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№26~№50
モクサイ通信№26(2001.05)
NO.26 2001.05.23
発行者 今関弘道
第28回モクサイを語る会まとめ
1、日時
平成13年3月23日(金)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
柏木恒彦、斉藤房一、 山口先生、実川嘉一
今関弘道
4、ふりかえり・おさらい
(1)「永井先生(p59の19行目)」~「大たいまつ じゃ」(p61の17行目)」(実川嘉一)
(2)「先君子(p61の19行目)」~「弟子の手柄な り(p63の13行目)」(今関弘道)
以上を終了させた。
(2)語句と意味
o「漢の知力を用いて天下を持つ」(p59の1行目): 出典。
「馬上に居て天下を得るとも、いづくんぞ馬上を以 て天下を治むべけんや」(史記、陸賈伝)
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):意味。
o「其の心に生じて其の政に害あり」(p43の11行 目):出典。
(孟子公孫丑上)にあり。(孟子滕文公下)にも類 似のものがある。
o「京めぐり、日光めぐり」(p44の8行目:出典。
「『京めぐり、日光めぐり』は貝原益軒の著書に京 城勝覧一巻(一名京めぐり)日光名勝記一巻とあ り、『遠遊紀行、西遊紀行』は山崎闇斎の著書のよ うです。遠遊紀行には万治元年春三月、先生初め て江戸に遊び、八月京に帰る往復の紀行の詩百三 十六首を集めて此の書となす。西遊紀行には万治 二年先生再び東武に遊びて、此の編を成すと云う池上 幸二郎氏の解説が山崎闇斎全集に載っています」(山 口先生)。
o「符読書城南一篇足る」(p46の3行目):出典。
o「小杉長兵衛」(p46の19行目)
o「奉誦す~不克征」(p50の5行目):読み方。
o「淵源録」(p51の12行目):
「伊洛淵源録」、十六巻、朱子。
以上前回以前の留意事項
o陳継祖(p60の6行目):
o 蔡西山(p60の6行目):
o 蔡九峯(p60の9行目):
o 古注(p60の17行目):古代の注釈。中国で、宋儒 の経書の解釈に対し、漢・唐時代の訓詁上の注釈の 称。日本では近代以前の注釈または国学の成立以前の 注釈にいう。
o居敬(p60の18行目):宋の程頤(テイイ)の説。常 に一を主として他にゆくことなく、敬(ツツシミ)を以 て徳性を涵養すること。程朱学の窮理と相対する。
o 丹次(p61の2行目):丹治の誤り。三宅尚斎。
o 斎藤主税(p61の9行目):
o 渋谷丹右ェ門(p61の10行目):
o 丹波の湖月(p61の15行目):
o 三輪善蔵(p61の14行目):
o 三宅石庵(p61の14行目):江戸中期の儒学者。名 は正名。京都の人。観瀾の兄。懐徳堂の初代学主。朱 子学に陸王の学を併せた自由な学風を立て、鵺(ヌエ) 学問と評された。(1665~1730)
o 詩文博雑(p62の15行目):詩文と雑学
o 扁鵲(p63の7行目):中国、戦国時代の名医。渤 海郡鄭の人。姓は秦、名は越人。長桑君に学び、禁方 の口伝と医書とを受けて名医となり、趙簡子や・(カ ク)の太子を救ったという。耆婆(ギバ)と並称され る。
o 仲景(p63の7行目):張仲景、三国時代の名医
懇親
よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。
モクサイを語る会、五月についてはお休みとなりました。田原さんと土屋さんとカイッチャンは、基本的には春起こしと田植え。「五月雨のそそぐ山田に、早乙女の裳(もすそ)ぬらして」というのは昔の風景。「たまなえ植うる夏はきぬ」という季節感だけが、現代に残っています。田原さんは、顔面神経のことがあって、秀信君の若さを武器に難場を切り抜けよう。もどかしさはあったのだろうと思うけれども、管理労働に。徹し切れたかどうかについてはよく分からない。この道五十年のプロですからね。土屋さんとカイッチャンは、生業だから逃げるわけにはいきません。ミサキなんかで、自由を求める精神をなだめながらの取り組みでした。生業といえば、戸辺さんは漁協のアルバイトから逃れることができました。役場の前の朝市とJA山武の直売所、そして暇を見つけての軽トラによる得意先の開拓、他方トマト、キュウリなど野菜の生育は順調、お手のものです。初志貫徹、アルゼンチンの夢をめざして、楽しみです。
柏木さんと房一さんは、とくに春作業と云うことは無かったのだけれど、協同組合を仕事の場としているわけで、地域の人たちと季節感を共有するという意味では、モクサイのお休みも、なにがしかの意味があったのでしょう。この間、おそらくモクサイ講義録をひもといて、大いに前に進んだことだろうと推測する次第。山口先生はお元気です。この前も、池上幸二郎さんの著作を送ってもらったりして、勇気づけられます。本当は、モクサイを語る会がお休みの時は、「モクサイ通信」がみんなをつなぐ役割を果たさなければならないのにね。第二の故郷北海道、モクサイ講義録を抱えて渡ったのだけれど、開かず仕舞い。昔の友人たちと、酒を飲んで、話をして、歌をうたって、あっという間に半月が過ぎてしまいました。楽しみの時は過ぎた、腰を落として頑張っていこう。
次回開催日程
1、日時 平成13年5月25日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「佐藤子卒して(p63の15行目)」~「あやは そこ(なり)」(p66の2行目)」(田原哲三)
(2)「門風を峻くして(p66の3行目)」~「先生 これを掛けり(p67の18行目)」(斉藤房一)
4、第五講関連レポート
準備が整い次第
5、次回レポーターの確認
6、その他必要なこと
7、懇親会
悲愁歌
吾が家は我を天の一方に嫁し
遠く異国の烏孫王に託す
穹廬を室と為し 氈を牆と為す
肉を以て食と為し 酪を漿と為す
居常土(くに)を思いて心内傷む
願わくは鴻鵠となりて故郷に還らん
(史記、烏孫公主)
o烏孫公主(劉細君)は、武帝の甥劉建 の娘。劉建は不品行を武帝に咎められ て自殺。劉細君は武帝の命で、和蛮公 主として烏孫(うそん)王昆莫(こん ばく)の妻になる。昆莫の死後はその 孫岑陬(しんすう)の妻となる。昆莫 は、匈奴の部将から身を起こし、今の 新彊省のイリ川流域に独立国を建てた 英雄。
o悲愁歌は当時の人が細君に代わって、 異郷に嫁した悲しみを歌ったもの
o穹廬…遊牧民族の使用するフェルト製 のテント。
安藤昌益と聖人君子
<安藤昌益と聖人、H.I>
昌益については、上総道学の延長線上で、いずれはお目にかかることになると思われるが、ここでは聖人についての昌益の言及について、参考程度に見ておくこととする。
「耕さずして貪り食うは転定(天地)の真道を盗む大罪人なり。……聖釈、学者、大賢といえども、盗人は乃ち賊人なり」(統・万国)。
「故に悪嫌すべくして貴ぶべからざる者は聖人なり。賤嫌すべからずして至信に貴ぶべき者は直耕の人なり」(統・糺聖)
「聖人とは罪人の異名なり」(同上)
「君子と云うは道盗の大将なり」(同上)
「帝聖と云うは強盗の異名なり」(同上)
昌益は、自ら生産労働をしないで、他人の労働に寄生する「不耕貪食の徒」を激しく弾劾する。名指しで批判されている者は、凡そ次のとおり。
伏犠(伏羲)、神農、黄帝、尭、舜、禹、湯、文王、武、周公、孔子、孟子、周子、程子、朱子。太公望、孫子、呉子。釈迦、達磨、老子、荘子、列子、淮南子。厩子(聖徳太子)、道春(林羅山)、荻生徂徠などである。昌益の意気は高い。
<蒹葭堂遺文、夕陽妄語、加藤周一、朝日新聞…22号より>
「一方、蒹葭堂とその周辺の関心が、大阪の山片蟠桃、京の手島堵庵、九州の三浦梅園、東北の安藤昌益に向かっていたという証拠はないらしい。『サロン』はその意味で保守的であった。『光明の世紀』の『サロン』のすべてが新思想に対して開放的であったのではない。しかし、開放的な『サロン』もフランスにはあった。幕藩体制下の日本にはなかったということになろう。そこで保守的な、しかし洗練された、感受性と知識欲にあふれた日本の知識人たちは、どもへ向かおうとしていたのか。知的・芸術的な楽しみへ、すなわち一種の快楽主義へ向かおうとしていたように私には思われる」
<唯物論的な流れ、H.I、22号より>
山片蟠桃(大阪)、手島堵庵(京都)、三浦梅園(九州)、安藤昌益(東北)という人に即した思想の流れは、いずれも哲学的には唯物論的な流れを形成していたのではなかったか(H.I)。
<思想の言葉追求したい、辻井喬、朝日新聞…22号より>
「日本の弱点は明治以後、地域の文化をダメにしたこと。文化的な伝統と断絶したことが、文学を弱くしたし、思想も伝統から切り離された。日本には、革命思想もあって、石田梅岩、安藤昌益から、大阪の町人のための学問所の懐徳堂にまでつながる。来年は、共同体と伝統について考えます」
概念(コンセプト)とは何か(7)
感覚・知覚→表象→概念
概念とは何か、どのようにして形成されてくるのか、くどくどと書いてきました。もう、あんまり書くことはないようです。感覚・知覚→表象→概念という順序で、形成過程を順序づけてみました。でも、振り返ってみて、「表象」というような言葉が、耳慣れないならば、概念という言葉に置き換えてもいいのではないかと思っています。同じことなのだけれども、概念の最高に発展したものが範疇(カテゴリー)であるという規定付けもあります。宮川 実などのそうなのだけれども、そして内容として時間、空間、因果律などを云うのだけれども、これも概念という言葉でくくっても、差し障りは無いように思います。この場合には、概念というものは、歴史的に、実践を経て発展してきた、これからも自然科学、社会科学、思惟の科学(認識論、論理学、弁証法といった分野の科学)の発展に応じて、概念自体も発展していくんだという、観点だけを保持していればいいように思います。
もう一つは、何度も繰り返して書いてきたけれども、概念というものは、運動する世界ないしは世界の運動が、人間の意識に反映して形成されてきたということです。同じことなのだけれども、この場合の世界(自然、社会)は、人間の意識とは独立して存在していると云うことです。このように考えていくと、われわれが持っている世界像(世界に対する認識)あるいは世界観というものは、歴史的に形成されてきたところの、概念の組合せということになります。概念が、歴史的・実践的に深まれば、われわれの世界像、世界観もそれだけ深まるという関係です。概念を規定するものは、基本的には客観的実在としての世界の運動であるし、世界の認識を保証するところの歴史性・実践性ということでしょう。
これも先の繰り返しになりますが、世界の運動を反映して、概念が形成される入り口が「感覚・知覚」ということになります。人間は、感覚器官(感覚・知覚)を通してしか、世界の運動を認識することはできません。
モクサイ通信№27(2001.06)
NO.27 2001.06.10
発行者 今関弘道
第29回モクサイを語る会まとめ1、日時
平成13年5月25日(金)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
柏木恒彦、斉藤房一、 山口先生、実川嘉一
今関弘道、後藤 宏、田原哲三
4、ふりかえり・おさらい
(1)「佐藤子卒して(p63の15行目)」~「あやは そこ(なり)」(p66の2行目)」(田原哲三)
以上を終了させた。
(2)語句と意味
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):意味。
o「符読書城南一篇足る」(p46の3行目):出典。
o「小杉長兵衛」(p46の19行目):江戸時代後期、 下総古河藩家老、?~文政三年(1820)
o「奉誦す~不克征」(p50の5行目):読み方。
o陳継祖(p60の6行目):沈継祖 しんけいそ? 南宋の監察御史、朱子を皇帝に対して不敬、国家 に対して不忠として弾劾。すなわち、母親に貧し い食事を出したことは不孝、朝廷の官職任命を拒 んだことは不敬、妖しい人物である蔡元定などを 味方にして孝宗の御陵建設に異論を挟んだことは 不忠などなど。陳継祖は、朱子を落職罷祠(らく しょくしし、職をやめさせる。1196年)、同年蔡元 定を道州(湖南省道州県)に流した。蔡元定は間 もなくその地で死去、門人ではあるが学友として 遇していた朱子にとって二重の痛手。四年後朱子は没した、七十歳。
o 蔡西山(p60の6行目):蔡元定 さいげんてい
1135-1198 南宋の学者。字は季通。西山先生とも称 す。朱熹(朱子)の門人。北宋の程氏,邵氏,張氏の 学を受け継ぎ,その学は精識博聞。天文地理律暦の説 に詳しく,特に邵雍(しょうよう)の数学をとりあ げ,朱熹と討議して《易学啓蒙》《通鑑綱目》をつくっ た。また,音楽理論にも功績をのこした。著書《律呂 新書》《大衍(だいえん)詳説》《皇極経世・太玄・潜 虚指要》(マイペディア97)
朱子は学友として接した。沈継祖(しんけいそ)に より、道州(湖南省道県)に流され、そこで死去した。
蔡西山…蔡李通。蔡元定。韓佗胄の偽学の禁によ り道州に流される。
o 蔡九峯(p60の9行目):蔡九峯…蔡西山の子。
蔡信、字は仲黙 1167~1230、朱子 の門人。
o 斎藤主税(p61の9行目):
o 渋谷丹右ェ門(p61の10行目):
o 丹波の湖月(p61の15行目): 湖月…古月禅材 (1667~1751)?禅僧。柏木さんのヒット。
o 三輪善蔵(p61の14行目):三輪執斎 みわしっさ い 1669-1744 江戸中期の陽明学者。名は希賢,字 は善蔵。京都の人。佐藤直方に学ぶ。致良知の説を尊 び,1712年王陽明の《伝習録》に標注を加えて翻刻 し,中江藤樹,熊沢蕃山なきあと江戸の地での陽明学 の先駆をなした。和歌もよくした。著書《伝習録講 義》《周易進講手記》《古本大学講義》など(マイペ ディア for Mac)
o 扁鵲(p63の7行目):へんじゃく 中国,周時代の伝説的名医。《史記》によれば,姓は秦,名は越人。長桑君という老人に医術を学び,諸国を遊歴,(かく)の国の太子を死からよみがえらせた。耆婆(きば)と並称される(マイペディア for Mac)
なお、耆婆(きば)とは、釈迦時代の伝説的名医。サンスクリットのジーバカJャvakaの漢訳。ギリシア植民地に近いタクシャシラー(タクシラ)で医学を学び,王舎城に帰ってビンビサーラ,アジャータシャトル両王の 侍医となる。深く釈迦に帰依し,弟子の病を救った といわれる(マイペディア for Mac)
o 仲景(p63の7行目):張仲景 ちょうちゅうけ い 140ころ-210ころ 中国,後漢時代の医者。 名は機。仲景は字。南陽の人。長沙の大守となる。 一族200人の過半数が傷寒(急性熱病)で死んだ のでその治療法を研究し,《傷寒論》を編したとい われる(マイペディア for Mac)
以上前回以前の留意事項
o 八宗兼学(p64の4行目):ひろく八宗の教義を 兼ね学ぶこと。八宗とは、南都六宗(奈良時代にお ける仏教の宗派。すなわち三論・法相(ホツソウ)・華 厳(ケゴン)・律・成実(ジヨウジツ)・倶舎(クシヤ)の 六宗)に、平安二宗の天台・真言を加えたもの。
o 死ぬとも念佛は云わぬ(p62の15行目):南無妙 法蓮華経と唱えたということ
o 三宅先生が難に遇われた(p64の6行目):宝永 四年(1707)五月、四十六歳の時から三年間、 忍藩城内に投獄となったこと。
o 後藤松軒(p64の8行目):
o 郷人の善き者は之を好み、其の善からざる者は之 を悪む(p64の14行目):論語子路24。村の善 良な者からは好かれ、悪い者からは憎まれる。そん な人が申し分のない人物である。
o 盗人同前のもの(p65の2行目):戦国下克上の 中で、君主となった者を言う。覇者。
o 序す(p65の3行目):序には学ぶという意味が ある(田原)
o 万章(p65の4行目):孟子の弟子。
o 一両人(p65の4行目):万章(ばんしょう)と 公孫丑(こうそんちゅう、孟子の弟子)を指す。
o 門礼(p65の6行目):門口だけの礼、あいさつ
o 直方の旦那寺とおれが云うも、しゅこうの有るこ とと(p65の6行目):藤門学派を直方の旦那寺と いっている
o 和尚(p65の7行目):藤門学派の学者、あるい は一般の学者
o よめ【嫁・娵・婦】(p65の10行目):息子の妻。 結婚した当座の女子の称。新婦。妻。人妻。
o 比賣加賀美(p65の10行目):姫鑑。女性として 守るべき事柄。
o 英才を得て之を教育す(p65の15行目):「孟子 曰く、君子に三楽あり。父母ともに存し兄弟故無き は一の楽なり。仰ぎて天に愧じず俯して人にはじ ざるは二の楽なり。天下の英才を得て之を教育す るは三の楽なり…」(孟子尽心章句上)
o 堪忍大明神(p65の17行目):参考として、勧進 聖 かんじんひじり 諸国を廻って勧進を行った 僧。勧進僧・勧進上人・勧化(かんげ)僧などとも いう。勧進は本来は衆生の救済のため諸国をめぐって 念仏を勧めることで,のちには寺院(あるいは神社) の堂塔や仏像,鐘,または橋などの造立に要する資財 を調達することを目的にする聖を勧進聖と称するよう になったが,これに伴って仏教の民間布教にもなって いた。奈良期の行基,鎌倉期の俊乗坊重源(ちょうげ ん)らのほか多数の勧進聖・勧進比丘尼(びくに)ら が活動し,芸能の流布にも貢献した側面がある。後代 には勧進を名目に遊行した乞食僧が現れ,門付(かど つけ)芸人となる例もみられた。
門付 かどづけ 大道芸の一種で,門ごとに訪れ銭 を請う芸人。季節に応じて神が祝福をもって訪れると いう民俗信仰に基づき,その神を装ってくる祝言人 (ほがいびと)の芸能に由来する。江戸時代には万 歳,鳥追,夷(えびす)舞,大黒舞,獅子舞,ちょろ けん,猿回し,厄払い,節季候(せきぞろ)などが あった。また女太夫,傀儡(くぐつ),説経,祭文(さ いもん),住吉踊,流しなどは季節に関係なく訪れた。
→関連項目
勧進聖|瞽女|三河万歳|厄払い(演劇)|弥次郎兵 衛 マイペディア for Mac株式会社日立デジタルo 四品(p65の18行目):令制で、親王の位(一品 から四品に至る)の初位。四位[しい]の異称。
o 侍従(p62の15行目):君主の側近くに仕えること。 その人。天皇に近侍する職員。
o 風俗(p66の1行目):一定の社会集団に広く行わ れている生活上のさまざまなならわし。しきたり。風 習。容姿と身のこなし。身ぶり、態度。
o 思うこと其の位を出でず(p66の1行目):「曾子曰 く、君子は思うことその位を出でず」(論語憲問2 8)。君子は人の領域を犯さない。
o 巻軸の善治と真儒:(p66の1行目):孟子の巻き軸 にある善治(よく治めること、善政)と真儒(本当の 儒学、儒者)
o 詩文博雑(p62の15行目):詩文と雑学
o 詩文博雑(p62の15行目):詩文と雑学
o 詩文博雑(p62の15行目):詩文と雑学
o 詩文博雑(p62の15行目):詩文と雑学
次回開催日程
1、日時 平成13年6月22日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「門風を峻くして(p66の3行目)」~「先生 これを掛けり(p67の18行目)」(斉藤房一)
(2)「三講冬至文 辛亥(p68の1行目)」~「我党の旨訣なり(p70の11行目)」(柏木恒彦)
(3)「冬至文は附録を(p70の11行目)」~「此の如く厳なるものか(p72の13行目)」(土屋幸恵)
4、第五講関連レポート
準備が整い次第
5、次回レポーターの確認
6、その他必要なこと
7、懇親会
儒学・道学の基本的概念と哲学上の観点について
井尻正二というと、野尻湖、ナウマン象の実践、北大の湊 正雄と「地球の歴史(岩波新書)を書いたこと、それに若干の著書を通じてしか知らないのだけれど、いわゆる在野の学者(研究者)として、なかなかに魅力ある人のようです。
彼は、認識論、概念の形成について、およそ次のようなとらえ方をしています。
(1)感性……表象
(2)悟性……概念
(3)理性……理念
先に、表象、概念、範疇といった、世界をとらえる言葉を、概念という言葉でくくってしまっても、僕らに(僕に)とって、それほど不都合は感じないと書きましたが、井尻正二は概念を三段階に区分します。
人間の認識は、基礎的なものから上位のものへと、現象的なものから本質的なものへと、段階的に進んでいくという考え方です。だから、「概念の内容も、これをいくつかの段階に分けることができる」ということになります。
認識の歴史的発展、概念の段階的発展については、まったくその通りだと思います。彼が認識と実践について、「認識することは実践することであり、実践することは認識することである」と書いているとおりです。ただ僕らは、シロウトなので、こんがらからないように、概念の歴史的発展・段階的発展を確認しておけば、それで事足りると考えただけのことです。
井尻正二の考え方では、まず、感性がとらえる外界の像を表象として規定します。感性とは何かというと、「感覚器官を通じて客体を反映し、感覚器官を通じて反応(作用)する思惟能力である」、「全肉体的な活動の感覚器官への集中である」というように説明されます。
認識の次の発展段階は、悟性に基づいた概念の形成です。ここで云う概念とは、悟性に規定された狭義の意味での概念です。悟性とは、「(感性が)対象の属性をばらばらに、現象的に(主観的に)反映する能力であったのに反して、(悟性は)対象を、その属性を通じてあらわれる合法則性において、より本質的に(客観的に)反映する能力である」と説明されます。あるいは、「表象を規定的に統合する思惟能力である」と説明されます。
かくして、感性がもたらした対象(客体)=外界の表象は、悟性の働きによって、概念の形に高められます。とはいえ、彼は、表象と概念との区別について、必ずしも明らかではないとも述べています。このあたりが面白いところです。
前にも見たけれど、井尻正二の表象は次のようなものです。「対象に対してまず第一に印象するもの」、「対象の主観的な、ばらばらな、漠然とした意識内容」、「感覚器官を通して受け入れられた客体の反映したもの」、「対象のばらばらな属性であり、たかだか個々の属性の機械的な集合形態であり、これを主体に即してみれば、意識ないし対象を現象的に反映したもの」である。さらに次のようにも云います。「ここでいう『表象』とは、いわゆる感覚・知覚・表象の三者を総合した言葉である」、「ヘーゲル流にいえば、感覚とは、塩の白い色、塩辛い味、四角い形といった個々の性質(属性)をさす。そして知覚とは、それらの性質を統合して持つ、塩という物である。さらに表象とは、過去の記憶も加わって再生されたい史記内容で、塩と岩石の知見から生まれた岩塩といった印象を指している」。
懇親よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。
今回のモクサイを語る会、ニュースは何といっても、後藤さんの初参加。畜産のオーソリティー、JA山武にいたときは、書記長だったかな、みんなの面倒を見ていた。そういう意味では、カイッチャンも柏木さんも房一さんも同じか。田原さんと戸辺さんは、同じ釜の飯。僕もそうだけど、例の一軒家を訪ねて、イタリア民謡などフロッピーに移してもたったりした。音楽が好き、旅がすき、酒も好き、太平天国も好き、ロマンチストなのかも知れません。
今までの出入りが思い出される。桜木先生が来られて、山口先生が参加されて、ヤスナリトッつぁんが出て、戸辺さんが入った。そして後藤さん、モクサイを語る会をもう少し丈夫にしよう、地域の知恵を集めて、頑張っていこう。年明けに話し合ったこと、本当によかったと思うね。
モクサイが繰り返して云うことは、自分のために学ぶという姿勢、そして得るものは全世界?! 現代に生きる僕らにとっては、この言葉をどう解釈し、位置づけるかという問題はあるし、また、このことはそれぞれの立場によって異なるとは思うけれども、モクサイ学に特別な道は用意されていないようだしね……、下学上達かな。モクサイの講義録を、まずは自ら読み下して、難しい(経験的に云って)と思うけれども、何をモクサイがいわんとしているのかを、自分なりにつかみ取ると云うことが大切だと思います。僕らには道統を継ぐ、聖人をめざすという目的は、おそらくないんだろうと思うけれども、だとすればモクサイの意を汲み上げる作業の中から、われわれの目的、目当てとするものを作り上げていく必要があるのかも知れません。
ともあれ、後藤さんの参加、波長が合うといい、一緒にやれるといい、そしてこれまでに得てきたものを、これから得るものを、僕らに分けてくれるといい、そのように思っています。
衛青・霍去病による西方制圧
o衛青……前漢の武将。字は仲卿。霍去病(カクキヨヘイ)の叔父。匈奴を征すること十数回、武名高く長平侯に封。大将軍、のち大司馬。諡(オクリナ)は烈侯。(―~前106)。衛青・霍去病の2将軍による東西2道の遠征により、匈奴は大打撃を受け、勢力は大きく後退した。
o霍去病……前漢の将軍。衛青の甥。武帝の時、匈奴(キヨウド)を討ち、大功を以て冠軍侯に封。驃騎将軍、大司馬に任じられた。諡は景桓侯。(前140頃~前117)。「匈奴未だ滅びざるに 家を以て為す無きなり」(史記)。霍去病は河西を制圧、匈奴の漢に対する前進基地を破壊し、戦略的後退を余儀なくさせると共に、祁連山の麓から匈奴を追い、経済的打撃をも与えた
o匈奴に対する漢の優勢は、その後も続いた。昭帝(在位前87~74)および宣帝(在位前74~49)は、烏孫を助けて匈奴を撃破。西域36国、西域都護のもと、尽く漢の威令に服した。
o祁連山……中国、漢魏時代の歴史に名高い山。中国甘粛省張掖・酒泉両県の南西、エチナ河の発源するあたりの山脈という。
匈奴の歌謡
我が祁連山を失う
我が六畜をして蛮息せざらん
我が焉支山を失い
我が婦女をして顔色なからしむ
(史記)
モクサイ通信№28(2001.06)
NO.28 2001.06.17
発行者 今関弘道
「課題」への取り組みについて
アタックしてみましょう! 「モクサイを語る会」(モクサイ通信)の「次回開催日程」の「4、第五講関連レポート」には、「準備が整い次第」と書かれています。「課題」というのは、「モクサイを語る会」(14、2000.04.29)に「第五講関連レポートの分担」として載せてある次のものです。
【第五講関連レポートの分担】
このことについては原案どおり、次のように分担を決めた。
<道(天道、人道)という概念の形成過程>
(1)天命、道、性、誠、徳、仁とは、どのような概 念なのか。歴史的な概念の形成過程、および朱 子における概念の規定(戸辺博靖)
(2)天道と人道との関連、「どうしておいても道は ついてくる」という楊子の説に対する、反論の 根拠は?(田原哲三)
(3)朱子の「先知後行説」では、「致知」の「知」を 経験的知識とし、広く知を致して事物 の理を究めてこそ、これを実践しうる とした(柏木レポート)。この場合、人 における「致知」の「知」、および事物 の理というものは、「天」が大きなふい ごと、たたらで万物を作ったときから 備わっているという理解でよいか。だ とすれば、人が経験的知識を深め、こ れを実践すると言うことが、道に任じ ると言うことになるか。この場合、事 物の理、万物はそれ自体発展し変化す る、したがって人の認識も、その反映 として発展し変化する、というような考えは、 朱子学にはなかったのか(今関弘道)
(4)再度、朱子の理気二元論で万物の生成、人の生 成、天道、人道の生成を説明すると、どういう ことになるか(柏木恒彦)
(5)陸象山、王陽明が道統の学から排除されている のは、どのような理由によるのか(土屋幸恵)
<道統の学について>
(1)道統の学はどのようにして形成されてきたのか (柏木恒彦)
(2)聖人として位置づけられる、神農・黄帝・尭・舜・ 湯・文・武において、いわゆる異端の学からはどの ような批判がなされているか(同上)
(3)「孔門三千人のうちから、身通六芸者七十二人ぎ り。それをえったら、たった顔子、曾子二人なり」 といわれるが、戦国時代にかかって、孔門三千人、 身通六芸者七十二人という人たちは、彼らの儒学を どのように発展させていったのか(同上)
(4)道統の学において、枢要の書とされている四書 (論語・大学、中庸・孟子)は、何時何処で、どの ような人たちが、どのような目的を持って創りあげ てきたものなのか。朱子はこれらの経書に対し、ど のように関与したのか、あるいは位置づけをしたの か。直方は、「道学標的に」ということで、孔子・曾 子・思子・孟子・周濂渓・程伊川・張横渠・朱子を あげている(同上)
<古文辞(こぶんじ)学について>
古文辞学派の祖といわれる荻生徂徠の学問とはどう いうものなのか。なぜ、道統の学から排斥されたの か。関連して、復古学をとなえた山鹿素行(やまがそこう),伊藤仁斎(じんさい)らの学問とはどういうものだったのか。道統の学はこれに対してどのように対応したのか(斉藤房一)
<室 鳩巣(むろきゅうそう)について>
室 鳩巣は、どういう理由で直方から、あるいはモクサイから疎まれたのか。おさらいとして、藤原惺窩(せいか)を祖とし、林羅山(らざん)・松永尺五(せきご)、そして新井白石(あらいはくせき)・室 鳩巣とつづく、京学の流れとはどういうものか(斉藤房一)
<道統と太公望について>
周王朝創立の第一の功臣は呂尚(太公望……斉の祖) ではなかったか。周公、召公だけが道を担ったもの として認められているのか。朱子の評価はどうな のか (実川嘉一)
進捗状況について云えば、柏木さんから、墨子に関するレポートを貰っていること、田原さんが楊朱について検討中だということでしょうか。そして、例の房一さんのレポート…「日本における近世朱子学の興隆」、柏木さんのレポート…「今関氏の第一回問題提起に対する小考察」、「(無題)─日本における宗教・哲学の流れ、中国における宗教・哲学の流れに関するレポート」をみると、「課題」のかなりの部分に答えているように思います。課題の設定の仕方が悪かったのかも知れません。
けれども、課題は課題です。あのときから一年有余の時間が流れています。冬至文講義録も第五講から、第一講の積み残し分をこなし、第二講も終了間際です。新たな認識の上に立って、課題に再アタックするのも悪くないと思います。
そこで特集号の話です。ここで、課題を消化していきたいと考えます。順次掲載し、必要に応じてみんなで検討して、確認して前に進みたいと思います。多くはこれからのことになると思うので、課題に即してのレポート、そして関連してのレポートでも結構ですから、努力してみてください。印刷(手書き)でもいいけれど、できればEメールの方が編集上では好都合です。
追伸
(1)基本的な観点は、モクサイ学をよりよく理解す ると云うことだと思います。
(2)房一レポート、柏木レポートを踏まえ、課題に 関連して記事にできるものは載せていきたいと 考えています。
(3)つなぎとして、間接的な記事も載せざるを得な いかな。
(4)僕らの到達点を、レポートにしておくことは、 悪いことではないと思います。も血統の上でも融和を進めていった。防御以外、必要以上に武力による征服の手段を用いることは非常に少なかったからである。それゆえに、中国の歴史と文化の伝統には、「歴史の継続性」と「文化の包容性」がはっきりと現れている。
一方、中国の哲学思想には、古くから「諸子百 家」といわれるものがあった。その中でもっとも有名なのが、儒家・道家・墨家・名家・法家である。中古以降、「玄学(老荘の哲学)」と「仏学(仏教に関する学問)」も生まれ た。「仏学」には有名な「禅宗」のほか、数多くの宗派が存在した。西暦1,000年以 降、中国の宋の時代には「新儒学」もおこり、600年余りにわたり発展し続けた。儒学、 仏学、新儒学は、中国の周囲の国々、たとえば日本、韓国、ベトナムなどにも大きな影響を及ぼした。中国の文化と哲学思想は、たいへんに豊かである。こうした「歴史の継続性」「文化の包容性」「思想の豊かさ」こそが、中国の文化伝統の重要な特徴なのである。中国のほとんどの哲学者は、「天道」と「人道」を重 くみている。「天」とは、単なる「天地自然の天」ではなく、生命と人生の価値との全ての根源としてとら えられているのである。天は宇宙であり、生命の創造力に満ちあふれた有機体である。しかも、生命の創造は単に物質的、機械的なプロセスではなく、精神的で目的を持ったものなのである。言い換えれば、「天」は休むことなく、 更に新しく、更に智恵のある生き物を作り出している。それがつまり、人間である。人間は天から授かった知恵と徳性によって、さらに優れた精緻な文化と文化的価値を作り出していく。新しい生命と新しい価値は、宇宙と人間社会の中に絶えず湧き出てくる。前者を「生生」と称し、後者を「盡性」と称し、あわせて「天人合一(人の言行が正しければ天の意志と合致する)」、あるいは「天人合徳」と称している。 このような哲学思想は、儒家及び新儒家が主に提唱したものである。 また、「道家」と「仏家」の思想も同様だ。ただ、それぞれの文化的価値観は異なっている。儒家は「倫理的な価値」を、道家は「芸術的価値」を、「仏家」は「宗教的価値」を重んじている。「天人合一」という哲学思想は、中国人の「天命を楽しみ、分に安んずる」という人生観を育んできた。それによって中国人は、更に身近に自然界にお ける無限の心地よさを体験できるようになった。また、倫理の世界にある豊かな情を深く享受し、それほど不満もなく仕事に精を出すことができるようになった。人間の仕事はつまり天の仕事。こう考えることによって、宗教的な慰めを得ることができたのである。
「生生之徳」「天人合一」という生命哲学によって、中国人は人間の倫理的な情感である「仁」を重んじ、その一方で、社会秩序と人間の道理にかなった行動規範である「礼」を重んじようになった。「仁」とは、人間の先天的な道徳感情であり、広い無私の愛である。心の内から自然にあふれてくるものであり、豊かであればあるほどよい。すなわち「博愛之を仁という」。「礼」とは、人間の理性的な考えであり、自己規制である。そのめざすもの は、社会の倫理秩序を守り、集団生活の共同発展を促進させることである。これは慎み深い ほどよい。「仁」と「礼」、この二者は分かちがたい。どちらも人が生まれながらに持って いるものであり、互いに補い合って発展し、孝行・恩いやり・信義などの美徳を形成しているのである。 中国人は「孝」の美徳をことのほか重んじる。狭義には「孝」は家父長制社会の中の家族倫理であるが、実際にはこれにとどまらず、「宇宙の倫理」ともいうべきものだ。なぜならば、人間の個々の生命と、 宇宙の大きな生命とは切り離すことができないからだ。一人一人の人 間が生命を尊重し思いやるのも、生命的な有意義で重要な体験を覚え ているからである。人類は父母への孝行を通じて、初めて生命の源へ の尊重と思いやりとを適切に表現することができる。さらに、人間は、父母への孝行と子供に対する慈愛を通して、自分自身の生の経験を、過去現在から未来へとつながる一つの連続した生命の流れとして 感じることができ、宇宙の創造の継続性を表現できるのである。
★「<実在>観の反動、あるいは否定として、それを裏 返しにした<思想>が、出てきても不思議ではない」
★「思想史の流れで云えば、『怪力乱神を語らず』、『生 を知らないのに、どうして死について言えよう』という、孔子(孔丘)の<儒教>、およびその流れを汲む墨子(墨テキ)の学派が、<実在の思想>とすれば、これに反撥・対立して出てきた、老子(李耳)、荘子(荘周)の、<老荘思想>が、<超越の思想>ということになる」
★天について
(1)「崇拝、あるいは信仰の対象である、神(至上神)の観念がなかったわけではない。それ『帝』といい、彼らの祖先のことであった」……「殷末周初、紀元前十二世紀の終わり頃…『帝』はやがて、『上帝』というようになり、さらに『天』と呼ばれるようになった…自然の一部、<頂上>にある存在としての『天』と、信仰の対象としての『帝』の合体が、実現した」
(2)「殷の人々にとって、『帝』と呼ばれる祖先神=至上神は、意志を持つ人格的な存在であり、かつ、万能であった……こうした『帝』の性格は、『上帝』としての『天』にもうけつがれた……天を『上帝』というとき、当然、そこには『下帝』つまり、地上の天である帝王=皇帝が、投影され、民衆もそのようにうけとる。帝王は、天を権威として認め、自己をその天に近づけるー天と民衆との間に介在するーことによって、民衆から見た自己を、『上帝』の天の権威と一体の印象をあたえたのである。これは、『天』信仰と融合した。中国古代の政治思想ということができる」
★禅譲と放伐について
殷の湯王は夏の傑王を追放、周の武王は殷の紂王を討伐、臣下が主君を弑してよいかの問い。「仁を賊(そこな)う人を賊といい、義を賊う人は残という、残賊の人は一夫(いっぷ)という。一夫である紂を誅した話は聞いているが、君主を弑したとは聞いていない」(孟子、梁恵王・下)。
「中国の思想」(竹内実 NHKブックス)抜粋
★「<中国の思想>における大きな特色は<実在>の 重視にある」
★「神と悪魔、唯物論と観念論、このように絶対的に あい容れぬ二者の対立関係は、中国の思想にはない と断定してよい」
モクサイ通信№29(2001.07)
NO.29 2001.07.20
発行者 今関弘道
第30回モクサイを語る会まとめ
1、日時
平成13年6月22日(金)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
柏木恒彦、斉藤房一、 山口先生、田原哲三
今関弘道、後藤 宏
4、ふりかえり・おさらい
(1)「門風を峻くして(p66の3行目)」~「先生 これを掛けり(p67の18行目)」(斉藤房一)
以上を終了させた。
(2)今回で第二講終了、読み下し文の整理は柏木さんに任された。機会をとらえて、再確認の必要あり。
(3)語句と意味
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):意味。
o「符読書城南一篇足る」(p46の3行目):出典。
o「奉誦す~不克征」(p50の5行目):読み方。
o陳継祖(p60の6行目):沈継祖(しんけいそ)が 正しい。
o 斎藤主税(p61の9行目):
o 渋谷丹右ェ門(p61の10行目):
o 後藤松軒(p64の8行目):
o 堪忍大明神(p65の17行目):
以上前回以前の留意事項
o不了簡(p66の3行目):考えもしない、しない、 許さない。
o重次(p62の13行目):中田重次。十二とも言う。 博徒から三十歳頃に黙斎に入門。~1798
o 與五右衛門(p66の14行目):篠原惟秀。
o 源遠にして末益々分る(p66の16行目):始まりは 一つで遠くに有ったが、末は益々多岐にわたる、出典 不明。
o 田子方(p66の16行目):魏の文公の賢臣。
o 斎 ものいみ(p66の19行目):ある期間、飲食・ 行為をつつしみ、身体を浄め、不浄を避けること。
o居処を思い、笑語を思う(p66の19行目):亡くなっ た親の住んでいた家や、笑って話をしている姿を思う
oあまり吟味づよいと云う程のことなり(p67の1行 目):非常にに詮議がきついというほどのことである。 程伊川の言に対して肯定的
o すいの漉し(p67の7行目):混じりけのない漉し たもの。
o 絹篩(きぬぶるい)(p67の7行目):絹布を底に張っ た篩。細粉をふるうのに用いる。
o 伯者めいた(p67の11行目):神官めいた、物知り めいた、知ったかぶりをする
o 鈴木恭節(p67の16行目):清名幸谷の人。二十八 歳の時に黙斎の推薦で館林藩の儒臣となる。1762~ 1830
o 垂加(p67の17行目):山崎闇斎
o 絅(p67の17行目):浅見絅斎
o 尚(p67の17行目):三宅尚斎
次回開催日程
1、日時 平成13年7月27日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「三講冬至文 辛亥(p68の1行目)」~「我党 の旨訣なり(p70の11行目)」(柏木恒彦)
(2)「冬至文は附録を(p70の11行目)」~「此の 如く厳なるものか(p72の13行目)」(土屋幸恵)
4、第五講関連レポート
理気哲学について
5、次回レポーターの確認
6、その他必要なこと
7、懇親会
儒学・道学の基本的概念と哲学上の観点について
概念(コンセプト)とは何か(9)
科学(井尻正二、国民文庫)よりみ た概念の規定(2)
表象に対して悟性の作り上げる「概念」とは、「感性と理性との中間の段階にある対象の客観的な認識、すなわち対象の最初の概念を作り上げる」、「対象の主観的な、単純な、ばらばらな、漠然とした、現象的な映像」を抽象し、「対象の客観的な、普遍的な、しかも静的で規定的な、相対的に本質的な反映物、すなわち概念」ということになります。このあたり、それこそ抽象的な概念が並ぶ説明になっています。
認識の最終段階(第三段階?)は、理性による理念の形成です。前段階での概念の形成にあずかった悟性という思惟能力には、自己矛盾、自己運動、生成発展などの要素が欠けているからだといいます。
ならば、理性とは何か。それは対象の属性と属性との間の、あるいは対象と対象との間の、必然関係=連関=運動を反映する思惟能力です。
彼は、「(理性とは)思惟の作用であって、著しい抽象力、統合力、類推(推理)力、体系力などをもって特徴づけることができる」、「認識論的には、概念を総合し体系化する、思考能力を持った、最高の段階にある人間の思惟である」、「対象を対立物の統一、自己矛盾、自己運動、生成発展」としてとらえることのできる能力である。そして、「理性とは感性に基づいて、客観的事物の変化・発展としての運動をとらえる思考の働き、いいかえれると、客観的存在の弁証法的運動を反映してとらえる、弁証法の働き(である)」を哲学事典から引用しています。
井尻正二の認識論に対して、理解する限りでは異論を差し挟む余地はないように思います。しかし僕らは、認識論のプロフェッショナルではないし、認識論の細部に渡って取り組んでいるわけでもありません。だから概念の形成を段階的にとらえて、それを理解するに、「感性」、「表象」、「悟性」、「理性」、「理念」という『新たな概念』をもって、これを理解する余裕はないように考えられます。新たな概念の導入は、下手をするとある種の混乱を招きかねないし、僕らの意図する範囲を越えるように思います。とくにここにあげられている概念は、カントとかヘーゲルとか、西洋哲学に根っこをもつもので、理解するにはそれだけのエネルギーが必要とされます。また、これらの概念の使用については、学者においてもまちまちです。
明治維新より130年余り、これらの概念の日本の風土に定着するには、それなりの時間が必要なのかも知れません。「概念の翻訳とは、日本語だけを使って体系的な理論の説明までできるようにすることである」(日本の科学思想、辻哲夫、中公新書)、「科学・技術が翻訳文として成立しうるまでには、この概念の翻訳に努力をかたむける期間が、日本の場合にもそうとうながくつづいたことは、とくに注意を引くことである」(同上)という見方もあります。科学や技術が日本の風土に定着するには十九世紀のほぼ100年間を必要としたというのだけれども、思惟の科学としての哲学、認識論といった分野での概念については、僕らのレベルでは、未だ未定着であるといった方が、正しい評価のように思われます。
概念の形成を云う僕らの直接的な契機は、モクサイ学をよりよく理解すると云うところに置かれています。歴史的に培われてきた概念を、道学理解の武器にしたいということです。この場合、僕らのアタックする世界の概念は、西洋哲学とは異なったものが多くあります。例えばそれは、陰陽、気、五行、天といったものです。このような東洋思想における概念をどう理解するかと云うことについては、西洋に生起した概念の歴史を細部踏まえて、東洋における概念を照射するという方法もあると思うのだけれど、むしろ、西洋を中心とした概念の到達点をとらえて、これをもって中国思想にあらわれた概念を理解するという方法のほうが、僕らにとってベターであるというように考えていることもあります。
よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。懇親
冬至文講義録第二講終了。これで読み下し文は、未定稿ながらも第一講、第二講、第五講の三つになりました。第三講、第四講は年内に終わります。およそ七道の扱いとあわせて、次のテキストに何を選ぶかという課題を持ったことになります。加えて謂えば、そろそろ冬至文読み下し文の扱いも考えておかねばなりません。
モクサイ通信№30(2001.07)
NO.30 2001.07.20
発行者 今関弘道
「課題」:朱子の理気二元論による万物 天道 人道
柏木恒彦
広辞苑における理気説の説明は以下の通り。
太極・気・陰陽など道家・陰陽家らの伝統的な概念と、唐代華厳経の理事説などをとり入れて、儒家の立場から体系化した朱子学の宇宙論。朱熹の説は、万物の生成を気の陰陽の働きによるとしながら、一方その働きの根拠に太極としての理があるとする理気二元論の立場。明代に入ると羅欽順らの、理を気の条理とする一元論が現れ、以後それが主流となる。理気二元論の基になるのは周廉渓の『太極図説』である。よって、近思録道体初条の吟味から始める。
近思録道体初条は「無極而太極」であり、全文は以下の通り。
濂渓先生曰く、無極にして太極なり。太極動きて陽を生じ、動極まりて静なり。静にして陰を生じ、静極まりて復[また]動なり。一動一静互いに其の根を為し、陰に分れ陽に分れて両儀立つ。陽変じ陰合して水火木金土を生じ、五気順布して四時行[めぐ]る。五行は一陰陽なり。陰陽は一太極なり。太極は本[もと]無極なり。五行の生ずるや各[おのおの]其の性を一にす。無極の真、二五の精、妙合して凝[こ]る。乾道は男を成し、坤道は女を成し、二気交感して万物化成す。万物生々として変化窮[きわ]み無し。惟[ただ]人のみ、其の秀を得て最も霊なり。形既に生じ、神發して知る。五性感動して善悪分れ、万事出づ。聖人之[これ]を定むるに中正仁義を以って、聖人の道は仁義中正のみ。して静を主とす。無欲故静。人極を立つ。故に聖人は天地と其の徳を合し、日月と其の明を合し、四時と其の序を合し、鬼神と其の吉凶を合す。君子は之を修めて吉、小人は之に悖[もと]りて凶なり。故に曰く、天の道を立つるに、陰と陽とを曰い、地の道を立つるに、柔と剛とを曰い、人の道を立つるに、仁と義とを曰う。又曰く、始[はじめ]を原[たづ]ね終[おわり]に反[かえ]る。故に死生の説を知る、と。大なるかな易、斯れ其れ至れり、と。濂渓先生曰く、無極にして太極なり。
周易繋辞伝にある「無極而太極」によって、この世界は太極でできているとする。孔子が「易有太極」と言い、太極が万物の基であるとしたことを、周廉渓は無極而太極として、太極は有るがその形は無いのだと説明し、朱子は「無形而有理」であると説明した。朱子によれば、無極とは極に形の無いことを意味し、その極とは太極のことで、太極を換言すると理だということになる。
太極動きて陽を生じ、動極まりて静なり。静にして陰を生じ、静極まりて復動なり。一動一静互いに其の根を為し、陰に分れ陽に分れて両儀立つ。陽変じ陰合して水火木金土を生じ、五気順布して四時行る。五行は一陰陽なり。陰陽は一太極なり。太極は本無極なり。五行の生ずるや各其の性を一にす。無極の真、二五の精、妙合して凝る。乾道は男を成し、坤道は女を成し、二気交感して万物化成す。万物生々として変化窮[きわ]み無し。
周廉渓は気一元論である。彼によれば太極は気であり、しかもその始めは形を持たない状態にあるとする。朱子は、太極とは理であり、気は理を乗せる器だと言う。太極を理とするのなら、上の「太極動きて陽を生じ」は理の動静で陰陽が生れる、となる。しかし朱子は、気は凝集し、営為し、万物を生成発育するが、理はいかなる能動的な働きをも持たないと言っているから、やはり一気の動静で陰陽が生れると解釈すべきだろう。そして、陰陽の変化が五行となる。五行が妙合して固まり、物が生れる、となる。この文では、「二五の精、妙合して凝る」とある。陰陽の二気、それは五行の気でもあるが、それを「精」と言い、この精が固まって初めて物となるとするのである。気には姿の無い状態と有る状態があり、五行がその分かれ目(五行にはそうの双方がある)である。それは魂魄に対する見方にも表れる。朱子は気を魂、身体を魄とする。人が思慮・計画できるのは魂の働きで、記憶・弁別できるのは魄の働きである。魂が尽きると身体は死ぬ。魂は形の無い気で、魄は形の有る気(形質)である。
ここで、周廉渓は気一元論だから、気自体が動いて陰陽五行となるので、理気の問題は無いが、朱子の解釈によれば、理が気を造るのか?という疑問が起こる。加地伸行は、陰陽は無極が具体化されたものであって、質料(matter)である。理は太極が具体化されたものであり、形相(form)であるとし、「無極にして太極」とは形相と質料との一致ということである。無極が陰陽という質料を、太極が理という形相を示す。そこで朱子は「太極(理)は形よりして上(形而上)の道なり。陰陽は形よりして下(形而下)の器なり」と解釈した、と言う。確かに、存在論から言えば、理は形相、気は質料と考えられる。そして、形相が質料自体を造ることは無いから、理とは別に気が存在すると見るべきだろう。理は道理として在る。気は万物を造るが、その際に理の通りに造るか否かは気次第で、理は生成自体には参加しないと考えられないだろうか?そうでなければ悪は生れる筈が無いし、天地は贔屓をしないと黙斎も言っている。それとも理が生成に加わって、悪も造ると言うのか?形相〔哲〕(idea; eidos ギリシア・form イギリス) 精神の眼で観られたかたちで、質料をして一定の現実的形態を採らせる原理。これを、プラトンは超越者とし、アリストテレスは内在原理とし、以後現代に至るまで哲学の基本概念の一つ。
質料〔哲〕(matter イギリス・hyle ギリシア・materia ラテン) 形式を具備することによって初めて一定のものとなる材料的なもの。アリストテレスは、質料を形相と共に存在の根本原理と考えた。例えば家の構造は形相で材木は質料。乾道は男を成し、坤道は女を成し、二気交感して万物化成す。万物生々として変化窮[きわ]み無し。
始めは気化によって物ができる。その後は形化によって万物が生じる。
惟人のみ、其の秀を得て最も霊なり。
男女二気の秀なるものを得たものが人、不秀なるものを得たものが物である。
山田慶児は以下の通り説明する。
朱子にとって、人間とは一気に他ならない。人間が生まれてくるとき、先ず気があって、それから形ができる。その後で精神・知覚が生じる。気には清濁があって、清んだ気は気となり、濁った気は質となる。動静の観点からいえば、清んだ気は陽に属し、濁った気は陰に属す。動的な知覚・運動は陽であって気の動きであり、静的な形体は陰、即ち質の働きである。
また、朱子は言う。人間や生物が生まれるときに受ける気の偏正は初めから異なる。しかも、偏正の中にも更に清濁ないし昏明の違いがある。偏正の点からいえば、正しくて通じた気を受ければ人間となり、偏って塞がった気を受ければ他の生物となる。清濁の点からいえば、人間は清なる気から成り、禽獣は濁なる気から成る。人間は正しい気を受けているから、道理を識り、知識を持つ。動物の中にも知を備えたものがいるが、ただ一つのことに通じているに過ぎない。例えば、犬は守ることができ、虎や狼は仁に通じ、蟻や蜂は義に通じてはいるが、ただ一つのことに通じているに過ぎない。動物なら一つのことに専念できるが、人間は何でもできるので逆に迷いが生じ易い。気質の違いは個体差にも現れる。
天道と人道はいずれまた
理気・無極太極について
朱子文集・語類より(抜粋)
o「いわゆる理と気とは全くべつべつのものです。ただ物についてみるなら両者は渾然として分かちがたく、それぞれ同じ場所にあります」(文集46、劉叔文に答える)
o「理について看るなら、物を構成する以前から、物の理は存在しているのです」(文集46、劉叔文に答える)
o「天地が出来る以前には、要するに理だけが存在するのである。理があるから、天地がある。もし理がなければ、天地もなく、人もなく、物もなく、全く何もかもなくなってしまう。理があれば気があり、あまねく活動して万物を発育する」(語類巻1)。
o「この世には理のない気はなく、気のない理もない」(語類巻1)
*理≠気 *理気不可分論
*理は物を構成する(理と気が結合して)以前から存 在した。
*理は物でないとしたら何か、物以前に存在したとは どういうことか。
*気は物であるといってよいか
*物=物質と考えて いいか。o「天地の間には、理と気があります。理は形而上の道であり、物を生じる根本です。気は形而下の器であり、物を生じる素材です」(文集58、黄道夫に答える)
o「そこで人や物が生じる際には、必ず理を受けて、はじめて本性がそなわり、必ず気を受けて、はじめて形体が備わります」(文集58、黄道夫に答える)
o「詩経に『天がもろもろの民をうむにあたっては、物があれば則(のり)がある』(大雅、蒸民篇)とあり、周濂渓は『無極の真と二五の精とが結合して凝縮する』といいました。ここにいう真とは理のことであり、精とは気のことであり、則とは性のことであり、物とは形のことです」(文集58、黄道夫に答える)
*理=形而上のもの=道=真=性=則*気=形而下のもの=器=精=五行 *物=形(理と気が結合して物という 形を取る)=形体
*二五の精とは、二気と五行のこと
*気は物質、理は宇宙(世界)の法則のように考えら れるがどうか。法則が物質=気の運動の反映である としたら、理はどういうことになるか。
*「この世には理のない気はなく、気のない理もな い」(語類巻一)という命題と『運動のない物質が ないように、物質のない運動はない』という命題と は、どういう関係にあるか。o「太極とは、まさに理の極地をいいます。理があれば、同時に物があり、そこには取りたてていうべき先後の順序はありません。それゆえ『易に太極あり』(易経、繋辞上)とあるのは、太極が陰陽の中にあって、陰陽の外にあるのではないということをいったものです」(文集37、程可久に答える)
o「気は必ず(陰と陽の)両(ふた)つから成り立っています。それゆえ易経に『太極は両儀を生ず』(繋辞上)とあるのです」(文集37、程可久に答える)
*太極は理の極地(理が一つになっている、一つに凝縮 しているさま)
*太極=理は、陰陽すなわち二つの気をつらぬいている。*気=陰陽=陰陽二気o「天地の間には、動と静の両端があって、たえず循環しているばかりで、その外には何もありません。それぞれによって来るべき理が必ず備わっています。これが太極というものです」(文集45、楊子直に答える)
o「私は以前、太極は体であり、動静は用であるとしましたが、この言葉にはもちろん欠点があります。その後改めて(太極図説解の中では)『太極は本然の霊妙性であり、動静は(太極が)乗ずる所の機(はずみ)である』としました」(文集45、楊子直に答える)
*理=太極=動静 *太極は体、動静は用……、いわゆる体用の考え方。o「無極にして太極とは、人が太極を一つの形体をもったものとしてみてしまわないことを憂えたために、それでさらに無極と説き、それが理にほかならないことを示したのである」(語類94)
o「無極にして太極とは、形がなくて理があると説くことにほかならない」(語類巻1)
o「(周濂渓が)さらに無極というのは、その無声無臭の妙をあらわすためです。けれども(太極図説に)『無極にして太極、太極はがんらい無極』とあるのは、無極の後に太極を生じて、太極の上に先ず無極がある、というのではありません。また『五行は陰陽にほかならず、陰陽は太極を離れない』とあるのは、太極の後に、別に(陰陽の)二気や(木火土金水の)五行を生じて、二気五行の上に先ず太極がある、というのでもありません」(文集45、楊子直に答える)
*無極≠太極……無声無臭、限りないというような意味 合いをふくめての、太極の形容。
o「理があれば気があって、(その気によって)あまねく流動し発育するが、しかし理は形態をもたない」(語類巻1)
o「(理気について)これはもともと、先後についてはいえないものだ。しかしその由来をきわめるとなると、先に理があるといわねばならない。しかし理は、別に一つの物としてあるのではなく、気の中にある。気がなければ、理はよりつく場がないのだ。気は金木水火であり、理は仁義礼智である」(語類巻1)
*理気不可分論・(不分離論)
*理先気後論・主理 論
*理気一元論への傾斜、気一元論と理の形而上的実 体論との分岐 *理は気を貫いている
*理=仁義礼智……理は自然を貫いているとともに、 人間の社会的意識(道徳、人倫)をも貫いている。 理=自然の条理=社会の条理
*気=五行=金木水土=物質的(実体的)
o「人が生まれるのは、理と気とが結合するからである」(語類巻四)
o「およそ人が、しゃべったり、動いたり、思慮したり、仕事したりすることができるのは、みな気によるものであるが、しかもそこには理がちゃんと備わっている。だから(人間の言語動作に)孝弟忠信・仁義礼智となってあらわれるものは、みな理なのである」(語類巻4)
*人の感覚・知覚、これにもとづく作用(実践)、反映 としての自然・社会に対する意識(概念の形成)は、 気によってだけでも説明されるように思われる。
*理=孝弟忠信・仁義礼智
*理=聖人を望む朱子哲学 の楽天性
o「清(す)んだ気をうけるものは、人となり、濁った気をうけるものは、物となる。たとえば、大きな鞴(ふいご)で鉄をとかすのに、上質のものは(下の方の)一つところにあり、かすは(あわのように)別のところにあるようなものだ」(語類巻17)
o「物は天地の備わった気をうけている。それゆえ禽獣は横向きに生まれつき、草木は(生存のもととなる)根が下に向かって生え、末端の方があべこべに上にある。動物でたまたま知識があることがあるが、これはただ一面に通じているに過ぎない。たとえば鳥が親孝行を知っており、川獺(かわうそ)が先祖の祭りを知っており、犬は番をすることだけができ、牛は耕すことだけができるといったようなのがそれだ」(語類巻4)
*人と物とのちがい=気の清濁*物=動物、植物
*清濁の差=行動・思 考の一 面化と多面化
*天地生成=ふいごの例に留意 のこと
o「天から受けた素質についていえば、やはり昏明清濁のちがいがある。よって最上の知者や生まれながらの知者の資質は、気が清明純粋であって、少しの昏濁もない。ゆえに生まれながらにして道を知り、努力しないで道を行いうる人は、学問をしなくても、それができるのである。たとえば、尭舜がそうである」(語類巻4)
*人と人との差異=気の清濁
*理は気を貫いているが、気の清濁によって差異?がで きる。格物致知の根拠と朱子学の楽天性
o「人の一身はもちろん父母から生まれたものです。けれども父母が父母たる根拠は乾坤(けんこん)にほかなりません」(文集36、陸子美に答える)
*父母たる根拠=乾坤=理
*乾坤の否定=仁義礼智へ通じる道の否定=天地に通じ る聖人への道の否定o問う、「天の道を立てて陰陽という(易経)。道とは理のことであり、陰陽とは気のことです。どうして陰陽を道とするのですか」。先生いう、「形而上のものを道といい、形而下のものを器という(と易経にある)」(語類巻77)
o「理は全く器に即してこそあるのであって、理と器とは離れたことはない」(語類巻77)
o「一陰と一陽とが交錯する、その根拠となるものが道なのである」(語類巻77)
o「この陰陽循環の秩序が道にほかならない」(語類巻77)
*道=理=形而上のもの
*気=器=形而下のもの=陰陽*形而上のものと、形而下のも のとは離れて存在できないと いう理解にたつ答え(理気不 可分論)。
o「程伊川が『理一にして分殊(分殊)』とうまく説いている。天地万物をまとめていえば理は一つであるが、人間にそなわるときは、各自に一つずつの理があるわけである」(語類巻1)
o「太極は、別に一つのものとしてあるのではない。陰陽に即しては陰陽にあり、五行に即しては五行にあり、万物に即しては万物にある。一つの理にほかならないからだ」(語類94)
*理一分殊論…理は気を貫いている…自然律である とともに社会律(道徳律)・自然を律するととも に、人間の意識、人間社会をも律している。
*理≠物(非物質的なもの)
モクサイ通信№31(2001.08)
NO.31 2001.08.12
発行者 今関弘道
第31回モクサイを語る会まとめ
1、日時
平成13年7月27日(金)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
柏木恒彦、実川嘉一、 山口先生、後藤 宏
今関弘道
4、ふりかえり・おさらい
(1)「三講冬至文(p68の1行目)」~「我党の旨 訣のなり(p70の11行目)」(柏木恒彦)
以上を終了させた。
(2)「課題」:朱子の理気二元論による万物、天道、 人道について論議した。なお継続の必要あり。
(3)モクサイを語る会の場所、時間の再設定につい て話し合った。観点は、一回り輪を大きくすること。
(4)語句と意味
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):意味。
o「符読書城南一篇足る」(p46の3行目):出典。
o「奉誦す~不克征」(p50の5行目):読み方。
o 斎藤主税(p61の9行目):
o 渋谷丹右ェ門(p61の10行目):土佐の人、阿波 藩に仕えた。元文5年没、79歳。
o 後藤松軒(p64の8行目):三河の人、江戸中期 の儒者、会津藩に仕えた。没年86歳。瞽者(こ しゃ、盲目の人)であった。
o 堪忍大明神(p65の17行目):
以上前回以前の留意事項
o 源遠にして末益々分る(p66の16行目):出典は礼 記祭儀
o 伯者めいた(p67の11行目):聖人ではなく、しか し権力を持っている。欲に染まった人、孟子に王覇の 人という言い回しがある。
o 一六談柄(p68の1行目):冬至の日。毎月一と六 のつく日。この日は、休日・稽古日・寄合日・講釈日 などであった。一六日。一八七六年(明治九)以後、 官公署は日曜休日となった。
o 談柄(p68の1行目):はなしのたね。話柄。
o 昇平(しょうへい)(p68の5行目):升平とも、国 運が盛んで、世の中が平和に治まっていること。
o 外面皮毛の商量(p68の6行目):うわべを飾っ てあれこれ考える
o 汗出赤発(p68の6行目):発するものが何もなく、 汗がでるだけ。赤面の至り。
o 信深ければ(p68の8行目):信心深ければ
o 消息ありて(p68の9行目):様子があるといって
o 左国史漢(p69の4行目):春秋左氏伝、国語、史 記、漢書
o (p69の6行目):カン(いとへんに丸)羅=綺 羅:あやぎぬとうすぎぬ。美しい衣服。
o 提撕(p69の10行目):ひっさげること。儀後進者 を教導すること。奮いおこすこと。盛んにすること。
o 日新(p69の11行目):日々に新しくなること。毎 日旧来の悪習を改めること。
o 滑稽発句、俳諧歌(p69の15行目):滑稽味を帯び た和歌の一体。万葉集の戯笑歌の系統をひき、古今集 巻一九に誹諧歌として多くの作を収める。ざれごとう た。はいかいうた。鹿都部真顔(シカツベマガオ)が一八 ○八年(文化五)頃から主張した狂歌の作風。天明 調狂歌の方向を是正するため、古今集以来の俳諧歌に 依拠しようとしたもの。
o 歳旦(p69の16行目):[後漢書呉良伝] 新年の第一日。元日。元旦。季・新年。歳旦を祝う句。歳旦開きで披露する句。
o 寄合(p71の12行目):会合。集会。 戯連歌・俳諧で、前句の中の詞(コトバ)と縁のある詞。例えば、松に鶴、柳に燕。「―付(ヅケ)」
o 東都(p69の16行目):東方の都。特に、江戸ま たは東京を指す。
o 実験(p69の17行目):[顔氏家訓帰心] 実際の 経験。
o 格致(p70の2行目):格物致知、学問・修養法 の一。朱子学では、後天的知を拡充(致知)して 自己とあらゆる事物に内在する個別の理を窮め、 究極的に宇宙普遍の理に達する(格物)ことを目 指す。陽明学では、先天的道徳知としての自己の良 知を十分に発揮(致良知)し、それによって物事 に正しく処する(格物)ことを目指す。
o 陳師徳(p70の3行目):
o 朱明孫(p70の4行目):
o 節要(p71の18行目):朱子書節要、李退渓
o 集註(p72の1行目):しっちゅう、読み。
懇親
よく遊びよく学ぶ。
土屋さん、房一さん、田原さん、戸辺さんの都合がつかず。ちょっとさびしい会になりました。山口先生、柏木さん、後藤さん、カイッチャン、それに僕の五人、頑張りました。
もう少し、足腰の強い語る会にする必要があるように思います。そのような観点から、懇親の席上、会場を成東の菜の花会館といったところに移して、語る会も土曜日に持ってきたらどうか。そうなれば、外的要因に左右されずに、スケジュールの組み方で、参加の条件を作ることが出来るのではないか。このような話が出ました。かつて、トサキの嘉一邸のはなれをという話があったけれど、同じような性格を持つ問題の提起でした。検討してみる必要があるように思います。
次回開催日程
1、日時 平成13年8月24日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「冬至文は附録を(p70の11行目)」~「此の如く 厳なるものか(p72の13行目)」(土屋幸恵)
4、第五講関連レポート
理気哲学について:前回の続き。「特集号」30号を持 参ください。問題の所在は、理と気の関係、理と気は 物質的なものなのか、それとも非物質的なものなの か。物質的、非物質的とはどういうことなもななどな どです。
5、次回レポーターの確認
6、モクサイを語る会について。その他必要 なこと
7、懇親会
儒学・道学の基本的概念と哲学上の観点について
陰陽・気・五行を考える(1)
陰陽・気・五行ということばが、いつの時代に発生し、誰によって唱えられたかというようなことについては、分かっていない。発生の起源は殷周時代にさかのぼることが出来るのだろう。たとえば、陰陽という言葉は、詩経の大雅篇に「其の陰陽を相(み)、其の源泉を観(み)る」という一節があり、山の日陰になる場所と、日の当たる場所を見て、流れる川の状況、用水の便を推察するという意味に訳されている。自然という外界を反映した素朴な概念として成立したことが分かる。
陰陽・気・五行ということばが一人歩きをする、概念として発展するのは、春秋戦国時代からである。いわゆる諸子百家の時代、百花斉放、百家争鳴といわれる如く、古代中国思想の花開いた時代、神話による世界解釈からの決別の時代である。この時代になると、誰があるいはどの集団がどのような学説をたてたのか、その中で三つの概念がどのように使われたのかが明らかになってくる。陰陽・気・五行ということばが、概念として発展を開始ししたということでもある。
諸子百家の時代は、殷周革命を経て、奴隷制的社会から、封建制的社会への移行期、あるいは別の角度から見るならば、氏族共同体の解体の時代にあたる。春秋戦国時代から秦漢の中央集権的・専制国家の成立に至るまでの混乱期、政治・経済体制の再編成期にあたる。社会体制の変革期における自由な一時期、当然にも社会の様相としては、激烈な階層分解、上向・下向運動、いわゆる下克上のを伴うのであるが、この社会的変革期の中で、相対的な自由を獲得した思想家群こそが、諸子百家に他ならない。諸子百家が、それぞれの階級ないしは階層の利益を代表したことは推測にかたくない。
モクサイ通信№32(2001.09)
NO.32 2001.09.28
第32回モクサイを語る会まとめ
1、日時
平成13年8月24日(金)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
柏木恒彦、実川嘉一、 田原哲三、後藤 宏
斉藤房一、今関弘道
4、ふりかえり・おさらい
(1)「冬至文は附録を(p70の11行目)」~「此の 如く厳なるものか(p72の13行目)」(今関弘 道)
以上を終了させた。
(2)理気二元論について
二回にわたる理気二元論の討議の中で、朱子学の枠内において確認される、概念の相互関係は次のようです。理ないし気という概念が物質的なものを意味するか、あるいは非物質的なものを意味しているのかに付いては、なお検討の結果を待ちたいと思います。
★理……形而上のもの、太極、乾坤、道、性、真、則、 仁義礼智、孝弟忠信etc
★気……形而下のもの、器、精、五行、金木水土、陰 陽、陰陽二気、人欲etc
★理気の関係……理気不分離論(不可分論)、理先気 後論(主理論)
★理気一分殊論……理は気を貫いている。
★人と物(動物、植物、鉱物)との違い…気の清濁
★人と人との違い……気の清濁
(3)語句と意味
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):意味。
o「符読書城南一篇足る」(p46の3行目):出典。
o 斎の日思居処思笑語(p66の19行目):出典は礼 記祭義。
o 源遠にして末益々分る(p66の16行目):出典
o 消息(p68の9行目):しょうそこ、読み
o 陳師徳(p70の3行目):
o 朱明孫(p70の4行目):
以上前回以前の留意事項
o 奥書(p70の9行目):著述・記録などの末尾につ けた由緒書。著作・筆写・伝書の年月日、著者・筆者 の氏名・来歴などを書き記す。
o 易簀 えきさく(p70の9行目):曾子が死に臨ん で、季孫より賜った大夫用の簀(スノコ)を分不相応だ として易えた故事(礼記檀弓上)、 病床をとりかえる こと。転じて、学徳ある人の死。
o 谷(p70の10行目):谷重遠
o 水損旱損(p70の13行目):洪水干害、天下を憂え ることか
o 西銘(p70の13行目):張横渠の書、張横渠
o 無跡(p70の5行目):跡を残さない、無口、寡黙
o 高明正大(p70の7行目):高くて明らかな、正し く大きなさま。意志・言行が、正しく堂々としている こと。
o 疎暢洞達 そちょうどうたつ(p70の7行目):の びのびと通った性格を持ち、識見・技能に通じてい る、道に通じている。
o 折戸京二(p70の8行目):鈴木兵衛門、上総八子
o 不気象(p70の8行目):心持ち悪い、気持ち悪い
o 品題(p71の2行目):品定め
o 邪態(p70の7行目):読み
o 群小(p71の4行目):多くのとるに足りないもの。 多くの凡人。
o 陰類(p71の4行目):明らかでないもの、暗いも の
o 伊川人の為に執ると、朱子の云わるる場だけ(p71 の11行目):伊川が人の為に執ると、朱子が云われた ところだけ
o 気習ある(p71の12行目):気に習う、気質の性 にならう。
o 父師(p71の13行目):迂斎
o 疎通・疏通(p71の16行目):さわりなくとおる こと。ふさがっているのを開き通すこと。意思の通 ずること。条理のよくとおること。
o 周密(p71の16行目):注意・心づかいなどが、 細かい所までゆきとどくこと。
o 気散じ(p70の7行目):気の散っていくこと、 心の憂さをまぎらすこと。きばらし。
o 朱解の後一人(p71の18行目):石原先生のこと
o 徳輕此の如し(p71の18行目):徳の軽きこと、 徳は重いものではなく、羽のように軽くさらりと しているもの
o 怡楽(いらく)(p72の1行目):よろこび楽しむ こと
o 悚動=竦動(しょうどう)(p72の1行目):慎み かしこまること
o 興国寺(p72の5行目):
o 修敬録(p72の9行目):酒井修敬、凡そ七道
o 鋒鋩(p72の10行目):気性や言葉の鋭いこと
o 持敬涵養(p72の10行目):身を慎んで徐々に 育っていく
o 售り(p72の12行目):うり、読み。
o 菅野(p72の13行目):
懇親よく遊びよく学ぶ。過ぎたるはなお及ばざるが如し。
前回、今回、おそらく次回も含めて胸突き八丁という感があります。孔子、孟子から朱子に至る道統の学を踏まえての、モクサイすなわち藤門学派の主張がなされ、しかもベースとして理気二元論が引きつけられている、という事情によるのだろうと思います。
僕らは学者ではないし、聖人を目指すを意思確認して、集まりを持っているわけではないけれど、上総道学についてよりよく知りたい、理解したいという欲求は基本的にあります。
焦ったところでどうしようもないこと、一人一人が頑張って、その上でお互いに知恵を出し合っていく以外にないということでしょう。三人よれば文殊の知恵、「世界がぜんたい幸せにならないうちは個人の幸福はあり得ない」といったのは宮沢賢治でした。
とはいっても癪だから?!「凡そ七道」あたりを詰めるべきだ、なんて考えたりします。柏木さんのレポート(ダイジェスト)はすでに持っているのだけれど……。
次回開催日程1、日時 平成13年9月28日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「佐藤子顔子家訓(p72の13行目)」~「面白き話 なり(p774の7行目)」(後藤 宏)
4、第五講関連レポート
お休み
5、次回レポーターの確認
6、モクサイを語る会について。その他必要 なこと
7、懇親会
儒学・道学の基本的概念と哲学上の観点について
陰陽・気・五行を考える(2)
陰陽・気・五行という概念は、長い中国思想史あるいは哲学史の中で発展してきた。時代によって、また論者によって、あるいは社会的立場によって、これらの概念の解釈の仕方は違うのだけれど、世界を説明する概念として使用されてきたということでは一致している。
現代において、これらの概念がどのように説明されているか、広辞苑によると次の通りである。「陰陽、中国の易学でいう、相反する性質をもつ陰・陽二種の気。万物の化成はこの二気の消長によるとする」、「気、天地間を満たし、宇宙を構成する基本と考えられるもの。また、その動き。風雨・寒暑などの自然現象。万物が生ずる根元。(全般的に見て) 精神」、「中国古来の哲理にいう、天地の間に循環流行して停息しない木・火・土・金・水の五つの元気」。
このような説明の中では、気がキーポイントになると思う。朱子の理気哲学においては、気=陰陽=五行としてとらえている。この場合、気は物質的なものであるのか、非物質的なものであるのか、別れるところでもある。どちらかといえば、物質的なものとしてとらえる論の方が多いのではないか。
モクサイ通信№33(2001.10)
NO.33 2001.10.10
第33回モクサイを語る会まとめ
1、日時
平成13年9月28日(金)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
柏木恒彦、実川嘉一、 斉藤房一、 後藤 宏
今関弘道
4、ふりかえり・おさらい
(1)「佐藤子顔子家訓(p72の13行目)」~「面白 き話なり(p774の7行目)」(後藤 宏)
以上を終了させた
(3)語句と意味
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):意味。
o「符読書城南一篇足る」(p46の3行目):符読書 於城南…「符、書を城南に読む」。韓愈の詩。符は 韓愈の子。城南は韓愈の別荘のあった所。子の符 がまだ幼年の時に、学問をするにあたって勤学を 勧めた詩。元和11年秋の作。但し、子供への教え とは言え、学問をすれば利禄をも得ることができ ると言うところで、評価が分かれている。(柏木 恒彦)
o 源遠にして末益々分る(p66の16行目):出典
o 陳師徳(p70の3行目):李退渓の門下
o 朱明孫(p70の4行目):李退渓の門下
o 興国寺(p72の5行目):
o 谷(p70の10行目):谷秦山:1663~1718 名 は重遠、通称丹三郎、土佐の人。山崎闇斎、次い で浅見絅斎に師事、崎門の学を究め、野中兼山失 脚後、南学を復興し、その門流に多くの人材を輩 出し、維新における土佐藩活動の源泉をなすに 至った。秦山は神道をも究め、闇斎、絅斎の名文の学 を発展させた。
o折戸京二(p70の8行目):松尾に折戸(おっと)と いう地名がある。
o不気象(p70の8行目):ぶきしょう、読み。
o菅野(p72の13行目):菅野兼山 すがのけんざん
佐藤直方に十四歳で入門、三宅尚斎に師事。七十歳で 没。
1680-1747 江戸中期の儒者,闇斎(あんさい)学 者。武蔵(むさし)の人。三宅尚斎(しょうさい)・ 佐藤直方(なおかた)に学ぶ。将軍徳川吉宗の時,幕 府の財政的援助を受け,江戸の深川(ふかがわ)に 私塾会輔堂を創設し,儒学によって武士・庶民を教導 した。半官半民の学校の初めで,大坂の懐徳堂(か いとくどう)の先駆となった。マイペディア97
以上前回以前の留意事項
o 顔子家訓(p72の13行目):顔之推 がんしすい
531-590? 中国,六朝末の学者,文人。戦乱と貴族 社会解体の時代に流浪生活を送り,諸王朝に仕えた。 その著《顔氏家訓》は家族生活を中心とした実際的訓 戒を示し,六朝史研究の好史料。顔師古は孫,顔真卿 は5世孫。マイペディア
o 大学或問(p72の14行目):
o 行宮便殿(p72の14行目):
o 通鑑(p72の15行目):資治通鑑 しじつがん
中国の史書。宋の司馬光の編著。本文294巻。英宗 の援助を得て,1066年―1084年に完成。前403年 (戦国時代)から959年(五代末)の史実を編年体で 記す。史料は正史のほか実録から小説まで322種の 書を参考にしている。開巻第一に名分論があるごと く,本書の目的は君臣の義を明らかにして治政に資せ んとするところにあった。マイペディア
o 南軒(p72の17行目):張南軒:1133~1163 張 ショク、道学を理解し、朱子の学友としてあった。二 人はほぼ一致した見解を持っていた。
o 元晦(げんかい)(p72の17行目):朱熹 朱子と 尊称。字は元晦(げんかい),晦庵などと号した。
o 若林(p72の18行目):若林強斎:浅見絅斎の門 人
o 東莱(p73の3行目): 呂東莱:名は祖謙。字は伯 恭。宋代官界で代々要職を勤めた家系。朱子の講 友。鵝湖の会の主催者。近思録の共同編纂者。 1137~1181
朱子の学友、張南軒により引き合わせられる。朱子 とは学問の傾向を異にしていたが、道学には強い 関心を抱いていた。朱子と共同で近思録十四巻を まとめた。
朱子は、呂東莱が六経、論語、孟子などより史記を 称揚していることをもって、歴史を語るだけで、心 を養い身を修めること(居敬)を放棄していると批 判した。
o 呂居仁(p73の8行目):朱子の門下?
o 土佐(p73の8行目):土佐、長島、新発田の諸 侯は迂斎の門に入り子弟の礼を取る。唐津、館林、 筑前、秋田、阿波、亀田、岩村、大多喜の諸侯も賓 礼をもって迂斎を遇した。
o 谷丹三郎(p73の8行目):谷重遠、通称丹三郎、 土佐の人
o 箕浦宇源(p73の13行目):土佐藩の儒者
o 中山伝左衛門(p73の13行目):秋田藩の儒者
o 大内忠太夫・水野・迂斎の関係(p74の3~7行 目):
懇親よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。
あまりいいニュースがない。目には目を、歯には歯を、仕返しは目と歯だけにとどめる。このような意味があったと朝日の解説。21世紀のブッシュの思考はどのような距離にあるのか、そしてネズミオトコ君の距離は。北欧では対外平和と対内福祉が国是、いわば国の哲学。70歳有料化、受験地獄の放置、規制緩和、いわば弱肉強食、ウバステの論理、住みずらい世の中だね。ワクイ、われわれを除くと客は二人だけ、食の安全については論をまたない。さしあたり、消費者は食べないでしのげる、牛飼いはどうしのぐか、焼き肉屋はどうしのいでいくのか。テレビで焼き肉を食って見せるのが能ではない。
さて、僕らのモクサイを語る会、初めての後藤さんのレポート、分かりやすくていい。読み下しを踏まえての、モクサイの言わんとするところの解釈、これを自らに引き付けてレポートするという思考が、分かりやすさにつながっているように思うね。
ヒットというべき、いやランニングホームランかな。喉に刺さった小骨、まさか韓愈とは、入り口がインターネットとはね。柏木さんは、相変わらず先頭を走ってる。僕らは鼻先、頭一つ、一馬身、二馬身……?!、でもそれぞれの持ち味があるからいいか。
次回開催日程
1、日時 平成13年10月26日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「乙卯(p74の11行目)」~「実心実功と云もの(p 76の2行目)」(斉藤房一)
(2)「何となく道を(p76の2行目)」~「吾友如何々々 (p77の6行目)」(実川嘉一)
4、第五講関連レポート
お休み
5、次回レポーターの確認
6、モクサイを語る会について。その他必要 なこと
7、懇親会
儒学・道学の基本的概念と哲学上の観点について
「気は第一あるいは原初の意味もあるが、それよりもっと本根(荘子の語)の意味がある。主としてそれは論理分析による推論から引き出されたものではなく、それは感に多く頼っているからである」(東洋思想と新しい世紀、謝遐齢)。感とは直観であり、直観は物質世界の反映としてあるというとらえ方だろうと思われる。
「気とは気体であり、物質の最小構成単位であり、生命を担い、精神を活動させるものである」(老荘を読む、蜂屋邦夫)
「中国古代の書物には、気がたくさん出てくるが、気という概念の発明は、中国の思想に奥行きを与え、豊かなものにしたと同時に、曖昧でわかりにくいものにもしてしまった。気は、まことに神秘的な存在であるというほかない」(同上)。
気が神秘化する場合は、気を非物質的なものとしての位置づけが与えたられた時ではないか。
モクサイ通信№34(2001.11)
発行者 今関弘道
第34回モクサイを語る会まとめ
1、日時
平成13年10月26日(金)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
柏木恒彦、実川嘉一、 後藤 宏
今関弘道、山口先生、土屋幸恵
4、ふりかえり・おさらい
(1)「乙卯(p74の11行目)」~「実心実功と云も の(p76の2行目)」(後藤 宏)
(2)「何となく道を(p76の2行目)」~「吾友如 何々々 (p77の6行目)」(実川嘉一)
以上を終了させた。
(3)語句と意味
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):意味。
o 源遠にして末益々分る(p66の16行目):出典
o 興国寺(p72の5行目):
o 大学或問(p72の14行目):
o 行宮便殿(p72の14行目):
以上前回以前の留意事項
o 大内忠太夫(p74の3~ 7行目):水野忠邦に 仕える儒者
o 謾書(p74の10行目):
o 謾:あざむく、あなどる、軽んじる
o 大哉聖人の道(p74の11行目):大なる哉聖人の 道、中庸第十五章
o 待其人而行る(p74の12行目):その人を待っ て而して(後に)行われる、中庸第十五章
o 道不遠人(p72の14行目):道は人に遠からず、 中庸第三章
o 不誠無物(p75の2行目):誠ならざれば物無し、中 庸第十四章、誠によって、誠実に行うのでなければ物 事は成り立たず、存在しないのだ
o 天命性(p75の5行目):天命謂性、天の命じるこれ 性と謂う、中庸第一章
o脩道之教(p75の7行目):道を脩むるをこれ教えと 云う、中庸第一章
o 西銘(p75の13行目):張横渠の書、転じて張横渠 のこと。書斎の西側に掲げた文章で「天地は我が父 母、人類は我が同胞」という、四海同胞、万物一体の 考え方を述べたもの。朱子が注釈して「西銘解義」一 巻として刊行。
o 訂頑(p72の14行目):ていがん、頑なをただす。西 銘のもとの名前、伊川が変えさせた。
o 末世(p76の2行目):上代を理想の世とし、今を道 徳の衰えた末の世とする言い方
o 不越言語文字の間(p76の5行目):言語文字の間に 越えず、中庸章句序第六節
o 記誦詞章(p76の6行目):文章の暗誦と美文の修辞、 大学章句第四節
o 中和を致すれば(p75の10行目):中和を致して天 地位し、万物育す、中庸第一章
o 博施済衆(p76の9行目):博く施して衆をすくう= 博く民に施してよく衆をすくわば、如何、仁と謂うべ きか。論語雍也30
o 手足を啓(ひら)き、今にて免る(p76の10行目): 論語泰伯第八
o 朝=あしたに道を聞きては(p76の12行目):論語 里仁第四八
o 好学論を学ぶは以て聖人の道に至る也(p76の12行 目):近思録為学
o 経済(p76の13行目):[文中子礼楽]国を治め人民 を救うこと。経国済民。政治。
o 宰相は命を言わずと云うは(p76の14行目):宰相 は天命(誠、性)といわず、為学につとめるという意 だろう。
o浩然(こうぜん)の気(p76の19行目):孟子公孫 丑上「我善養吾浩然之気」天地の間に満ち満ちている 非常に盛んな精気。俗事から解放された屈託のない心 境。
o四端(したん)(p76の19行目):[孟子公孫丑上]
仁・義・礼・智の道に進むいとぐち、すなわち惻 隠・羞悪・辞譲・是非の四つの心。孟子は人は生れ ながらにしてこれを持つとして性善説を立てた。
o 伯夷・叔斉(p77の2行目):殷の処士。孤竹君 の次子。伯夷はくいの弟。父に自分を世嗣にする心 があったが、弟であるというので受けなかった。周 の武王が殷の紂王を討つに当って、伯夷と共に、臣 が君を弑する不可を説いて諫めたがきかれなかっ たので、周が天下を統一するや、その粟を食らうこ とを恥じて首陽山に隠れ、わらびを食って共に餓 死したと伝える。
o 柳下恵(p77の2行目):魯の賢大夫
よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。懇親
今回の房一さんと嘉一さんのレポートで、第四講を終了させることが出来ました。これでモクサイの冬至文講義録の読み下しを第一講から第五講まで、何とかやり遂げたことになります。凡そ四年の歳月が要されています。僕らの語る会、蝸牛の歩みの如くという表現がぴったりです。あっちへ突き当たり、こっちでつまずき、今でもよく分からないところが少なくありません。それでも続いてきたということは、あの魅力ある懇親会のせいだけではない、モクサイへの関心が深まりつつあるのだろうと思います。上総で生を終えたモクサイと、モクサイを囲む人たちの、江戸から明治へと移りつつある時代の中で、生き方をかけて真摯にきり結ぶ姿が、おぼろげながら見えてきたのかも知れません。加えて、モクサイを通してではあっても、古学を含めて日本朱子学をかいま見ることの出来るのも、大きな魅力なのだろうと思います。論語に古きを温(たず)ねてとありますが、僕らにとっての日本朱子学は、これから世を渡っていくについて、とても大事なものを含んでいるように思われます。過去を知ることなしには現在を確定できないし、したがって未来をも推し量ることは出来ないということなのでしょう。さらに日本朱子学は、朝鮮、中国へと広がりを見せ、好むと好まざるとにかかわらず、僕らを東洋哲学というような世界に誘っていきます。僕らが西洋哲学をきちんと学んでいるということではないけれど、明治維新以来の西洋文化の導入という流れの中では、このことは大きな意味を持っています。
下学上達、孔子の教えもあることだから、あんまり飛び上がったことを言うと、モクサイに叱られそうですが、モクサイを通して、いわば時代の知的好奇心というようなものを、僕らなりに広げていくことは、許されることだろうと思います。
田原さんに印刷して貰った第一講から第五講までの冬至文講義録、赤い線があっちこっちに入り、書き込みで大分汚れ、表紙が取れそうになっています。いわば、僕らの勲章のようなものです。
今回で、講義録自体は終わったことになりますが、モクサイの付した三子の遺文、直方の迂斎にあてた手紙、そして凡そ七道があります。このうち三子の遺文は消化したのだけれど、後の二つの文は柏木さんのダイジェストで止まっています。今回の語る会では、この二つの文をやって、モクサイの冬至文講義録を終了させることにしようと決めました。エネルギーの再生産があったのだろうと、これは誇りにしていいことのように思っています。いま11月だから、終わるのは年を越すかも知れません。来年にかけて、これまでの読み下しを踏まえての、柏木さんの冬至文講義録の定稿、そして次は何をするか、気が早いけれども、二つの課題を楽しみにしながら、いい感じで年を越すことが出来そうです。
次回開催日程
1、日時 平成13年11月22日(木)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「佐藤子江戸より(p5の11行目)」~「寛政戊午冬至……(p6の5行目)」(柏木恒彦)
(2)「佐藤先生冬至文附録(p6の11行目)」~「可慮々々(p8の15行目)」(実川嘉一)
4、次回レポーターの確認
5、その他必要 なこと
6、懇親会
モクサイ通信№35(2001.12)
発行者 今関弘道
第35回モクサイを語る会まとめ
1、日時
平成13年11月22日(木)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
柏木恒彦、 後藤 宏、田原哲三、今関弘道
4、ふりかえり・おさらい
(1)「佐藤子江戸より(p5の11行目)」~「寛政戊 午冬至……(p6の5行目)」(柏木恒彦)
(2)「佐藤先生冬至文附録(p6の11行目)」~「可 慮々々(p8の15行目)」(今関弘道)
以上を終了させた。ただし欄外の説明については、次回まわしとした。
(3)語句と意味
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):
o 源遠にして末益々分る(p66の16行目):出典
o 興国寺(p72の5行目):
o 大学或問(p72の14行目):朱子著
o 行宮便殿(p72の14行目):朱子著
o 謾書(p74の10行目):拙著というような意味
以上前回以前の留意事項
o 佐藤子江戸より(p5の11行目)~寛政戊午冬 至……(p6の5行目):直方から迂斎にあてた手 紙の読み下しについては、さしあたり稲葉黙斎顕 彰行事で渡された、田原さんのレポートを参照の こと。
o 天木時中(p6の13行目):元禄九年(1696)生 まれ。名は時中、通称は善六、はじめ越智氏を称 した。享保三年(1718)三十三歳の時に佐藤直方 に入門するが、翌年に直方は死去。その後、三宅 尚斎に師事。元文元年(1736)四十一歳で亡くなる。
o 謹厚卑陋(きんこうひろう)(p7の3行目):慎まし くも狭い
o 輯略(しゅうりゃく)(p74の10行目):とりまとめ ること
o 胸次擾々昏塞滞礙 きょうじじょうじょうこんそくた いがい(p7の9行目):胸中はさわがしく、くらく ふさがり、とどこおり前に進まない
o 次:宿ること。泊ること。
o 礙(がい):碍の本字、さまたげること。さえぎるこ と
o 鹵莽(ろもう)(p7の11行目):軽率で不用心なこ と。事をなすのに粗略なこと。粗忽。
o 王梅渓文集の(p7の14行目):
o 庸常(p7の14行目):かわらない、つね
o 易説を推す(p7の14行目):易経を学ぶ
o 雷霆(らいてい)(p7の15行目):読み
o 瑣細(ささい)(p7の18行目):とるにたりない
o 磊々(らいらい)落々(らくらく)(p7の18行目): 心が大きく物事にこだわらない
o 繊芥(p7の17行目):こまかい
o 方物(p7の18行目):識別する
o 撃慇?(p8の1行目):
o 心廣体胖(はん)(p8の5行目):心が広く豊かなこ と
o 吟風美日?(p7の6行目):
o 珍快 ちんかい(p8の13行目):読み
懇親よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。
今回の出席は田原さん、柏木さん、後藤さん、そして僕の四人。土屋さんとカイッチャンは、町長選が尾を引いて?酒は百薬の長よろしく、頑張らざるを得ない状況があるらしい。房一さんは会計検査、JA山武の実質的責任者の一人、致し方ないね。山口先生は明後日に「稲葉黙斎顕彰行事」をひかえて忙しい。「黙斎学会」の会長だからね。ということで四人で頑張った。はじめは迂斎にあてた直方の手紙、江戸かな文、そうろう文、どうなることか。さすがは柏木さん、桜木さんにも相談したりして、準備万端おこたりなく、胸のつかえが下りたよう、とてもよかった。天木時中のところは僕のレポート、こちらはみんなに助けられながら、何とか切り抜けることが出来た。三人よれば文殊のというけれど、地でいったような課会だった。
追伸
11月25日PM1:00,場所は成東町文化会館のぎくプラザ、山口先生と教育委員会が主催する「稲葉黙斎顕彰行事」、われわれモクサイを語る会のメンバー、戸辺さんをのぞいて全員参加。山口先生の挨拶の後、桜井計敏さんの「稲葉黙斎先生と鵜沢近義」と題する講演を聴く。近義は桜井さんの六代さかのぼった先祖、代々続いた名主の家系。黙斎の農村における依拠した階層が伺えたりして、それなりに面白かったと思う。講演が終わって、元倡寺にお墓まいり、そのあと山口先生を含めてモクサイを語る会で、結城屋に流れて懇親。先生の方からあらためて、冬至文講義の読み下しが終了するを踏まえて、記録にとどめておいたらいいのではないか。それを受けて来年は頑張ろうかという話。あるいは次のテキストには何を選ぶかという話。どうしてそうなったか忘れたけれど、佐野学、福本和夫、はては実川清をめぐる話など。懇親会もまた、なかなかのものだったといえるね。
西極天馬の歌(抜粋)
太初四年、大宛の王を誅し大宛の馬を獲て作る
天馬来る 西極よりす
流沙を渉り 九夷服しき
天馬来る 泉水より出ず
虎の毛並みに似て 変化鬼神の如し
天馬来る 草なき道をへ
千里を渉り 東への道を至る
天馬の来たりしは 執徐の時
まさに高くのぼらんに 誰とともにかこれを期せん
天馬の来るを はるかに遠く門を開きて待つ
願わくはわが身をたかくあげて崑崙に逝かん
すでに天馬の来れるは これ竜の至るしるし
(李延年) o李広利の大宛(フェルガナ)遠征
李広利の第1次フェルガナ遠征は失敗するも、前102大2次遠征は成功、都貴山城を落とし、汗血馬3000頭を引き連れて帰る。
次回開催日程1、日時 平成13年12月21日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「出渕立恒自責(p8の16行目)」~「但勿急迫(p 10の15行目)」(後藤 宏)
(2)「酒井修敬録(p10の20行目)」~「致思而勉励 也(p12の15行目)」(土屋幸恵)
4、次回レポーターの確認
5、その他必要なこと
6、懇親会(忘年会)
モクサイ通信№36(2002.01)
発行者 今関弘道
2002.01.20
迎春
平和で豊かな世の中になることを願って、モクサイを語る会ともども頑張っていきましょう。
本年度の課題について
謹賀新年
モクサイを語る会、かなり定着してきたように思います。冬至文講義録、凡そ七道なども含めて、まもなく終了させることが出来ます。5年以上の歳月をかけて取り組んできた、形の上にあらわれた成果、定着の証とも思います。
日本朱子学とはどういうものであったのか、明治以前の日本文化あるいは思想形成の中で、日本朱子学はどのような役割を果たしてきたのか、ひるがえって上総道学が僕らの住んでいる地域に与えた影響とは何だったのか、まずはモクサイを通してその入り口を通過しつつあるように思います。加えて、中国哲学の集大成とも云われる朱子学そのもの、そしてその向こうにある東洋思想に分け入る、かすかな手がかりを掴みつつあるのではないか、とも思います。4~5年の取り組みで、過大な自己評価をするのは、口幅ったいことを云うのは、モクサイの教えるところではないけれども、歩んできた道筋だけは確認できます。誇りにすることも出来ます。
2002年の春を迎えて、僕らの為すべき事は何か。第一には、冬至文講義録をきちんと終了させることでしょう。百里を行くものは九十里をもって、最後が大切だと思います。第二には、冬至文講義録の読み下し文、第一講から第五講までの読み下し文を定稿化することだと思います。この作業を通じて、あらためてモクサイを振り返り、これまでの学習の総括をすることが大事です。第三には、一段とレベルアップする見地から、新しいテキストの選択をし、これへの取り組みを強めることでしょう。何を選ぶか楽しみです。
なお課題をあげるとすれば、第一から第三までの、取り組みの観点に沿った形で、およそ次の事柄をあげることが出来ると思います。
(1)定稿化された読み下し文をどうするか。この課題は相当なエネルギーを要するでしょうし、経済的な要素が絡みます。
(2)モクサイの取り組みにあたって、山口先生の蔵書・目録を意識的かつ組織的に活用することが必要ではないか。宝の山、上総道学の森の中にに手ぶらでは入っていけない。モモタロウで云えばキビダンゴのようなものです。
(3)多様な形で輪を広げていくこと。昨年と一昨年、会として、モクサイの集いに参加しました。こういった経験を踏み台にして、さらに地域をはじめ関係機関・組織の掘り起こしを追求していくことが出きればと思います。
もう一つは、モクサイを語る会のこと、後藤さんの参加で活気づいたことは周知の通り。しかし、僕らのメンバーは桜木さんを含めて10人いるのだけれど、時としては4人ぐらいになる、これはさびしい。地域の知恵をもっと探し当てる必要があると思います。
(5)会員相互の意志疎通をいかにして図っていくか、昨年に引き続いた課題です。モクサイ通信の充実、パソコンの有効的な利用、考えていきましょう。
モクサイ通信№37(2002.02)
発行者 今関弘道
2002.02.09
第37回モクサイを語る会まとめ
1、日時
平成14年1月25日(金)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
柏木恒彦、 斉藤房一、土屋幸恵、実川嘉一
今関弘道
4、ふりかえり・おさらい
(1)「酒井修敬録(p10の20行目)」~「致思而勉 励也(p12の15行目)」(土屋幸恵)
以上を終了させた。
(3)語句と意味
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):
o 源遠にして末益々分る(p66の16行目):出典
o 撃○……撃慇?(p8の1行目):
o 程子の吟風美日(p8の6行目):
o 獪(カイ)……狡与(と)猾、同じく黠悪(カツ アク)なり、方言(きちんとした言葉)、小貌(こ ざかしい顔)、多く詐る。曰く狂猾(キョウカツ) なり?(p8の欄外):
o 詛(ショ、のろう、禍を嫌いな人に加えるように 神仏に願う)……盟詛(メイショ、いけにえをさ さぎ禍を加えるよう神仏に祈る)、過去を詛(の ろ)い、以て禍福をなす。○○曰くー
(p8の欄外):
o 矢田切○頭門中也(p8の欄外):
o 興国寺(p72の5行目):
以上前回以前の留意事項
o 出淵(いぞぶち)立恒(p8の16行目):読み
o かなわぬの真知でないで、行に出ぬのということ は(p9の3行目):いずれは届く真知だが、行に出 るほどには至っていない
o 闕丞(けつじょう)(p9の5行目):欠勤する
o山犬の衣でおるは(p9の5行目):人欲に包まれて
o 傍輩たちに悪まれ那の域を免れぬ(p9の20行目):
o溝壑(こうがく)(p10の1行目):谷間、孟子滕文公 下
o どこか五年学んで(p10の5行目):どうにか五年学 んで
o 深川の病家(p10の18行目):永井宅
o 嘉右衛門(p7の6行目):山崎闇斎
o 周茂叔(p11の8行目):周濂渓
o 大顛(だいてん)(p11の9行目):禅僧
o 班固(p11の11行目):後漢の歴史家。字は孟堅。父 班彪(ハンピヨウ)の没後、「漢書」の編述完成につとめ た。一部未完成の部分は妹の班昭が補った。匈奴討伐 に従軍、敗戦の罪に座して獄死。編著「白虎通」など。 (32~92)
o かいしき(p11の20行目):まったく
o 心経(しんぎょう)(p11の20行目):般若心経(ハ ンニヤシンギヨウ)の略
o 人心(p12の2行目):本然の性でない心。私欲にお おわれた心。
o 道心(p12の2行目):[書経大禹謨] 天理の発露す る心。本然の心。私欲におおわれない心
o 放心を求む(p12の2行目):人欲から心を解き放つ
o 心法(しんほう)(p12の3行目):宋の儒学で、心 の体用を存養省察する道をいう。童子問「程子、中庸 を以て孔門伝授の―とす」
o 朱子がこしゃくで孔子の教えに禅学をこだねつけた (p12の4行目):朱子がこざかしくも孔子の教えに おいて、禅学に文句を付けた、異端とした
o 先ず近代の学問にさようなことはござらぬ、大方上古 も同じこと(p12の4行目):聖学を目指す学問は無 かったとの意
o 険巧(p12の19行目):わるがしこい
o 桀黠(けつかつ)(p12の19行目):さといがあらあ らしい
o 良に(p12の20行目):まことに
よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。懇親
身体が第一、黙斎も脊梁骨を建立してと、でも原因が分かってよかった。あとは、然るべく措置をして、きちんと療養すればいいと思う。大変だけれども、六月ぐらいまで、お酒は誘わないことにしよう。
新年会はそれなりに、屠蘇を沢山いただいて、もっともこれはいつもの通りだけれど。はずみがついて、土屋さん、カイッチャン、僕の芝山グループ?は、テマリへ行ってしまった。土屋さんのニリンソウは絶品、江南の春も絶品だけれどね。カイッチャンはすやすや??、僕は何を歌ったかな、昔歌ったものだと思うね。AM3:00帰宅。
新テキストについて、論語の講義録という声があって、とくに異存はないのだけれど、どこにあるのか田原さんに聞いたら、山口先生の所、熱田さんの所にあるとのこと。それならそれで、早く決めてしまったほうがいいのではないか。コピーをみんなの手元に届けておくことがいいのではないか。暇を作って、事前に?読み下しておこうという頑張り屋居士が、わがメンバーの中にいるかも知れないしね。
山口家保管写本の部(目録)をめくっていて思ったこと。黙斎先生道学標的講義、黙斎先生訓門人開巻講義、黙斎先生排釈録講義、黙翁鬼神集説といったところ、できれば近思録講義もかな、やはり各自に配布しておいた方がいいのではないかな。われわれの黙斎を学ぶ、共通の参考文献として役立つと思う。とはいえ、読み下しての話ということになる。各自の、したがってモクサイを語る会のレベルが問われるか。
次回開催日程
1、日時 平成14年2月22日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「佐藤子(p13の1行目)」~「考べし(p14の 3行目)」(斉藤房一)
(2)「佐藤子(p14の4行目)」~「無之候(p15の 19行目)」(実川嘉一)
4、次回レポーターの確認
5、その他必要なこと
6、懇親会
飲中八仙歌
知章の馬に騎るは舟に乗るに似たり眼花み 井に落ちて水底に眠る
汝陽は三斗にして始めて天に朝し 道に麹車に逢えば口より涎を流す 恨むらくは封を移して酒泉に向かわざるを
左相は日興 に方銭を費やし 飲むこと長鯨の百川を吸うが如し 杯を銜みて聖を楽しみ 賢を避くと称す
宗之は瀟灑 たる美少年 觴 を挙げ白眼もて青天を望む 皎けきこと玉樹の風前に臨むが如し
蘇晋は長斎す 繍仏の前 酔中 往往にして逃禅を愛す
李白は一斗にして詩百篇 長安市上 酒家に眠る 天子呼び来るも舟に上らず 自ら称す 臣は是れ酒中の仙なりと
張旭は三杯にして草聖伝う 帽を脱し頂を露わす王公の前 毫を揮いて紙に落とせば雲烟の如し
焦遂は五斗にして方に卓然たり 高談雄弁 四筵を驚かす
(杜甫)
モクサイ通信№38(2002.04)
発行者 今関弘道
2002.04.19
第39回モクサイを語る会まとめ
1、日時
平成14年2月22日(金)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
柏木恒彦、 斉藤房一、土屋幸恵、実川嘉一
今関弘道
4、ふりかえり・おさらい
(1)「佐藤子(p13の1行目)」~「考べし(p14 の3行目)」(斉藤房一)
以上を終了させた。
(3)語句と意味
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):
o 源遠にして末益々分る(p66の16行目):出典
o けい懃、けいぎん(p8の1行目):けいは敬の下 に手、うやうやしくささげる。
o 程子の吟風弄月(p8の6行目):美月
o方言、小児、多く詐る(p8の欄外):方言や小児は多くいつわりがあるの意
o○○曰く(p8の欄外):
o 矢田切窺頭門中也(p8の欄外):
o 興国寺(p72の5行目):
以上前回以前の留意事項
o 朱子がこしゃくで孔子の教えに禅学をこだねつけた(p12の4行目):朱子が孔子の教えに禅学、すなわち心法をいれた。
o桀黠(けつかつ)(p12の9行目):わるがしこい
o叶韻きょういん(p13の4行目):他の韻の字を同一の韻の字として用いること。例えば、詩経の韻を楚辞でつかうなど。
o律侶新書(p13の5行目):新しい音楽理論の書
o小学の嘉言に(p13の8行目):小学の中に、小学に引用されて
o人の学を為す所以は、心に理を与えるのみ云々(p13の10行目):読み、己れはのみと読む。矣は読まない。
o奏剳、そうとう(p13の13行目):奉った文章、朱子文集の中にある。
o此事大に(p13の14行目):此の事体大いに、此の事体大なり。
o手に到れば(p13の20行目):
o揚亀山(p14の3行目):ようきざん、1053~1135、北宋の儒者、福建省生まれ、亀山は郷里の名前。二程子に学び、南宋儒学のタネをまいた。
春暁
春眠暁を覚えず
処処啼鳥を聞く
夜来 風雨の声
花落つること多少を知る
(孟浩然)
よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。懇親
酒を飲んで、焼き肉を食べながら、胸の内をからり合うということは悪くない。川和伊はモクサイから学ぶための場所でもあるのだけれど、モクサイを引きつけながら、お互い同士の思いを話し合う場所でもある。
そこが例えば公民館の一室を借りての勉強会とは違うように思う。嘉一邸、なのはな会館など場所のことを論議したけれど、焼き肉を食べながらの魅力を、少しばかり軽視したようにも思う。両々相まってということが大切と思うね。そんなことをちょっと考えた次第……。
クニちゃんがダンナと子供を連れて、リターンしてくる。この前親父さんが、話していた。うれしそうだったね。まもなく彼女から電話を貰った。韓国へ行っていたのは二年間、異人さんに連れられてといった感じはないね。何といっても朝鮮半島は日本文化のふる里、ちょっと歴史を掘り下げると必ずぶつかる。いわば兄貴分のようなもの。帰ってきたら、帰還祝い?をしてあげたいね。5~6年はこちらにいると言っていた。
田原さん、動脈の手当も無事に済んで、次回には顔を見ることが出来るかも知れない。血液をさらだらにする薬を貰っていて、その薬の袋には、酒を飲んではいけませんと大書してあるよし。無理に勧めてはいけません。そのうちにということだね。まずは良かった。
次回開催日程1、日時 平成14年3月29日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「佐藤氏(p14の14行目)」~「無之候(p15の19行目)」(実川嘉一)
(2)「浅見氏谷重任に答えて(p15の19行目)」~「信識(p18の9行目)」(今関弘道)
4、次回レポーターの確認
5、その他必要なこと
6、懇親会
(提案)広い世界からモクサイを見ることについて
(1)主旨については懇親に書いたとおり。モクサイを通して中国、朝鮮、日本の歴史・哲学をかいま見ると言うことの反面は、モクサイの中に落ち込んでしまう。結果、モクサイがよく見えなくなってしまうことにある。
(2)あらためて、われわれの、具体的には各自の関心事を出発点として、広い世界をのぞいてみたらどうか。それも、各自の関心事、おおかたの関心事は、人を通して広い世界に入っていくことにあるのではないか。だとすれば、いわゆる課題の設定は、みんなで話し合いながら、人に即して各自が独自に課題を設定したらいいと思う。
(3)たとえば、
o神話時代、三皇五帝とは何か、神農、フツギ、ジョカ、黄帝とシユウ、シュクユウetc……今関
o前漢時代、項羽と劉邦、ショウカとカンシンetc……
o三国時代、カンウ、チョウヒ、チョウウン、曹操とソウショク、コウメイとシバイチュウタツetc……
o太平天国と孫文etc……
(4)レポート制、各自のまとめの時点をはかって、モクサイ会の俎上にあげたらどうか。レポートは、時代を行き来したようなものでもいいのではないか。例えば、孔子を論じるに、孟子ー荀子ートウチュウジョー韓愈ー朱子ー王陽明というように、必要ならば設定してもいいのではないか。うまくいけば幸い。とはいえ、基本線はモクサイへの取り組みにあることは前提としてです。
モクサイ通信№39(2002.04)
発行者 今関弘道
2002.04.19
第39回モクサイを語る会まとめ
1、日時
平成14年3月29日(金)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
柏木恒彦、 斉藤房一、土屋幸恵、実川嘉一
今関弘道、後藤 宏、山口先生
4、ふりかえり・おさらい
(1)「佐藤子(p14の4行目)」~「無之候(p15 の19行目)」(実川嘉一)
(2)「浅見氏谷重遠に答えて(p15の19行目)」~ 「たたり有るべく候(p17の12行目)」(柏木恒 彦)
以上を終了させた。
(3)語句と意味
o娘の子の楊枝指と同じ(p38の9行目):
o 源遠にして末益々分る(p66の16行目):出典
o けい懃、けいぎん(p8の1行目):けいは敬の下 に手、うやうやしくささげる。ぎん?跪?
o 程子の吟風弄月(p8の6行目):字と読み
o○○曰く(p8の欄外):
o 矢田切窺頭門中也(p8の欄外):
o 興国寺(p72の5行目):
以上前回以前の留意事項
o ○宿候いでと存じ入り(p14の6行目):帰、読 み。
o兎角峯の松独り春(p14の8行目):佐藤直方の 作った文章、独立独歩で学問をやっていくという 主旨。
o一つ兼ねて(p14の13行目):読み
oとうほうもなき方に存じ寄り、(p15の8行目):節 の区切り、方はほうと読むこと。
oふすぼり(p15の11行目):ふすぼる→ふすぼり
o鑑戒(p15の13行目):かんかい、いましめとすべき 手本。
oうんじはて(p15の18行目):あきあきする。うむと いう動詞から来る。
o鄙劣(p16の1行目):ひれつ。品性・行為などの、い やしく下劣なこと。
o気に勝つところ、習いに奪(うばう、うちかつ)所、 当に志を責める(p16の11行目):近思録にある。
o敬斎箴(p16の12行目):
o存違先非(p17の1行目):ちがい、たがい?
元二の安西に使いするを送る
渭城の朝雨 軽塵をうるおし
客舎青青 柳色新たなり
君に勧む 更に尽くせ一杯の酒西の方陽関を出れば 故人無からん
(王維)
よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。懇親
(1)モクサイの冬至文講義を始めてからまる4年、はるけくもきつるものかなの感なきにしもあらず。この中から五木寛之ではないけれど、生きるヒントのようなものが見つかれば何よりと思う。一筋縄では行かないと思うけれど。振りかぶった言いぐさではないとして……。
(2)後藤さんと飲みながら?話したこと。モクサイを学ぶ中から、広い世界をかいま見るのは魅力だけれど、逆に広い世界からモクサイを見るのも悪くない。広い世界とは、中国、朝鮮、日本の歴史、思想・哲学と理解する。それも、それぞれの歴史的舞台で活躍した人を通してみることが、面白そうでいいのではないか。
これまでに、古代ギリシャ哲学、「課題」というものを立てて取り組んできた経緯はある。もう少しわれわれの関心事に引きつけてということなのだろう。傾聴に値する。
(3)クニちゃんが、男の子を連れてダンナと一緒に帰ってきた。韓国滞在2年、これから5~6年は日本にいるとのこと。2年間のうちに、彼女は韓国語をマスターした。歴史の発展は平板ではなくらせん状に上昇するというけれど、新たな再会はどのように評価されるかな。われわれもこの2年間を通して、何らかの上昇の軌跡は描いてきたと思うのだけれど。
(3)懇親会を終わって、土屋さんとカイッチャンと手まりへいった。カイッチャンは例によってすやすや?運転手だからね。土屋さんはニリンソウ、キミコイシ、アイシュウレッシャ、etc。声に艶がある、漢詩を吟じるわけにはいかないのが残念、僕は韓国から昼過ぎに帰港、あたふたしながらモクサイに臨んで、手まりへ行って、帰宅したのがAM3:30。三人共にそれなりの元気はあるということか。
(4)柏木さんは冬至文講義の取りまとめ、最後の追い込み。好きな近思録!を一時中断して取り組んでいる。房一さんは、これまでため込んできたものが沢山ある。謙虚さは宝なのだけれども、彼の手文庫の中から、魅力ある物をわれわれが引っぱり出すというアプローチが必要かも知れない。そのように思うね。後藤さんの世界はパトス、いわば情熱、ロマンに満ちている。モクサイの会に、ある種の風を送り込んでいることは確かだ。5月に房一さんと、ソシュウ、ケイリン行く。土産話が楽しみだ。
(5)田原さんは、だんだんと元気を回復しているように思う。碁に対する、モクサイに対する熱意は変わらない。エビガニ、タニシ、枝打ちもかな。今、モクサイの論語講義録を求めてあちこち動いている。おそらく次のテキストになる。田原さんの元気にしたがって、モクサイの方も元気になるように思う。だとすれば、モクサイのこれからは明るい。戸辺さんは、アルゼンチンの夢、野菜の生産と販売にかけている。貧困な農政に切り結んでいる。モクサイへの参加は、もう少し時間が必要なのかも知れない。地域の知恵を集めて!メンバーとしての戸辺さんは離せない。
(6)山口先生は、この会の顧問のような位置づけだ。これまでもお世話になってきたし、これからもお世話になるだろう。モクサイ学において、いろいろな意味を含めて第一人者であることは論を待たない。モクサイを学ぶもの、われわれも学者を始め専門機関で学ぶ人たちも、先生の処を素通りするわけには行かない。何度か言ってきたけれど、山口先生の蔵書、文書館、さしあたり目録整理作業からは目が離せない。桜木さんについての情報は持っていないのだけれど、元気だと思う。便りの無いのはいい便り。今年で91歳か、暮津に舟をつなぐなどと言える人は、桜木さんを除いていない。……以上思いつくままに、なぐり書き(H.I)
1、日時 平成14年4月26日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、冬至文講義の読み合わせ
(1)「佐藤氏谷重遠に答えて(p17の13行目)」~ 「信識(p18の9行目)」(今関弘道)
4、次回レポーターの確認
5、その他必要なこと
(1)新しいテキストについて
(2)提案について
6、懇親会
(提案)広い世界からモクサイを見ることについて
(1)主旨については懇親に書いたとおり。モクサイを通して中国、朝鮮、日本の歴史・哲学をかいま見ると言うことの反面は、モクサイの中に落ち込んでしまう。結果、モクサイがよく見えなくなってしまうことにある。
(2)あらためて、われわれの、具体的には各自の関心事を出発点として、広い世界をのぞいてみたらどうか。それも、各自の関心事、おおかたの関心事は、人を通して広い世界に入っていくことにあるのではないか。だとすれば、いわゆる課題の設定は、みんなで話し合いながら、人に即して各自が独自に課題を設定したらいいと思う。
(3)たとえば、
o神話時代、三皇五帝とは何か、神農、フツギ、ジョカ、黄帝とシユウ、シュクユウetc……今関
o前漢時代、項羽と劉邦、ショウカとカンシンetc……
o三国時代、カンウ、チョウヒ、チョウウン、曹操とソウショク、コウメイとシバイチュウタツetc……
o太平天国と孫文etc……
(4)レポート制、各自のまとめの時点をはかって、モクサイ会の俎上にあげたらどうか。レポートは、時代を行き来したようなものでもいいのではないか。例えば、孔子を論じるに、孟子ー荀子ートウチュウジョー韓愈ー朱子ー王陽明というように、必要ならば設定してもいいのではないか。うまくいけば幸い。とはいえ、基本線はモクサイへの取り組みにあることは前提としてです。
モクサイ通信№40(2002.05)
発行者 今関弘道
第40回モクサイを語る会まとめ
1、日時
平成14年4月26日(金)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
3、出席
柏木恒彦、 斉藤房一、土屋幸恵、実川嘉一
今関弘道、後藤 宏、田原哲三、山口先生
4、ふりかえり・おさらい
(1)「佐藤子谷重遠に答えて(p17の13行目)」~ 「信識(p18の9行目)」(今関弘道)
以上、今回で冬至文講義録全五巻終了。平成10年5月~平成14年5月の4年間、開催回数40回、よく頑張ったと思う。
(2)語句と意味
これについては、柏木さんの準備している、冬至文講義録の定稿化作業に譲ることとする。
(3)新テキストの決定と配布
新テキストはモクサイの論語講義録、はっきりしないところがあるのだけれど、朱子の論語集註のモクサイ講義録と言ってもいいと思う。ただ、モクサイの論語講義録のすべてを、手にしているわけではない。山口先生、田原さんを中心としての収集作業が併行する。
(4)新テキストが朱子の集中をベースとしていることもあって、冬至文講義録に比して、取り組みの世界が大きく広がってくる。はじめの方だけでも、史記の世家・列伝、左伝、時代としての魯、斉、衛、陳、齊、蔡、晋などの動静、そして孔子の十哲、晏嬰、陽虎などの軌跡とこれへの評価、時系列的には神話時代から宋の時代まで。前々回か、後藤さんの提案になる、各自関心のある事柄についてのレポート、巧まずしての感がある。
子の曰く、吾十有五にして学に志し、三十にして立つ。四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず(論語、為政)
私は十五才で学問に志し、三十になって独立した立場を持ち、四十になってあれこれ惑わず、五十になって天命をわきまえ、六十になって人の言葉がすなおに聞かれ、七十になると思うままにふるまってそれで道をはずれないようになった(論語、金谷 治)。
孔子、すなわち聖人の述懐、凡人は四十にして惑わず、五十にして天命をというわけには行かない。でも目途とすることは出来るかも知れない。なお、天命の理解について、朱子(新註)では、天が物に賦与した正理と理解する。用例から帰納すると、天の定めごと、人間の力を越えた運命としての意味が強い、天は不可知なものである(金谷 治)とのこと(H.I)
よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。懇親
(1)モクサイを考える会、まるまる4年、感慨はある。働きながら、地域で仕事を持ちながらやってきた。誇っていいかとも思う。上総道学を真ん中にすえて、お互いに支えながら、それぞれの世界を広げ深めてきた。モクサイは日本、中国の思想・文化の継承者を、いわゆる学者、儒者に限った。われわれは一般人間の立場から取り組んだという点で、モクサイと異なる。上総道学を、地域の発展の歴史につなげ、その中からプラスとなるものを汲み上げ、そして自分たちの生き方につないでいこうという観点が、僕らにはある。地域の知恵を集めてとは思うけれども、それは偏狭なエリート意識とは別のものだと思う。
(2)当初のことを思い出す。カイッチャンとは、酒を飲みながら、会の性格、メンバーの選択?場所、開催回数などをつめた。芝山について言えば、3~4人の名前を挙げて、すべてにあたったわけではないが、土屋さんに「面白そうだ」と言われたときには、これで何とかなると思った。何をテーマにと言うことでは、田原さんとよく相談をした。会の設立については、相互に意思確認をしていた。「モクサイをやるのなら、私の所に資料はある」といった。僕はモクサイについて、ほとんど知らなかったわけで、果たしてうまくいくのかどうか自信はなかったけれども、心強かった。柏木さんに相談をかける段階で、モクサイでいけるのではないかと思うようになった。柏木さん、すなわちうそつき恒ちゃんは、三国志の権威であった。僕も三国志を看板にしていた?カイッチャン、土屋さん、ヤスナリ先生もいたかな、随時経過を報告していたように思う、経過の報告は、すなわちいっぱいやることだから、成東と芝山の距離は全く苦にはならなかった。田原さん、柏木さんとは成東で連絡が取れた。田原さんとはよく飲んだ、そして僕が先に酔っぱらった。房一さんの名前を挙げたのは、カイッチャンか恒ちゃんか。JA山武本所の裏口で主旨を話すと、言下に参加するだった。隠れた賢人、後藤さんならうまい表現が見つかると思う。カイッチャンから房一さんまで、いや後藤さんまで組合活動の大幹部。僕は後藤さんとはつきあいがあって、それなりに知っていたけれど、発足段階では声をかけるを留保した。野に伏す虎という趣があって、呑み込まれてしまうと大変だというような、ある種の懸念が、あったのかも知れない。声をかけるのは遅れたけれど、戸辺さんは二つ返事で賛意を示してくれた。茨城大学を出てアルゼンチンに渡り、しかし山武農協に流れてきた。流れてきたと言うことでは、僕も同じかも知れない。若い頃司馬遷に関心を持ち、史記にも目を通したと言うことだった。しかし、二十数年日本国を留守にしていた。
すべてが順風満帆と言うわけではなかった。タエコさんには、オレキレキに交じって参加するには、おそれ多いと婉曲に断られた。これは残念なこと、今もってモクサイを語る会には女性の参加を見ていない。ヤスナリ先生の参加は否応なかった!しかし、ちょっとすれ違った。懇親会だけなら、あるいは農業・農協問題をテーマとして取り上げていたら、違った結果になったのかも知れない。(以上思いつくままに)
(3)モクサイをテーマにしたとはいえ、はじめから冬至文講義録に取り組んだ訳ではなかった。上総道学とは一体どういったものなのか、資料集めから始まった。田原さん、柏木さん、房一さんが資料を集めてきた。田原さんはモクサイそのものの資料、房一さんは日本朱子学、柏木さんは春秋・戦国から朱子による儒学の集大成まで、と言うように。同時に、古代ギリシャから始まる西洋哲学史にもアタックした。冬至文講義録にたどり着くには、それなりに時間がかかったと言うことだろう。
(4)結果として、佐藤直方の冬至文、これに対するモクサイの講義録を、蝸牛の歩みという観はあったけれど、4年間かけて終了させることが出来た。上総道学には、われわれを引きつけるものがあると言うことだろう。だとすれば、モクサイを語る会にとって幸いしていることは、一つは田原さんの存在、おじいさんはタワラタンアン、柏木さんは上総道学の理論家としてタンアンを高く評価する、何よりも身近に感じることが出来る。そして桜木保さんの援助、タンアン、ジャコという上総道学の末期を支えた人たちの次の世代、池上幸二郎、梅沢芳男と終期を飾った三羽がらす!明治44年生まれ、中国大陸に渡り、それから鳥取の歴史資料を分類整理し、生まれ故郷に帰ってきた。暮津に舟をつなぐと口にしながら、モクサイを語る会の取り組みを見守ってくれている。最後に山口先生の参加、梅沢芳男の甥に当たり、上総道学の膨大な資料を管理している。上総道学に関心を持つものにとっては垂涎の的、川底に眠っているわけではなし、要すればすぐ手に取ることが出来る。モクサイを語る会にとって、これほどに恵まれたことはない。
(5)継続は力とはよくいったもの、4年間の冬至文講義録を踏まえて、これから論語講義録に取りかかる。いろいろなことに突き当たると思うけれども、突き抜けていけると思う。そして輪を広げてもいけるとも考える。
次回開催日程1、日時 平成14年5月31日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、論語講義録の読み合わせ
(1)「論語集註 論語は孔子の(p6の10行目)」~「勘定の上舛目等のことがよし(p7の18行目)」(後藤 宏)
(2)「委吏本作季氏史云々(p7の19行目)」~ 「東鑑にせぬ(p10の4行目)」(斉藤房一)
4、次回レポーターの確認
5、その他
(1)新しいテキストについて
(2)冬至文講義録定稿化について
6、懇親会
古文
秦以前に用いられた文字と,その文字を使って記された儒教経典をいう。漢代通用の今文(きんぶん)に対する。前漢の武帝の時,孔子の子孫の家の壁〈孔壁〉から発見された竹簡の経典《礼記》《尚書》(書経)《春秋》《論語》《孝経》と,北平侯張蒼が朝廷に献じた《春秋左氏伝》がそれである。焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)以来,散逸したとされるものが発見され,儒教経典としての真偽が問題となり,清代まで複雑な論争が続いた(マイペディアより)
論語
四書五経の一つ。20編からなる。孔子とその弟子たちの問答,言行録の形をとり,孔子の弟子に対する愛情のある言葉や,先覚者としての孤高な独白もある。また,弟子の顔回,子路,子貢などそれぞれの個性が描かれる。その説くところは日常生活に即した実践的倫理であり,孔子の思想を最もよく伝える。成立に関しては諸説あり,現在では孔子の弟子たちの伝えた言行録が3系統あったものを孟子の時代に編集して,現行《論語》の原本ともいうべき《古論語》が成立し,それが漢代までに選択整理されたと考えられている。
《論語》は儒教経典が五経であったころからとりわけ必読の書とされていたが,魏の何晏(かあん)の《論語集解(しっかい)》などを経て,朱熹(朱子)の《論語集註》が出て四書に加えられてから,《孝経》とともに科挙の書目に入り,最重要の経典とされた。日本には,《日本書紀》によれば応神天皇16年,百済の王仁(わに)により将来されたという。以後江戸末期に至るまで多くの注釈書が出た(マイペディアより)
偶成
少年老い易く 学成り難し
一寸の光陰 軽んずべからず
未だ覚めず 池塘春草の夢
階前の梧葉 已に秋声
(朱子)
若い時代は移ろいやすく、学問というものはなかなか成就しない。それ故、ほんのちょっとした時間すらも、おろそかにしてはならない。池のほとりに春の草が萌えだして楽しい夢からいまださめきらぬうちに、早くも庭先の梧桐(あおぎり)の葉を落とす秋が来たことに驚くのだ(NHK漢詩紀行)。
偶成は若い人たちへのプレゼント、刻苦勉励の糧と思うけれども、僕らは働きながらも、職を退いても学び続けることは必要だ、というように理解しよう。なお、偶成とは詩歌などが、ふとできあがること(広辞苑)。
モクサイ通信№41 (2002.06)
発行者 今関弘道
2002.06.18
第41回モクサイを語る会まとめ
1、日時
平成14年5月31日(金)
6:30
2、場所
川和伊(かわい)
富里町七栄646-82
電話 0476-92-8838
3、出席
柏木恒彦、 斉藤房一、後藤 宏
今関弘道、山口先生
4、ふりかえり・おさらい
(1)「論語集註 論語は孔子の(p6の10行目)」~「勘定の上舛目等のことがよし(p7の18行目)」(後藤 宏)
(2)「委吏本作季氏史云々(p7の19行目)」~ 「時をきめたものなり(p9の6行目)」(斉藤 房一)
以上を終了させた。
(3)語句と意味
o家語(p6の12行目):こうし‐けご【孔子家語】
孔子の言行や門人との問答・論議を録した書。初め27巻、その後散逸、魏の王粛が注して10巻44編。王粛の偽作と伝える(広辞苑)。
o秘事(p6の17行目):秘めやかなこと、私ごと
o読法(p6の18行目):「読法」というものがどこ かにあるだろう(柏木)
o武鑑(p7の4行目):ぶかん【武鑑】江戸時代、大名・旗本の氏名・系譜・居城・官位・知行高・邸宅・家紋・旗指物(はたさしもの)などを記した書。毎年改訂。類書は寛永年間から刊行されているが、武鑑の名は1647年(正保4)の「正保武鑑」が初め。形式の整ったものは「江戸鑑」で、「本朝武鑑」はその踏襲。「正徳武鑑」以後は年号の名を冠し逐次刊行した)(広辞苑)。
o生知安行(p7の10行目):せいち‐あんこう【生知安行】‥[中庸]天性聡明で、生れながらにして道義に通じ、安んじてこれを実行すること(広辞苑)。
o俎豆(p7の10行目):そ‐とう【俎豆】中国の祭器。 転じて、礼法・祭式(広辞苑)。
o贔屓(p7の15行目):ひいき、読み。
o司馬貞(p7の19行目):唐の歴史家、司馬遷の史記を補い、三皇五帝の前に三皇を加えて三皇本紀を作るなどした。
o蕃 ばん、はん(p7の20行目):増える、繁る。
o息(p7の20行目):増える、生む。
o皆隣へ手は出さぬ(p8の1行目):専念できる、専 念する。
o○○(p8の2行目):杭木にて……。字不明。
o乗田(p8の3行目):魯国で畜類を飼育する小役人(三省堂)。じょう‐でん【乗田・剰田】中国周代に、祭祀の犠牲にする家畜の飼養をつかさどった職(広辞苑)。
o諏訪辺文九郎(p8の3行目):
o至善、親民(p8の5行目):大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親しましむるに在り、至善に止まるに在り(大学、第一章)。
o故実(p8の7行目):こ‐じつ【故実】(コシツ・コシチとも) 昔の儀式・法制・服飾などの規定・習慣など(広辞苑)。
o事に上は(p8の8行目):実際の事柄
o凡尋 はんじん、ぼんじん(p8の10行目):聞きか じったほどの。
o逗留 とうりゅう(p8の15行目):読み。
o三家の季氏(p8の18行目):魯における季孟氏、季孫氏、孟孫氏の三家を云う。三桓氏ともいい、建国時の功臣の系譜、魯の豪族である。
o百五十年もあとのこと(p8の19行目):魯が建国さ れてより150年後。
o皈服 きふく(p8の20行目):帰服、皈は帰の異体 字。
o高昭子(p9の3行目):斉の景公の家臣。
o有聞韶問政二事(p9の5行目):韶を聞き政二事 を問う有り?
o韶 しょう(p9の5行目):帝舜が作ったという 音楽(三省堂)。
子曰く、学びて時にこれを習う、亦た説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)有り、遠方より来る、亦た楽しからずや。人知れずして慍(うら)みず、亦た君子ならずや(論語、学而)
o時にこれを習う……ときどきおさらい をする。
o人知れずして慍(うら)みず……人が分 かってくれなくても気にかけない。
よく遊びよく学ぶ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。懇親
(1)新しいテキストで、どんなように進むのか分かっていなかったけれど、うまく滑り出したような感じがする。レポーターの後藤さんと房一さんが良かったのか、それなりに理解できた。田原さん、土屋さん、カイッチャンが参加できなかったのだけれど、この調子だとうまく行くのではないか。
(2)モクサイの論語講義録は20巻ほどあることが分かっているのだけれど、われわれの射程距離内にあるのは、そのうちの5~6巻、手にしているのはそのうちの1巻である。山口先生、田原さんによって、モクサイの論語講義録の所在を確かめ、たぐり寄せていく作業は続いている。
(3)モクサイの論語講義録は、論語そのものを直接たたいてのものではない。魏の何晏(かあん)の《論語集解(しっかい)》(古注)と,朱熹(朱子)の《論語集註》(新注)が知られているが、モクサイの講義は朱子の論語集註をたたいてのものである。したがって、われわれにとっては、論語と共に論語集註が原典として欠かせない。その論語集註を手に入れることが出来た、これも山口先生と田原さんのお陰だ。次回にはコピーがみんなの手元に渡ると思う。われわれの読み下しも、少しばかり楽になり、少しばかり奥深いものになると思う。
ているが、モクサイの講義は朱子の論語集註をたたいてのものである。したがって、われわれにとっては、論語と共に論語集註が原典として欠かせない。その論語集註を手に入れることが出来た、これも山口先生と田原さんのお陰だ。次回にはコピーがみんなの手元に渡ると思う。われわれの読み下しも、少しばかり楽になり、少しばかり奥深いものになると思う。
次回開催日程1、日時 平成14年6月21日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、論語講義録の読み合わせ
(1)「公欲封尼(p9の10行目)」~「東鑑にせぬ(p10の4行目)」(斉藤房一)
(2)「有季孟吾老之語(p10の4行目)」~ 「賞罰をつかさどる(p12の6行目)」(斉藤 房一)
4、稲葉黙斎先生冬至文全(講義録)校正
p1~p24(冬至文、三子の遺文、黙斎の遺文、佐藤子江戸より迂斎へ唐津へと遣し候状のうつし、佐藤先生冬至文附録凡そ七道)
5、次回レポーターの確認
6、その他
7、懇親会
モクサイ通信№42(2002.06)
発行者 今関弘道
2002.06.18
第42回モクサイを語る会まとめ
1、日時 平成14年6月21日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、出席
柏木恒彦、斉藤房一、実川嘉一、今関弘道
4、ふりかえり・おさらい
(1)稲葉黙斎先生冬至文全(講義録)校正
p1~p24(冬至文、三子の遺文、黙斎の遺文、佐藤子江戸より迂斎へ唐津へと遣し候状のうつし、佐藤先生冬至文附録凡そ七道)
以上を終了させた。
(2)稲葉黙斎先生冬至文全(講義録)校正について(校正にあたっての約束事)
o「講義録原本」に即して校正すること。だから、句読点、かえり点、仮名遣い(新旧を問わず)、ふりがな等は、原本に従うこと。
o明確な誤りについては、「語釈」で対応すること。
o「すらり々々々」といった表現については、縦書きにする時点で変えること。
o欄外の扱いについては、文脈より見て取捨選択する。必要と認められれば、適切な箇所を見つけて入れること。逆に言えば、文脈より見て不自然なものはカットする。
o「佐藤先生冬至文」、「三子の遺文」、「黙斎の遺文」、「佐藤子江戸より迂斎え唐津へと遣し候書状のうつし」については、「読み下し文」、「語釈」とする。
o「佐藤先生冬至文附録凡そ七道」、「黙斎先生冬至文講義」以降については、「読み下し文」、「解説」、「通釈」、「語釈」とする。
o従って、校正作業の主とした視点は、「解説」「通釈」の検討ないしチェック、「語釈」の豊富化にあると思われる。原文の写しのチェックもあるのだけれど……。
p1
道之廢而不行猶擔物之捨置地上也。若有其人出於其時則任之而使不永墜地矣。今務聖學者乃擔夫也。仁君に人牧。学者に擔夫の字。さて々々のがれぬ文字なり。俗學之徒則路中之游手耳。何足望道之任乎。朝鮮李退渓之後欲負荷此道者吾未聞其人焉。中庸の序には皐陶伊傅周召とあるに、ここは李退渓。これを排燈につり鐘とみるを俗見と云ふ。中庸序所謂吾道之所寄不越乎言語文字之間。正謂此也。我 邦自古至于今欲任此道者幾人也耶。二三子有志於聖學矣乎無乎。若果有其志則堅立脊梁骨可以願以學孔孟矣。曽子不云乎。士不可以不弘毅。曽子問至一貫、是弘。啓手足而止、是毅。任重而道遠。顔子鑚仰亦不外此。仁以為己任。不亦重乎。死而後已。これから跡を任するは佛。不亦遠乎。豈悠悠徘徊終歳月與夫游手浮浪之徒為伯仲哉。三子當仁不譲師。
享保丙申冬至日直方書之與鈴木正義野田徳勝永井行達以勵其志云。
【読み下し】
道の廢れて行われざるは、猶、擔物の地上に捨置するがごとし。若し、其の人其の時に出ること有れば、則ち之を任じて、永く地に墜ちざらしむ。今、聖學を務むる者は、乃ち擔夫なり。仁君に人牧。学者に擔夫の字。さてさて逃れられぬ文字なり。俗學の徒は、則ち路中の游手のみ。何ぞ道の任を望むに足らんや。朝鮮李退渓の後、此の道を負荷せんと欲する者、吾れ未だ其の人を聞かず。中庸の序には皐陶伊傅周召とあるに、ここは李退渓。これを排燈につり鐘とみるを俗見と云う。中庸の序に謂う所の、吾が道の寄る所、言語文字の間に越えずとは、正に此れを謂うなり。我が邦、古より今に至るまで、此の道を任ぜんと欲する者幾人ぞや。二三子聖學に志すこと有るか、無きか。若し、果して其の志有らば、則ち脊梁骨を堅立し、以て孔孟を學ぶことを願う可し。曽子云わずや、士は以て弘毅ならずんばある可からず。曽子一貫に至るを問う、是れ弘。手足を啓いて止む、是れ毅。任重くして道遠し。顔子の鑚仰も亦、此れに外ならず。仁以て己が任とす。亦重からずや。死して後已む。これから跡を任ずるは佛。亦遠からずや、と。豈に悠悠徘徊歳月を終え、夫の游手浮浪の徒と伯仲を為さんや。三子仁に當りては師にも譲らず。
享保丙申冬至の日、直方之を書し、鈴木正義野田徳勝永井行達に與えて、以て其の志を勵ますと云う。
【語釈】
・ のがれぬ他の書には「のがれられぬ」とある。
兄にして今啓[ひら]つき處に遑[いとま]あらずと雖も其の志忘るること勿れ。津に到ると雖も其の志怠ること勿れ。
p3
また、偶には少し学者らしいことを言うこともあるが、それも程子が言われた様に気象に卑しめられているため、話が面白くない。
・ 気象意思心立てと意思
p7
・ 吟風弄月風に吟じ、月を眺めて詩歌を作る。.即ち、自然を詩歌に読み込む。
p8
・ 歸見復習。
・ 山犬の衣でおる狼に衣。うわべは善人らしくよそおいながら、内心は凶悪無慈悲であるたとえ。
p11
一角の大医になることだろうから、私達の異見の通りにしなさいと言われた。そこで、永井子はその挨拶として、学問とは、人としてしなくてはならないものである。
・ 深川の病家永井氏の家。
天木時中の筆記に次の通りある。道学に志すと言うからは、どうしても聖賢の地位に至らなければならないと思うのだから、一切の事を度外視して義と理とを目指し、それを毎日の任にして一筋に実践するのが学者として当然のこと。また、そうでなくては成就しない筈である。その上、学者はかりそめにも聖賢の真似をするものであるから、心術は勿論、言葉使いや態度までも聖賢の様に身を処していくのでなければ道学者の気象意思と言うものではなく、道学に嵌ったと言うこともできない。しかし、今日我々がしている学問は、その読む書は聖賢の書でも、全体的に道学者の気象意思というものが全くないから道学者の仕草でなく、知恵の働かせ方や文字の使い方までも精彩がなくて、万事が聖賢流の仕方ではない。また、偶には少し学者らしいことを言うこともあるが、それも程子が言われた様に気象に卑しめられているため、話が面白くない。
【語釈】
・ 天木時中通称は善六。33歳の時に佐藤直方に入門したが、翌年の享保四年七月に直方が死去したので、その後は三宅尚斎に師事する。1696~1736。
・ 趨向物事のなりゆきが、その方へおもむき向かうこと。
・ 気象意思心立てと意思。
p14
抑々[そもそも]吾が邦神武より以来、
そもそも我が国では神武天皇以来、
p15
浅猿しき(トル)
p16
・ 朱子曰人之所以為学心與理已矣「朱子曰く、人の学を為す所以は心と理とのみなり」。
p16
・ 東漢の衰えの如し後漢の儒教の衰えを指す。
p17
・ 逸人世を遁れた人。隠者。
p18
・ 峯の松独り春近思録為学講義89条に、「峯の松ひとり春をやおくるらん」とある。
p19
・ あやらしき綾らしい。
p22
・ あやらしき綾らしい。
(4)これからのすすめ方について
oさしあたり、稲葉黙斎先生冬至文全(講義録)の校正作業を中心にすえたらどうか。ある意味では、このことが4年間の振り返りともなる。
o新テキスト、論語講義録については、校正作業が一段落するまで待つか、併行的に進めていくか。選択の必要がある。
oいずれにせよ、「論語集註」も手中にしたわけでもあるし、講義録には目を通す作業は必要だ。小学校以来、予習、復習とは耳にたこのできるほど聞かされてきた。このことは実に難しいことなのだけれども、頑張ってみるということかな。ゲーテだか、天才は努力といったけれど、ただ者としてもアタックしてみると言うことかな。
子曰く、巧言令色、鮮(すく)なし仁。
(論語、学而)
先生が言われた、言葉上手の顔よしでは、ほとんどないものだよ、仁の徳は。
o巧言令色:口先がうまく、顔色をやわらげて人を喜ばせ、こびへつらうこと。仁の心に欠けることとされる(広辞苑)
曽子曰く、吾れ日に三たび吾が身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習わざるを伝うるか。
(論語、学而)
o人の為に謀りて:人の為に考えてあげて
o忠ならざるか:まごころから出来なかっ たのではないか。
o信ならざるか:誠実でなかったのではな いか。
o習わざるを:よくおさらいもしないこと を、うけうりで。
o伝うるか:教えたのではないか。
o三省:毎日三たび反省すること。日々幾たびとなく我が身をかえりみること(広辞苑)。三省堂の名の起こり。
よく遊びよく学ぶ
過ぎたるはなお及ばざるが如し懇親
ちょっとさびしい集まりになった。柏木さん、房一さん、カイッチャン、そして僕。少なければ少ないなりにということで、顔をつきあわせながら、冬至文講義録まとめの校正作業にしぼって、しっかりやった。それはそれでよかったと思う。集中できたしね。論語講義録は、まだ滑り出したばかり、みんなでやりたいという気持ちもあったかな。
懇親会の話題の一つは、仲間集めのこと。もう少し輪っこを広げたい。前にも地域の知恵を集めよう、昼間でも提灯を掲げて人をさがすという気概で、とか言ったことがある。テキストの切り替えで、ちょうどいい時期でもある。留意しておく必要が、手だてをさがす努力をする必要があると思うね。
次回開催日程1、日時 平成14年7月26日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、稲葉黙斎先生冬至文全(講義録)校正
p25~p69(黙斎冬至文一講、先師送先君子適唐津文曰、追加)
原本と突き合わせ、良く読んでおいて下さい。
5、次回レポーターの確認
6、その他、論語講義録の扱いなど。
7、懇親会
モクサイ通信№43(2002.08)
発行者 今関弘道
2002.08.21
第43回モクサイを語る会まとめ
1、日時 平成14年7月26日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、出席
柏木恒彦、斉藤房一、実川嘉一、今関弘道
後藤 宏、土屋幸恵、山口先生
4、ふりかえり・おさらい
(1)稲葉黙斎先生冬至文全(講義録)校正
p70~p93(黙斎先生再講冬至文筆記、惟秀録)
以上を終了させた。
(2)校正結果(詳細は柏木さんによる説明)
*送りがな問題(漢文の読み下し)……縦書きの時に検討
p28 24行:而不→而使不 34行:同左
p29 35行:遊民→游民
p31 31行:薛文靖→くわしく 30行:一念の微…… OK(出典?)
p32 23行:不伝の学……出典 24行:至今→至於今
p33 14行:たいぜふ……OK 42行:重擔子……読 み下し文を入れたら。 43行:謝顕道……詳しく
p34 6行・18行・26行:蘊蔵録→○蔵録 25行:三 宅先生……詳しく
p37 20思わざれば……出典
p38 43行:死ぬまで思い……出典
p39 27行:世間の者を……OK
p40 20行:長谷川……保留 23行:多田……保留
24行:野沢……保留 37行:我々も、本当に ……OK
p41:20行:ぱっと……OK
p41 20行:門庭を……OK
p43 43行:石原……OK
p44 3行:夏に扇せず……OK
25行:的黨……OK
p45 8行:解説(柏木さん、文脈整理)
44行:も……OK
p46 32行:御紅屋……トル
p49 6行:男子は不絶婦人……OK
p50 4行:楷子……OK
p52 49行:水戸の大学侯の若……保留
p53 2行:本多伊豫守……保留
p55 3行:礼の……欠文かどうか確かめる
p56 14行:やわらをいれる……OK
32行:白徒……OK(または以下をトル)
p57 29行:つまらなく思い……OK
p59 13行:くわえ……保留 28行:同左
p62 5行:庸人……OK
p65 45行:非徂徠学の序……トル
p66 3行:面い……保留
47行:寛厚……出典
子曰く、君子、重からざれば則ち威あらず。学べば則ち固ならず。忠信を主とし、己に如(し)かざる者を友とすること無かれ。過(あやま)てば則ち改るに憚(はばか)ること勿(なか)れ(論語学而)
o先生が言われた。君子は重々しくなければ威厳がない。学問をすれば頑固でなくなる。忠信を第一として、自分より劣った者を友達にするな。あやまちがあれば、すぐに改めよ。
o忠信……誠実の徳、忠は内的良心、信はその発露としてのうそをつかない徳(論語、岩波文庫)
よく遊びよく学ぶ
過ぎたるはなお及ばざるが如し懇親
前回は四人で少し寂しかったけれど、今回は六人プラス一人で七人。余裕だね。モクサイ冬至文講義録、花澤文二録の校正を一気に仕上げた。その意気たるや壮というべきかな、少し急ぎすぎたという感もある。今までやって来たこと、柏木さんが丁寧にまとめてあるので大過ないと思うよ。カイッチャンが、夕方以降の仕事を終わり駆けつけてくれた、クニちゃんも含めて、いい懇親会となった。しかし、田原さんのことが気にかかる。体のことだから拙速なことはいえないけれど、早く復帰してくれればいいと重う。戸辺さんについては、校正が一段落した頃に、改めて話をしてみよう。あわせて、新会員が獲得できればいいのだけれど。
次回開催日程
1、日時 平成14年8月23日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、稲葉黙斎先生冬至文全(講義録)校正
p70~p93(黙斎先生再講冬至文筆記 惟秀)
原本と突き合わせ、良く読んでおいて下さい。
5、次回レポーターの確認
6、その他、論語講義録の扱いなど。
7、懇親会
モクサイ通信№44(2002.09)
発行者 今関弘道
第44回モクサイを語る会まとめ
1、日時 平成14年8月23日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、出席
柏木恒彦、斉藤房一、実川嘉一、今関弘道
後藤 宏、土屋幸恵、山口先生、田原哲三
4、ふりかえり・おさらい
(1)稲葉黙斎先生冬至文全(講義録)校正
p70~p93(黙斎先生再講冬至文筆記、惟秀録)
以上を終了させた。
(2)校正結果(詳細は柏木さんによる説明)
p70 16行:花沢文二→花澤文二統一
p71 19行:古今の弁→語釈してはどうか
p72 赤:楊廉→再度アタック、結果によりトル
12行:万乗→()の中をトル
p73 赤:伯者→OK
p74 赤:わるい火に喰ひあてた→OK
赤:男蛇→OK
p75 赤:匁が重ひ→OK
p76 35行:できるの→できる
p77 46行:語釈、知と行→トル
p78 23行:語釈、知行合一→黙斎の講義に即した説 明に〔任、柏木)
p79 10行、14行:窘ませる→たしなませる
赤:引き上げた→OK
赤:見事づく(?をトル)
p80 赤:捉餌した上げ鳥を追う→OK
赤:捉餌→OK
p81 25行:通釈、やぱり→やはり
赤:実境→OK(?をトル)
p82 赤:かかとで巾着を切る→OK
赤:漢之用知力持天下→読みだけにする
p83 24行:若林→もう少し詳しく
p84 38行:通釈、重くなて→重くなって
p85 赤:渋谷丹エ門→OK(山口先生調べ、任 柏木)
p87 48行:語釈、仲景→短くする
p89 19行:語釈、出展→出典
語釈、撈海一得下→検討、保留
23行:寛厚→「三国志」をトル
33~37行:解説、通釈、再度検討
p90 赤:妓有→OK
12~13行:解説、旦那寺→再度検討
出家→再度検討
p92 赤:源遠而末益分→保留(出典)
p93 赤:すいの漉し→OK
赤:伯者→神道
詩に曰く、切するが如く磋(さ)するが如く、琢(たく)するが如く、磨(ま)するが如し(論語学而)
o詩……詩経に「切るが如く、磋(す)るが如く、琢(う)つが如く、磨(みが)くが如し」とある。
o切は骨、磋は象牙、琢は玉、磨はいしをみがくこと。
o切磋琢磨は、学問修業に励む意味になった。
*孔子との会話の中で、子貢(しこう)の言葉としてある。
よく遊びよく学ぶ
過ぎたるはなお及ばざるが如し懇親
このところ、出席率がよく何よりと思う。働きながら学ぶの困難さは分かっているつもりなのだけれど。四年あまりやってきたという自信というか、そのようなものが支えになっているのかな。毎日サンデーの僕などは、なおさら勤めなくてはならないのだけれど。引っ越しにかまでて、前日にモクサイ通信をタイピングしている始末、いいがたし。
田原さん、体調のことがあって大変なのだけれども、前回も、今回も出席。懇親会を前にして帰るのを見ると、何もいえないのだけれど、僕らにとっては、大きな大きな励みになっている。アルナロではないけれど、そのうちに、そのうちにという気持ちだね。
一昨々日、戸辺さんを訪ねた。元気でやっている。農園の名前、「ヒロヤスとユキエのお店」を提案したら、飲み屋の名前のようだと、かあちゃんに断られてしまった。二年前、アルゼンチン、チリを中心とした南米旅行の話をした。戸辺さんは言語の障壁はない。1~2年かけてまとめてくれるよう依頼した。みんなによろしくとのこと、モクサイへの参加はもう少し時間が掛かりそうだ。
ここのところ、柏木レポート(稲葉黙斎先生冬至文全)の校正作業、僕は解釈を含めて文脈を追っているのだけれど、それだけで大変。かなりの時間がかかる。柏木さんのまとめの作業を考えると、そうも言っていられないと云う気持ちになる。基本的には四年間のわれわれの成果、モクサイも言うように自らのために学ぶ、校正期間はそれほど用意されてもいないので、詰めの仕事頑張っていきましょう。
モクサイ通信№45(2002.10)
NO.45 2002.10.24
発行者 今関弘道
第45回モクサイを語る会まとめ
1、日時 平成14年9月27日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、出席
柏木恒彦、斉藤房一、実川嘉一、今関弘道
後藤 宏
4、ふりかえり・おさらい
(1)稲葉黙斎先生冬至文全(講義録)校正
p94~p104(三講冬至文辛亥一六談柄)
以上を終了させた。
(2)校正結果(詳細は柏木さんによる説明)
p95 赤:得計得意→OK(?以下をとる)
23行:穏求→隠求
p96 赤:法句→発句
p97 赤:陳師徳、朱明孫→保留
p98 赤:天木……言われた→OK
赤:折戸京二→OK
赤:□(サンズイに忍)→OK、あった!
40行:郡少→群小と読み換える
赤:明物邪態→OK
p99 赤:陰類郡少→群小と読み換える(とるに足ら ない多くの人、多くのつまらない人たち)
赤:伊川→OK(?をとる)
赤:気習→OK
p100 赤:観感悚動→OK
p101 赤:行宮便殿→保留
30行:通釈→検討
「自ら師にそむき神道に左袒した」のは誰 か(柏木)
p102 赤:朱子が……語類にある→OK
p102 赤:意象淡爽→気持ちがさっぱりしてい て爽やかなこと
p103 33行、表彰→表章
p80 1行:水野→保留
登高
風急に天高くして猿嘯哀し
渚清く沙白くして鳥飛廻る
無辺の落木 蕭蕭として下り
不尽の長江 滾滾として来る
万里 悲秋 常に客と作り
百年 病多くして独り台に登る
艱難 苦だ恨む 繁霜の鬢
倒 新たに停む 濁酒の杯
(杜甫)
o登高………重陽の節句に、小高い丘に登っ て、酒宴を開くこと。年中行事の一つであ り、その歳最後の行楽でもあった
o無辺の落木………果てしもない落ち葉
o滾滾として来る………あとから、あとか ら、わきたち、盛り上がってくる様
o万里………故郷を離れること万里
o悲秋………秋を悲しみながら
o客………旅人
o百年………人生百年
o艱難………艱難につぐ艱難
o 倒………何事も投げやりになる気持ち o新たに停む 濁酒の杯………濁り酒の杯さ え、新たに、病気のため止めてしまったと あっては
子曰く、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳従う。
七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず。
(論語、為政)
o天命:朱子の集註では理(正理)、旧 注では天の定めごと、人間の力をこ えた運命。
よく遊びよく学ぶ
過ぎたるはなお及ばざるが如し懇親
一昨年だったか、女満別の黒々とした台地の上に、ぽっかりと浮かび上がった月を見た。芝山では土屋さんがみんなを集めて、酒を飲んでいたと思う。今年は何となくせわしい。引っ越しという退屈な作業があること、あるいは卒寿を過ぎた大先輩を抱えていることなどが、ゆとりを持つことの出来ない直接の原因だと思うのだけれど、余り冴えたことではない。土屋さん、今年月見をしたのかどうか、花鳥風月と言うような、きざっぽいことは言わないけれど、潤いのある暮らしをしたいものだ。
パソコンのこと、木内ヒロモトさんに勧められて、もう十年以上になるか、JA山武では早い方だ(世間一般では遅い)。機種はマックでやってきた。それはいいのだけれど、去年から今年にかけてガタがまとめてやってきた。第一段階のマックはスクラップ、第二段階のマック、ノートはモニターに横縞が入って、どうも具合が良くない。デスク型は最近のろのろ運転、ATOKなどもうまく行かない。僕のタイピングレベルをかなり下回っているというのだから、押して知るべし。このマックでモクサイ通信を作るのだから、大変だ、ややこしい漢字などどうやって見つけていいのやら。この頃遅れ気味の言い訳ではないのだけれど。パソコンについてもう一つ、マックがこのような状況なので、少しでも安いものをということで、ウインドウズ2000を作って貰った。ソフトもそれなりに入っている。けれども使い勝手の問題が生じている。折しも朝日ネットをやめてケーブルテレビにした。どうしたらもとをとれるか、両面から挟まれて四苦八苦、なれるのには今年いっぱいはかかりそうだ。道具に使われている。
次回開催日程1、日時 平成14年10月25日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、稲葉黙斎先生冬至文全(講義録)校正
p105~p137(乙卯冬至謾書、黙斎先生五講冬至文筆記)
原本と突き合わせ、良く読んでおいて下さい。
5、次回レポーターの確認
6、その他、論語講義録の扱いなど。
7、懇親会
モクサイ通信№46(2002.11)
NO.46 2002.11.09
発行者 今関弘道
第46回モクサイを語る会まとめ
1、日時 平成14年10月25日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、出席
柏木恒彦、斉藤房一、実川嘉一、今関弘道
後藤 宏、土屋幸恵、田原哲三、山口先生
4、ふりかえり・おさらい
(1)稲葉黙斎先生冬至文全(講義録)校正
p105~p137(乙卯冬至謾書、黙斎先生五講冬至文筆記)
以上を終了させた。
(2)校正結果(詳細は柏木さんによる説明)
p104 赤:誠は人の子を成し‥→程伊川の著書、確か める。OK(?以下をとる)
赤:人欲非性→出典
赤:以克己→出典
p96 赤:致中和於→OK
p109 赤:宰相不言命→OK
赤:班半片→OK
p111 赤:人の人たるべき姿→OK
p112 赤:道体為学一条連綿→OK
赤:此道体也→出典
p113 赤:揚雄→揚雄以下をトル
赤:去声→OK
p115 29行:道学でなのある→なのである
赤:此学問之→OK
p116 赤:横経之士→OK
p117 25行:とこがない→ことがない
30行:近思録論学→近思録道体
p118 赤:達却→保留
p121 27行:人をだしたときに→トル
p122 赤:訓門人節用の会→?
15行:全「また」→全「まった」
p123 赤:親→トル
赤:興道為体→OK
p124 赤:綱常名節→OK
赤:名節→OK
p125 赤:たいぜふこい→OK
p129 39行:さかつき→さかずき
50行:誘われて→誘って
p130 9行:白人→江戸時代以下をトル
p131 赤:知ったり覚ったり→OK
赤:雑蝋→OK
p133 赤:詩経に在番の字なり→何処にあるか 調べる
p134 赤:道を相手に→相手があるから
子の曰く、故(ふる)きを温(あたため)て新しきを知る、以て師と為るべし。
o温めて→新注では「たずねて」と読む
o師と為るべし→教師となれるだろう
子の曰く、学んで思うわざれば則ちくらし。思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し(為政)
子の曰く、異端を攻(おさ)むるはこれ害のみ(為政)
多岐(たき)亡羊(列子)
亡羊の嘆。逃げた羊を追いかけた人が、道が多方面に分かれていたため、どの枝道に羊が逃げたか分からず、とうとう羊を失ってしまったという故事。学問の道が多方面に分かれていて、真理をとらえにくいこと。転じて、方針や方法がたくさんあって、どれを選べばいいか迷うこと
よく遊びよく学ぶ
過ぎたるはなお及ばざるが如し懇親
引っ越しのあれこれで、自分の時間がかなりの部分とられてしまった。財布の中も寂しくなったし。でも若干の日当たりと静かさを得たから、ぶつぶつ言うのは欲張りと言うことか。とはいえ、前回にも書いたけれど、なじみのマック、ハードディスクが損傷して、一時は今までためてきたものをあきらめようかとも。不幸中の幸い、専門家に依頼して、何とか修復できそうだ。これも出費、マック自体活用できるかどうかもはっきりしない。それに、シマシママックは相変わらず、道具に使われている。黙斎通信もウインドウズでやらなければならない。勝手が違うし、あるべき所にあるオブジェクトなどは、望み得ない。やっぱりカニさんみたいにぶつぶつ言ってしまうね。
いいことを見つけて、頑張って行くしかないね。この間、小中学校の同窓会と、札幌の仲間の寄り合いがあった。みんなそれなりに頑張っているようだ。少しばかりげんきを貰ったような気がしている。それにモクサイ、いろいろあるけれど、校正作業はそれなりに進んでいる。後一息、僕らの四年あまりの足跡を目で確かめる作業は、本来的にいいことなのだろう。みんなで頑張り、取り組んできたというあたりがいい。
久しぶりに「てまり」にいった。土屋さんとカイッチャン、何の歌を歌ったかは忘れたけれど、お互いに生きていると言うことを実感できるね。2~3ヶ月前に忘れていった毛糸の帽子をもって帰った。長いつきあい、年を重ねているのだけれど、たまにはシンデレラの時間を過ぎるのも、悪くはない。
次回開催日程1、日時 平成14年11月22日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、稲葉黙斎先生冬至文全(講義録)
校正範囲はやれるところまで。柏木さんからEメールを受けた人は、これまでの結果を踏まえて、つきあわせながら校正をして下さい。そうでない人は、「稲葉黙斎先生冬至文全」を、改めて読み直しておいて下さい。柏木さんの報告(校正結果)にもとづいて、校正作業は進められると思います。
4、黙斎先生冬至文(講義録)校正の、後にくる課題(作業)について
5、モクサイ論語講義録をいつ、どのような形で始めるか(後藤さんのレポートで中断中)、及び新しい仲間の獲得方法など。
6、その他、論語講義録の扱いなど。
7、懇親会
モクサイ通信№47(2002.12)
NO.47 2002.12.15
発行者 今関弘道
第47回モクサイを語る会まとめ
1、日時 平成14年11月22日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、出席
柏木恒彦、斉藤房一、実川嘉一、今関弘道
後藤 宏、土屋幸恵
4、ふりかえり・おさらい
稲葉黙斎先生冬至文全(講義録)校正、第一講~第五講までを終了させた。残された課題は以下の通り。
P7,赤、氷壺秋月:出典、意味
P15,赤、易範:出典、意味
P16,赤、朱子行宮便殿奏箚:出典
P23,赤、朱子所謂言論及び於此の悚息深し:出典
P33,赤、重擔子須是硬脊梁漢擔行:出典、読み下 し
P37、赤、不思則為狂:出典
P97,赤、陳師徳:略歴
P97,赤、朱明孫:略歴
P101,赤、行宮便殿:出典
P104,1行目、水野:唐津藩主か、岡崎藩主か、そ れとも‥
P106,赤、誠は人の子を成し、誠は人の臣を為す: 程伊川の著書名
P106,赤、人欲非性:楊亀山の著書名
P108,赤、致中和於一身則天下雖乱而吾天地万物 不害為安泰:出典、読み下し
P108,赤、達却:意味
P133,1行目、詩経に在番の字なり:詩経のどこに あるか
ねるやふに疑ふた:意味、かいないを外内と読むことができるか、その場合にはどういう意味になるか。
以上、校正作業を第一講~第五講まで終わらせ、上記課題が残された。最終的に不分明であったときは、「そのまま」ということになるだろう。
子曰く、由(ゆう)よ、女(なんじ)にこれを知ることを誨(おし)えんか。これを知るを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり。(論語、為政)
*由……字は子路、もと侠客、孔子の 愛弟子、9歳年下。
哀公問うて曰く、何を為さば則ち民服せん。孔子対(こた)えて曰く、直きを挙げて諸(こ)れを枉(まが)れるに錯(お)けば則ち民服す。枉れるを挙げて諸(こ)れを直きに錯けば則ち民服せず。(論語、為政)
*哀公……魯の君主
*直きを挙げて諸れを枉れるに錯けば……正しい人々を引き立てて邪な人々の上に位づけたなら
よく遊びよく学ぶ
過ぎたるはなお及ばざるが如し懇親
冬至の日も近い、すぎ来し方を振り返り、しかし春遠からじ。よみがえりへの結節点。モクサイを語る会、本年度は質的に高い地歩を獲得したのではないかと思う。稲葉黙斎先生冬至文全(講義録)を、読み下し、解説、通釈、語釈という形でまとめ上げたのが、なんとしても成果として挙げられる。
下学して上達す、身近なことを学んで高遠なことに通じていく、先人の言葉には学ぶべきものが多くある。己の為にする、黙斎は何度も言う、このあたり虚心に省みて、学習の成果、位置づけを自らのものにしていくことが必要かとも思う。
黙斎に取り組むにあたっての視点のいくつか(1)
黙斎は江戸時代の後期に生きた人、彼の思想体系に時代の制約があることは論をまたない。その後地主と資本(家)との妥協の産物、明治政府(天皇制国家)の成立をみた。そして米騒動、総決算として資本の日中戦争、日米戦争の選択。第二次大戦後、アメリカの傘の下での資本の全面的復活、労働力を含めて国内資源の荒廃化を槓桿にしての多国籍化、グローバル化。これが日本社会の現在の姿である。
時代を無視して、上総道学を金科玉条として学ぶこと、教条的に学ぶことは、もちろんのことできない。とはいえ上総道学は維新後においても命脈を保ち、ある意味では戦後にまでもその影響力を持続させてきた。崎門学派の思想体系は、江戸時代から引き続いて明治政府の法体系の中にも入り込み、産業組合思想の中にも生き続けた。さらに日本近代化の大眼目であった教育体系においても、寺子屋教育を指導し、尋常小学校の課程にも作用し、中学校、高等学校、大学教育にも影響を与えてきた。上総においても然り、黙斎学は上総八子によって各地に広められ、その影響下において自治体あるいは協同組合の運営に携わった、いわゆる町村段階の指導者層は、決して少ない数ではない。成東町に即して言えば、鉄道敷設の運動も、成東中学の招致運動も、行政自体の運営も、産業組合運動の指導も、おしなべて上総道学の中から育った人たちによって進められた。戦後においては、地主ブロックと資本ブロックとの緊密な関係は解消され、したがって上総道学は国策に関わっての思想的影響力はなくなったけれども、黙斎学は親から子へ、子から孫へという形で、人を通してなお続いているようにも思われる。
このようにしてみた場合、黙斎に取り組むに当たっての視点の一つは、黙斎学が歴史の歯車を逆に回すように作用したのか、前に進めるように作用したのかということの中にある。しかしこのことは、口で言うほど簡単なものではなく、時代の推移に即して、時々の社会の各階層、あるいは地域に即して、柔軟な見地から詰める必要があるだろう。たとえば、稲葉黙斎が大学章句をひいて、治国平天下を論じたとき、これを忠君愛国の封建思想と断じ、斉家修身を説いた場合、これを家制度に結びつけて遅れた思想として片づけることは、それほど難しいことではない。
たとえそうであったとしても、大事なことは入り口で引き返さないことである。それならばいっそのこと、黙斎学の果たした役割を詰めてみたらいいと思う。父母の時代、祖父母の時代に関わることである。この時代、多くの人たちは苦しい暮らしを強いられ、多大の社会的犠牲を払ってきたことは知っての通りである。黙斎学は上総において、どのようにして展開し、どのようにして古びた思想を持ち込み、地域の人たちに対してどのような影響を与えたのか。古きをたずねて新しきを知るである。現今、日本国憲法や教育基本法をめぐって、苔むした亡霊が徘徊し、改訂を声高に叫んでいる。その意図するところはどこにあるのか、よく理解できるというものである。詰めた結果、黙斎学が歴史の歯車を逆に回したという痕跡が希薄であったとすれば、それはそれで黙斎学への新たな認識となる。
黙斎は治国平天下、斉家修身をバラバラに説いたりはしない。根底に格物致知を置く、朱子学の根幹だからである。格物致知とは、「一般的な知識を十分におしひろめる(致知)ためには、世界の事物についてそれぞれに内在する理をきわめつくす(格物)べきである、と解釈される」(大学・中庸、岩波文庫)とある。ここでは「哲理」が問われている。もしわれわれに、時代の要請する知的欲求というものがあったならば、黙斎学はその対象として、十分すぎるほどの内容を備えていると思う。同時にここでは、黙斎が上総に持ち込んできた、そして一人歩きした思想体系と、いわゆる天皇制イデオロギーとの距離が問われている。黙斎学は、国家神道の観点は持っていなかったし、覇道に通じる暴力主義的な観点も排してきたように思う。
黙斎は事あるごとに、「聖人にいたる道」をいう。聖人にいたる道を、修養の道、学問への道として積極的に評価するならば、教育の受容、学問の自由を保障する基本的人権獲得にいたる、過渡的対応とも言うことができる。江戸時代から明治期にいたるまで、教育や学問というものは、武士や大商人など社会的特権階級の独占物になっていた。黙斎学はこのような社会的状況の中で、「学者」という制限は設けたにせよ、労働する階級にも門戸を開いていたということができる。封建社会から近代社会に抜け出る時代において、教育・学問の自由をもっとも切実に望んでいたのは、いろいろな意味を含めて、中下層に位置する商人、工場に通い始めた労働者、あるいは農民であっただろう。読み書き算盤ができなければ、生きていけない時代に差し掛かっていたからである。幕末から明治にかけて、寺子屋教育が急速に広まったことが、この間の社会的状況を説明している。教育は国家百年の大計なりで、明治政府も尋常小学校から始まる教育制度に着手したが、黙斎のもたらした上総道学は、商いに必要な、あるいは政府の達しを読むに必要な、読み書き算盤にとどまらず、高遠な聖人にいたる道を掲げたところに、大きな特色がある。上総道学は、村人の教育・学問への欲求をふまえ、上総八子をはじめとして、いわゆる寺子屋の師匠を多く育成し、農民教育に力を発揮すること大であったといえるだろう。成東の湯坂村においては、明治期、文字を読めないものは一人もいなかったと言われている。
もっとも黙斎は、冬至文講義の中で、孟子の三楽を引いて学者を天下の英才に見立て、聖人にいたる道を断念したならば、田舎に帰って百姓になれとまで言う。百姓には修養の道を閉ざしてしまうのか、といいたいところである。また父親迂斎の門人であって、東金の人オオギギンサイが庶民教育の重視という点で心学的傾向を示したに対し、よく接してはいない。心学者手島堵庵に対しては、習合論者として口を極めて非難する。反面、やはり迂斎の門人である上総八子の筆頭株、和田儀丹や鈴木養察の出自をみれば、士分ではなく庶民といわれる階層に属するし、黙斎が愛してやまなかった中田重次などは、若い時分無頼の生活を送っていた。また黙斎自身、上総において依拠したのは、名主階層であったとはいえ農民であった。面白いところである。
総じて、ある時代の思想、哲学、学説といったものは、必ずその時代の人と人との関係を反映している。だとすれば、その思想、哲学、学説において問われる所は、その時代の自然と社会を的確に映し出しているか否かを前提にして、次の時代あるいは次の次の時代を見通すことのできる、柔軟な体系あるいは構造を有しているかどうかにかかってくる。言葉を換えて言えば、その時代の商工業者層を含め生産的な階級との位置関係が問われると言うことだろう。生産的階級こそが、歴史(社会)の歯車を前に進めてきたからである。このことは、黙斎学はもちろんのこと、朱子学についても、墨子と荀子の学説においても同様である。
高度に発達した資本主義の社会を一皮めくると、天皇制を支柱とした戦前の社会を見ることができるのと同様、戦前の社会を一皮めくるとすでに江戸時代である。明治維新によって導入された、西洋思想ないし西洋文化の中に身を置いている我々にとって、黙斎の思想は一見遠いところにあるように思われるが、必ずしもそうでない。上総道学は現在に生きている我々にとって、身近な地点に位置しているといえる。東洋、日本、上総の歴史に即しているということでは、西洋思想(哲学)を学ぶよりも、身近な取り組み課題として位置づけることができるだろうし、その分だけ学びやすいかも知れない。いずれにしても下学上達、扉をたたいて、黙斎の思想体系の中に分け入ることが必要である。
秘書晁監の日本国に還るを送る
積水 極む可からず 安くんぞ滄海の東を知らんや 九州 何れの処か遠き 万里 空に乗ずるが若し 国に向かって惟だ日を看 帰帆は但だ風に信すのみ 鰲身 天に映じて黒く 魚眼 波に射て紅なり 郷樹は扶桑の外 主人は孤島の中 別離 方に域を異にせば 音信 若為ぞ通ぜん
(王維)
元二の安西に使いするを送る
渭城の朝雨 軽塵をうるおし 客舎青青 柳色新たなり 君に勧む 更に尽くせ一杯の酒 西の方陽関を出れば 故人無からん
(王維)
一夫関に当たれば万夫も開く莫し(蜀道難)
たった一人が関所を守るだけで、万の兵士が攻めても落とせない
李白
盛唐の詩人。四川の人。その母が一夜太白星を夢みて生んだので太白を字とした。号は青蓮(居士)。謫仙人とも称された。酒を好み奇行多く、玄宗の宮廷詩人に招かれたが、高力士らに嫌われて追放される。晩年、王子の反乱に座して流罪となり、最後は酔って水中の月を捕えようとして溺死したと伝える。その詩は天馬行空と称され、絶句と長編歌行を得意とした。杜甫と共に李杜と併称される大詩人。詩文集「李太白集」三○巻がある。(701~762)
1、日時 平成14年12月20日(金)
6:30
2、場所
川和井 富里市七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、黙斎先生冬至文(講義録)
先に挙げてある保留事項(課題)を調べてお いて下さい。
4、朱子論語集註(黙斎講義録)
「委吏本作季氏(p7の19行目)~時をきめ たものなり(p9の6行目)」(斎藤房一)
5、その他必要なこと
6、忘年会(懇親会)次回開催日程
モクサイ通信№48(2003.01)
NO.48 2003.01.22
発行者 今関弘道
第48回モクサイを語る会まとめ
1、日時 平成14年12月20日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、出席
柏木恒彦、斉藤房一、実川嘉一、今関弘道
土屋幸恵
4、ふりかえり・おさらい
(1)稲葉黙斎先生冬至文全(講義録)校正
P7,赤、氷壺秋月:出典、意味
P15,赤、易範:出典、意味
P16,赤、朱子行宮便殿奏箚:出典
P23,赤、朱子所謂言論及び於此の悚息深し:出典
P33,赤、重擔子須是硬脊梁漢擔行:出典、読み下 し
P37、赤、不思則為狂:出典
P97,赤、陳師徳:略歴
P97,赤、朱明孫:略歴
P101,赤、行宮便殿:出典
P104,1行目、水野:唐津藩主か、岡崎藩主か、そ れとも‥
P106,赤、誠は人の子を成し、誠は人の臣を為す: 程伊川の著書名
P106,赤、人欲非性:楊亀山の著書名
P108,赤、致中和於一身則天下雖乱而吾天地万物 不害為安泰:出典、読み下し
P108,赤、達却:意味
P133,1行目、詩経に在番の字なり:詩経のどこに あるか
P134,22行目、迂斎の文章かいないからきこへ兼ねるやふに疑ふた:意味、かいないを外内と読むことができるか、その場合にはどういう意味になるか。
以上、校正作業を第一講~第五講まで終わらせ、上記課題が残された。最終的に不分明であったときは、「そのまま」ということになるだろう。
(2)朱子論語集註(黙斎講義録)
「論語は孔子の(p7の18行目)」~「舛目等のことがよし(p7の19行目)」(後藤 宏)はすでに終了させてある。前回は、「委吏本作季氏史(p7の19行目)~「東鑑にせぬ(p10の4行目)」(斎藤房一)を終了させた。
(3)語釈
p6の12行 家語:孔子家語、こうしけご
p6の18行 讀法:
p7の4行目 史記世家:
p7の4行目 武鑑:江戸時代の紳士録
p7の10行目 生知安行:天性聡明で、生まれながらにして道義に通じ、安んじてこれを実行すること(出典、中庸)
p7の20行 司馬貞:
p720行 蕃:ばん、けん。茂る、ふえる。
p7の20行 豕:いのこ。いのしし、ぶた。
p8の1行目 是皆隣へ手は出さぬ:専念する。
p8の3行目 乗田:じょうでん。魯国で家畜を飼養する小役人(三省堂)。中国周代に祭祀の犠牲にする家畜の飼養を司った職(広辞苑)。
p8の3行目 諏訪辺文九郎:
p8の7行目 故実:昔の儀式(広辞苑)。
p8の10行目 ○尋:読みと意味
p8の18行目 三家の季氏:三桓氏とも、魯の豪族。
p9の7行目 晏嬰:春秋時代、斉の大夫。字は仲(俗に平仲)。霊公・荘公・景公に仕え、晋の叔向(しゆつきよう)、鄭の子産らと並んで賢人宰相とされる。晏子。( ~前500)
p9の4行目 高昭子:斉の景公の家臣
p9の11行目 采地:さいち、領地。知行所。
p9の12行目 太公:呂尚、太公望のこと。
p9の7行目 郷原:俗人に受けのよい偽善者とも見られる人。田舎の君子。
p9の7行目 中庸賢者及ばず:中庸にある
p11の1行目 寸善百魔:いいことが少なく、悪いことが多い。
p10の3行目 不可を天命:孔子の言う天命。
p10の5行目 東鑑:吾妻鏡。鎌倉後期成立の史書。52巻。鎌倉幕府の事跡を変体漢文で日記体に編述。源頼政の挙兵(1180年)から前将軍宗尊親王の帰京に至る87年間の重要資料。
よく遊びよく学ぶ
過ぎたるはなお及ばざるが如し懇親 2002年最後の課会、5人で締めくくった。三人よれば文殊の知恵。朱子の論語集註をたたいての、稲葉黙斎の講義録。房一さんのレポート、分かりやすくてよかった。はじめの所だから、14年だったか、孔子の足跡をたどっての集註。物語だね、魯とか斉とか衛とか宋とか杞とか、いろいろな国がでてくるし、人も管仲とか晏嬰とか太公望とか、司馬遷や司馬光とか、はては孔明と劉備とか、おもしろい。とはいえ、まだ二回目だから、これからどうなっていくか、気を緩めないで、新年の楽しみ事にしておこう。
土屋さんの娘さん、美恵子さんかな、成東町役場にほぼ決まり。もしかしたら、学芸員というようなものになって、いろいろ教えてもらえるかも知れない。卒論のテーマも黙斎が絡んでいるようだし、このことも何となく楽しみだ。
黙斎に取り組むにあたっての視点のいくつか(2)
黙斎に取り組む上でのもう一つの留意点は、上総道学が日本のみならず中国を中心とした東洋思想ないし東洋哲学の分野に、大きく門戸を開いていることである。日本朱子学の藤門学派の、おそらくは集大成者である稲葉黙斎の後ろには、迂斎を始め藤門の三子が立っており、崎門学派の三傑である佐藤直方がいる。崎門学派を率いる山崎闇斎は、林羅山、荻生徂徠などと並ぶ日本儒学界あるいは漢学界の泰斗である。そして山崎闇斎の後ろには、孔子のあたりから始まる中国儒学の大成者である朱子、および朱子をまるごと抱えたと言われる、朝鮮の李退渓がひかえている。朱子学には、川上の嘆ではないけれど、春秋戦国時代にまでもさかのぼっての、諸子百家にまでも行き着く中国思想、あるいは東洋哲学の流れがある。取り組むに当たっての不足は、おそらくは無いだろう。
ひるがえって、わが国の思想状況を見るならば、明治維新を契機として西洋の文化・思想が流入し、日本近代化の強力な梃子として作用してきたことは周知のところである。東洋とは異なって、ヨーロッパにおいては早くに市民革命が達成されていた。世界を解釈するに実践をも含めて、科学的な考え方の蓄積があった。概して封建的な社会の枠組みから抜け出せないでいた東洋の思想状況とは、大きな格差のできていたことは否めない事実である。明治維新の時点において、西洋思想が世界史的にみて、人類文化あるいは思想の先端にあったことは、間違いのないところであろう。とりわけ、西洋思想の持っていた、自由と民主主義の思想、世界を理解する思惟の科学、唯物弁証法は、燦然として洋の東西を問わずにかがやいて見える。アジアの片隅にあって、いち早く西洋思想に接し、これを取り入れ発展させることのできた、日本に住むわれわれは幸運であったといえるかも知れない。
しかし、いち早く西欧の文化・思想に接し、百年以上経過した現在において、東洋思想に通じる日本在来の文化・思想とのつなぎ目は、依然として明らかではない。近代化を急ぐあまり、日本在来の文化・思想をないがしろにしてきた、といっても過言ではないだろう。われわれの世代において、ボルガの船曳歌に関心は示しても、九十九里の地引き網歌には関心を示さない、デカンショの名前は知っていても山崎闇斎、荻生徂徠、林羅山は知らない。ギリシャやフランス、スペインやイングランドの歴史には接していても、朝鮮やベトナムの歴史には接したことがない。シェークスピアは読んだけれども、紫式部や吉田兼好は名前だけ、このような例を挙げればきおいては、西欧の近代的文化・思想は受け入れたものの、日本在来のそれには、木に竹を接いだような状況が依然として続いていると言うことである。そろそろ西欧と日本在来、東洋の文化・思想を関連づけて、折り合いをつけるべき時にきている。かつて、外来文化・思想であった仏教は、日本在来の神々と、習合という形をもって折り合いをつけたが、どういう形でか、折り合いをつけねばならないだろう。そのためには、西欧の文化・思想をふまえて、東洋文化・思想の探索を開始しなければならない。いわば、「時代の知的欲求」とでも呼ぶようなものだろうと思う。つまるところ、上総道学は、時代の知的欲求に対して、東洋文化・思想の探索にとって、格好のテキストになる。尭、舜の神話時代を経て春秋戦国の諸子百家の時代、漢唐の学を経て、宋学における中国思想の集大成、朝鮮半島での熟成を含めて、日本列島での漢学・儒学の成立。お膳立てとしては、申し分ないように思われる。
次回開催日程1、日時 平成15年1月24日(金)
6:30
2、場所
川和井 富里市七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、黙斎先生冬至文(講義録)
先に挙げてある保留事項(課題)を調べてお いて下さい。
4、朱子論語集註(黙斎講義録)
「有季孟吾老之語(p10の4行目)より」(柏 木恒彦)
5、その他必要なこと
6、新年会(懇親会)
鼓腹撃壌(こふくげきじょう)
(十八史略)
o腹鼓を打ち地面をたたく
o政治の力を感じさせないほどの 理想的な政治、尭の得心
我が蒸民を立つは汝の極に非ざるなし
誇らず知らず帝の則に従う
(子ども達の歌)
日出て耕し、日入りて息う、井をほりて飲み、田を耕して食う、帝力何ぞ我にあらんや
(年寄りの歌)
鸛鵲(かんじゃく)楼に登る
白日 山に拠りて尽き 黄河 海に入りて流る 千里の目を窮めんと欲して 更に上る一層の楼
(王之渙)
o鸛鵲楼………山西省の西南、現在の永済県の城壁にあった櫓、高い城壁の上に更にそびえる三層の楼、コウノトリが巣を掛けたところからこの名が付けられた。南に中条山を望み、眼下には大地の大動脈黄河の流れを見おろす名勝 o白日………真っ白に輝く太陽、 o山に拠りて尽き………白日の輝く天空の果てが、山並みにもたれ掛かるようにして尽き窮まって 黄鶴(こうかく)楼
昔人己に白雲に乗って去り 此の地空しく余す黄鶴楼 黄鶴一たび去って復た返らず 白雲千載 空しく悠悠たり 晴川歴歴たり 漢陽の樹 芳草萋萋たり 鸚鵡洲 日暮 郷関 何れの処にか是なる 煙波 江上 人をして愁えしむ
(崔こう)
o黄鶴楼(伝説)………黄鶴楼は湖北省武昌の西南の隅にあった楼閣、長江を眼下に見おろす景勝………江夏郡の辛氏という酒屋、ある日ひとりの仙人が酒を請う、辛氏は請われるままに酒を大杯で飲ませる。かくして半年ばかり、仙人は酒代がないと言い、店の壁に黄色い鶴の絵を描いて立ち去った。不思議にも、酒を飲みに来た客が手拍子をうって歌うと、壁の鶴が躍る。店は大繁盛、辛氏は百万長者に、それから十年、仙人が現れ、笛を取り出して吹くと白雲が空から舞い降り、黄鶴が壁から抜け出して、仙人の前に飛んできた。
モクサイ通信№49(2003.02)
NO.49 2003.02.28
発行者 今関弘道
第49回モクサイを語る会まとめ
NO.49 2003.02.28
(1) ねるやふに疑ふた:意味、かいないを外内と読むことができるか、その場合にはどういう意味になるか。
以上、校正作業を第一講~第五講まで終わらせ、上記課題が残された。最終的に不分明であったときは、「そのまま」ということになるだろう。
(2)朱子論語集註(黙斎講義録)
「有季孟吾老之語(p10の4行目)」~賞罰をつかさどる」(p12の6行目)」(柏木恒彦)を終了させた。
(3)語釈
p6の18行 讀法:
p7の4行目 史記世家:
p7の20行 司馬貞:唐の学者、司馬遷の史記を「三皇本紀」からはじまるように、補ったことで知られる。
p8の3行目 諏訪辺文九郎:
p8の10行目 ○尋:読みと意味
p10の4行目 三家:三桓氏とも、魯の豪族。
p10の5行目 季孟:季孫氏、孟孫氏。
p10の5行目 中老:武家の家老中、大老に次ぐ重臣(三省堂)。
p10の6行目 漠高:広く高い、とりとめもなく高いという意味があるが、ここでは保留しておく。
p10の7行目 過化存神:聖人は徳が高く、通り過ぎるだけで感化される。孟子にある。
p10の8行目 遂行反乎:ついに行きてかえる。読み。
p10の10行目 ○智:読み。
1、日時 平成15年1月24日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、出席
柏木恒彦、斉藤房一、後藤 宏、今関弘道
4、ふりかえり・おさらい
(1)稲葉黙斎先生冬至文全(講義録)校正
P7,赤、氷壺秋月:出典、意味
P15,赤、易範:出典、意味
P16,赤、朱子行宮便殿奏箚:出典
P23,赤、朱子所謂言論及び於此の悚息深し:出典
P33,赤、重擔子須是硬脊梁漢擔行:出典、読み下 し
P37、赤、不思則為狂:出典
P97,赤、陳師徳:略歴
P97,赤、朱明孫:略歴
P101,赤、行宮便殿:出典
P104,1行目、水野:唐津藩主か、岡崎藩主か、そ れとも‥
P106,赤、誠は人の子を成し、誠は人の臣を為す: 程伊川の著書名
P106,赤、人欲非性:楊亀山の著書名
P108,赤、致中和於一身則天下雖乱而吾天地万物 不害為安泰:出典、読み下し
P108,赤、達却:意味
P133,1行目、詩経に在番の字なり:詩経のどこに あるか
P134,22行目、迂斎の文章かいないからきこへ兼
p10の11行目 疆:きょう、境、土地の境界。
p10の11行目 僭:せん、いつわる、身分以上のことをやる。
p10の14行目 上を学ぶ下なり:上がやるから下もやる。
p10の15行目 天合人合:天道人道
p11の2行目 稲田九郎兵衛:蜂須賀家の筆頭家老。のち城主となる。
p11の3行目 わるいことの方、人に:読み
p11の6行目 卒不行:にわかに行かず
p11の8行目 舜の象:舜の重臣。
p11の9行目 仁知交際:仁と知が交わる。
p11の15行目 仕えぬ○○なったとき:読み
p11の20行目 司空:中国古代の官名。六卿の一。土地・民事をつかさどった。
p12の4行目 微子:殷代の忠臣。微は国名、子は爵位。紂王をいさめていれられず、祭器をもって逃げたという伝説がある(三省堂)
p12の6行目 司寇:しこう、中国古代の官名。六卿の一。秋官の長。刑罰・警察の事をつかさどった。
子曰く、君子は言に訥(とつ)にして、行に敏ならんと欲す。
(里仁)
o言に訥(とつ)にして……口を 重くして
子曰く、徳は弧ならず、必ず鄰(となり)あり。
(里仁)
o必ず鄰あり……必ず親しい仲 間ができる。
よく遊びよく学ぶ
過ぎたるはなお及ばざるが如し懇親黙斎に取り組むにあたっての視点のいくつか(3) 新年会四人でちょっと寂しかったか。旧の正月もある。ここでの話を二つばかり。一つは愚公山を移す。モクサイ学の真髄は己の為にする。自らを研くことにあり。頑張って行くのみ。どこまでやれるか、あとを引き継ぐ者があるか、このような問いは哲学の貧困。愚考の思想で行こう、楽天性こそが宝だ。もう一つは、我が水の惑星の話。ジャイアント・インパクト、マグマオーシャン、原始海洋の形成、原始大陸の形成、プレートテクトニクス、プリュームテクトニクス……ちょっと下ってゴンドワナ大陸、さてオーストラリアは何処へ流れているのだろう。ジオ・ポエムの話、愚公に劣らずスケールの大きな話。口切りは柏木さんと後藤さん、若干の酒を飲んで、焼き肉をかじって、小ぶりだったけれど、いい新年会だった。そのようにいえると思う。
黙斎に取り組むにあたっての視点のいくつか(3)
モクサイ学をよりよく理解するためには、異端の学に留意すべきだろうと思う。論語にもすでに、「子曰く、異端を攻(おさ)むるは斯れ害のみ」(為政)とある。しかし異端への認識は「子夏曰く、小道と雖も必ず観るべき者あり。遠きを致さんには泥(なず)まんことを恐る。是(ここ)を以て君子は為さざるなり」。聖人の道ないしは君子の道を遠くまで進むためには、引っかかりになる心配がある、という程度にとどまっている。
一方、朱子から続くモクサイ学においては、道統を重視し、これに任じるという立場より、道統以外の学派に対しては意固地なほど厳しい。道統を人に即していうならば、伏犠(伏羲)、神農、黄帝、堯、舜、禹、湯王、文王、武王、皐陶(こうとう、舜の臣)、伊尹、傅説(ふせつ)、周公旦(周公)、召公、孔子、顔子(顔回、顔淵)、曾子(そうしん、曾参)、子思、孟子、周濂渓(周敦頤)、程伊川(程頤)、張載(張横渠)、これに李退渓といったところである。春秋戦国時代、諸子百家において、荀子、墨子、楊子はのっけから除かれる。その意味合いは何か。李斯(りし)の先生だった、お墓を大事にしない、自分勝手だけでは、ちょっと分からない。朱子学との接点をきちんと詰める必要があるだろう。儒学の国教化をはかったとされる董仲舒、後漢の大儒といわれる鄭玄(ていげん、じょうげん)、唐代儒学の復興にかかる仏骨表の韓愈(韓退之)、資治通鑑(しじつがん)を著した北宋の司馬光など儒学の流れの中にいながら、傍らへ押しやられ、下手をすると漢唐の学で括られてしまう。道統とは何なのか、改めて考える必要があるのではないか。例えば、聖王と位置づけられる伏羲、神農、黄帝、堯、舜、禹などは神話上の人物である。伏羲などは人首蛇身の神、女か(じょか)とともに泥から人間を作った功績が認められたのか。堯、舜、禹については、原始共同体の遠い記憶に連なっているのか、もしそうだとすれば老子の思想とそれほど離れてはいない。天帝のイメージと重ね合わせたとしても、さてどうか。史記において司馬遷は三皇五帝から書き出しているが、黄帝より古い聖王(神々)はこれより除いている。それに伏羲、舜、禹などは、漢族においたてられて江南あたりに住んでいる、少数民族の神々であったという説もある。孔子が傾倒した周公旦は除いたとしても、湯王、文王、武王、皐陶(こうとう、舜の臣)、伊尹、傅説(ふせつ)、召公とならべたのは、何か意味があるのか。事績もよく分かってないし、そんな気がする。それと、儒教以外の哲学というか思想というか、老子、荘子は徹底的に排除される。論語においては隠者的対応は批判するも、老子については一目置いているようにも見える。宋学あるいは朱子学では質的に異なっている。朱子の世界観に関わって、接点を明らかにしておく必要があるだろう。ついでに、公孫竜と恵施について、今のところ朱子は言及していない。言葉による世界観の構築を目指すなら、この二人あるいは荘子に見られる論理学的観点は欠かせないと思う、どうなのか。(つづく)
岳陽晩景
晩景 寒鴉集い 秋風 旅雁帰る
水光 日を浮かべて去り 霞彩 江に映えて飛ぶ
洲白くして蘆花吐き 園紅にして柿葉稀なり
長沙は卑湿の地 九月 未だ衣を成さず
(張均)
o晩景………夕暮れの景色 o水光………水面ないし長江・洞庭湖とそれをつなぐ川
o霞彩………夕焼け空ないし夕焼け雲の美しい彩り
o園………庭
o卑湿………低くて湿気の多い
宋詩の時代
唐代以前においては、門閥貴族である大地主が、世襲的高級官僚として政治的・経済的・文化的に実権を握り、中小地主である「士太夫」(士族)は、宗代に入り、士太夫はついに門閥貴族の力を一掃し、自らが歴史の主人公になった。
だから唐詩は貴族との抗争の中での、唐詩が貴族との抗争の中での叫びというものであれば、宋詩は勝利した士太夫階級の自らによせた讃歌であるということもできる。
次回開催日程1、日時 平成15年2月28日(金)
6:30
2、場所
川和井 富里市七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、黙斎先生冬至文(講義録)
先に挙げてある保留事項(課題)を調べてお いて下さい。
4、朱子論語集註(黙斎講義録)
「十年辛丑(しんちゅう、かのとうし)定公云々(p12の7行目)~御坐はさめたと(p14の6行目」(今関弘道)
5、その他必要なこと
6、懇親会
モクサイ通信№50(2003.03)
NO.50 2003.03.19
発行者 今関弘道
第50回モクサイを語る会まとめ
1、日時 平成15年2月28日(金)
6:30
2、場所 川和伊
富里町七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、出席
柏木恒彦、後藤 宏、今関弘道
4、ふりかえり・おさらい
(1)稲葉黙斎先生冬至文全(講義録)校正
NO.50以前の号を参照のこと。
(2)朱子論語集註(黙斎講義録)
「十年辛丑(しんちゅう、かのとうし)定公云々(p12の7行目)~御坐はさめたと(p14の6行目」(今関弘道)を終了させた。
(3)語釈
p8の3行目 諏訪辺文九郎:
p8の10行目 ○尋:読みと意味
p10の10行目 ○智:読み。
p11の15行目 仕えぬ○○なったとき:読み
(以上残された事項)
P12の11行目 夜そっと:読み
P12の15行目 人が服するそうなり:読み
P12の15行目 ○十二年:読み
P12の15行目 仲由:子路のこと。
P12の18行目 白眼をつけたと:白目をむいた、警戒した。
P13の3行目 少正○:読み
P13の4行目 よくみれどなつに花さく垣根かな:読み
P13の10行目 五刑:犯罪の五種類。(1)野(農を怠る)、(2)軍(軍律に背く)、(3)郷(不孝など)、(4)官(職務を怠る)、(5)国(国民として秩序を乱す)
P13の17行目 邪魔:読み
14の2行目 君の悪大夫:季桓氏のこと。
(2)朱子論語集註(黙斎講義録)
「十年辛丑(しんちゅう、かのとうし)定公云々(p12の7行目)~御坐はさめたと(p14の6行目」(今関弘道)を終了させた。
(3)語釈
p8の3行目 諏訪辺文九郎:
p8の10行目 ○尋:読みと意味
p10の10行目 ○智:読み。
p11の15行目 仕えぬ○○なったとき:読み
(以上残された事項)
P12の11行目 夜そっと:読み
P12の15行目 人が服するそうなり:読み
P12の15行目 ○十二年:読み
P12の15行目 仲由:子路のこと。
P12の18行目 白眼をつけたと:白目をむいた、警戒した。
P13の3行目 少正○:読み
P13の4行目 よくみれどなつに花さく垣根かな:読み
よく遊びよく学ぶ
過ぎたるはなお及ばざるが如し懇親
前回は四人、今回は三人。「為己」を頭の中におきながら頑張った。モクサイに取り組んで五年目にはいるか、ひるむようなことはないのだけれど、もう少し輪を広げる必要があるとも思う。このことは、古くて?!新しい問題だね。
覇権主義者ブッシュ、そしてブッシュの集団。ならず者の集まり、悪の枢軸、彼らの言葉は自らに跳ね返っている。大量破壊兵器を一番持っているのはアメリカではないかと、セトウチジャクチョウ。イギリスのプードルはやはりプードル、国内では反戦の機運が圧倒的なのに。スペインでは百万人のデモ。そして日本国、80%の人たちが国連無視の、武力先制攻撃に反対。一方、わが国のプードル集団、口をそろえてのプッシュ賛美、なりふりかまわない、はずかしい。新聞に投書がのっていた、七十歳の男性だった。内外における、このたびの反戦・平和のうねりは、ベトナム戦争以来のものだ。世界史のエポックを作り出している。日本の政治責任者は、歴史のらち外にいると。同感する。
黙斎に取り組むにあたっての視点のいくつか(4) 神々に対する見方にはきびしいものがある。伏羲から始まる中国古代の神々は、道統の中に取り入れているにもかかわらず、日本古来の神々に連なる神道、あるいは古来の神々と習合した仏教ないし禅宗については、入り口のところで拒絶してしまうようだ。頓悟の術が多すぎるからか、格物致知ではないからか。釈迦に対しては、母親のお腹を蹴破った化け物とまでいう、これでは話にならないのだけれど、モクサイをよりよくとらえるためには、理論的接点を見極める必要がある。論語には「鬼神は敬して遠ざく、知と謂うべし」(雍也)とある。また「季路、鬼神に事(つか)えんことを問う。子曰く、未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん。曰く、敢えて死を問う。曰く、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」(先進)る。モクサイの批判は、孔子の対応を大きく越えている。朱子は鬼神をどのように見ていたのか、理と気の哲学ではどのような位置づけが与えられるのか、佐藤直方は、モクサイは、知りたいところである。死してのち已むの先のことになるか。
モクサイは博識な学者であったと思う。それはいいのだけれども、儒学に対する研究は訓古の学あるいは漢唐の学とかいって相手にしない。そういう意味では、杜甫も李白も白楽天もだめ、司馬遷も班固もだめ。これでは余りにも幅の狭い、奥行きの深さのない学問になってしまわないか。儒学者を学者と自認するのなら、なおさらのことではないのか。例えば、安禄山後の動乱を生きた、江南をさすらう杜甫の悲しみ、憤り、ささやかな喜びなどを、理解することなしに排してしまうのか。道統の中に名前の挙がっている神々を、司馬遷は黄帝にとどめている。これを歴史を記すものの科学的な態度として、歴史学者の良心として評価しないのか。朱子学における格物致知の精神は、何処へ行ってしまったのか。モクサイはこういったことを、どのように考えていたのか。
国内の学問に対しても、モクサイ学は批判的である。それはいいのだけれど、頭から非難して、排してしまうようなところがある。菅家、江家、林家の学問はだめ、荻生徂徠、服部南郭と続く古文辞学もだめ、中江藤樹、熊沢蕃山、三輪善蔵の王学(陽明学)もだめ、貝原益軒、谷 重遠もだめ。そして、庶民に目を向けた商人出の手島堵庵は、習合のツミで簡単に切り子、子貢に謂いて曰く、女(なんじ)と回と孰(いず)れが愈(まさ)れる。対えて曰く、賜(し)や、何ぞ敢えて回を望まん。回や一を聞きて以て十を知る。賜や一を聞きて以て二を知る。子の曰く、如かざるなり、吾と女と如かざるなり。
次回開催日程1、日時 平成15年3月20日(木)
6:30
2、場所
川和井 富里市七栄646-82
電話 04762-92-8838
3、黙斎先生冬至文(講義録)
保留事項(課題)を調べておいて下さい。
4、朱子論語集註(黙斎講義録)
「郊又不致(p14の5行目)~孔子の周流は皆仁なり(p17の9行目」(後藤 宏)
5、その他必要なこと
6、懇親会