず 穡(おさ)めずして 胡(なん)ぞ禾(いね)三百廛(てん)を取るや
狩りせず猟ぜずして 胡ぞ爾(なんじ)の庭に県?(かん)有るを瞻(み)るや
彼の君子や 素餐(そさん)せず(第一節)
カーン、カーン、マユミの木を切り倒して、これを川岸に置く。河の水は清くて、さざ波が立っている。
田植えも刈り入れもしないくせに、どうして三百軒分もの稲を取り上げてしまうのか。狩猟にも行かないのに、どうして自分の庭にムジナの子をつり下げているのか。あのお偉いさんのことだ、まさか、無駄飯は食いなさるまい。
坎坎(かんかん)と輻(ふく)を伐り 之を河の側(かたわら)に寘(お)く
河水は清く且つ直(すぐなみ)立つ
稼(う)えず 穡(おさ)めずして 胡ぞ爾(なんじ)の庭に県特(かん)有るを瞻(み)るや
彼の君子や 素食せず(第二節)
カーン、カーン、車の輻(車輪の周囲から中央のコシキに向かって集まる多くの細い棒)にするために、マユミを伐って、之を川岸に置く。河の水は清くて、まっすぐに筋を引いた波が立っている。
田植えも稲刈りもしないのに、どうして三百軒分もの、たくさんの稲を取り上げてしまうのか。狩りにも猟にもいかないくせに、どうして自分の庭に大きな獣をつり下げているのか。あの君子、お偉いさんのことだ、まさか働かずに食らうことはあるまい。
「生活苦にあえぐ農民が働かずに食う人々を呪詛する歌」(中国名詩選、松枝茂夫編)。伐檀は国風の第九巻魏風におさめられている。いわゆる変風、周王朝衰退期に入ってからの歌が、多くおさめられている。弱肉強食、下克上といった時代相が背景にある。
ここでの君子は、痛烈に皮肉られている。諸侯、太夫といった支配階級を指す。農民とは庶人・奴隷といった生産階級に他ならない。

次回開催日程
1, 日時 平成17年4月22日(金) 6:30
2, 場所 川和井
3, 道学標的講義(稲葉黙斎)
「優々大哉云々(p54の3行目)~其の人を待ちて行わるる(p58の15行目)」(斎藤房一)
4,ホームページ原稿について(案)
(1)多古町における鷹匠と上ヶ鳥、農民の対応について(土屋)
(2)孔子とソクラテス、「徳」ないしは「善」という概念について(後藤)
(3)朱子学の日本上陸について(1)……17世紀初頭のあたり、家康のあたりまで……(斎藤房一)
(4)中国ユートピア論、聖王・聖人の出現と知・礼・仁の世界……古い共同体のかすかな記憶、大同の世から小康の世へ……(イマゼキ)
(5)以上の他、山口先生、桜木保さんの小論文など。
5,懇親会


モクサイ通信№75(2005.05)
モクサイを語る会
№75 2005.05.17
  発行者 今関弘道  
  黙斎を語る会のホームページ   http://mokusai.web.infoseek.co.jp/
まとめ
1, 日時 平成17年4月22日(金) 6:30
2, 場所 川和井
3, 出席 柏木恒彦、後藤 宏、斎藤房一、今関弘道
4, ふりかえり・おさらい
【道学標的(稲葉黙斎)】……「優々大哉々(p54の3行目)~其の人を待ちて行わるる(p58の15行目)」(斎藤房一)。以上を終了させた。
【語釈】
 p5の4行目 我甘盤に学ぶ:保留。
 p7の17行目 年玉:保留。
 p12の8行目 許渤:保留。
 p12の20行目 許魯斎:保留。
 p33の8行目 吾道南すと云顔で:保留。
 p41の3行目 周伯人:保留。
 p47の5行目 桐の処:保留。
 p47の16行目 鄧伯道:保留。
 p47の17行目 王凝:保留。
 p55の5行目 斬衰斎衰大功小功。 
 p57の3行目 文字呈堯夫:出典。 
 p57の19行目 ?子:たんし、読み。
 p58の9行目 行不能正屈:出典(以上、保留事項……74回まで)。
p54の12行目 薄き:すすき、読み。
 p55の13行目 日傭取:ひよとり、読み。
 p55の14行目 周礼:しゅらい、読み。
 p55の18行目 迚も:とても、読み。
 p57の15行目 ムグカワムグカワ:よく噛むという意の形容。
 p58の13行目 小正卯:しょうせいぼう、読み。
 p58の10行目 ?里:ゆうり、読み。
 
俳句・短歌
 明日よりは春菜(はるな)採(つ)まむと標(し)めし野に  
                  昨日も今日(けふ)も雪は降りつつ(山部赤人)
 明日からそこで春菜を摘もうと標(しめ)を張っておいた野原なのに、昨日も今日も雪が降り続いている。標めし野は、実際には心づもりしておいた野というほどの意。

默齋講義関連資料
「理」の概念および「気」の概念について(三浦国雄、世界大百科事典より)
(1)理とは「<天>や<道>とならぶ、中国思想史上の重要な概念である」。朱子学(新儒学)においては「そこではすべての存在するものは気に,その秩序は理に収斂(しゆうれん)され,この理と気の2本の柱によって世界や人間のありようとあるべき姿が説かれた。道学や理学と自称したこの教義における理とは,存在するもの(気)に秩序を与える原理であるが,理は個々の事物に内在しつつ一なる理=太極(たいきよく)によって統括されている。この構造を〈理一分殊(ぶんしゆ)〉と呼ぶが,その一なる理は朱熹においては,頭上に君臨する何か実体的存在のごときものとして考えられていた節がある。また,理の内実は結局のところ仁義礼智信の倫理的規範であり,個我の解放を推し進める人々には人間の欲望を抑圧する元凶と映り,たとえば清の戴震(たいしん)などから〈理は人を殺す〉という批判を浴びた」。
(2)気という概念については、「中国思想史上の用語、宇宙に充満する微物質。アトムとは異なり、ガス状に連続していて分割できない。万物を形づくり、それに生命、活力を与えるもの。物質=エネルギーと定義される」。 
懇親
「黙斎を語る会のホームページ」をどのようにして充実させていくか。その一つは、サンダウナーいうところの柏木モクサイの、基本文献の解読。ヤマイコウコウニイルというような頑張りの積み重ねがあって、今のところ順調。加えて、ひとりごと、房一さんとの合作、上総八子の墓所を訪ねる写真も好評、何よりと思うね。
 もう一つは、われわれに即していった場合、知的レベルのアップという課題の消化という問題。課会を通しても得られることだけれども、それだけではおそらく不十分。モクサイを契機として、各自課題(仮説)を設定し、自分たちの問題として取り組んでいく。このような姿勢が必要と思われる。道体・為学、しかし自らの為に学をするという、モクサイの思想の具体化でもある。
 以上のような意味合いで、今回、ホームページ掲載を直接的な目的として、それぞれの課題を設定し、取り組んでいくことを申し合わせた。現時点においては、仮題ということになるが、以下の通り。
(1)多古村における、鷹匠とあげどり、農民の対応について(土屋幸恵)。
(2)孔子とソクラテス、思想の類似性、例えば仁という概念と善という概念の比較について(後藤 宏)。
(3)朱子学の日本上陸について(さしあたり、17世紀初頭のあたりまで)(斎藤房一)
(4)中国ユートピア論、聖王・聖人の出現と学・知・礼・仁の世界(今関弘道)。
(5)そのほか、山口先生、桜木保さんの小論文など。
 出来てみないと何とも言えない。少しばかり期待しておいてくださいというところかな。
 
故事・成語の散歩道
『鄭家(ていか)の奴(ど)は詩をうたう』(事文類聚)
鄭玄(ていげん、じょうげん)の家に使われていた召使いの男女は、習わずして「詩経」の詩句をそらんじ、日常の会話に引用していた。わが国の故事成語では、「門前の小僧習わぬ経を読む」、「勧学院の雀は蒙求(もうきゅう)を囀(さえず)る」といったところ。勧学院は平安時代の私設大学、蒙求は中国の史書。
鄭玄(紀元127~200)は、後漢の大儒。儒学を学び、四十歳を越した頃、郷里(山東省北海高密)に帰り、清貧をよしとして、農耕にいそしみながら、諸生に教授をしたという。門人数千人、権勢には近づかず、官職への招請をひたすら断り、研究に専念した「純儒」である。
ちなみに、鄭玄四十歳の頃とは、第二次党錮の禍が引き起こされたあたり、外戚が排されて、しばしの間とはいえ、宦官全盛時代の幕開けの頃である。
「已みなん已みなん。今の政に従うものは殆(あやう)し」(論語、微子篇)。清流に属していた李膺、陳蕃、陳寔などは獄にとらわれ、生死も定かならざる状況に置かれていた。

論語の言葉
『子、子夏に謂いて曰く、女(なんじ)、君子の儒と為(な)れ。小人の儒と為るこ無かれ』(論語、雍也篇)。
 孔子が子夏に向かっていうには、お前は君子としての学者になりなさい。小人の学者になってはいけない。
 君子としての学者、小人としての学者の違いは、『わが身に修養するのと、単に名誉を求めるとの差』(金谷 治)とするのが通説という。タイムラグはあるけれども、儒家に対する墨家の側からの批判、「富人に喪有れば、乃ち大いに説喜(せっき、よろこぶこと)して曰く、此れ衣食の端なりと」(墨子、節葬篇)。こうなると、名誉を求めるどころではない。しかし、このような現実は有ったのだろうと思われる。
 孔子は決して葬送儀礼だけを学んでいたわけではない。この言葉は、世俗の名利を排して自らのために学ぶ、自らを陶冶することとあわせて、呪術・卜占をもっぱらにする礼の世界、鬼神の支配する礼の世界を、人間本位の礼の世界に据え直す必要性を説いたものとして、理解することが出来る。

中国古代歌謡
碩鼠(せきそ)……国風、魏風
碩(おお)いなる鼠よ 碩いなる鼠よ
我が黍(きび)を食らう無かれ
三歳(みとせ)がほど女(なんじ)に貫(つか)えしが
我を肯(あえ)て顧みること莫(な)かりき
逝(ゆ)きて将に女を去り 彼の楽土に適(ゆ)かんとす
楽土よ 楽土よ 爰(ここ)に我が楽土を得ん
大きなネズミよ、大きなネズミよ、おれの黍を食わないでくれ。お前には、もう何年も食わせてやったのに、お前は一体何をくれた。もう沢山だ。おれはお前にきっぱりと縁を切って、話にきく幸せの国へ行くぞ。幸せの国、幸せの国よ。そこにこそ、おれの安住の地を見いだすだろう。
碩(おお)いなる鼠よ 碩いなる鼠よ
我が麦を食らう無かれ
三歳(みとせ)がほど女(なんじ)に貫(つか)えしが
我を肯(あえ)て徳(めぐ)むこと莫(な)かりき
逝(ゆ)きて将に女を去り 彼の楽国に適(ゆ)かんとす
楽国よ 楽国よ 爰(ここ)に我が直(ただ)しきを得ん
楽国……楽土、楽郊とおなじ。 直……宜とおなじ、住むに宜しきところ。
碩(おお)いなる鼠よ 碩いなる鼠よ我が苗を食らう無かれ
三歳(みとせ)がほど女(なんじ)に貫(つか)えしが
我を肯(あえ)て労(つと)むこと莫(な)かりき
逝(ゆ)きて将に女を去り 彼の楽郊に適(ゆ)かんとす
楽郊よ 楽郊よ 誰か之にそれ永号(えいごう)せん
誰之永号……もはや誰も嘆き悲しむものはないだろう。別解によると、誰かおれと一緒にそこへ行って、大声で楽しく暮らさないか。
碩鼠の対する「古詩選、入谷仙介」の評は次のようである。「幸福な黄金時代は過ぎ去った。変風の巻巻には、もはや喜びの声はほとんでない。そこには不幸な生活、不幸な愛情の嘆きの声ばかりが満ち満ちている。営々と働きながらも、生活の苦しみから少しも解放されない人民たちは、自分たちの苦しみを歌に託して、そこにわずかななぐさめを見いだした。しかも人民の鋭い眼は、時に自分たちの苦しみの根源にまでせまることがあった」。

次回開催日程
1, 日時 平成17年5月27日(金) 6:30
2, 場所 川和井
3, 道学標的講義(稲葉黙斎)
「待其人而云々(p58の16行目)~あのようなはほめぬ(p61の18行目)」(柏木恒彦)
「故君子云々(p61の19行目)~朱子に及ふことはならぬ(p65の7行目)」(今関弘道)
4,レポートの進捗状況について
5,懇親会


モクサイ通信№76(2005.05)
モクサイを語る会
№76 2005.05.30
  発行者 今関弘道  
  黙斎を語る会のホームページ   http://mokusai.web.infoseek.co.jp/
まとめ
1, 日時 平成17年5月27日(金) 6:30
2, 場所 川和井
3, 出席 柏木恒彦、後藤 宏、斎藤房一、今関弘道
4, ふりかえり・おさらい
【道学標的(稲葉黙斎)】…「待其人而云々(p58の16行目)~あのようなはほめぬ(p61の18行目)」(柏木恒彦)
「故君子云々(p61の19行目)~それを問尋ねばならぬ(p63の18行目)」(今関弘道)。以上を終了させた。
【語釈】
 p5の4行目 我甘盤に学ぶ:保留。
 p7の17行目 年玉:保留。
 p12の8行目 許渤:保留。
 p12の20行目 許魯斎:保留。
 p33の8行目 吾道南すと云顔で:保留。
 p41の3行目 周伯人:保留。
 p47の5行目 桐の処:保留。
 p47の16行目 鄧伯道:保留。
 p47の17行目 王凝:保留。
 p55の5行目 斬衰斎衰大功小功。
 p57の3行目 文字呈堯夫:出典。
 p57の19行目 ?子:たんし、出典は春秋左氏伝。
 p58の9行目 行不能正屈:出典(以上、保留事項……75回まで)。
p61の17行目 堺町:歌舞伎の盛んな蛎殻町の北にあった。
 p63の1行目 そざさぬ(そがさぬ):粗末にしない、大切にの意としておく。 
 
俳句・短歌
 ももしきの大宮人(おおみやびと)は暇(いとま)あれや  
                  桜かざして今日も暮らしつ (山部赤人)
 宮中に仕える人たちは、暇があるのだろうか。桜を挿頭(かざし)として(髪に挿して)、今日も一日を過ごしてしまったよ。

默齋講義関連資料
尊徳性(本性の確立)と道問学(個々の事物についての理の探求)、異端との違い
(1) 人間の本性は仁義礼智信である。うち信は仁義礼智の四徳の真実無妄をいうものであり、人間の本性は仁義礼智の四徳といっていい。これを一元的に集約すれば、仁の一字に帰する。
(2) 四徳は至善のものであっても、必ず気質と一体化している。だから、気の制約を受けて、本性(四徳)がくらまされる。
(3) そこで人欲に打ち勝つ復性が要される。
(4) その工夫の要諦は、中庸にいう尊徳性(本性の確立)と道問学(個々の事物についての理の探求)である。
(5) 儒学と仏老との違いは、本性具徳説と性空説、性無説との違いである。本性を、人倫を離れた領域(渾然たる一物)に置くとすれば、そこからは人倫を支える規範や条理は生まれてこない。「目もりのない秤や物差」である。本性が四徳を備えているか、このことを認めるか否かが、儒学と異端を分ける指標となる。(朱子、玉山講義より)。
 
懇親
 確かにモクサイを語る会は、曲がり角にさしかかっているように思う。ホームページの開設、モクサイ講義録の柏木作業をふまえて、より広く、より深くという、これからの課会のあり方の具体化が求められている。だとすれば、それに見合ったモクサイを語る会の活動が保障されねばならない。文殊の知恵、何とか切り抜けていけると思う。切り抜けていかねばならない。
 
故事・成語の散歩道
『桃園結義(とうえんけつぎ)』(三国演義、第一回)
 張角率いる黄巾の賊が、幽州(河北省)の国境に迫る。太守の劉焉(りゅうえん)は義兵を募り、高札を各県に立てる。?県、一人の男がため息をつく、その肩をたたくもう一人の男。たちまちにして意気投合、第三の男関羽を加えての、大酒盛り。翌日三人、すなわち劉備、関羽、張飛は、張飛の桃園で香をたき、義兄弟の契りを結ぶ。
 『われらは姓を異にすといえども、義兄弟の契りを結んだからには、心と力を合わせて世のため国のために尽くさん。同年同月同日に生まれしことはかなわじとも、願わくは同年同月同日に死せんことを。天地の神よ照覧あれ』(同上)
 劉備が関羽、張飛と君臣関係ではなく、義兄弟の契りを結んだことの意味は何か。曹操は資力ある新興貴族、官界にも有力なコネをもつ。孫権は江南に隠然たる勢力を持つ土着の豪族。劉備は、中山王劉勝の子孫とは称するものの、しがないムシロ売りで糊口をしのいでいた、物質的基盤、人的基盤ともになし。そこで桃園結義、任侠的紐帯とでもいうべきものが、劉備の有する最大の武器だったのではないか。
 「そもそも任侠の精神とは、おのおの全人格を挙げて一人の人物に傾倒し、その人のためならば身命を捨てても顧みないという献身の心情をいうのであろう。燕の太子丹(たん)の恩義に感じ、秦の始皇帝を刺殺せんとして斃(たお)れた荊軻は古代の侠客の典型である。このように利害打算を度外視した非合理的な精神あるいは心情が、もし君臣関係の中で作用するならば、恩顧と義務といった双務契約によって結ばれる通常の君臣関係では決してみられない、強固な精神的紐帯が生まれてくることになる」(三国志の迷宮、山口久和)。だとすれば、劉備はカリスマとしての資格を十分に持ち合わせていたに違いない。桃園結義は、その第一歩であったと云うべきか。

論語の言葉
『子曰く、周は二代に監(かんが)みて郁郁乎(いくいくこ)として文なるかな。吾は周に従わん』(論語、八?篇)。
 孔子がいうには、周の文化は、夏と殷との二代を参考にして、いかにも華やかで立派だ。私は周に従おう。
 周公(周公旦)は兄の武なきあと、実質的には周王となり、召公と連携しつつ内乱を抑え、第二代の成王に王権をバトンタッチした。周代の多くの礼制は、周公によって定められたとされ、伝説上では、周礼(しゅらい)、儀礼(ぎらい)なども、周公の手になったといわれる。
 『甚だしきかな、吾の衰えたるや。久しきかな、吾もまた夢に周公を見ず』(論語、述而篇)。
 ひどいものだ、私も衰えた。私が周公を夢に見なくなってから、久しい時が流れている。
 孔子は周の文化=周の礼制を讃えこそすれ、具体的には何も語っていない。少なくとも、論語においてはそうである。孔子は知によってたどり着いた、仁をベースとする礼制を、周公の定めた周初の礼制に投影しているだけ、重ね合わせているだけのように見える。ならば、若い頃夢にまで見た周公とは、孔子にとって一体何であったか。
 孔子の周公に対する傾倒は、鬼神に頼る文化から、人間中心の文化への志向=祭政一致、呪術と卜占による政治からの脱却という一点に集約される。つめていえば、周公の定めたとされる礼制の具体的な内容ではなかったというべきだろう。『子曰く、仁に当たりては、師にも譲らず』(論語、衛霊公篇)。周公の定めた礼制は、孔子にとって学ぶ対象であったとしても、到達点ではなかった。必要な通過点であったとしても、それ以上のものではなかったように思われる。
 
中国古代歌謡
君子于役(うえき)……国風、王風
君子 役(えき)に于(ゆ)く
其の期を知らず
曷(いつ)か至らんや
鶏 塒(ねぐら)に棲(やど)る
日の夕べ
羊牛下り来る
君子 役にい于く
之を如何ぞ 思うことなからん
あなたは徴用されていった。その期限は知らされず、いつお帰りになれる事やら。鶏も自分のねぐらにやすんだ。日が暮れて、羊や牛も山から戻ってきた。あなたは徴用されて出て行った。どうしてあなたの身を案じないでいられましょう。
君子 役(えき)に于(ゆ)く
日あらず月あらず
曷(いつ)か其れ?(あ)うことあらん
鶏 傑に棲(やど)る
日の夕べ
羊牛下り括(いた)る
君子 役にい于く
苟も飢渇すること無かれ
あなはた徴用されて出て行った。月日は数えきれぬほど過ぎ去り、いつ復た会える事やら。鶏は自分の泊まり木に休み、日が暮れて、羊や牛も山から帰ってきた。あなたは徴用されて出て行った。かりそめにもひもじい思いをなさらないように。
不日不月……月日を以て計算しきれないほどの長い時間。
君子于役は、国風百六篇のうち、第六巻王風(東周の王都付近を指すが、黄河流域の北方で歌われた民謡)におさめられている。徭役(ようえき)に長く出ている夫を思う農夫の歌である。徭役とは、古代に於いて、成年男子に課せられた強制労働を云うが、兵役に類似したものであったと思われる。わが国の、防人の歌、例えば「我が妻はいたく恋いらし飲む水に 影(かご)さえ見えて世に忘られず」といったものを、想起させる。

次回開催日程
1, 日時 平成17年7月1日(金) 6:30
2, 場所 川和井
3, 道学標的講義(稲葉黙斎)
「孔子はあの大聖ゆえ(p63の18行目)~朱子に及ぶことはならぬ(p65の17行目)」(今関弘道)
「極高明而道中庸(p65の7行目)~敦厚以崇礼(p67の19行目)」(後藤 宏)
5,懇親会


モクサイ通信№77(2005.07)
モクサイを語る会
№77 2005.07.12
  発行者 今関弘道  
  黙斎を語る会のホームページ   http://mokusai.web.infoseek.co.jp/

まとめ
1, 日時 平成17年7月1日(金) 6:30
2, 場所 川和井
3, 出席 柏木恒彦、後藤 宏、斎藤房一、今関弘道
4, ふりかえり・おさらい
【道学標的(稲葉黙斎)】……「孔子はあの大聖ゆえ(p63の18行目)~朱子に及ぶことはならぬ(p65の7行目)」(今関弘道)
「極高明而道中庸(p65の7行目)~敦厚以崇礼(p67の19行目)」(後藤 宏)以上を終了させた。
【語釈】
 p5の4行目 我甘盤に学ぶ:保留。
 p7の17行目 年玉:保留。
 p12の8行目 許渤:保留。
 p12の20行目 許魯斎:保留。
 p33の8行目 吾道南すと云顔で:保留。
 p41の3行目 周伯人:保留。
 p47の5行目 桐の処:保留。
 p47の16行目 鄧伯道:保留。
 p47の17行目 王凝:保留。
 p55の5行目 斬衰斎衰大功小功。
 p57の3行目 文字呈堯夫:出典。
 p58の9行目 行不能正屈:出典。(以上、保留事項……75回まで)。
p64の19行目 望望然:ぼうぼうぜん、とりとめのないさま。
 p65の2行目 接浙而去云々:斉の国を去るときは速やかに。
 p65の4行目 職原:書物の名、職の由来。
 p65の1行目 甲斐の徳本:貼り薬「トクホン」の由来?
 p66の3行目 下戸の処の銚子:チロリであろう。 
 
俳句・短歌
 天地(あめつち)の 分かれし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠(かく)らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は
 田子の浦にうち出でて見れば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ(山部赤人)
田子の浦に出てみると、富士の高嶺に真っ白に雪が降り続いている。
原歌は「田児の浦ゆうち出てみれば真白にそ不尽の高嶺に雪は降りける」。流布本「百人一首」に、標記の歌としてのせられ、そのまま親しまれている。
田子の浦は、駿河湾の歌枕、白妙のは白栲(しろたえ)、つまりコウゾの繊維で織った白い布、このように真っ白い状態を云う。

默齋講義関連資料
孔子の仁と孟子の仁義について
問い
「『論語』では仁がたびたび説かれているのに、『孟子』では仁と義をあわせ説いています。これは、孔子は一元の気を説き、孟子は陰と陽を説いたものと思われます。察するところ仁は体であり、義は用なのでしょうか」
答え
孔子が仁のみをいうのは、(程伊川の言葉を借りると)専言の側からいったのです。それゆえ仁を説くだけだが、(当然のことながら)仁義礼智は、ことごとく仁の中にそなわっているのです。孟子が(仁に)あわせて義を説くのは、偏言の側からいったのです。けれどもそれは孔子の言葉以外に、義という字を加えたのではありません。一つの道理(すなわち仁)から、(義を)とり出してきただけなのです。(仁と義に)さらに礼と智とをあわせていうのも、同じことです。それは、礼は仁を著すものであり、智は義を蔵(つつ)むものであって、仁は、仁義礼智の中に行きわたっているものだからです。
(朱子文集・語類抄)
 
懇親 よく遊びよく学ぶ 過ぎたるは及ばざるがごとし
 モクサイを語る会のあり方にかかわって、さしあたり次のような事柄を具体化していったらいいと思う。
(1) 各自のレポートを完成させて、ホームページに掲載すること。
(2) 課会を成東へ移すことの是非、そうなった場合のモクサイを語る会の組織的な位置づけ、運営の仕方。
(3) まずは、「モクサイを語る会規約」とでもいったものの検討。この中で、(2)の課題の論議を深め、これからの方向を詰めていく。
 
故事・成語の散歩道
『行(ゆ)きて偃師(えんし)に到り、疾(やまい)と称して帰る』(後漢書、蔡?列伝)
 蔡?(さいよう)は後漢の文人、博学で文章にすぐれ、数術、天文に詳しく、音律に精通して、琴の名手であったといわれる。出身は河南省陳留、曹操が都落ちして旗揚げをした土地柄でもある。
 蔡?は霊帝の許しを得て、六経の文字を正定し、自ら石に隷書で書いて、四十六碑を洛陽郊外の太学門外に建てた。内容は、易経、尚書、詩経(魯詩)、大載礼、春秋、公羊伝であった。石経を見る者、筆写する者、日ごと一千余両の車が押し寄せ、人々は文字の持つ芸術性に驚嘆したという。
 その後蔡?は、災異に対する意見の上奏がもとで、罪に落とされ、放免された後も、身の危険を感じて会稽(かいけい)に亡命していた。
 『行(ゆ)きて偃師(えんし)に到り、疾(やまい)と称して帰る』は、桓帝の時代になってから、中常持(皇帝に侍従する職、後漢の頃は宦官)に、琴の名手であるということで、勅によって招かれ、しかし都城まで目と鼻の先の偃師(えんし)まできて病を発し、陳留に戻ってしまったという、含みのある対応が示されている。
 政治の表舞台に立つには、きわめて慎重であった蔡?であったが、董卓に招かれて侍御史、尚書、侍中、左中郎将と昇進。しかし、呂布の裏切りで董卓が殺され、王允(おういん)が実権を握ると、いかなる刑を受けても漢史をし遂げたいと蔡?は願ったが、節を疑われて結局許されずに獄死した。「胡笳十八拍」の作者といわれる蔡?(さいえん、文姫)は、蔡?の娘である。

論語の言葉
『逸民は、伯夷叔斉、虞中、夷逸、朱張、柳下恵、少連。子曰く、其の志を降さず、其の身を辱(はずか)しめざるは、伯夷叔斉か。柳下恵、少連を謂わく、志を降し身を辱む、言、倫に中(あた)り、行、慮に中る。其れ斯れのみ。虞中、夷逸を謂わく、隠居して放言し、身、清に中り、廃、権に中る。我は則ち是に異なり、可もなく不可も無し』(論語、微子篇)。
 伯夷叔斉は志を高く持ち続けて、わが身を汚さなかった。柳下恵と少連は、身は汚したが、言葉は道理にかない、行いは思慮にかなっていた。まあ、そんなところだ。虞中と夷逸は、隠れ住んで放言したが、身の持ち方は潔白で、世の捨て方も程よいものであった。しかし、私は其れとは違う。身の処し方は自由だ。仕えるべき時には仕える。
 伝説上の隠者、許由(きょゆう)と巣父(そうほ)。あるとき堯が帝位(九州)を引き受けてくれないかと許由にいった。許由は汚らわしいことをきいたものだと、穎川(えいせん)に走り、耳をごしごし洗った。そこへ、巣父が牛に水を飲ませにやってきた。許由から話を聞いて、不潔も甚だしい。巣父は上流の流れで、牛に水を飲ませた。穎川に耳を洗うという故事である。
 孔子は、隠者的な生き方を、頭から否定するようなことはしない。むしろ、一目置いている。しかし、乱れた世の中に、どのように対応していくかについては、百八十度の開きがある。孔子は、自らの心の中に小世界をつくりあげ、下克上・弱肉強食の現実を、低く見ようと言うような生き方は否定した。
 
中国古代歌謡
?鳴(けいめい)……国風、斉風
鶏 既に鳴きぬ
朝 既に盈(み)ちたり
鶏 則ち鳴くに匪(あら)ず
蒼蝿(そうよう)の事なり
    あなた ニワトリが鳴いているわ
    朝日がいっぱいにさしているわ
    あれはニワトリではないよ
    ハエの飛ぶ音さ
東方明けぬ
朝 既に昌(さか)んなり
東方 則ち明くるに匪ず
月出ずるの光なり
    東の空が明るいわ、夜はすっかり明けてしまったわ。
    あれは夜明けの光ではないよ、月の出さ。
虫飛んで薨薨(こうこう)たり
甘(たのし)んで子(きみ)と夢を同じゅうせん
会(かなら)ず且(しばら)く帰れ
庶(こいねが)わくは
予(わ)が子(きみ)の憎む無からんことを
   ハエがぶんぶん飛んでるわ
    いつまでも二人で甘い夢を見ていたいけれど、
    今日の所はどうかお帰りになって、悪く思わないでね。
国風のうち、斉風の巻、斉国の民謡である。一夜を共にした男と女の問答が歌われている。おもしろい。

次回開催日程
1, 日時 平成17年8月5日(金) 6:30
2, 場所 川和井
3, 道学標的講義(稲葉黙斎)
「知見がさへぬと(p67の19行目)~とくと合点すべし(p68の12行目)」(後藤 宏)
「尊者恭敬云々(p68の13行目)~標的にはならぬ(p72の5行目)」(土屋幸恵)
4,懇親会


モクサイ通信№78(2005.08)
モクサイを語る会
№78 2005.08.26
  発行者 今関弘道   
  黙斎を語る会のホームページ   http://mokusai.web.infoseek.co.jp/
まとめ
1, 日時 平成17年8月5日(金) 6:30
2, 場所 川和井
3, 出席 柏木恒彦、後藤 宏、斎藤房一、今関弘道
4, ふりかえり・おさらい
【道学標的(稲葉黙斎)】
「知見がさへぬと(p67の19行目)~とくと合点すべし(p68の12行目)」(後藤 宏)
「尊者恭敬云々(p68の13行目)~徳性をふきさすることなり(p70の7行目)」(柏木恒彦)
以上を終了させた。
【語釈】
 p5の4行目 我甘盤に学ぶ:保留。
 p7の17行目 年玉:保留。
 p12の8行目 許渤:保留。
 p12の20行目 許魯斎:保留。
 p33の8行目 吾道南すと云顔で:保留。
 p41の3行目 周伯人:保留。
 p47の5行目 桐の処:保留。
 p47の16行目 鄧伯道:保留。
 p47の17行目 王凝:保留。
 p55の5行目 斬衰斎衰大功小功。
 p57の3行目 文字呈堯夫:出典。
 p58の9行目 行不能正屈:出典。
 p68の19行目 故学之矣。
 p69の5行目 加礼於近貴 (以上、保留事項……76回まで)。
 p68の14行目 肉気:読み。
 p68の19行目 五両はだまされよう:暮れの借金取りに対して、弁口が立つ意。
 p69の16行目 小児の暗やみを:読み方。
 p70の3行目 さまざまな:読み。
 p70の4行目 龍も欲で醤にもなる:立派な人(龍)も人欲にくらまされると、ちっぽけな人間(醤)になる。
【醤蝦】(あみ)アミ目の甲殻類の総称。形はエビに似るが小形で、体長1センチメ-トル内外。海産で、沿岸や内湾・汽水湖の浮遊性のものが多い。釣りのまき餌、または塩辛・佃煮として食用。コマセアミ・イサザアミなど(広辞苑)。
 
俳句・短歌
 いざ子ども早く大和へ大伴(おほとも)の
                御津(みつ)の浜松待ち恋ひぬらむ (山上憶良)
                                      
さあ、者どもよ。早く、大和へ。大伴の御津の浜の松も、われらを待ち焦がれて居るであろうよ。
憶良が遣唐使として、唐にあったときの作。子どもは目下の者への呼びかけ。大伴の御津は大阪湾の港で、遣唐使の船が発着した。
【山上憶良】広辞苑
万葉歌人。山上臣。702年(大宝2)遣唐録事として入唐、707年(慶雲4)頃帰国。従五位下・伯耆守・東宮侍講、後に筑前守。豊かな学識を有し、「思子等歌」「貧窮問答歌」など現実的な人生社会を詠じた切実・真率な作が多い。「類聚歌林」を編む。(660 ~733頃)

默齋講義関連資料
没後三百年 伊藤仁斎の平和思想(1)
 2005.07.20 「しんぶん 赤旗」に、香川大学名誉教授村瀬裕也の論説が載せられていた。抜粋(転写)して紹介したい。
「仁齋が反対した朱子学では、世界とそのなかの万物は、『形而上の理』(宇宙の観念的原理)と『形而下の気』(宇宙の物質的原理)との結合として、二元論的に解釈された。だが二元論とはいっても、事物の姿を形づくる『気』よりも、それの意味・価値・秩序を規定する『理』の側に優越した意義が帰されることは言うまでもない。仁齋はこのような観念的な『理』の形而上学を『空言を以て空理を説く』虚偽の学問として退ける。『実言を以て実理を説く』真実の学問の立場からすれば、宇宙の実在は物質的な『気』の概念のみで十分に説明され得るはずである。ここから彼は唯物論的な『気』一元論を導く。『蓋し天地の間は一元気のみ』という仁齋の言葉は日本における哲学的唯物論の最初の宣言であった」 
 
懇親
 モクサイを語る会を始めて、かなりの年数が経過した。レベルの問題はあるにせよ、儒学・宋学といった思想に対して、それなりに関心を持っている、自分を見つけることが出来る。それにホームページも出来た、前に進んでいることは確かだろうと思う。
 モクサイを語る会をどう位置づけるかは、メンバーによって、まちまちであることは当然である。しかし、おおよそにおいては、共同歩調を確認することも出来るように思う。
(1)小人数にはなったけれども、課会をきちんとやっていくこと。
(2)上総道学をふまえて、朱子学・諸子百家の学、いうなれば東洋思想(中国を中心として)をつかみ取っていくこと。
(3)そして、徐々にではあるけれども、日本在来の思想・文化との折り合いをつけていくこと。
(4) こういった取り組みの中で、自らの、あるいは自分たちの世界観を実質的なものにしていくこと。このことはわれわれの生きていく、生きているということと同義であることのようにも思う。
 こんな事を書いていると、課会の当初、古代ギリシャ哲学を俎上にのせたことを思い出す。
 つまりは、課会でモクサイの講義録できちんと上総道学をやり、ホームページでは「掲示板」「投稿」といった機能を通じて、またわれわれも関連資料を掲載したり、思うことを述べたりしながら、多くの人たちの参加を求めていく、輪を広げていくと言うことになると思う。だとすれば、ホームページの内容も、それなりの間口を持つことが必要だろうと思う。
 
故事・成語の散歩道
『燕雀安(いずく)んぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや』(史記、陳渉世家)
秦討伐の最初の兵を挙げ、一時楚王となった陳勝が、まだ日雇い百姓の身分だった若い時に云った言葉。
『傭者(ようしゃ)曰く、若(なんじ)傭耕(ようこう)す。何ぞ富貴ならんや、と。陳渉、大(たいそく)して曰く、嗟乎(ああ)、燕雀燕雀安(いずく)んぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや、と』(同上)。
 時は下って、後漢末、三国時代のはしり。九歳の献帝を擁して、董卓の無道。近衛将校の曹操、董卓の暗殺に失敗、洛陽を追われる。お尋ね者、ウオンテッド。県令の陳宮と曹操、陳宮は追われる身となった曹操に尋ねる。「おん身は都にあって、董相国にも愛され、重く用いられていたと聞いていたが、何故にこんな羽目になったのか」(三国志、吉川英治)。「くだらぬことを問うもの哉。燕雀なんぞ鴻鵠の志を知らんやだ。第一貴様はもうおれの身を生擒(いけど)っているんじゃないか。四の五のいわずと都へ護送して、早く恩賞にあずかれ」(同上)。この話は、三国演義第四回にみえるもので、正史(三国志)には、載せられていない。
 陳宮は県令の地位を捨てて、ともに曹操のふるさとへ走る。この間、呂拍奢(りょはくしゃ)との一件。曹操は、家族、召使い、呂拍奢までも殺してしまう。陳宮は「誤った、悔いも及ばず」というように描かれる。三国演義の描き方である。曹操、陳宮、ともに河南(陳留)までたどりつき、父親曹崇(そうすう)の威光もあって、旗揚げに成功する。

論語の言葉
『滔々(とうとう)たる者、天下皆是れなり。而して誰と以(とも)にかこれを易(か)えん。且つ而(なんじ)其の人を辟(さ)くるの士に従うに若(し)かんや。?(ゆう)して輟(や)まず。子路以て告す。夫子憮然として曰く、鳥獣は与(とも)に群れを同じくすべからず。吾れ期(こ)の人の徒と与(とも)にするに非ずして誰と与にかせん。天下道あらば、丘は易(か)えざるなり』(論語、微子篇)。
 とうとうと流れているのは、此川だけではなく、天下皆そうだ。一体誰と一緒にこの乱世を改めるのだ。意にかなうものを求めて、あれこれいっている人に従うよりは、世間を捨ててしまったらどうか。長沮(ちょうそ)、傑溺(けつでき)は、種を蒔く手を止めずにいった。子路から話を聞いて、孔子は憮然として云った。鳥獣と一緒に暮らすわけにはいかない。人と人とのかかわりを捨てて、誰と共に暮らすのだ。天下に道が行われているならば、私は何を改めると云うこともないのだ。
 逸民とは世捨て人、長沮、傑溺もそうだ。孔子は隠者に対しては一目おくけれども、一線を画す。この一線は超えがたい。墨子、孟子、荀子もそうであるが、孔子には世直しの観点が一本通っている。孔子の視線は、心の中の安住の世界にではなく、弱肉強食、下克上の世、そのものに向けられていた。
 
中国古代歌謡
風雨…国風、鄭風
風雨 淒淒(せいせい)たり  鶏鳴 ??(かいかい)たり  既に君子を見る
云(ここ)に胡(なん)ぞ夷(たいら)がざらんや
風は冷たく、雨は降りしきる。聞こえてくるのはニワトリの鳴き声ばかり。でも、愛しい人が来てくれたので、恨めしい気持ちはなくなりました。
風雨 瀟々(しょうしょう)たり  鶏鳴 膠膠(こうこう)たり  既に君子を見る
云(ここ)に胡(なん)ぞ?(い)えざらんや
吹きつのる風、ざあざあ降りの雨。ニワトリがしきりに鳴いている。でも愛しい人が来てくれたので、憂鬱な気分は晴れました。
風雨 晦(よる)の如し  鶏鳴 已(や)まず  既に君子を見る
云(ここ)に胡(なん)ぞ喜ばざらんや
風と雨とであたりは夜のように暗い。ニワトリの声は相変わらずやまない。でも、あなたが来てくれて、何という幸せだろう。
国風のうち鄭風、恋する女の歌。鄭風や斉風は道学の上からはあまり高くは評価されないが、乱世においても、男と女の愛とか情とか云うものが高らかに歌い上げられている。

次回開催日程
1, 日時 平成17年9月2日(金) 6:30
2, 場所 川和井
3, 道学標的講義(稲葉黙斎)
「理を析(と)けば則ち云々(p70の7行目)~標的にはならぬ(p72の5行目)」(土屋幸恵)
「講後話録(p72の6行目)~先生曰く然り(p74の2行目)」(柏木恒彦)
4,懇親会


モクサイ通信№79(2005.09)
モクサイを語る会
gooseberry
№79 2005.09.25
white birch
  発行者 今関弘道   
  黙斎を語る会のホームページ   http://mokusai.web.infoseek.co.jp/
まとめ
1, 日時 平成17年9月2日(金) 6:30
2, 場所 川和井
3, 出席 柏木恒彦、後藤 宏、斎藤房一、今関弘道
4, ふりかえり・おさらい
【道学標的(稲葉黙斎)】
「理を析(と)けば則ち云々(p70の7行目)~標的にはならぬ(p72の5行目)」(柏木恒彦)
「講後話録(p72の6行目)~先生曰く然り(p74の2行目)」(柏木恒彦)
以上を終了させた。
【語釈】
p5の4行目 我甘盤に学ぶ:保留。 
p7の17行目 年玉:保留。 
p12の8行目 許渤:保留。 
p12の20行目 許魯斎:保留。 
p33の8行目 吾道南すと云顔で:保留。 
p41の3行目 周伯人:保留。
p47の5行目 桐の処:保留。 
p47の16行目 鄧伯道:保留。 
p47の17行目 王凝:保留。 
p55の5行目 斬衰斎衰大功小功。 
p57の3行目 文字呈堯夫:出典。 
p58の9行目 行不能正屈:出典。
p68の19行目 故学之矣。 
p69の5行目 加礼於近貴 
p72の3行目 滑輪呑束束:保留
(以上、保留事項……77回まで)。
p70の14行目 ヤが上:いやが上(弥が上)。 
p70の17行目 文節:文意(文化)を理解する。 
p71の6行目 衆生済度:苦界にある大衆を静かな境地に導くこと。
P72の14行目  某元衆:読み。そこもと衆、某処許衆。
p73の6行目 尚斎ヲジヤツカト:尚斎叔父、奴か。奴とは黙斎のこと。
p73の16行目 泛々:はんぱん。ただよう、かるがるしい。

俳句・短歌
『山上憶良 660‐733(斉明6‐天平5)万葉歌人。701年(大宝1)遣唐少録,714年(和銅7)従五位下,716年(霊亀2)伯耆守,721年(養老5)東宮(のちの聖武天皇)の侍講となり,726年(神亀3)ころ筑前守赴任,732年(天平4)帰京して翌年卒したらしい。壮年時には,詩人川島皇子や歌人柿本人麻呂,長意吉麻呂(ながのおきまろ)らとの交友があったかと思われ,のちに東宮や左大臣長屋王家の七夕宴での晴の献詠者となったが,晩年の筑前守時代には風流の大宰帥大伴旅人(たびと)を迎えて,〈筑紫歌壇〉とも称すべき新風の文雅の交わりの中で世間(よのなか)を主題とする秀作を数多く詠んだ。《万葉集》に長歌11,短歌68,旋頭歌1,漢詩2,漢文1(以上は作者に異説のある歌を含む)をとどめ,《類聚歌林》(逸書)を編纂した。その出自をめぐって,通説は《新斤姓氏録》によって皇別の粟田朝臣氏の一支流が居所山上を名のったというものであるが,百済(くだら)系渡来人説も唱えられ,一方その反論もあり,いまだに決着を見ない。
 歳老いてみずから宿痾に苦しむとともに衆庶の生活の哀歓を見つめ,仏典に求めて生死の思索を深めたが,到り着いた思想は,〈われ身すでに俗を穿(うが)ち心もまた塵に累(わずら)ふ〉(巻五〈沈痾自哀の文〉)という頑強な凡俗の自覚と,〈世間蒼生誰か子を愛(うつくし)びざらめや〉(巻五〈子等を思ふ歌〉序),〈世間(よのなか)はかくぞ道理(ことわり)〉(巻五〈惑へる情を反さしむる歌〉序)という〈世間蒼生の道理〉とであった。覚者の知恵が説くもろもろの妄想俵倒に対して,〈黐鳥(もちどり)のかからはしもよ行方知らねば〉と,逆に積極的にかかわっていこうとする一種逆説的な価値転換の論理が憶良の歌文の独特なスタイルとなった。そのスタイルによって造型される形象がまた宮廷風な美とは異なり,逆説的な美を指向するものであって,貧窮や老醜の無惨,死児哀傷の惑乱,愛別離の悲哀など前後に比類のない感動的なイメージを歌い上げている。〈わくらばに人とは在るを 人並に我もなれるを〉(〈貧窮問答歌〉)という訴えは,おそらく《涅槃経(ねはんぎよう)》にいわゆる六難値遇(ろくなんちぐ)の〈人身は得難く,諸根は具し難し〉を踏まえたもので,そこには,人間としてこの世に生きて在ることの,王侯巨富と貧窮のわかちもない尊貴と平等の主張があると認められ,倫理思想史上にも注目すべきものがあると思われる。〈銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子に及(し)かめやも〉〈世間(よのなか)を憂しと恥(やさ)しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば〉(巻五)  井村 哲夫』(世界大百科事典より)。
默齋講義関連資料
没後三百年 伊藤仁斎の平和思想(2)
 「このような『気』一元論は今ひとつの重要な観点が結びついている。すなわち、『動』よりも『静』を重んずる朱子学とは反対に、仁齋は、世界とそのなかの事物を『一元気』の『一息の停機』もない運動態において捉える『一大活物』説を提唱したのである。ところで、仁齋によれば、『活物』の動態は『一は一なり』といった抽象的な同一性理論では把握され得ない。そこに働いているのは、『二の中に自ずから一有り』という具体的な同一性の理法、あるいは『両』の契機を含む『一』としての矛盾的自己同一の理法にほかならない。この洞察は後に三浦梅園によって壮大に展開される弁証法論理の最初の萌芽であった。」

懇親
九月は長月、菊月とも。九月蚊帳とは、秋になって蚊帳を吊り納めること。九月九日は重陽の節気、中国では小高い丘に登って、友人と酒を飲み交わし歌を詠んだ。
 九月の月見は十三夜、後の月。芋名月に対して豆名月、栗名月といわれる。
 稲刈りの季節、上総台地、九十九里低地の最も活気に満ちた月。五穀豊穣を感謝しての秋祭り。
 カイカクとかマニュフェストとか、かまびすしい世の中だけれど、生産費を償うに、だんだん遠くなっていく米価水準だけれど、それだからこそというべきか、心にゆとりを持って、九月の日々を過ごしていきたいと思う。

故事・成語の散歩道
『鶏を割くに焉(いずく)んぞ牛刀を用いん』(論語、陽貨篇)
孔子が、門人の子游(しゆう)がおさめている町、武城(ぶじょう)を訪ねた時、大国で用いるような音楽や歌声が聞こえてきたので、子游をからかっていった言葉。
『子、武城に之(ゆ)き、弦歌の声を聞く。夫子、完爾(かんじ)として笑いて曰く、鶏を割くに焉(いずく)んぞ牛刀を用いんと』
鶏を料理するのに、牛の肉を切るような、大きな包丁(ほうちょう)はいらない。小さな事を処理するのに、大げさな方法を用いる必要はない。ものの使い方を、間違ってはいけない。
時は下って、後漢末、三国時代の入り口、所は汜水関(しすいかん)。対峙するは袁紹同盟軍と董卓軍。江東の虎、長沙の太守孫堅、あたるところ敵なし。動揺する董卓、赤兎馬(せきとば、せきとめ)を手にした呂布、何をあわてる。そこへ、一人の武将、『呂布殿、待たれよ、鶏を割くに、なんぞ牛刀を用うべき』。諸人、眸を集めて誰かと見るに、虎体狼腰(こたいろうよう)、豹頭猿臂(ひょうとうえんぴ)、まことに稀代な骨柄を備えた勇将とはみえた。関西の人、華雄(かゆう)。
袁術と孫堅とのトラブル。孫堅、兵をまとめて江東にかえる。華雄の独壇場?なだれを打って後退する袁紹同盟軍。「その人、身の丈は長幹の松の如く、髯(ひげ)の長さ剣把(けんぱ)に到り、臥蚕(がさん)の眉、丹鳳(たんぽう)の眼(まなこ)……」。袁紹と曹操、曹操と関羽、吉川英治描くところの、『関羽一杯の酒』、名場面といえる。

論語の言葉
『公山不擾(こうざんふじょう)、費を以て畔(そむ)く。召(まね)く。子往かんと欲す、子路説(よろこ)ばずして曰く、之(ゆ)くこと末(な)きのみ。何ぞ必ずしも公山氏にこれ之かん。子曰く、夫れ我を召(まね)く者にして、豈に徒(ただ)ならんや。如(も)し我を用うる者あらば、吾は其れ東周をなさん』(論語、陽貨篇)。
公山不擾が費という町に拠って、季氏に叛(そむ)いた時に、公山不擾は孔子を招いた。孔子が行こうとするに、子路は反対した。上(かみ)をないがしろにするもののところへ、そうして行くのですか。孔子の答えは、私を呼ぶからには、何か意味があるはずだ、もし誰かが私を招いてくれるならば、私は魯の国をして周の盛時を現出してみせるのだが。
季氏は孔子にとっても主筋にあたる。とはいえ、太夫の身分で国政を握って四代、魯の国の周公の廟において、天子の舞を舞わせ、孔子をして『是れを忍ぶべくんば、孰(いず)れを忍ぶべからざる』(論語、八?篇)といわせている。
 下克上の時代を果敢に生きている、陽虎や公山不擾など新興の士ないし太夫の階層に対して、在来の太夫の階層にはない、時代の息吹とでもいうようなものを、孔子は感じ取っていたのかも知れない。

中国古代歌謡
鶴鳴(かくめい)……雅、小雅
鶴は九つの皐(さわ)に鳴きて  声は野に聞ゆ 
魚は潜(ひそ)みて淵に在り  或は渚(なぎさ)に在り 
彼の園を楽しむ 爰に樹(う)えし檀(たん)のき有り  
其の下(しも)に維(こ)れ?(おちば)あり 
它山(あだしやま)の石も  以て錯(といし)と為すべし
鶴が九つの水口をもつ大きな沼で、声ほがらかに鳴くと、その声は野づらに響きわたる。魚は深い淵に潜んだり、浅い汀に寄ったりする。
庭を楽しむ、庭の中には檀の木が植えられ、その下には落ち葉がつもっている。
よその山の石でも、砥石にすることが出来る。
鶴は九つの皐(さわ)に鳴きて  声は天に聞ゆ 
魚は渚に在り  或は潜みて淵に在り
彼の園を楽しむ  爰に樹えし檀(たん)の木有り 
其の下に維れ穀(こく)あり
它山(あだしやま)の石も 以て玉を攻(おさ)むべし

鶴が九つの水口をもつ大きな沼で、声ほがらかに鳴くと、その声は天に響きわたる。魚は深い淵に潜んだり、浅い汀に寄ったりする。
あの庭園の散歩を楽しんでいると、そこには好ましい檀の木が植えてある。檀の下に生えているのは、穀の木、楮(こうぞ)の木である。
よその山の石だって玉を磨くことが出来るのだ。
鶴鳴は雅のうち小雅に属する。小雅とは宮廷の宴会の歌を主体として、周王の臣下が政を批判する歌、農事にかかわる歌などがある。国風の影響を受けてか、民謡風の歌が多く見られる。たとえば「采薇」では辺境を守っていた兵士の、帰途における苦難を歌い、「蓼莪」では、父母の死を悼み、孝養を尽くせなかったことを嘆く歌が乗っている。
鶴鳴については、「なにかぼんやりした暗示的な詩」(入谷仙介)ということで、毛亨(こう)、毛長、鄭玄、朱子などにより、いろいろな解釈が為されてきた。ここでは、他山の石という成語は、詩経の「鶴鳴」に基づいている、「它山の石も 以て錯と為すべし」の句に基づいていることだけを記しておくことにする。

次回開催日程
1、日時 平成17年10月7日(金) 6:30
2,場所 川和井
3,道学標的講義(稲葉黙斎)
「孟子曰滕文公(p74の3行目)~よろこばしくなることぞ(p77の1行目)」(斉藤房一)
4,懇親会


モクサイ通信№80(2005.10)
モクサイを語る会
№80 2005.10.20
  発行者 今関弘道  
  黙斎を語る会のホームページ   http://mokusai.web.infoseek.co.jp/
第80回モクサイを語る会まとめ
1, 日時 平成17年10月7日(金) 6:30
2, 場所 川和井
3, 出席 柏木恒彦、後藤 宏、今関弘道
4, ふりかえり・おさらい
【道学標的(稲葉黙斎)】
「孟子曰滕文公(p74の3行目)~よろこばしくなることぞ(p77の1行目)」(柏木恒彦)
以上を終了させた。
【語釈】
p5の4行目 我甘盤に学ぶ:保留。 
p7の17行目 年玉:保留。 
p12の8行目 許渤:保留。 
p12の20行目 許魯斎:保留。 
p33の8行目 吾道南すと云顔で:保留。 
p41の3行目 周伯人:保留。
p47の5行目 桐の処:保留。 
p47の16行目 鄧伯道:保留。 
p47の17行目 王凝:保留。 
p55の5行目 斬衰斎衰大功小功。 
p57の3行目 文字呈堯夫:出典。 
p58の9行目 行不能正屈:出典。
p68の19行目 故学之矣。 
p69の5行目 加礼於近貴 
p72の3行目 滑輪呑束束:保留
(以上、保留事項……78回まで)。

p74の3行目 庚戌臘月:かのえいぬ、こうじゅつ、ろうげつ。臘月は陰暦十二月の異称。 
p74の17行目 大中:大学と中庸。 
p75の20行目 人に:読み。
p76の4行目 月がたをつくことはならぬ:保留。

俳句・短歌
憶良らは今は罷(まか)らん子泣くらむ それその母も吾(わ)を待つらむぞ(山上憶良)
私、憶良はもうおいとまいたしましょう。家では子供が泣いているでしょう。その子の母、私の妻も、私を待っているでしょう。
太宰府での大伴旅人らと同席する宴席を、楽しく終えようと、宴席のお開きをユーモラスに告げる歌。

默齋講義関連資料
没後三百年 伊藤仁斎の平和思想(3)
 「ところで、従来、以上のような唯物論は仁齋の短い序論に過ぎず、その本領である人間論や道徳論の領域では観念論的な封建教学から脱していないと評されがちであった。しかしその主張の趣旨を吟味すれば、彼がこの領域に於いてもまた唯物論者らしい見識を発揮していることが分かる。特に人間に関して、朱子学における『性即理』説(注1)のような生得決定論を退け、人間の生得性を『教の由って入る所以』(注2)としての陶冶性(発達の可能態)と解することにより、教育や学問による人間性の後天的形成に道を開いたことは重要である。その上で、教育者としての仁齋は、『教養型』から『対話型』への教学方法の転換をはかり、またいたずらに『勝心』をあおって精神の荒廃を招く競争原理の撤廃を唱えたのである」。
(注1)人間の『性』(生得的本性)を人間に内在した『理』とみなし、道徳の先天的決定論を主張する学説。
(注2)教育や学問を受容して自己を形成しうる素質。

懇親 よく遊びよく学ぶ 過ぎたるは猶及ばざるがごとし
 高度に発達した資本主義社会、したがって分業化も高度に発達している。あなたは駕篭に乗るもの、私は駕篭を担ぐもの。あなたはヤンキーモンキー、私はプードル、いやネズミ男だったか。ダビンチやミケランジェロといったルネッサンス型の人間を目指すすべは無いのだけれど、たまには駕篭に乗ってみたい、ヤンキーモンキーの意向を離れて、自由に行く末を考えてみたい、これが人間の志向というものだろう。
 志向を貫くには努力がいる、克己の精神がいる、勇気がいる。志向の一つをモクサイにたとえてみれば、その困難性というものが、いかに大きなものであるかがよく分かる。
 働きながら学ぶ、学びながら働く、全人間的な生き方を志向する。このことは、いかに難しいことか。難しい世の中であることか。
 論語の一番はじめ、学而第一には、次の言葉がおかれている。「学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。朋(とも)あり、遠方より来たる、また楽しからずや。人知らずしてうらみず、また君子ならずや。」

故事・成語の散歩道 三国(魏・蜀・呉)時代
『権宜(けんぎ)の計』(後漢書)
『卓、既に殲滅(せんめつ)さる。自ら謂えらく、復た患難無しと。毎(つね)に温潤の色に乏しく、権宜の計を循(めぐら)さず。是を以て、群下、甚だしく之に付さず』(後漢書、王允伝)。権はしばらく、宜は適宜、計は方法のこと。時と場合に応じての適切な方法、臨機の計らいをすることを謂う。
 後漢、最後の天子である献帝を擁し、傍らには義子の呂布、董卓の地位は揺るぎないかに見えた。司徒の王允、呂布に莫大な褒賞と地位とを約束。董卓をのぞくことに成功。王允は天下太平を決め込み、権宜の計を講ぜず、董卓の部下、郭汜(かくし)などが兵を起こし、長安を占領、王允は殺されてしまった。
 ところで、王允の約束した呂布への褒賞のうちには、王允の歌妓であった貂蝉が含まれていた。三国演義では、貂蝉の美貌にくらまされて、董卓に対する呂布の嫉妬心が燃え上がり、ついには董卓を殺すという筋立てになっている。また、貂蝉は呂布が曹操に殺されるまで、呂布の傍らに侍っていた事になっている。言うなれば、漢王朝の復興という大義を受け止めた貂蝉の役割は、董卓の死と共に幕を閉じている。呂布との関係の中に、新たな関係を求めるとなれば、呂布の率直な人柄、時折見せる天真爛漫な性格というようなことになろうが、呂布はあまりにも利にさとく、血なまぐさい。
吉川英治の三国志では、貂蝉は董卓の死と共に、自刃して果てることになっている。曹操に滅ぼされるまで呂布のそばにいた貂蝉は、呂布が自刃した貂蝉をしのんで、名づけたところの別人である。大義に生をかけた貂蝉は、董卓の死と共に終わったとの理解である。

論語の言葉
『曰く、今の政に従う者は如何。嗚(ああ)、斗?(としょう)の人、何ぞ算(かぞ)うるに足らん』(論語、子路篇、金谷 治訳)。
(子貢が孔子に問うていうには)このごろの政治をしている人はどうでしょうか。孔子の言うには、ああ、つまらない人たちだ、とりあげるまでもない。

弱肉強食の世、呻吟する無告の民、庶人は自らの苦しみを誰にも告げることが出来ない。礼記の一節、『夫子曰く、何為(なんす)れぞ去らざるやと。曰く、苛政は虎よりも猛しと』(檀弓、だんぐう)。
下克上の世に対して、孔子は名を正さんかという。春秋時代、氏族共同体が崩れていく中で、身分制度をはじめ社会の秩序は大きく揺らいでいる。孔子の正名論は、旧秩序の回復を目指しているものではない。視線は塗炭の苦しみにあえぐ庶人に向けられていたと言うべきである。下克上に対して、孔子は仁をベースとした礼楽制度を対置する。この礼制を実現させる現実的契機は何処にあるのか。政治の表舞台で踊っているものは、嗚、斗?の人である。『其の人を辟(さ)くるの士』(論語、微子篇、前出)で終わっていいのか。孔子の焦りとも思われる言葉が、いくつか見られる。
孔子は一方においては、『其の位に在らざれば、其の政を謀(はか)らず』(論語、憲問篇、金谷 治訳)、その地位にいるのでなければ、その政務に口出ししないという。しかし他方においては、『苟も我を用いる者あらば、期日のみにて可ならん。三年にして成すことあらん』(論語、子路篇、金谷 治訳)、もし誰かわたしを用いて〔政治をさせてくれる人がいれば〕、一年でも結構なのだ。三年も経てば立派に出来上がる、という。この二つの言葉は、矛盾しているわけではない。政治に対する孔子の焦りと言うよりは、積極性あるいは自信の表白として見た方が、いいのかも知れない。

中国古代歌謡
蓼莪(りくが)……雅、小雅
蓼蓼(りくりく)たる莪(が)
莪(が)にあらず 伊(これ)蒿(こう)
哀哀(あいあい)たる父母
我を生んで劬労(くろう)す
柔らかにのびたヨモギの若芽が、いつしかただの草に変わってしまった。いたわしい父母よ、私のような、不肖の子を産んで死んでしまわれた。
莪……ヨモギの一種。若くて食用になるもの。 蒿……ヨモギの一種。ここでは成長して食用にならなくなったもの。
父や 我を生み
母や 我を畜(やしな)う
我を長じ 我を育て
我を顧み 我を復(まも)り
出入に我を腹(いだ)く
之が特にむくいんと欲するも
昊天 極まりなし
父母は私を生み育てた。撫でかわいがり、育てはぐくみ、心を配り、出るにも入るにも抱いて守ってくれた。天よりも高いこの思いに、お返しするすべもない。
昊天……青空。
蓼莪(りくが)は第一節から第六節まであるが、周の朝廷で父母の死を悼み、孝養を尽くせなかったことを、嘆く歌として奏された。

次回開催日程
1,日時 平成17年11月18日(金) 6:30
2,場所 川和井
3,道学標的講義(稲葉黙斎)
「程子曰く云々(p77の1行目)~性善を知らせることなり(p80の4行目)」(後藤 宏)
4,モクサイを語る会規約(案)の検討について
5,懇親会