管理者 今関弘道

黄河概観 目次(リンク)
[1] 大地にまどろむ暴れ竜、黄河の源は何処にあるのか
1,羊の背に乗って河を下る
2,河源探索2000年、マチューかカルチューか
[2] アムネマチン山脈とバヤンカラ山脈との間
1、この世で最も美しい河マチュー
2、星宿海・ザリン湖・オリン湖
3、チベット族の自由な天地
[3] 岷山山脈の壁、流路を150度転回
1、たぎりたつ流れ、大地をうがつ深い谷
2、横断山脈とプレートテクトニクス
黄河概観(本文
[1]黄河の源流を訪ねて
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1、羊の背に乗って河を下る
(1) はるかなる青蔵高原
青蔵高原(チベット高原)の下には、インド亜大陸のプレートが潜り込んでおり、現在もなおアジア大陸を押し上げている。青蔵高原の隆起は、新生代第三紀始新世、およそ4000万年ほど前にインド亜大陸がアジア大陸の脇腹にぶつかり、押し上げを開始した時点から始まる。第三紀鮮新世(700〜180万年前)の後半には、すでに1000mの高度を獲得し、それから今日まで200〜300万年をかけて急上昇、高度を5000m余りにあげて、なお上昇を続けている。
青蔵高原は、日本の六倍ほどの面積を持ち、行政区分に即して言えば、チベット自治区、青海省の全域と四川省、甘粛省などを含む広大な地域である。青蔵高原は、デカン高原、コロラド高原、コロンビア高原などある中で、世界最大の高原とも言われている。南側はヒマラヤ山脈が長くのび、北側は崑崙山脈が支脈を含めて長くのびている。西側はカラコルム山脈に接し、東側はチベット自治区と青海省の境をなすタングラ(唐古拉)山脈にはじまってニエンチェンタングラ(念青唐古拉)山脈が、横断山脈の西端に連なり、青海省に入っては、崑崙山脈の支脈ホフシル(可可西里)山脈、その東方にはブルハンブダイ(布爾汗達)山脈、バヤンカラ(巴顔喀拉)山脈、アムネマチン(阿尼瑪卿)山脈が、南北に延びる横断山脈によって中国本土と区切られている。標高は平均して4500m、志賀、蓼科、那須といったわれわれなじみの高原とは、地質構造的に言って、質と規模とを異にする。
(2) アジアの大河、源流は青海南部高原に
青蔵高原の東南部、すなわち青海南部高原には、黄河の河源だけでなく、金沙江(長江の上流)、雅?江(長江の大支流)、瀾滄江(メコン川の上流)、怒江(サルウィン川の上流)など、東アジアの大河の河源が集中する。黄河についてはこれから河下りするのであるが、アムネマチン山脈とバヤンカラ山脈の間を流下し、岷山山脈の壁にぶつかって北西に流れ、青海湖(ココノール)の南から西へ向かい、蘭州のあたりから北流を開始する。トンゴリ砂漠の東側、賀蘭山脈の麓をまっすぐに北に向かい、陰山山脈にぶつかって、オルドス台地を右手にみながらトクト(托克托)まで東流する。トクトからは黄土高原のまっただ中を、晋陝峡谷に沿って南下し、秦嶺山脈に突き当たって再び西流。この間、渭河、汾河をおさめながら華北の平原を奔放に流れ、広大なデルタを形成し、渤海の彼方に注ぎいる。まさに波瀾万丈ともいうべき黄河の流れである。
雅?江はバヤンカラ山脈の西麓に流れを発して、長江の上流である通天河、金沙江と並流した後、横断山脈中、大雪山脈と沙魯里山脈の間をなだれ落ち、ついには下流において金沙江と合流する。いわば長江の弟のような流れ、大支流である。
長江はオフシル(可可西里)山脈、タングラ山脈、ブルバンダイ山脈などの水を集める。バヤンカラ山脈の西側を流れ下り、横断山脈にかかって南流するさまは、銀河が中天よりなだれ落ちると言った形容こそがふさわしい。四川を過ぎて雲貴高原の堅固な壁にぶつかってよりは、北東流を開始する。雅?江、大渡河、嘉陵江、烏江などの大支流を合し、さらに東流して洞庭湖、?陽湖の水をおさめて後、南京を経由し、自らが作り上げた崇明島を回り込んで、東海(東シナ海)の彼方に姿を消す。
瀾滄江(メコン川)はタングラ山脈東端の水を集め、怒江(サルウィン川)はニエンチェンタングラ山脈北麓の水を集める。はじめは金沙江と並行して流れ、四川を過ぎてからは、雲貴高原の西側を通り抜けて、そのまま南流を続け、インドシナ半島に入ってからもストレートに流れ下り、それぞれタイランド湾、アンダマン海へと注ぎいる。
また、青蔵高原の南縁、ヒマラヤ山脈の北側には、聖なる山カイラスの氷河から発したツアンポ川(蔵布川、チベット語で清浄な人の意)が、100qにわたって東流している。ツアンポ川はヒマラヤ山脈の東端と横断山脈の間を、深い谷をうがってくぐり抜け、ブラマプトラと名前を変え、ガンがーに合流した後、ベンガル湾に注ぐ。
(3) 暴れ竜と如何にして共存していくか
黄河の全長は5465m、中国第二の河川である。第一位は長江で6300mである。流域面積は75万平方キロ、日本国土の2倍、わが北海道の10倍の広さを持つ。ここに1億1000万人の人々が住み着いている。青蔵高原に発して、オルドス台地の東端までが上流域である。この間の流路は、黄河九腸といわれるように、変転きわまりない。とくに竜羊峡、劉家峡、青銅峡と続く大峡谷の連なりは、位置エネルギー(電力エネルギー)の宝庫という前に、我々の目を奪う自然の驚異、自然の造化の妙といった点を評価すべきだろう。またこの地域は、農耕民族と遊牧民族の接触点を含んでいる。諸王朝のせめぎ合いの舞台であるとともに、東西文物交流の結節点でもあった。
中流域は、黄土高原に刻まれた晋陝峡谷から渭河、汾河と合流して、さらに秦嶺山脈に阻まれて東流するあたり、渭水盆地も含めて華北平原への出口、鄭州のあたりといってもいいかもしれない。黄河は黄色い暴れ竜に変身し、黄土高原から有り余る土砂を運び込む。この暴れ竜と如何にして意を通じていくか、このことがいわゆる中原に興亡した歴代王朝、歴代皇帝の最大の関心事であったことは、疑いない。民生の安定なくして、中原に鹿を逐うことは、かなわなかったというべきである。
黄河下流域とは、黄河の氾濫で形成された肥沃な沖積層、華北平原そのものである。中流域から運ばれた黄土の四分の一は下流域に堆積される。天井川、増水期における氾濫、河道の変更、古代より暴れ竜のもたらす水禍は、中国最大の憂患とされてきた。黄河を制するものは天下を制する。天下を制するとは、人々の命と働くことによって築き上げてきた財産を守り、水を治め、農具を改良し、家畜の飼養に意をつくし、以て農業の生産力を高めていくことでなくてはならない。悠久の流れ黄河との共存、流域に住む人々にとって、また為政者にとって、昔も今も変わることのない課題である。
(4) 5,000キロの河下り、青蔵高原から渤海湾まで
さてこれから、羊の背に乗って、ジオ・ポエムの翼を借りて、黄河5,000キロの河下り、青蔵高原から渤海湾までの旅に発つ。しかし、ターミナルが渤海湾であることはわかっているけれど、スタート地点、河源が何処にあるのか今のところ、青蔵高原の東部、青海南部高原としてしか分かっていない。川下りをするにあたって、黄河の河源を特定するという作業がある。
そこで、高校時代に使った世界地図(マサミのかな、イッコさんのかな)を引っ張り出す、黄河の河源、黄河の河源とつぶやきながらページをめくるも、ちょっと分かりづらい。次にはパソコンに入っている世界大百科事典、それと図書館から借りてきた、地球の歩き方というような旅行案内、これで少し分かった。河源は、青蔵高原を東西に走る崑崙山脈東部の支脈の中にある。よりズームアップしていえば、黄河の河源は、いずれも支脈を形成するブルハンブダイ(布爾汗達)山脈、バヤンカラ(巴顔喀拉)山脈、アムネマチン(阿尼瑪卿)山脈を結んだエリアの中にある。バヤンカラ山脈の北東部には、氷河をいただくヤホラダッズエ(雅拉達沢)山(5442m)がそびえ立っている。とりあえずこのエリアを、崑崙山脈東部支脈のトライアングルと呼んでおこう。
さらなるズームアップを試みるということであれば、インターネットの世界がある。ここには「先人」の経験、知識、知恵といったものが満ちあふれているように思うけれども、ずぶの素人には迷子になる危険性が多分にある。いずれご厄介になると思うけれども、このあたりで川下りの旅に発つことにする。
2、河源探索2000年、マチューかカルチューか
(1) 崑崙より数千里を潜流、積石山に至り地表に
君見ずや 黄河の水 天上より来るを
奔流し海に到りて 復た廻らず
(将進酒、李白)
李白は、黄河の水は天上より流れ下ると歌う。黄河の源流は何処にあるのか、天上とは何処のことなのか、このことは昔から人々の大きな関心事だった。歴代の王朝を主宰した天子=皇帝は、黄河の河源を特定して河神を祀らねばならない。河源特定の歴史は、2000年以上の長きにもおよんだ。
. 河源特定の仕事は、治水の神でもあり、夏王朝の始祖でもある禹から始まる。中国最古の地誌といわれる「禹貢」(うこう、書経の一篇。禹が洪水を治めて天下を九州に分ち、貢賦を定めたことを記したもの、古代中国の一種の地理書…広辞苑)には、「導河積石」とあり、禹の活躍の舞台は積石山、すなわちアムネマチンまでであったことが示されている。しかし、それから先の黄河の流れについてはふれられていない。
中国古代の神話と地理の書、山や海の動植物や金石草木あるいは怪談を記した「山海経」(せんがいきょう)には、黄河の源は「崑崙より発す」とされている。崑崙とは、中国古代、西方にあると想像された高山である。これを青蔵高原の北縁を走る崑崙山脈というように解すれば、当たらずとも遠からずというところだ。コンロン(崑崙)山脈の東方の支脈は、ブルハンブダイ(布爾汗達)山脈、バヤンカラ(巴顔喀拉)山脈、アムネマチン(阿尼瑪卿)山脈であり、黄河の河源はこの三つの山脈を結んだトライアングルの中にあるからである。
史記の「大宛列伝」には、漢の使者は黄河の源をつきとめた。黄河の源は于?(うてん)から発する。于?の山には硬玉や宝石が多く、それを採取して帰った。天子は古代の地理書を参照して、黄河の発する山を崑崙と名づけることにした、と記されている。古代の地理書とは「禹貢」ないしは「山海経」といったところだろう。于?とは「和?」(ホータン)であり、漢代から宋代にかけての西域諸国の一つ、タリム盆地の南縁、天山南路に実在したオアシス国家だ。水源が崑崙山脈だとすると、黄河の源流はホータン河のほとりという事になり、流れを下っていくとタリム川になる。いずれも崑崙山脈の北側、タクラマカン、西域の世界にステージが拡大される。このことについては、祁 明栄の次の記述がある。「前漢の時、張騫が源流を探索し、今の新疆南部の于?河に至り、そこが黄河の源と思ったので、後世の人は黄河重源潜流説を唱え、河源は新疆南部に発し、東流して羅布泊(ロプノール)に注ぎいり、地下数千里を潜流して、青海省の積石山に至ってまた地表に現れる」(黄河源頭調査報告)。
于?は古来から、崑崙山から運ばれてくる玉の産地として知られている。井上 靖は、歴代皇帝が河源を目指した動機として、玉が河源から産出されたこと、加えて崑崙山には西王母が住んでいて、そこが黄河の河源だという一般的な認識のあったことをあげている。
(2) 聖なる山アムネマチン、河源郡の設置、柏海と星宿海
現在の青海に含まれる地域に、「河源郡」の設けられたのは、601年、隋の文帝の時代のことである(隋書、地理誌)。河源郡が設けられたということは、黄河の源流が「星宿海」の西方に位置していることの、承認につながっていた。黄河重源潜流説の最初の否定であり、黄河の源流が西王母の住む崑崙山にあるというよりは、一歩も二歩も進んだ時代の認識を見て取れる。しかし、そうはいっても「河源郡」という名前を付けただけでは、黄河の源流は西蔵高原の東部にあると言うに等しく、河源の特定という課題は大きく残されていた。
唐王朝の成立した7世紀初頭、黄河の源流は崑崙に連なっているかどうかは別にして、アムネマチンにあるいう考え方が、定着していたようである。雪と氷に閉ざされたアムネマチンは、チベットの人々にとって神々の住まいする聖なる山であった。黄河は400qを越えるアムネマチン山脈の麓を、大きく回り込みながら流れていく。
「空荒の地を行くこと二千里、盛夏にして霜降り水草乏し。兵は氷を粥とす」(唐書、西域伝)、アムネマチンに河源を探った唐の使節の記録である。唐の貞観9年(635)、「新唐書、吐谷渾伝」によると、侯君集と李道宗は命を奉じて吐谷渾の征伐に出かけ、星宿海にいたり黄河の源流をみた。吐谷渾伝には、「侯君集と李道宗は柏海に達した、柏海は河源に近く、古よりここに至る者いまだなし」と記されている。柏海とはオリン湖(鄂陵湖)ないしザリン湖(扎陵湖)のことである。二つの湖は現在の地名の順序からいえば、オリン湖(鄂陵湖)の西方にザリン湖(扎陵湖)があり、その西方に星宿海がある。古代においては、柏海はザリン湖とされ、オリン湖との位置関係が逆になっていたようである。
唐代に入り中原と吐蕃(とばん)との往来が繁くなる。吐蕃とは古代チベットの王国で、唐・宋時代の史書に見える。7世紀初め、ソンツェン・ガンポが建国し、9世紀の頃まで持ちこたえた。ソンツェン・ガンポは、伝説上では23代目といわれるが、実質的にはチベット王国を建てた王だ。ネパールから王女を自らの妃に迎え、641年に唐の太宗に迫ってその女、文成公主を息子クンソン・クンツェンの妃に迎えた。文成公主はクンソン王との間に子供をもうけたが、王が夭逝したため、三年の喪をへて後、復位したソンツェン・ガンポと再婚をした。ソンツェン・ガンポは二人の妃から、中国・ネパールの文物制度を学び、仏教に帰依してチベット文字を制定するなど、吐蕃王国の基を築いたといわれる。文成公主はソンツェン・ガンポの死後も、中国とチベットの架け橋となり、チベットの人たちに尊崇された。現在でも、文成公主はラマ教の尊像として、吉祥天女の生まれ変わりと信じられている。
貞観15年(641)、「旧唐書、吐蕃伝」によると、文成公主が息子の嫁として吐蕃に嫁いだとき、ソンツェン・ガンポは部下を率いて柏海に泊まり、自ら河源まで出迎えに出たと伝えられる。河源とは何処かということでは、それはオリン湖(鄂陵湖)のほとりと考えられている。オリン湖への道は、文成公主を迎えるに際して、ソンツェン・ガンポが開いたといわれ、唐蕃古道の中継地でもあった。
ソンツェン・ガンポにとっては、河源が何処にあるかというようなことは、どうでもよかったのかも知れない。しかし、中原に興亡した諸王朝は、黄河の源流に対して大きな関心を持ち続けた。中原の高い文化水準が、知的欲求として源流問題を求めたということもある、それ以上に中原王朝の周辺民族ないし周辺王朝に対する関心の高さが、そうさせたのだろうと思われる。それと、先に見た河神を祀るという観点が欠かせない。歴代皇帝が、黄河の河源を求めた動機について、陳舜臣は、皇帝が自らの領土の津々浦々まで掌握したいと考えたこと、母なる河である黄河の神を祭る必要があったこと、この二つをあげている。文明を育み、中原をうるおす悠久の流れ、ひとたび怒れば天下を震撼させる黄色い暴れ竜、どちらも黄河であることには変わりはない。歴代の天子=皇帝の心を砕いた理由についても、頷けるものがある。
(3) 燦(さん)として列星の連なるが如し、三筋の川、マチューとカルチュー
太宗の時代になると、オリン湖(鄂陵湖)およびザリン湖(札陵湖)、さらにはその西方にある星宿海のあたりが、黄河の河源として認識されてくる。
元のフビライは、1280年に部下の都実を黄河源流の調査に派遣、「星宿海」を源流と定めた。星宿海は草原と沼沢の多くある盆地である。大小の水面が、月の光を宿して星のように輝くので、星宿海という名がついたといわれる。「燦として列星の連なるが如し」とは、都実の復命にある言葉だ。黄河の河源を星宿海とする時代が長く続く。
康煕43年(1704)、清の康煕帝は拉錫と舒蘭をして、河源にいきつき河神を祭るよう命じた。このときの踏査によって、星宿海より上流に、さらに三筋の川の延びていることが確認された。三筋の河とは、ユェグズォンリェチュー(約古宗列)、カルチュー(?日曲)、ザチュー(扎曲)のことである。ユェグズォンリェチュー(約古宗列)は西方の湿原・大草原に水源を持っていた。カルチュー(?日曲)は、西南に位置するバヤンカラ(巴顔喀拉)山脈に水源を持ち、北から南に流れるザチュー(扎曲)には、特定する水源は見あたらなかった。この時点では、黄河の源流はさらに西に向かって延長した。しかし、三筋の川の河源としての特定はならなかった。
乾隆26年(1782)、清の斉招南により「水道提網」が編纂され、この書物の中に、黄河の河源、ザリン湖(扎陵湖)、オリン湖(鄂陵湖)についての、かなり詳しい記述がみられる。「黄河の源は星宿海の西とバヤンカラ山の麓より出て、二つの泉は数里流れてから合して東南に向かう。これをアルタン河と呼ぶ。…さらに東に数十里流れ、東北に折れて百里流れ、オトンタラすなわち古星宿海に至る」。アルタン河とは、現在のユェグズォンリェチュー(約古宗列)、星宿海を含む湿地帯と理解され、古星宿海は現在の星宿海と理解される。
乾隆47年(1782)、清の乾隆帝は、阿弥達に命じて河神を祭らせるとともに、三筋の川の調査を命じた。この調査結果は「皇中雑記」(作者不詳)に、次のように記されている。「オトンタラには三本の流れがあり、北面からと中間を流れる水系は緑色で、西南から流れる水系は黄色である。流れに沿って四十里歩くと、水は伏流して地に入り、その痕跡に沿って二十里いくとまた黄色の流れが湧き出し、さらに三十里流れてガダスーチーラオ地方に至る。これは西蔵へ通じる大道である。西側の山には山間から泉が流れ出し、水は黄色でモンゴルなどにたずね、その流れはアンタンクオレ(阿勒担郭勒)でこれが河源である」。ここでは三筋の川、すなわちザチュー(扎曲)、マチュー(瑪曲)、カルチュー(?日曲)の存在が明確に記され、結論的にはカルチューが河源とされている。
さらに阿弥達の復命書には次の記述がみられる。「アレタンクオルの西に数丈の巨石あり、名をアレタンガダスーチーラオといい、モンゴル語でガダスーは北極星のことである。チーラオは石のことで、その断崖は黄赤色をし、壁の上は天池で、池の中に泉が噴き出し、ぱっと散って金色を呈し、アレタンクオレに入る。これすなわち黄河の真の上源である」。
三筋の川の調査結果は、カルチューを黄河の源流とするものであった。「カル」とはチベット語で「赤銅色」を意味する。乾隆帝の編纂した「河源史」に見る阿弥達の復命は、はるか草原の彼方に高さ数丈の巨岩があり、その上の澄んだ池から黄河は流れ出していた。ただし、阿弥達の復命書にたいしては、黄 盛章の手厳しい批判がある。「彼はカルチューに沿って百里ほどしか歩かず、行く先にはみな源頭ではなく、西面はまさに河水が絶え間なく流れ出てくるところであり、河道は断たれていないのに、どうしてガダスーチーラオの巨石と壁上天池を据え置いたのだろう。これはすべて彼の捏造によるものである」(黄河源流地域の歴史地理問題と測量地図新考)。
新中国が誕生して三年後の1952年、黄河の河源を特定するための、四カ月にわたる調査が行われ、結果的にはユェグズォンリェ(約古宗列)チューが源流とされた。ユェグズォンリェとは、チベット語で「裸麦を炒める鍋」の意である。河源探索がここまできた歴史的経緯をふまえて、ユェグズォンリェチューをマチュー(瑪曲)と言い換えても差し支えはないだろう。
しかし、新中国は1978年、再度河源特定のための調査隊を編成した。この時は前回の結果とは異なり、カルチュー(?日曲)が源流であるとされた。この時点で明確にされたことは、三筋の川の内、ザチュー(扎曲)が河源の対象から外されたことだけであった。調査結果の概要はおよそ次の通りである。(1)黄河上流には三つの源がある。ザチュー、マチュー(ユェグズォンリェチュー)、カルチューである。ザチューはマチューより30キロ〜40キロ短い。かつては年間水をたたえていたようであるが、近年は川底が露出している。カルチューはマチューより25キロ長く、その合流する付近の流量はマチューの二倍もある。水源の流出量では、カルチューの湧水が旺盛で、マチューは干ばつの時に川底が表れることがある。流域面積では、カルチューの方がマチューより700平方キロも大きい。(2)水源としてのヤホラダッズエ(雅拉達沢)山(5442m)とユェグズォンリェ(約古宗列)チューは無関係である。両者は不透水の岩層によって隔てられている。水流はこの分水嶺を通過できない。カルチューを河源とすれば、ゴツゴヤ(各姿雅)北麓に源を発することになる。
源流を定める場合、どちらか長い方の支流を選択するという原則がある。しかし、流れと流れの間に、沼沢地や湖沼が介在する場合、なかなかにして定めがたいという現実もまたある。世界の最長河川の、ミシシッピー川からアマゾン川へ、さらにはナイル川へという変遷の経緯が、このことを物語っている。
カルチューとマチューつまりはユェグズォンリェチュー、どちらを黄河の源流とするのか。新中国になっても、実質的には、黄河には西と北の源流があるのだという、いわゆる両論併記の位置づけが長い期間に渡って続けられた。
1985年の三度目の調査によって、この問題には終止符が打たれた、ということになった。結論的にいえば、黄河の河源は、星宿海の西方、ヤホラダッズエ(雅拉達沢)山(5442m)の東麓30qのところ、ユェグズォンリェ(約古宗列)盆地の南西隅にある。ヤホラダッズエ山は、崑崙山脈の支脈であるバヤンカラ(巴顔喀拉)山脈に属することは、先に見たとおりである。
ユェグズォンリェ盆地を河源とする流れを、裸麦を炒る鍋という名称と同じくしてしまえば、ユェグズォンリェチューは星宿海において、カルチュー(?日曲)とザチュー(扎曲)をあわせ、マチュー(瑪曲)と名前を変えて黄河の本流となる。ユェグズォンリェ盆地を河源とする流れを、はじめからマチューといってしまえば、それはそれでかまわない。
三筋の川の優劣については、「黄河水利委員会」の河源特定調査に合流した、「日中共同取材班」の報告記事がある。1978年の調査報告と何処が違うのか、カルチューがマチューに置き換えられただけ、というような気もする。
「源流域の黄河をチベット族は『マチュー(瑪曲)』と呼ぶ。源流は星宿海付近から三つの大きな流れ、ザチュー(扎曲)、カルチュー(?日曲)、マチューに分かれている。そのいずれの流れが黄河の本当の河源なのか、今日まで論争が続いていた。カルチューはマチュー、ザチューよりもほんの少しだが長く、逆に流域面積ではマチューがザチューを合してカルチャーを凌ぐ。今回日中共同取材班と合流した中国政府直属の黄河水利委員会は、調査の結果、マチューの水源を黄河の真の源と定め、その清流の湧き出す場所に『黄河源』と書いた碑を建てた。チベット族は『マチュー・チューゴー』(この世で最も美しい河の源)と呼ぶ。その地点は海抜四千五百七十五メートル、北緯三十五度一分三秒、東経九十五度五十九分二十四秒である」(大黄河、NHK出版)
(4) バヤンカラ山脈の東麓 、ヤホラダッズエ(雅拉達沢)山、裸麦を炒める鍋
黄河の河源の問題については、決着がついたということも出来る。しかし、未だ決着がついていないと言っても、それは誤りではない。見解の違いは、「源流を定める場合、どちらか長い方の支流を選択するという原則」、および「カルチューはマチュー、ザチューよりもほんの少しだが長く、逆に流域面積ではマチューがザチューを合してカルチューを凌ぐ」(大黄河、NHK出版)、というあたりの事情に起因する。NHK取材班の報告は、「黄河水利委員会」が、「マチューの水源を黄河の真の源と定め、その清流の湧き出す場所に『黄河源』と書いた碑を建てた」としている。さらに、ユェグズォンリェ盆地を黄河の源流とする見解は、「世界大百科事典」にも掲載されている。そのまま引用すると、次のようである。
「河源が科学的な実地調査により確定したのは解放後のことである。崑崙山脈の一脈である青海省中部の巴顔喀拉山脈の雅拉達沢山の東麓約30qにある約古宗列(青?、大麦の一種を炒る鍋の意)盆地の南西隅が黄河の発源地で、源流はチベット族より瑪曲(孔雀河の意味)と呼ばれる」(河野通博、黄河)。
けれども、マチューないしユェグズォンリェチューを、黄河の唯一の河源とする見解に、異議を唱えることは難しいことではない。「黄河水利委員会」が認めたという「真の源」も、仮説の域を出ていないからである。「はるかなる大河の源」(魯忠民、人民中国)での記述は次のようである。
「星宿海に流れ込む三筋の川のうち、最も北のズァ川は水が少なく、これを源流とする者はいない。チベット語で赤銅色という意味のカル川は、海抜四八三〇メートル、山からの泉を源としている。ユェグズォンリェとはチベット語で『ハダカムギを炒める鍋』の
意味で、東西四〇キロ、南北約六〇キロの広さの盆地に百以上の小さな湖が点在している。川は盆地の西南部を蛇行し、その源が黄河の北の源となる」。
この記事では、黄河の河源は「どちらが源であるのか、学会でも論議があるが、現在、多くは南北二つの源があるとしている」、というように位置づけられている。そして、NHK取材班の報告にある「黄河源」の碑についても、「チベット族の遊牧民が黄河への敬意を表して牛の角を飾ったところから、一筋のきれいな泉が流れ出ている」と、ひかえめに表現されている。
さらに、「チベット」(旅行人、2002.07.25)における、「マトウから黄河源流へ」の地図の書き込みには、次の記述がある。
「源流の記念碑は2カ所ある。@NHK『大黄河』取材のとき立てた記念碑が取り除かれ、その後に中国側が立てた。Aその後、中国側が立てた」。なるほど、マトウから黄河源流への地図を見ると、オリン湖とザリン湖の間に立っている「黄河源頭記念碑」は別にして、マチューはすなわちユェグズォンリェチューの河源(北の源)と、その南側に位置する「海抜四八三〇メートル、山からの泉を源とする」、カルチューの河源が、「黄河源流@」、「黄河源流A」として、揃って並べられている。
最後に「中国西北観光地図」(中華人民共和国国家旅遊局、1991)、「長江・黄河の源」の項を、参考としてあげておく。何年か前、シルクロードを旅したときにもらった資料である。
「黄河の源はバエングラ山の北麓で東西の長さ40キロ、南北の長さ60キロの楕円形をした盆地です。その中には100を越える小さな池がまるで星のように点在しています。盆地の西南部に3〜4平方メートルのごく小さな泉があって、泉水がたえず噴き出しています。この泉水が盆地内の池の水といっしょになって細い流れをなし、やがて幅10メートル、深さ50センチの渓流を形作っていますが、これが黄河の源なのです」。
バエングラ山とはパインハルないしはバヤンカラ(巴顔喀拉)山脈のことである。「東西の長さ40キロ、南北の長さ60キロの楕円形」とは、ユェグズォンリェ(約古宗列)盆地のことだである。とすると、黄河の河源はユェグズォンリェチュー(マチュー)ということになる。
黄河の源流を特定する作業は、歴史的経緯も含めて、それなりに煮詰まって来ている。だからといって、どちらかに軍配を上げるようなことは、あえてしない方がいいようにも思う。わいわい言うほどの意味合いは無いのかも知れない。黄河の源流は、ブルハンブダイ(布爾汗達)山脈、バヤンカラ(巴顔喀拉)山脈、アムネマチン(阿尼瑪卿)山脈を結ぶ、トライアングルにあるといってもいいし、さらに絞って崑崙山脈の支脈である、バヤンカラ(巴顔喀拉)山脈の北麓ないし東北麓にあるといってもいい。
黄河の源流を特定する作業、一般的にいえば、黄河の流路を特定するというような作業によって、大地に横たわる巨大な竜を決めつけてしまうというような試み自体、無理があるのだろう。有史年代でいえば、暴れ竜の軌跡、流路の変遷は枚挙するに暇の無いほどである。地質年代においてはなおさら、ゴンドワナ地塊群が南から北へ流れる中で、源流を含めて流路は幾たび変更を余儀なくされたことか。悠久を生きる大地の竜を、一日を生きる人間の営みと同日の談には出来ないように思う。
[2] アムネマチン山脈とバヤンカラ山脈との間
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1、この世で最も美しい河マチュー
(1) 三筋の河は、一筋の流れになって
清冽な水がわき出す小さな泉、その先に流れはない。チベット遊牧民が、黄河に敬意を表して飾ったといわれる、大きなヤクの角の下から、冷たい水がこんこんとわき出しているだけである。
草原の彼方、北の方角には、はるかに望まれるアムネマチンの山並み、青い空を切り取って白く輝く万年雪。西の方角には茫々とした湿原が続く。バヤンカラの山並み、夕日に浮かび上がるバラ色の氷河。湿原は、ヤホラダッズエ山(雅拉達沢山)の麓へと延びている。ヤホラダッズエ山は、バヤンカラ(巴顔喀拉)山脈のものだ。トライアングルを構成する、崑崙山脈東方の支脈、バヤンカラ(巴顔喀拉)山脈とアムネマチン(阿尼瑪卿)山脈の万年雪こそが、裸麦を炒める鍋、ユエグズオンリエ(約古宗列)盆地を含む、黄河最上流域の湿原の源泉である。
大きなヤクの角を背にして前方の方角には、なだらかな草原が何処までも続いている。トライアングルは東南の方角に開けており、この方角はアムネマチン(阿尼瑪卿)山脈とバヤンカラ(巴顔喀拉)山脈の間に開けたエリアであり、したがってマチューはこの方角に規定されて流路を取っていくこととなる。
小さな泉の地点は、「大黄河」(NHK出版)によれば、海抜4575m、北緯35度1分3秒、東経95度59分24秒であり、この地点に漢字で「黄河源」、およびチベット語で「マチュー、チューゴウ(この世で最も美しい河の源)」と書いた、黄河源流の碑が建てられている。しかし先に見たとおり、この碑はその後取り除かれて建て直され、それほど離れていない地点にもう一つ、黄河源流の碑が建てられた。
二つの地点は、ユエグズオンリエ(約古宗列)盆地における、マチュー(瑪曲)の二つの流れ、濫觴として理解される。こうなってみると、河源を特定するという歴史的な作業は、すでに終点を通り越してしまっているというようにも思う。カルチューが流れ出している湿原地帯にも同じような事情はあるだろうし、マチューと同様、いくつかの源流の碑を建てることは可能である。それに河神を祭るに河源の特定を望んだ歴代皇帝も、歴史の舞台から姿を消して久しい。自然に対する知的欲求、知的探求といった課題が残されているとしても、それはそれ、関心の所在に従って追求していけばいいだけ話ではないか。そんなようにも思う。
ここでは、ユエグズオンリエチューとカルチューを一括し、カルチューとして見ていきたい。どちらが河源であるかについては、先に見たとおりであるし、二つの川はともにバヤンカラ(巴顔喀拉)山脈に河源を持っており、せんじつめればヤホラダッズエ山ないしゴツゴヤ(各姿雅)北麓の万年雪、氷河を水源にしていることに違いはないからである。大きくいえば、黄河の濫觴は、アムネマチン(阿尼瑪卿)山脈およびバヤンカラ(巴顔喀拉)山脈にかかる氷河、万年雪に規定されているということである。さらに、ユエグズオンリエチューとカルチューは、星宿海においてザチュー(扎曲)を加えて一本の川となり、とどのつまりはマチュー(瑪曲)と名を変え、黄河の源流として流れていく。
(2) 細流が網の目のように、一日の内に四季を見る
青蔵高原の東端、ブルハンブダイ(布爾汗達)山脈、バヤンカラ(巴顔喀拉)山脈、アムネマチン(阿尼瑪卿)山脈によってつくり出されたトライアングルは、その出口を東南に向けて開いている。
7月半ばといえば、チベット高原では夏、裸麦を炒める鍋に川霧が立つ。東西40q、南北60q、ユエグズオンリエ盆地には百個以上の湖沼が散らばっている。ヤホラダッズエ山を水がめとして、膨大な伏流水をため込んだ天然の貯水池でもある。
河源から10qぐらいのところまで、マチューは、幾筋もの川の束のようになって流れる。本流を囲む細流の束が、幾重にも折れ曲がり、枝分かれを繰り返しながら流れる。網の目のように草原をおおいながら、東へ向かって流れ始める。幾筋もの流れは、あるいは地中に没して伏流水となり、あるいは細流を集めてひと筋の帯となり、草原を流れ下る。
なだらかな丘陵と沼沢の広がる大草原、淡い夏の日を受けてきらきらとかがやくマチュー。わたる風にそよぐ花、高度4500mの高原にある静かな世界。唐の李白は、ユエグズオンリエ盆地に足を踏み入れるすべもなかったし、人づてに聞くすべも持たなかっただろう。しかし、君見ずや 黄河の水 天上より来たるを、と歌う。詩人の感性の鋭さ、直感のひらめきとでもいうのか。奔流し海に到りて 復た廻らず、とも歌う。ヤホラダッズエ山の東麓からわき出した清冽な水は、5400qにおよぶ流路をたどり、およそ一ヶ月をかけて渤海に流れ入る。
ユエグズオンリエ盆地では、一日の内に四季を見ることが出来る。6月から7月は春と夏の季節、盆地は淡い緑におおわれる。雨が降ると盆地はたちまちにして泥沼、気温もたちまちにして零度以下に下がる。雨は霰に変わり、ミゾレとなり、果ては雪となる。ぬかるみを凍てつき、緑のベールは白銀の世界に一変する。幾筋もの細流の束、マチューは雪の大地を割って流れる。雪が降り止み、太陽が昇る。草原には陽炎が立ち上り、またたく間に緑の大草原、のどやかな景色に変わっていく。ぬかるみがあちこちに出来て、細流が草原を包み込む。不思議な天上の世界だ。
2、星宿海・ザリン湖・オリン湖
(1) 星宿海、満天の星を抱いて
河源から120q、燦として列星の連なるが如し、星宿海である。名の如く、大小の湖沼に月の光が映じて、星のようにかがやく。「大黄河」(NHK出版)では、星宿海を次のように描写している。「ザリン、オリンの二つの湖の西に広がる沼沢、湿地帯である星宿海。夜は満の星を映して輝くといい、また満天の星がしだいに消えていくとき、曙の光の中で輝き始める地上の星空だという」。
星宿海が黄河の源と考えられていた時代もあった。13世紀、フビライの使節、都実は、星のように輝く湖沼の中で、黄河の源流を見失い、星宿海をもって黄河の濫觴と信じたのであった。
満天の星を抱いて、いたるところにわき出す清冽な泉。細流を集め、川幅10m以上に生長した青い流れ、マチュー(瑪曲)およびカルチュー(?日曲)は、星宿海において北方より流れ込んでくるザチュー(扎曲)をあわせ、新たな名称をマチュー(瑪曲)として東に向かって流れ出す。
ユエグズオンリエ川が星宿海において、カルチュー、ザチューと合流し、マチューに変わったといってもいいし、清の拉錫による康煕帝への復命、星宿海の上流に三筋の河が注いでいる、の再認識であるといってもいい。
チベット語で「マ」とは美しい、「チュー」とは河の意味である。チベット遊牧民にとって、黄河最上流域の青く澄んだ流れは、この世の最も美しい河として映じたということなのだろう。
(2) 白く長い湖ザリン、青く長い湖オリン
美しい湖沼が点在する星宿海、三筋の川をあわせたマチューは、東へ流れておよそ20q〜30qの地点で、ザリン湖(扎陵湖)の西端に流れ込む。ザリンとはチベット語で灰色の長い湖、白い水というような意味である。湖面の広さは542平方q、琵琶湖は670平方qだから、少し小さい程度、いやかなり大きい湖だというべきだろう。
水深はそれほどない、最深部で13m、大部分は2m以下である。このことはザリン湖がオリン湖も含めて、断層湖といった構造的な性格を持つものではなく、ユエグズオンリエ盆地(裸麦を炒める鍋)、星宿海といった湖沼群の延長線上に形成されたことを物語っている。だから、ザリン湖は、したがってオリン湖も、黄河の一部、あるいは黄河の源流そのものであるといっても、それは間違いではない。
青い流れマチューは、ザリン湖の南端から流れ出し、およそ10qほどしてオリン湖(鄂陵湖)の西南端にはいる。この間、南の方、バヤンカラ(巴顔喀拉)山脈ないしバヤンカラ山(5082m)から流れ出てくる支流をおさめる。
オリン湖はザリン湖よりも若干大きく、面積は611平方qである。オリンとはチベット語で曙の空のような青い色のこと、ないしは青く長い湖のことである。周囲は小高い丘陵状の山々に囲まれ、はるか北東には崑崙山脈の支脈、ホシフル(可可西里)山脈、ブルハンブダイ(布爾汗布達)山脈、アムネマチン(阿尼瑪卿)山脈、果てはその延長線上にある祁連山脈のあたりまでも望むことが出来る。
ザリン湖、オリン湖は、いわば双子の湖、高度3300m、世界で最も高いところにある淡水湖だ。黄河の抱える最大の湖ということでもある。黄河の探索にかかわっていえば、ザリンの白い水とオリンの青い水は、白ナイルと青ナイルの流れを連想させて、何となく面白い。
マチューは、オリン湖の北端、魚場といわれるあたりから、再び流れ出す。マチューの清冽な水が流れ出ているのを見て、唐の使節はオリン湖を黄河の源としたのであろうし、唐蕃古道を開いたソンツェン・ガンポが、オリン湖のほとりで文成公主を迎えたことも、オリン湖河源説の支えになっていたことだろう。文成公主は、チベットに始めて仏教をもたらした者として尊崇され、菩薩の生まれ変わりと信じられている。湖の西側にある小高い丘の頂には、「黄河源頭記念碑」が建てられており、この地点からはオリン湖が一望できる。丘を下った擦沢という小さな集落、つまりはオリン湖のほとりには、ラマ教の寺院、ゴンパがあって、いくつかのオボが積み上げられている。オボとは祈りの石塚、ラマ教における大地信仰のシンボルでもある。ここを通り過ぎる者は、オボのまわりを三回まわって旅の安全を祈る。
(3) 青蔵高原の短い夏、ケシの花が揺れる
大気は透きとおり、湖面は空の色を映してあくまで青く、遠く続く丘陵が雲を浮かべて、紫紺のベールに煙っている。いろあざやかな季節、赤、白、紫、青、黄色など、とりどりの花が咲きそろい、風に揺らいでいる。ウスユキソウ、アズマギク、リンドウ、ハハコグサ、レンゲの仲間、トキガイソウ、そしてケシの花。ブルーポピーは「ヒマラヤの幻の花」、ここ彼処に咲いている。ブルーといっても、淡いブルー、濃いブルー、紫がかったブルー、それにレッドポピー、イエローポピー、いろいろだ。
ザリン湖とオリン湖のほとりは、動物たち、鳥たちの楽園だ。天上の世界、静かな世界ではあるけれど、決して沈黙の世界ではない。恋の季節を迎えたチベットナキウサギ、あちこちの巣穴から顔をのぞかで、チチッ、チチッと売り込みに余念がない。こげ茶のチベットスナギツネ、人をおそれない。子供を連れたクチジロジカの群れ、斜面を駆け下りて、冷たい湖にざぶんと飛び込み、草を求めて島から島へと渡り歩く。草原に目をやれば、チベットガゼル、カモシカの仲間だ。山麓に欠けては、野生のヤクの群れ、何ものをもおそれない。子供を連れた野生のチベットロバ、気の荒いオオカミもいる。
湖に棲む湟魚(こうぎょ)というウロコのない魚、頭が大きくてナマズのようだ。漢族は食べるけれども、チベット族は聖なる魚として食用には供しない。
雪が消えて2ヶ月、ヒマラヤ山脈を越えてやってきたインドガン、朝日を浴びて水面に翼を休める。五月にやってきて雛をかえし、十月にインドへ帰っていく。長安へ便りを届ける、文成公主の雁の使いともいわれる。オリン湖の落日、真っ赤に染まる湖面、鳴き交わすカモメとカワウのシルエット、空いっぱいに広がる。ザリン湖のほとり、翼を広げて風に舞う、草原の鳥クロクビヅル、王者の風格がある。大空にはオオワシとオオタカ、キスジハヤブサも舞う。
3、チベット高原にひらけた自由の天地
(1) 初めての町マトウ(麻多)、山と川と草原を結ぶ
河源からおよそ50qの地点、マチューのほとりに町の灯が見えてくる。町の名前はマトウ(麻多)である。町とはいっても名ばかり、チベット族の遊牧民数家族がテントを張り、時折馬に乗ったチベットの行商人が訪ねてくるといった程度の、いわば集落である。とはいえ、黄河流域に居住する人口は1億1000万人にのぼるけれども、マトウは黄河が人々に提供した、最初のゆりかご、やすらぎの場所であるということは、留意されておくべきだろう。
黄河源流域を巻くようにして、一本の道路が走っている。ザリン湖、オリン湖の北側を通り、青い流れマチューに沿って星宿海を抜け、マトウ(麻多)に至り、さらにマトウからユエグズオンリエ盆地(裸麦を炒める鍋)を横切って、東南に延びている。このルートを「チベット」(旅行人)によってたどってみよう。マトウ(麻多)からマトウ(瑪多)までのルートは「トラックで一日。ただし、雨期は通れない」、「八月下旬は通れた」、「ここまで道がはっきりしている」といったコメントが付されている。マトウ(麻多)からは南西方面にもルートがつけられている。「道なき道をトラックで丸一日。トラックの便はめったにない」、たどり着いた町は「招待所あり。ちょっとした売店もある」チュマルレブ(曲麻莱)である。この町はバヤンカラ山脈の向こう側にある。チュマルレブ(曲麻莱)から道は二手に分かれ、そのまま南西に進んでいくとジドオ(治多)に達する。チュマルレブ(曲麻莱)からバヤンカラ山脈の麓を南東へ進むと、雅?江の上流にあるドムダ(清水河)にぶつかり、川沿いに左に折れると、パィエンハリ(バヤンカラ)峠を越え、バヤンカラ山(巴顔喀拉、5082)の東麓をまわってマトウ(瑪多)にたどり着く。そのまままっすぐに雅?江を下り、右へそれて通天河を渡ると、そこはレジェンド(玉樹)である。ジドオ(治多)からは、通天河のほとりをレジェンド(玉樹)に続く道路が開かれている。これらのルートによって確認されることは、この地に住むチベットの人々が、黄河上流域ないし長江上流域を、自らのものとしているということだろう。
ただし、これらの道路は年中利用するわけにはいかないし、通常の交通手段とは言い難いところがある。ましてや、外部からチベットを訪れたものにとっては、なかなかにして利用できるものではない。6月〜8月の雨期に入ると、道路はぬかるみと化して、トラックでさえも前に進むことは出来ない。冬は冷たい風が吹き、道路は雪の下に隠れてしまう。チベットの短い春と秋、一日に四季が訪れるという気象条件、旅程は困難を極めるというべきだろう。いわば道なき道、宿泊施設もなく、無理をすると遭難ということにもなりかねない。現在においても、このような交通状況であるとすれば、歴代王朝の河源探索の困難性、危険性は推して知るべしだろう。
しかし、チベット遊牧民に即していえば、事情は全くといっていいほど異なる。漢族が黄河中・下流域を天地としたように、マチューの流域は彼らの天地であった。青蔵高原の平均気温はマイナス4度であり、夏でもみぞれ交じりの雨が降る。マチューは、11月から半年間は氷に閉ざされる。
それでも女たちはヤク(チベット牛)の乳を搾り、バターを作り、チーズを作り、チベット小麦を石臼でひき、麦焦がしを作り、子供を育てた。男たちは、太陽の出から、遅い日が沈む夜の八時頃まで、草を求めてヒツジを追った。遊牧の移動回数は、年間4度程度、千古易(か)わることのない暮らしであった。チベット遊牧民の交通手段は、ヤクとウマと自らの足であり、住まいはヤクの毛で作ったテント、彼らはかまどだけ残して、何処へでも行くことが出来た。黄河上流域は、チベット族、チベット遊牧民の、自由な天地であった。
(2) 人々の行き交う町マトウ(瑪多)、ラサへのルートに連結
マチューはオリン湖の北端から東南の方向に流れ出す。60qほどして、黄河上流の最初の町らしい町、マトウ(瑪多)に達する。濫觴とは、長江も水源にさかのぼれば、觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの小川であるとの意であるが、この言葉はズオンリエ盆地(裸麦を炒る鍋)、天上より流れてきたマチューについても当てはまる。マトウにおける青く澄んだ流れ、とうとうと流れゆくマチューは、川幅40m、黄河の源流はようやくにして大河の趣を呈してくる。
マトウ(瑪多)は人口およそ1000人、かつてはマチューのほとりにあったが、北からの強い風を避けて、南よりの小高い山の麓に移転した町である。標高4270m、夏でも雪が降るという厳しい自然条件は変わっていないが、いっぱしの町としての体裁は整えられている。武装警察、魚産公司、公安局、人民武装部、地方税務局などの政府機関をはじめとして、小学校、中学校、病院、銀行、旅館といった施設も整備されている。そしてマトウは、チベット遊牧民の交易センターとも言うべき性格を保持している。遊牧民はヤク、ウマ、ヒツジ、チベット小麦、脱脂チーズ、バター、ヤクの毛で編んだテント、羊毛、絨毯などを持ち込み、日曜生活品をはじめ、ラジオ、ミシンまでもここで手に入れる。遊牧民千古変わらぬ自給自足の生活はあるのだけれど、市場化の波はひたひたとして押し寄せてきている、というべきかも知れない。とはいえ、遊牧民の生活のステージが、マトウ(瑪多)の市街地に限られてきているわけではない。自給自足を基調とするチベットの人たちには、ヤクの毛で織ったテントと土で作ったカマドがふさわしい。
マトウ(瑪多)が何故に人々を引きつけるのか。このことについては、さしあたって次のことをあげることができよう。第一には、より西方に立地するマトウ(麻多)を射程に入れていることだ。このことによってマトウ(瑪多)は、裸麦を炒める鍋、星宿海、オリン湖(鄂陵湖)、ザリン湖(扎陵湖)の、計り知れない富をも引きつけている。
第二には、アムネマチン山脈を80キロほど入った花石峡(4150)を経由して、ラサ(拉薩)に通じる北方ルートに連結していることである。北方ルートとは、蘭州→西寧(湟水)→(青海湖の南を通って)ゴルムド(格爾木)→(崑崙山脈を越えて)沱沱河沿→(タングラ山脈を越えて)アムド(安多)→(ニエンチェンタングラ山脈を越えて)ラサ(拉薩)に到るルートである。アジアの大河に即して云えば、長江(沱沱河、通天河、金沙江)および怒江(サルウィン川)の支流を、何本も何本も越えていく。
青蔵高原においては、全ての道がラサ(拉薩)に通じている。北方ルートに即して云えば、西寧(湟水)にはゲルク派の大寺であるタール寺(チベット語でクンブム、十万の獅子吼する仏像の寺の意)があって、青海地方に絶大な力を有している。そしてラサ(拉薩)には、ツォンカバが創立したゲルク派の総本山ガンデン寺がある。北方ルートを往来する人の数もさることながら、このルートを膨大なものが往来することも、また事実である。わがマトウ(瑪多)は、主要な中継地ではないけれど、北方ルートに連なっていることだけは、確かなことである。
第三には、花石峡を通じて、そこからアムネマチン山脈の西麓を通り抜けて、あるいは青き流れマチューそのものを下って、200キロ離れたダーリ(達日)へ出ることができることだ。マトウ(瑪多)はこのことによって、河源を含むトライアングルの、山と河と草原を結ぶルートの、結節点としての位置を獲得したといえるだろう。江沢民の西部大開発が喧伝される中で、結果としての是非はさておくとして、マトウ(瑪多)は今後、さらなる脚光を浴びずにはいないだろうと思われる。
(3) 羊の背に乗って河を下る、ヤンピーファーズ
マチューすなわち黄河は、ヤホラダッズェ山(雅拉達沢、5202)を水源とし、裸麦を炒める鍋、ユエグズオンリエ盆地を網の目のように流れて、青く澄んだ白い流れを作り出す。やがてマチューは、裸麦を炒める鍋の延長線上にある、星々の界、星宿海に入る。燦として列星の連なるが如し。ついではザリン湖(扎陵湖)、オリン湖(鄂陵湖)をくぐり抜ける。クチジロジカの泳ぎ渡る、インドガンの飛び交う二つの湖は、マチューの流れそのものだ。
チベット遊牧民の交易センターとも云うべき、マトウ(瑪多)にいたり、ようやくにしてマチューは大河のおもむきを示し始める。マトウ(瑪多)の町から南西に5キロ、「黄河大橋」は、マチューの流れにかけられた、鉄筋コンクリートによる最初の大橋である。全長84m、今から五十年ほど前に完成されている。マチューに沿ってさらに流れを下っていくと、右手にいくつかの湖が見えてきて、やがてアヨンゴンマ湖に行き着く。この湖には半島が突き出ていて、夏には放牧が行われる。アヨンゴンマ湖は、ザリン湖(扎陵湖)、オリン湖(鄂陵湖)から続いている湖沼群に含まれていて、マチューの一部であると言っても間違いではない。
音を立てて流れるマチュー。いくつかの細流の束より、40mの川幅を持つにいたった、青き流れマチュー。これからのマチューは、バヤンカラ(巴顔喀拉)山脈とアムネマチン(阿尼瑪卿)山脈との間に、深い峡谷を刻みながら、アムネマチンの突端までの400キロを流れ下る。
アムネマチンはオリン湖(鄂陵湖)およびザリン湖(扎陵湖)の北方ないし北東に延びる大きな山脈で、青蔵高原東部を北西から南東へ延びる東コンロン(崑崙)山脈の北支脈でもある。中国語で積石(しせき)山ともいい、全長400q、10余りの山峰からなり、主峰はマチエンガンリ(瑪縁崗日)山(6282m)である。アムネマチンはチベット語で「祖先の大祖」の意があるといい、遠い昔から神々の宿る山として、チベットの人たちの聖なる山とされてきた。氷河やU字谷が発達し、黄河がこの山脈の東端を360度回転して回り込むことから、「禹貢」では積石山が黄河の河源であるとされていた。
バヤンカラ山脈は、青蔵高原東部において、アムネマチン山脈と並び立ち、黄河水系と長江水系、メコン川水系、サルウィン川水系との分水嶺をなしている。バヤンカラ山脈北麓からは、黄河の源流の一つカルチューが流れだし、南麓からは長江の上流である通天河、メコン川の上流である瀾滄江、サルウィン川の上流である怒江が流れ出している。
さて、これからアムネマチンの先端までの400キロを、陸路をとって下るべきか、水路をとって下るべきか。陸路について云えば、マトウ(瑪多)からダーリ(達日)までは、4000mの高地にある花石峡を経由して、アムニエ・マチェン山(マチェンガンリ、瑪縁崗日、6282)の西南を通って、中心站(4211)、上貢麻へと抜ける、比較的走りやすい道路が通っている。さらに、中間地点ダーリ(達日)から、先端の町タンゴル(唐克)までは、ジッジ(久治)を経由して大渡河のほとりアワ(阿覇)に行き着き、スンパン(松潘)湿原に入って紅原に出る道がある。
水路については、あれこれ云うことはない。マチューの流れに沿って下ればいいだけの話である。ただ交通手段が問題となる。陸路の交通手段としては、徒歩、馬、ヤク、四輪駆動のジープ、トラック、バスといったところだが、水路となるといささかややこしい。遊覧船というわけにはいかないから、丸木船、筏などいくつか考えられるが、この地の人々は羊の背に乗って、河を横切り、河を下りる。「ヤンピーファーズ」(羊皮筏)だ。われわれもヤンピーファーズでマチューを下ることにする。おそれることは何もない、急場にかかって窮したときは、ジオ・ポエムの翼に飛び移ればいい。
ヤンピーファーズとは、頭と蹄を切り落とした羊の浮き袋を、5〜6頭分並べて縛り付け、その上に細い丸材で1.5m四方の枠組みを取り付けたものである。こぎ手は通常二人、5〜6人を向こう岸へ渡す。ヤクや馬は筏につないで泳がせ、オールで操りながら、急流を斜めに横切る。羊の頭数を増やせば、10人ぐらいは十分に可能である。浮き袋は羊1頭分の皮を裏返して、塩をすり込み、片足から息を吹き込んで作る。浮き袋は通常羊が使われるが、ヤクや山羊で代用されることもあるという。
いつの間にか、マチューの川幅は100mを越えている。馬の尻尾にすがって急流を乗り切る旅人、行商人、ラマ、巡礼途上の遊牧民と言ったところだろう。頭の上に皮袋につつんだ荷をくくりつけ、悪霊をはらうという呪あるいは真言を声高に唱えながら、青い流れを斜めに突っ切り、飄然と立ち去っていく。
バヤンカラの東南麓に開けた草原、ラマ僧の読経の声が流れる。チベット遊牧民のウエディング、緑の風に吹かれて二つのテント、一つのテントには花嫁の身内の女たち、もう一つのテントには花婿の身内の女たち。草原の彼方から姿を現す男たち、贈り物を交換して後、婚礼の儀式へ。羊がほうられ、ヤクの乳でかもされた酒がふるまわれる。ウエディングの宴、女たちが歌い男たちが踊る、女たちが踊り男たちが歌う。かつてのテチス海の底、尾根と尾根の間に広がる自由の天地、ここには遊牧民の世界が開けている。
高い尾根をジャコウジカの群れがよぎる。薬草を求めて山には入る薬師たち。秘薬中の秘薬といわれる雪蓮、紫色の花をつける。大黄、冬虫夏草、いずれも滋養強壮薬だ。これらの薬草に、山査子の実、ウサギの心臓、黒真珠、恐竜の骨といったものが加えれられ、石臼で粉末にされると、秘薬性はさらに増幅される。アムネマチンは薬草の宝庫だ。
砂金採りに精を出すチベットの家族、川砂をすくい上げ、樋を通して揺り鉢に入れ、澄んだ黄河の水で粘土や土砂を洗い落とす。ユーコン川やフレーザー川のゴールドラッシュというわけにはいかない。夫婦と子供三人、一日飢えをしのげるぐらいの稼ぎはある。そういえば、バヤンカラ山脈を隔てて達日(ダーリ)とほぼ同緯度にある玉樹から、長江の流れは通天河から金沙江へと名前を変える。金沙江の名前の由来は、この川から砂金がとれることにあり、「天工開物」(宋応星)には、水中からとれる金は、金沙江の数カ所におよぶことが、記されている。青蔵高原の東端に河源をもつ二つの大河、ダーリ(達日)、ジェクンド(玉樹)のあたりまでは、バヤンカラ山脈をはさんで、兄弟のように流れ下っている。金沙江で砂金がとれるならば、マチューで砂金がとれたとしても、何の不思議もない。
二つの山脈の間を岩をかんで流れるマチュー、ウマの尻尾にすがり、頭の上に袋をくくりつけて渡ることも出来るが、一般的な渡河手段と言うことであれば、それは「ヤンピーファーズ」(羊皮筏子)だ。ヤンピーファーズとは、頭と蹄を切り落とした羊の浮き袋を、5〜6頭分並べて縛り付け、その上に細い丸材で1.5m四方の枠組みを取り付けたものである。こぎ手は通常二人、5〜6人を向こう岸へ渡す。ヤクや馬は筏につないで泳がせ、オールで操りながら、急流を斜めに横切る。羊の頭数を増やせば、10人ぐらいは十分に可能だ。浮き袋は羊1頭分の皮を裏返して、塩をすり込み、片足から息を吹き込んで作る。通常羊が使われるが、ヤクや山羊で代用されることもあると。
(4) バヤンカラを越えて、交易の町ジェクンド(玉樹)
マチュー(黄河)最上流域の町、マトウ(瑪多)からは、バヤンカラ山脈中バヤンカラ山(巴顔喀拉、5082)の東麓を通り、パイェンハリ峠(巴顔喀拉山口、バヤンカラ峠といってもいい、4750)を越えて、通天河(長江の上流)の向こう側、ジェクンド(玉樹)へ達することが出来る。通天河はジェクンド(玉樹)より金沙江と名前を変えるので、金沙江の向こう側、向こう岸といってもいい。
ジェクンド(玉樹)こそは古くからの交易都市であり、マトウ(瑪多)などは足元にも及ばない。メインストリートは、東西に延びる幹線道路と、丁字型に延びる幹線道路により構成されている。丁字路の中心には、結古商場、商場、野菜市場、州貿易公司、百貨大楼、新星商店、それに新華書店、電劇院(映画館)、玉樹賓館といった施設が集中し、この地が交易都市であることを如実に物語っている。丁字路の北西部には、州公安処、人民法院、州人民政府などの施設が配置され、さらに西南部にも、電信電話局、小学校、そして南東部には、県公安局、県人民政府、州老幹部局、人民武装部といった、いわゆる官庁施設が配置されている。ジェクンド(玉樹)は、中国新政府のダライ・ラマ追放に際して、激しい抵抗を見せた土地柄であることから、官庁施設の充実が図られているのかも知れない。
このほかで目につくところは、車站餐庁、交通旅店、玉樹汽車站、玉樹州客運站といった交通関係施設である。これはジェクンド(玉樹)が、青蔵高原東部における交易の要衝でもあるという証ともいえる。丁字路の中央に設けられた交易市場では、この地で生産されたありとあらゆる物資が取引される。羊、ヤク、牛、馬、ゾー(ヤクと牛の交配種)、オオカミの血の混じったチベット犬、バターとチーズ、ヤクの乳で作った酒、チベット小麦、麦焦がし、羊毛、絨毯、ヤクの毛で織ったテントなどなど。外から来た商人は、主として工業生産物、鍋、釜、鋤から始まって、ミシン、ラジオの文明の利器まで。衣類、ビーズ、髪飾り、ペンダント、ネックレスなどの装飾品。アムネマチン、バヤンカラからおりてきた薬師たち、漢方薬の大々的な取引が始まる。
町の北側の高台には、規律のゆるやかなサキュ派の大寺院、ジェブ・ゴンバ(結古寺)の僧坊が林立し、巨大なマニ車が回っている。南の方に20q、ここには文成公主廟(大日如来堂)が建てられている。チベット式の三層の廟の中には、文成公主の座像と仏像八尊は置かれている。7世紀、文成公主が吐蕃の王室に嫁ぐとき、ジェクンド(玉樹)に一ヶ月ほど立ち寄り、地元に人たちに農耕や機織りを教え、それからラサ(拉薩)に向かったという。
さらにジェクンド(玉樹)の名を高くしているものは、夏に行われる競馬と歌祭りである。何万人という人々がここに集まる。乗馬はチベット遊牧民にとって最大の関心事であり、生活・生産そのものである。また歌舞もチベットの人たちの生活に密着している。歌垣は形を変えてなお残っており、婚礼の時なども長い袖を振り上げて、夜通し踊り明かす。ジェクンド(玉樹)には、ジェグ・ゴンパ(結古寺)の初代活仏が、天賦の才を発揮して百以上の歌舞を残したとの伝えがある。チベットの人たちが如何に歌と踊りを好んだか、そしてサキュ派の寺院がこの祭りに如何に深く関わってきたか、察してあまりがある。
最後になったけれども、ジェクンド(玉樹)から南へ下り、「川蔵公路」(成都からラサ(拉薩)へのルート)二つのコースについて簡単に見ておきたい。第一のコースは、ジェクンド(玉樹)→(金沙江を渡って)シエウ(歇武)→セルシュ(石渠)→(雅?江と金沙江との間に広がる草原を抜けて)マニコンカ(馬尼干才)→ここで川蔵公路(北路)に合する。第二のコースはジェクンド(玉樹)→(南西へ向かって瀾滄江の上流に達し、そのほとりにある)ナンチェン(嚢謙)→(さらに南西に向かって)リウオチェ(類烏斉)→チャムド(昌都)→ここで川蔵公路(北路)に合する。以上より、マチュー最上流の町マトウ(瑪多)のルートを引きつけて、ジェクンド(玉樹)こそが、青蔵高原東南部における交通の要地である、このように云っていいように思う。
(5) アムネマチンを越えて、ダーリ(達日)とマチェン(瑪泌)
マトウ(瑪多)から200キロほど下った地点、ダーリ(達日)はアムネマチン山脈のふところにいだかれ、マチューの南側に開けた町だ。家畜市場が開設され、ヤク、羊、牛、馬などが取引される。市場では、織物や肉、チーズ、ばたーなど、それに大黄、冬虫夏草といった漢方薬も扱われる。商店と食堂エリアが設けられており、これとは別に達日飯店、四川飯店、百貨店もある。影劇館、つまり映画館もあり、テレビ局、郵便局、電信電話局も置かれている。官庁施設は、中心よりやや南によったエリアに集められている。人民法院、公安局、人民武装部といったものである。いわゆる人民に対するお目付機関、これまで見てきた黄河上流の町には、必ずといっていいほど置かれている。チベット仏教をめぐっての不穏な動きがまだあるのだろう。エンゲルスだったか、原始共同体との関連で、警察も裁判所も軍隊もない共同体が描かれていたが、そのような理想郷の実現には、もっともっと多くの時間が必要のようである。また大抵の町には、小学校が開設されている。チベット遊牧民の識字率は非常に低い。子供たちに路を思えさせたいというのが、一般的な親たちの希望である。新生中国にしても、教育は百年の大計である。
ダーリ(達日)は同緯度にあるジェクンド(玉樹)には及ばないにしても、マトウ(瑪多)に見た交易センター的機能は十分に備えている。ダーリ(達日)もまた人々の行き交う町であった。ダーリ(達日)は、アムネマチン山脈の西方に立地するジェクンド(玉樹)、上流に立地しているマトウ(麻多)と並んで、青蔵高原東部の山と河と草原を結ぶ、結節点に位置しているといってもいいと思う。
ダーリ(達日)は曲がりなりにもと言うか、花石峡およびマトウ(瑪多)を通して、北方へのルートに通じている。北方へのルートとは、蘭州からラサ(拉薩)へと続くチベット仏教のルートでもある。バヤンカラ山脈を越えてのジェクンド(玉樹)へのルートといってもいい。もう一つは、南方へのルートである。これはマチューをそのまま下って、スンパン(松潘)湿原に行き着き、ここからは白河の流路などを利用して、成都方面に出るルートである。最も水路を利用するルートよりは、ジッジ(久治)を経由する陸路が一般的である。とどのつまりは、南方へのルートとは、成都→ラサ(拉薩)間を結ぶ、「川蔵公路(北路)」および「川蔵公路(南路)」へ行き着くルートのことであり、川蔵公路そのものでもある。
北方へのルート、南方へのルート、いずれのルートをたどっても、青蔵高原東部に横たわる、横断山脈的性格を持った、バヤンカラ、タングラ、ニエンチェンタングラといった大山脈を越えていかねばならない。川蔵公路(南路)を行く場合には、横断山脈の北端をまたいでいく。平均高度が4000m〜5000mという青蔵高原のこと、苦難は察して余りある。三つの山脈の間には、アジアの大河である長江(沱沱河、通天河、金沙江)、雅?江、瀾滄江(メコン川)、怒江(サルウィン川)は走っている。李白の蜀道難、剣閣の天険にも比すべき厳しい自然である。
しかし、チベットの人々は、その厳しい自然の中で生きて来たし生きている。北方へのルート、南方へのルート、これに大河の織りなす網の目のような流路、あるいはけものみちをも含めたルート、このことの意味するものは、チベットの人々が、崑崙やヒマラヤに連なる東部の大山脈群、及び横断山脈、さらにその間を流れるアジアの大河を、自らのものにしてきたと言うことに他ならない。
ダーリ(達日)からは、もうひとつの東方へのルートが開けている。東方へのルートとは、アムネマチン越えのルートである。まずマチューを渡る、二つめの鉄筋コンクリートで出来た「黄河大橋」である、全長は150m。マチューはすでに100mを越す川幅を持っており、中州を見せながら滔々と流れる。アムネマチン山脈を横切って50キロ余り、ガッデ(甘徳)にたどり着く。海抜4000m、小高い山に囲まれた町だ。それでも人民医院、食道、売店、旅行社など、一通りの施設はそなえられていて、影劇院(映画館)もある。例によって、公安局、県人民政府、人民武装部といった施設も整えられている。
ガッデ(甘徳)からは、アムネマチンを越えて、マチェン(瑪泌、大武とのいう)への道が通じている。ダーリ(達日)から流れ下ったマチューは、アムネマチン山脈の先端を回り込み、そこで大回転、これまでの流路とは逆の方向をたどって、アムネマチンの東麓を流れる。マチェン(瑪泌)は、この回り込んできたマチューのほとり、正確にはマチューに流れ込む支流のほとり、に位置している。ダーリ(達日)からみれば、アムネマチン山脈を越えて、向こう側に位置している町と云うことになる。
マチェン(瑪泌)はそれなりに大きな町だ。人民医院、民族師範学校、小学校、中学校、影劇院、旅行社、市場、食堂など、メインストリートに沿って軒を連ねている。マチェン(瑪泌)からは、青海省都西寧行きのバスが、一日一本通っている。また、マチューの北側に位置するラプギャ・ゴンパ(拉加寺)にも通じている。ラマ教ゲルク派の大寺、400人の僧侶を擁している。
総じてダーリ(達日)は、ガッデ(甘徳)、マチェン(瑪泌)、ラプギャ・ゴンパ(拉加寺)という、アムネマチン越えのルートを確保しており、草原のみならずアムネマチン山脈をも、自らの天地にしていることが理解される。さらに、ダーリ(達日)とマチェン(瑪泌)からは、アムネマチン山脈の最高峰マチェンカンリ(瑪縁崗日)へのルートが通じている。先にも見たとおり、アムネマチンはカイラス山にも匹敵する神聖なる山であり、マチェン(瑪泌)という町の名前もこれに由来する。アムネは先祖の意、マチェンは黄河の源における最大の、という意であるという。カンリは雪山の意だ。ふりかえって、ダーリ(達日)という町の名前には、カンリ(崗日)に行き着くという意が、込められているのかも知れない。なお、マチェンカンリ(瑪縁崗日)の正確な高度が明らかにされたのは、近年のことに属し、これまではマチェンカンリ(瑪縁崗日)が世界最高峰ではないかと言われてもいた。この山の麓には、グリ・ゴンパ(格日寺)があり、聖なる山を一周するコースも準備されている。
なお、ダーリ(達日)は、長江と黄河の水を結びつける「南北水調計画」において、結節点の一つとして名前が挙げられている。南北水調計画とは、近年黄河の水が渤海湾にまで達し得ないという「断流」現象に対して、長江の水を黄河に引いてこようとする試みを云う。種々の困難性から、実現の運びにいたっていない。さらに川下りをしていく過程で、これについてみる機会があるかも知れない。
(6) 先端にある町タンゴル(唐克)、スンパン湿原に浮かぶ
アムネマチンの先端にある町と云えば、それはタンゴル(唐克)だ。この町はマチューに合する白河のほとりに張り付いており、スンパン(松潘)湿原の真っ只中、水の上に浮かんだ町といってもいい。観光の要地にも取り上げられていないし、九寨溝や黄竜のように、世界遺産の指定を獲得しているわけでもない。何の変哲もない町ではあるけれど、バヤンカラおよびアムネマチンと岷山山脈の間、横断山脈にもかかって、各地と連結するルートだけはつけられている。ゾルゲ(達扎寺)を通って蘭州方面に出ることも出来るし、メワ(紅原)を通って成都へ出ることも出来る。険しい山岳、地の底に届くばかりの峡谷、白波を蹴立てて下る流れ、人も馬も飲み込む大湿原。チベットの自然は並大抵ではないけれども、一つ一つの町は、山を越え河を渡り草原を走るルートによって、しっかりと大きな世界に結ばれている。
ここで今一度、トライアングルから見て、いわゆる南方へのルートを確認しておきたい。(1)川蔵公路(北路):チョンドウ(成都)→(岷江を渡り、峨眉山を左手に見ながら、大雪山中大渡河の峡谷を越え、主峰ミニヤコンカの北麓に立地する、中国とチベット間の古くからの交易都市)ダルツエンド(康定)→(70キロほど西へ向かって、川蔵公路南路と別れ、雅?江をさかのぼって)ガンゼ(甘牧)→(途中で石渠、玉樹、西寧方面のルートと別れて)マニカンコ(馬尼干戈)→(沙魯里山脈を突っ切り、金沙江を渡り、寧静山脈を越えて瀾滄江のほとり、古くからの交易都市)チャムド(昌都)→(さらに瀾滄江の支流を何本か渡って)リウオチエ(類烏斉)→(ニエンチェンタングラ山脈の南麓、怒江の北辺を走り、大草原のただ中を進んで)ナクチュ(那曲)→(南西に向かって230キロほどで)ラサ(拉薩)到着。(2)川蔵公路(南路):チョンドウ(成都)→ダルツエンド(康定)→(雅?江を渡り、沙魯里山脈を越え、西へ西へと進んで、盆地のような大草原の町)マルカム(芒康)→(寧静山脈を越え、瀾滄江を渡り、他念他翁山脈を越えて)パシオ(八宿)」→(怒江を渡り、ニエンチェンタングラ山脈を越え、ヤルンズアンポ川の支流をさかのぼって)ポアオ(波密)→(そしてボン教の聖山ボン・リ、本日神山の麓)ニンテイ(林芝)→(さらに別の支流に出て)八一鎭→(流れのままに西進して)コンボ・ギャムダ(工布江達)→(300キロ走って)ラサ(拉薩)到着。
「西域物語」(井上 靖)のおしまい部分に、自然の造化としての天山山脈・パミール高原に、人間の石を対置した一文がある。ユーラシアの大地、その地平に姿を現しては消えていく民族、人々。自然の襞に抱かれての、人間の営み、井上 靖の思い入れ。その一文を引いておく。「天山、パミールはアジアの屋根だといわれる。……どちらもそれぞれに永久氷河を持った大山塊群のひろがりであった。太古から人間はこの大山岳地帯に意図のように細い道をつくり、それに依って、東から西へ、西から東へと往来していたのである。シルク・ロードなどというものができる何千年も前から、東と西とは、それこそいかなる障壁があろうとそれを突き破らずにはおかぬ人間の意志に依って通じ合っていたのである」。「パミールにも、天山にも、雪の峠を越え、また雪の峠を越え、際限なく雪の峠を越えていく道は、おそらく無数につけられているのであろう。何処へでも通じようとする太古からの人間の意志が、それを為したのである。天山もパミールも壮観であるが、そこへ道をつけようとする人間の意志の方がもっと壮観であるといってもいいだろう」。
[3] 岷山山脈の壁、流路を150度転回
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1、たぎりたつ流れ、大地をうがつ深い谷
(1) 黄河第一曲、スンパン(松潘)湿原をおさめて
黄河の湾曲部は、これが形容として「黄河九曲」、「黄河九腸」などと言われる。山岳や湖沼、砂漠と言った構造的な地形に規定されて、変転きわまりない動きを見せるからである。九という字にとりわけての意味はない。黄河が何度も流路を変更するという謂いに過ぎない。
青き流れマチューは、アムネマチンの先端において、150度の転回を見せる。「黄河第一曲」である。黄河第一曲は、南流を続けた金沙江(長江)が、横断山脈の先端において、雲貴高原の高い壁にぶつかり、北東流を開始するのによく似ている。
すなわちマチューは、アムネマチン山脈の先端、青海省から甘粛省にかかった地点で、突如としてスンパン(松潘)湿原を回流し、タンゴル(唐克)において白河を収めて後、Uターンして北西に流路をかえ、マチュー(瑪曲)において黒河をも収め、アムネマチン山脈と岷山山脈の間をさかのぼっていく。
大回流の直接的な要因を云えば第一に、アムネマチン(阿尼瑪卿)山脈の南東に、どっしりとして突き立っている岷山山脈の壁によって、流路が暴力的に遮断されたと云うことである。第二には、スンパン(松潘)湿原の水勢によって、マチューの水が押し返された、ということだろう。黄河第一曲におけるUターンを、「大黄河」(NHK出版)は次のように描写している。「大屈曲部の先端には、松潘高原の縁をなす山から湧きだした全長二百七十キロの白河が流れ込む。チベット族が『アラチョー』と呼んでいるこの合流点は、青海、甘粛、四川の三つの省の境界点でもある。海抜3400m、河幅300mもあろうかという白河が、200m足らずの幅の黄河本流に、吸い込まれるように流れ入る」。
スンパン(松潘)湿原は、ヤホラダッズエ山から続く裸麦を炒める鍋、星宿海と同じように、アムネマチン山脈と岷山山脈の間に横たわる果てしない草原である。面積はおおよそ3万平方q、千葉県の六倍に相当する広さを持つ。標高は3500m、世界的規模を持った高層湿原である。水量は豊富で、深い沼がいたるところに口を開けている。
今から六十年以上前、苦難の長征において、紅軍は国民党軍と戦いながら、この大湿原を渡った。泥炭の上を水草が蔽い、馬もろとも底なし沼に沈んだ兵士は、数知れなかったと伝えられている。スンパン(松潘)湿原の中、白河のほとりに建設された「紅原」は、長征にちなんで名付けられたものである。長征とは、1934年、中国共産党が江西省瑞金の根拠地を放棄して移動を開始、福建、広東、江西、貴州、雲南、四川を経て、翌年陝西省延安に到着するまで、9600キロにおよぶ大行軍をいう。
ただし、スンパン(松潘)湿原を死の海と呼ぶのは、ふさわしくない。この地に居住するチベットの人たちにとっては、自由の天地だからである。婚礼の時はもちろんのこと、客があれば篝火(かがりび)をたき、お湯を沸かし、骨付きの羊が投げ込まれ、草原で採れた花の実と香り草で歓迎された。馬乳酒あるいはヤクの乳でかもされた酒がふるまわれ、歌と踊り、宴は夜の更けるまで続けられた。
スンパン(松潘)湿原は、生きとし生きるものの天地でもあった。オグロヅル、コウノトリ、ナベコウ、ハクチョウ、ハゲワシ、トビ、ハヤブサ、チベットガゼル、野生のロバ(ノロバ)とヤク(ノヤク?)、チベットギツネ、チベットオオカミなど、この湿原を住処とするものは数え切れない。絶滅の危機に瀕しているオグロヅルは、スンパン(松潘)湿原で900羽以上が夏を過ごし、卵をかえすと云われている。
ともあれ、白河はマチューに引きをとらない河川である。バヤンカラ山脈南麓の水を集め、横断山脈中大雪山脈北東麓の水を集め、さらにはスンパン(松潘)湿原西北部の水をも集めてマチューに流れ入る。マチューはこのことによって、押しも押されぬアジアの大河に、変身を遂げたといっていい。
黒河はスンパン(松潘)湿原そのものである。広い広い湿原を網の目のようにして流れ、ダーリ(達日)と同緯度にあるマチュー(瑪曲)においてマチューに流れ入る。どちらもマチューなのだけれども、言葉の意味から云えば、同じこの世で最も美しい河だ。この事典でもマチュー(黄河)は、依然として青き流れマチューである。堆積砂岩の崩落により、若干の濁りが加わるとはいえ、黄色い竜へと変身するには、いましばしの時間と空間の移ろいが、要されると云ったところである。
(2) 竜羊峡から劉家峡の間
「四川省北部から西へ転じた黄河は、やがて北へ流れを向けてふたたび青海省にはいる。ここは西岸に険しい断崖が迫る峡谷地帯で、拉加峡、野狐峡、竜羊峡など上流でも屈指の難所といわれる峡谷が次々と続く。数百メートルの岸壁からは、たえず土砂が黄河の流れに崩れ落ち、河の色が白っぽく濁っていく。……黄河流域で最も細いくびれれに入ったのだ。そそり立つ岸壁にはさまれ、ひとすじの細い空、この上空を野狐が軽々ととび越せるということから、この名がつけられた」(大黄河、NHK出版)。
マチュー(瑪曲)において黒河をおさめたマチュー(黄河)は、引き続き流路を北西にとって流れ続ける。左側にはアムネマチン山脈の東麓、右側には横断山脈的な性格を持つ、岷山山脈の断崖がそそり立つ。岷山山脈の北方には、支脈とも云うべき西傾山脈が続いている。マチュー(黄河)は、南北方向を持つ三つの山脈の間に、深い峡谷を刻みながら流れる。これがため、マチュー(黄河)は白竜江、渭河、?河の上流域を指呼の間に望みながら、これとドッキングすることが出来ない。
やがてマチュー(黄河)は、青海湖の南に突き立つ、青海南山山脈および拉背山脈に突き当たり、回り込むようにして西に流路をかえる。黄河上流域の難所中の難所といわれる峡谷が次々に現れ、100mを越える断崖からは、絶えず土砂が崩れ落ち、青みを帯びたマチューの流れは、徐々に白濁の様相を呈してくる。
このあたり「黄河本流の階段型開発計画」(1953〜57)によって、今一度確かめておこう。階段型開発計画とは、黄河を梯子型の河に改造するというものである。この計画では、第一段が竜羊峡から甘粛省の青銅峡までの区間、第二段が青銅峡から内蒙古自治区の河口鎭までの区間、第三段は河口鎭から山西省禹門口までの区間、そして第四段は山西省禹門口から河南省桃花峪までの区間と位置づけられる。
われわれの河下りは、アムネマチン山脈を回って、青海省の南から蘭州へ向かうと云うことなので、黄河上流域第一段の、水力資源開発計画区間と云うことになる。この計画によると、竜羊峡から青銅峡までの距離は918キロ、その間の落差が1320m。この間に、二十五カ所の大型・中型の水力発電所が作られる。
深い峡谷、林立する山岳、急勾配の河床、スンパン(松潘)湿原およびアムネマチン山脈の豊富な水、ダム建設の構想を立てるだけならば、全くの素人でもそれほど難しいことではない。多目的ダムの達成課題として発電、洪水防止、灌漑、流氷(凍結防止)、航運、養殖などがあげられた。ダム建設場の利点として、土砂の含有量が少ない、河幅が狭く傾斜度が大きい、周囲の山岳は高く、峡谷は深い、蓄積水量は大きいなどが列挙された。水没面積も少なくて済むし、住民が密集しているわけでもない。ダム建設の結果として得られるものは全世界?!石油化学、冶金、鉄合金、石油・原子エネルギーの開発、砂漠の緑地化、食糧増産……。
ダム建設地点も地図入りで示された。上流からいくつかあげてみると、竜羊峡、拉西瓦、李家峡、公伯峡、積山峡、劉家峡、塩鍋峡、八盤峡、小峡、大峡、青銅峡どであり、いずれも深い峡谷である。ここでは、さしあたり竜羊峡、劉家峡、青銅峡と続く深い峡谷の連なりが、膨大な位置エネルギーを有しているという事実だけを確認しておこう。第一段階の計画が、思惑通りに進んだのかどうかについては、後でふれることにする。
2、横断山脈とプレートテクトニクス
(1) アジアの大河と横断山脈
青き流れマチューは、ダーリ(達日)から200キロの間を流下し、スンパン(松潘)湿原及び白河、黒河の水をおさめて、アジアの大河へと脱皮する。しかし、流路を規定する地勢的要因と云うことになると、一筋縄というわけにはいかない。山と河、湿原と砂漠といった関係が入り組んでいて、弁慶と牛若丸のようなもの、ここと思えばまたあちら、とてものこと、とらえきれない。
アムネマチンの南端を回り込んだ黄河は、南北方向を持つ岷山山脈および拉背山脈に行く手を阻まれて、今度は東に流路をとって流れはじめる。この間、深い峡谷がうがたれ、竜羊峡、劉家峡といった自然の造化が作り出される。
黄河の大屈曲は始まったばかり、黄河九腸といわれるように、アムネマチンの南端すなわち黄河第一曲、あるいは青海湖の南麓で見たような屈曲はまだまだ続く。このあたりで、青蔵高原に源を持つ、大黄河の流路の基底要因について、思いをめぐらすのも悪くはない。それがジオ・ポエムの旅というものでもある。
アジアの大河は、先にも見たけれども、西の方から数えて、まず怒江(サルウィン川)と瀾滄江(メコン川)が、青蔵高原に源を発する。怒江はニェンチェンタングラ(念青唐古拉)山脈とタングラ(唐古拉)山脈の間をくぐり抜けて、純然たる横断山脈、伯舒拉嶺(色隆拉嶺)・高黎貢山脈を西に見て、他念他翁山脈・梅里山脈・怒山山脈との間をまっすぐに南に下り、インドシナ半島からベンガル湾へと抜けていく。瀾滄江(メコン川)は、タングラ(唐古拉)山脈とバヤンカラ(巴顔喀拉)山脈との間を流れる。怒江よりは東に位置し、通天河(金沙江、長江)よりは西に位置する。瀾滄江は怒江と同じく、青蔵高原に横たわる二つの山脈を抜けると、他念他翁山脈・梅里山脈・怒山山脈の東側、寧静山脈・雲嶺の西側をまっすぐにインドシナ半島を割って流下する。
長江(通天河、金沙江)について云えば、瀾滄江の北西に河源を持ち、バヤンカラ山脈に接近してタングラ(唐古拉)山脈との間を通り抜ける。さらに寧静山脈・雲嶺と沙魯里山脈との間を南流し、雲貴高原の北側にそびえる山岳の壁にぶつかって、玉竜雪山のあたりから北東流を開始する。雅?江は、バヤンカラ(巴顔喀拉)山脈の東麓を、金沙江と並行して流れ、やがて沙魯里山脈を西に見て、バヤンカラ(巴顔喀拉)山脈から続く大雪山脈との間を南流、渡口において金沙江(長江)と合流する。
そして最後に、われわれの河下りの対象である黄河。これまで何度か見てきたように、青蔵高原の東端、ヤホラダッズエ(雅拉達沢)山の麓から流れ出し、長江(通天河、金沙江)水系とは、バヤンカラ山脈によって隔てられ、アムネマチン山脈の間を700キロの長きにわたって流れ、岷山山脈の堅固な壁にぶつかって、黄河第一曲を現出させる。
(2) 東西方向を持つ山脈と南北方向を持つ山脈
青蔵高原から流れ出すアジアの大河、怒江と瀾滄江はストレートに南流し、長江(金沙江)は雲南にはいると北東方向に流路をとり、雅?江は南流して長江に合し、黄河は四川の入り口で岷山山脈にぶつかり、北西流を余儀なくされる。
山と河、山脈に即してアジアの地勢を見るならば、東西方向を持った大山脈、例えばコンロン山脈でも、東端にかかるにしたがって南北方向に傾斜していく。つまりは横断山脈的な性格を強める。大山脈の東端が東によればよるほど、このような傾向は強くなる。
アジアの大河の流路を規定している要因は何か。さしあたって、東西方向を持った山脈と、南北方向を持った山脈との相互関係を見ていくことにしよう。ジオ・ポエムの世界、大山脈の東西性と南北性との関連、アジアの大河の流路の規定要因の追求は、アジア大陸の成り立ちの歴史、アジア大陸の形成史に直結する。
地図の上に目を落とし、東西性を示す地勢=地形を拾ってみると、アルタイ山脈、天山山脈、祁連山脈、コンロン山脈、ヒマラヤ山脈、ヒンズークシ山脈、陰山山脈、大興安嶺山脈、秦嶺山脈といったところがクローズアップされてくる。山脈ではないけれども、蒙古高原、ジュンガル盆地、ツァイダム盆地、タリム盆地なども、東西性を備えているように見える。それにテチス海の痕跡、それはアラル海、カスピ海、黒海、地中海をあげてもいいし、東アジアからアフガニスタン、イラン、トルコ、アフリカ北岸へと続く、地震帯をあげてもいい。かつてのテチス海の痕跡もまた、明確な東西性を保持している。
南北性を示す地勢=地形としては、青蔵高原東南部から四川盆地、雲貴高原、インドシナ半島にまで続く、横断山脈がまずあげられる。トンゴリ砂漠とオルドス台地を分ける賀蘭山脈、山西省と山東省を分ける太行山脈、呂梁山脈もそうである。さらにはバイカル地溝帯、山西地溝帯、渤海湾から続く黄海、東シナ海といったあたり。そして、これらの南北方向を持つ地形は、カムチャッカ海溝、日本海溝、南西諸島海溝(琉球海溝)、フィリピン海溝など、東アジア大陸を取り巻く沈み込み帶に連動している。また、四川から雲南、インドシナ半島にかけての断裂帶も見逃し得ない。
ならば、これらの地勢=地形はこのようにして形成されてきたのか。そのことが、なお現在においてどのように作用しているのか。河下りの最中、準備もない。それに門外漢、おおざっぱなスケッチで切り抜けることにする。
昔々、何億年という昔、ゴンドワナ大陸の分裂の頃にさかのぼる。バラバラになった地塊群が、赤道を越えて北半球に押し寄せていた。北半球には、アンガラ大陸、つまりはシベリアあたりの地塊群がぷかぷか浮いていた。シベリアの地塊群とゴンドワナの地塊群との衝突は、アジア大陸形成の壮大なドラマだ。
お互いにぶつかり合いながら、南から次々にやってくる地塊群。地塊群とはプレート群のこと、プレートとプレートの間には、東西方向を基本とする縫合線、沈み込み帶あるいは海溝、そして付加体を主な成因として、山脈が順次形成されていっただろう。ただし、ゴンドワナ地塊群は、全てが全て直線的に南から北を目指したのではない。それに、北半球に存在したプレートにしても、バルト楯状地やカナダ楯状地の原型をなす地塊群が存在していたし、パンサラサと呼ばれる原始海洋も存在していた。だから、ドライブがかかって東よりの方角からやってきたゴンドワナ地塊群は、東西性を貴重としながらも、その織りなす縫合線、海溝、山脈といったものは南北性を持つこととなっただろう。
新生代にはいると、インド亜大陸がアジア大陸の下へ、潜り込みを開始する。青蔵高原は南から北への圧縮力により、天高く押し上げられる。しかし、勢い余ってというべきか、南から北への圧縮力は、東方ないしは西方への出口を求めて働くことになる。いってみれば、北半球にあった地塊群と、パンサラサを構成していた地塊群、それにゴンドワナ大陸の分裂により北上した地塊群との、せめぎあいの総決算ということになる。ともあれ、アジア大陸形成の過程で、東方ないし西方へ向かった圧縮力は、すでに存在していた地塊群とのかかわりで、南北性を持つ山脈の形成に連なったということだろう。このように見てくると、これまで見てきたアジアの大河の流路は、4000万年前から現在にまで続く、プレートテクトニクスによって規定されている。この場合、「すでに存在していた地塊群」について、それは東アジアのどこどこにある、これこれのプレートだというように、地塊群を特定することは現在のところ出来ていない、留意しておくべきだろう。
(3) 埋め込まれた、プレートテクトニクスの痕跡
プレートとプレートの間には、山脈も出来るし沈み込み帶も出来る、そして海も出来る。先に見たように、東西性を持つ沈み込み帶という観点からいえば、アラル海、カスピ海、黒海、地中海、山脈ではヒマラヤ山脈、アルプス山脈などが目にとまる。インドシナ半島からインド、パキスタン、アフガニスタン、イラン、アラビアを通ってジブラルタルにまで延びている火の帯は、かつて存在したテチス海の地殻運動の痕跡である。
このように考えてみると、アジア大陸の形成史の中で、いまは埋もれてしまった沈み込み帶を含めて、かつてのプレートテクトニクスの痕跡がなければならない。アジア大陸内部にある地溝帯、分裂帶、あるいは張力帯といったものは、プレートとプレートがぶつかったときに作られた、古い沈み込み帶、あるいは古い縫合線であるように思える。
そして重要なことは、プレートテクトニクス運動の、埋め込まれてしまった痕跡は、いまなお生きているということだろう。大陸内部において、活動を続けているいくつかの火山、これは一般的なマグマフロント説では説明がつかない。また大きな被害をもたらしてきた雲南の地震活動もそうである。このような地殻の運動は、かつてのプレートとプレートのせめぎあいの痕跡であるということにすれば、そしてその痕跡がいまなお活動を続けていると理解すれば、ある程度の理解が得られるように思う。バイカル地溝帯、山西地溝帯、日本海、黄海、東シナ海に見られるような張力帯、四川から雲南、インドシナ半島にかけての断層帶などが、その例証としてあげられる。
総じて、アジア大陸における東西方向を持つ、あるいは南北方向を持つ地勢=地形は、アジア大陸の形成過程で生じた、プレートとプレートとのぶつかり合いに端を発している。アルタイ、天山、コンロン、ヒマラヤといった山脈は、いわば目に見えるせめぎあいの痕跡だ。アジア大陸形成史の現代における総仕上げは、インド亜大陸の潜り込みであるだろう。現在でもなお、コンロン、ヒマラヤといった大山脈の地勢=地形には偏倚(へんい)が加えられている。青蔵高原の東端における、この二つの山脈の南北性への傾斜は、インド亜大陸の潜り込みによって説明できるように思う。
さらにこの押し上げる力は、バイカル地溝帯、山西地溝帯、四川・雲南の断層帯といった、いわば埋もれたプレート間活動の痕跡と連動しているように思える。だとすれば、青蔵高原に流れを発する大河の流路は、南から北へと押し上げてくるインド亜大陸の力と、南北性を基調とする埋もれたプレートテクトニクス運動の痕跡、両者の関連において規定されているということが出来るだろう。より一般的にいうならば、これら二つの力に東の方からの北アメリカプレート、太平洋プレートの力が対抗し、さらに東南アジア海域ないしフィリピン、インドネシア海域における、独自的に見えるマグマ活動が、かかわっているということになるだろう。
2、横断山脈とプレートテクトニクス
(1) アジアの大河と横断山脈
青き流れマチューは、ダーリ(達日)から200キロの間を流下し、スンパン(松潘)湿原及び白河、黒河の水をおさめて、アジアの大河へと脱皮する。しかし、流路を規定する地勢的要因と云うことになると、一筋縄というわけにはいかない。山と河、湿原と砂漠といった関係が入り組んでいて、弁慶と牛若丸のようなもの、ここと思えばまたあちら、とてものこと、とらえきれない。
アムネマチンの南端を回り込んだ黄河は、南北方向を持つ岷山山脈および拉背山脈に行く手を阻まれて、今度は東に流路をとって流れはじめる。この間、深い峡谷がうがたれ、竜羊峡、劉家峡といった自然の造化が作り出される。
黄河の大屈曲は始まったばかり、黄河九腸といわれるように、アムネマチンの南端すなわち黄河第一曲、あるいは青海湖の南麓で見たような屈曲はまだまだ続く。このあたりで、青蔵高原に源を持つ、大黄河の流路の基底要因について、思いをめぐらすのも悪くはない。それがジオ・ポエムの旅というものでもある。
アジアの大河は、先にも見たけれども、西の方から数えて、まず怒江(サルウィン川)と瀾滄江(メコン川)が、青蔵高原に源を発する。怒江はニェンチェンタングラ(念青唐古拉)山脈とタングラ(唐古拉)山脈の間をくぐり抜けて、純然たる横断山脈、伯舒拉嶺(色隆拉嶺)・高黎貢山脈を西に見て、他念他翁山脈・梅里山脈・怒山山脈との間をまっすぐに南に下り、インドシナ半島からベンガル湾へと抜けていく。瀾滄江(メコン川)は、タングラ(唐古拉)山脈とバヤンカラ(巴顔喀拉)山脈との間を流れる。怒江よりは東に位置し、通天河(金沙江、長江)よりは西に位置する。瀾滄江は怒江と同じく、青蔵高原に横たわる二つの山脈を抜けると、他念他翁山脈・梅里山脈・怒山山脈の東側、寧静山脈・雲嶺の西側をまっすぐにインドシナ半島を割って流下する。
長江(通天河、金沙江)について云えば、瀾滄江の北西に河源を持ち、バヤンカラ山脈に接近してタングラ(唐古拉)山脈との間を通り抜ける。さらに寧静山脈・雲嶺と沙魯里山脈との間を南流し、雲貴高原の北側にそびえる山岳の壁にぶつかって、玉竜雪山のあたりから北東流を開始する。雅?江は、バヤンカラ(巴顔喀拉)山脈の東麓を、金沙江と並行して流れ、やがて沙魯里山脈を西に見て、バヤンカラ(巴顔喀拉)山脈から続く大雪山脈との間を南流、渡口において金沙江(長江)と合流する。
そして最後に、われわれの河下りの対象である黄河。これまで何度か見てきたように、青蔵高原の東端、ヤホラダッズエ(雅拉達沢)山の麓から流れ出し、長江(通天河、金沙江)水系とは、バヤンカラ山脈によって隔てられ、アムネマチン山脈の間を700キロの長きにわたって流れ、岷山山脈の堅固な壁にぶつかって、黄河第一曲を現出させる。
(2) 東西方向を持つ山脈と南北方向を持つ山脈
青蔵高原から流れ出すアジアの大河、怒江と瀾滄江はストレートに南流し、長江(金沙江)は雲南にはいると北東方向に流路をとり、雅?江は南流して長江に合し、黄河は四川の入り口で岷山山脈にぶつかり、北西流を余儀なくされる。
山と河、山脈に即してアジアの地勢を見るならば、東西方向を持った大山脈、例えばコンロン山脈でも、東端にかかるにしたがって南北方向に傾斜していく。つまりは横断山脈的な性格を強める。大山脈の東端が東によればよるほど、このような傾向は強くなる。
アジアの大河の流路を規定している要因は何か。さしあたって、東西方向を持った山脈と、南北方向を持った山脈との相互関係を見ていくことにしよう。ジオ・ポエムの世界、大山脈の東西性と南北性との関連、アジアの大河の流路の規定要因の追求は、アジア大陸の成り立ちの歴史、アジア大陸の形成史に直結する。
地図の上に目を落とし、東西性を示す地勢=地形を拾ってみると、アルタイ山脈、天山山脈、祁連山脈、コンロン山脈、ヒマラヤ山脈、ヒンズークシ山脈、陰山山脈、大興安嶺山脈、秦嶺山脈といったところがクローズアップされてくる。山脈ではないけれども、蒙古高原、ジュンガル盆地、ツァイダム盆地、タリム盆地なども、東西性を備えているように見える。それにテチス海の痕跡、それはアラル海、カスピ海、黒海、地中海をあげてもいいし、東アジアからアフガニスタン、イラン、トルコ、アフリカ北岸へと続く、地震帯をあげてもいい。かつてのテチス海の痕跡もまた、明確な東西性を保持している。
南北性を示す地勢=地形としては、青蔵高原東南部から四川盆地、雲貴高原、インドシナ半島にまで続く、横断山脈がまずあげられる。トンゴリ砂漠とオルドス台地を分ける賀蘭山脈、山西省と山東省を分ける太行山脈、呂梁山脈もそうである。さらにはバイカル地溝帯、山西地溝帯、渤海湾から続く黄海、東シナ海といったあたり。そして、これらの南北方向を持つ地形は、カムチャッカ海溝、日本海溝、南西諸島海溝(琉球海溝)、フィリピン海溝など、東アジア大陸を取り巻く沈み込み帶に連動している。また、四川から雲南、インドシナ半島にかけての断裂帶も見逃し得ない。
ならば、これらの地勢=地形はこのようにして形成されてきたのか。そのことが、なお現在においてどのように作用しているのか。河下りの最中、準備もない。それに門外漢、おおざっぱなスケッチで切り抜けることにする。
昔々、何億年という昔、ゴンドワナ大陸の分裂の頃にさかのぼる。バラバラになった地塊群が、赤道を越えて北半球に押し寄せていた。北半球には、アンガラ大陸、つまりはシベリアあたりの地塊群がぷかぷか浮いていた。シベリアの地塊群とゴンドワナの地塊群との衝突は、アジア大陸形成の壮大なドラマだ。
お互いにぶつかり合いながら、南から次々にやってくる地塊群。地塊群とはプレート群のこと、プレートとプレートの間には、東西方向を基本とする縫合線、沈み込み帶あるいは海溝、そして付加体を主な成因として、山脈が順次形成されていっただろう。ただし、ゴンドワナ地塊群は、全てが全て直線的に南から北を目指したのではない。それに、北半球に存在したプレートにしても、バルト楯状地やカナダ楯状地の原型をなす地塊群が存在していたし、パンサラサと呼ばれる原始海洋も存在していた。だから、ドライブがかかって東よりの方角からやってきたゴンドワナ地塊群は、東西性を貴重としながらも、その織りなす縫合線、海溝、山脈といったものは南北性を持つこととなっただろう。
新生代にはいると、インド亜大陸がアジア大陸の下へ、潜り込みを開始する。青蔵高原は南から北への圧縮力により、天高く押し上げられる。しかし、勢い余ってというべきか、南から北への圧縮力は、東方ないしは西方への出口を求めて働くことになる。いってみれば、北半球にあった地塊群と、パンサラサを構成していた地塊群、それにゴンドワナ大陸の分裂により北上した地塊群との、せめぎあいの総決算ということになる。ともあれ、アジア大陸形成の過程で、東方ないし西方へ向かった圧縮力は、すでに存在していた地塊群とのかかわりで、南北性を持つ山脈の形成に連なったということだろう。このように見てくると、これまで見てきたアジアの大河の流路は、4000万年前から現在にまで続く、プレートテクトニクスによって規定されている。この場合、「すでに存在していた地塊群」について、それは東アジアのどこどこにある、これこれのプレートだというように、地塊群を特定することは現在のところ出来ていない、留意しておくべきだろう。
(3) 埋め込まれた、プレートテクトニクスの痕跡
プレートとプレートの間には、山脈も出来るし沈み込み帶も出来る、そして海も出来る。先に見たように、東西性を持つ沈み込み帶という観点からいえば、アラル海、カスピ海、黒海、地中海、山脈ではヒマラヤ山脈、アルプス山脈などが目にとまる。インドシナ半島からインド、パキスタン、アフガニスタン、イラン、アラビアを通ってジブラルタルにまで延びている火の帯は、かつて存在したテチス海の地殻運動の痕跡である。
このように考えてみると、アジア大陸の形成史の中で、いまは埋もれてしまった沈み込み帶を含めて、かつてのプレートテクトニクスの痕跡がなければならない。アジア大陸内部にある地溝帯、分裂帶、あるいは張力帯といったものは、プレートとプレートがぶつかったときに作られた、古い沈み込み帶、あるいは古い縫合線であるように思える。
そして重要なことは、プレートテクトニクス運動の、埋め込まれてしまった痕跡は、いまなお生きているということだろう。大陸内部において、活動を続けているいくつかの火山、これは一般的なマグマフロント説では説明がつかない。また大きな被害をもたらしてきた雲南の地震活動もそうである。このような地殻の運動は、かつてのプレートとプレートのせめぎあいの痕跡であるということにすれば、そしてその痕跡がいまなお活動を続けていると理解すれば、ある程度の理解が得られるように思う。バイカル地溝帯、山西地溝帯、日本海、黄海、東シナ海に見られるような張力帯、四川から雲南、インドシナ半島にかけての断層帶などが、その例証としてあげられる。
総じて、アジア大陸における東西方向を持つ、あるいは南北方向を持つ地勢=地形は、アジア大陸の形成過程で生じた、プレートとプレートとのぶつかり合いに端を発している。アルタイ、天山、コンロン、ヒマラヤといった山脈は、いわば目に見えるせめぎあいの痕跡だ。アジア大陸形成史の現代における総仕上げは、インド亜大陸の潜り込みであるだろう。現在でもなお、コンロン、ヒマラヤといった大山脈の地勢=地形には偏倚(へんい)が加えられている。青蔵高原の東端における、この二つの山脈の南北性への傾斜は、インド亜大陸の潜り込みによって説明できるように思う。
さらにこの押し上げる力は、バイカル地溝帯、山西地溝帯、四川・雲南の断層帯といった、いわば埋もれたプレート間活動の痕跡と連動しているように思える。だとすれば、青蔵高原に流れを発する大河の流路は、南から北へと押し上げてくるインド亜大陸の力と、南北性を基調とする埋もれたプレートテクトニクス運動の痕跡、両者の関連において規定されているということが出来るだろう。より一般的にいうならば、これら二つの力に東の方からの北アメリカプレート、太平洋プレートの力が対抗し、さらに東南アジア海域ないしフィリピン、インドネシア海域における、独自的に見えるマグマ活動が、かかわっているということになるだろう。
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河といえば黄河を指す。全長5500q、中国第2の大河だ。青蔵高原に発して南流、アムネマチン山脈を回り込んで北流、深い谷を大地に刻み込む。さらに砂漠を流れ、陰山山脈の北麓を東流、フフホトまで流れて黄土高原を一直線に南流、秦嶺山脈に突き当たって再び東流、まさに波瀾万丈ともいうべき流路である。中・下流域に入ってからは、華北平原をうるおし、広大な氾濫原を作り出し、渤海湾に姿を消していく。暴れ竜、黄河の水禍は中国最大の憂患とされてきた。しかし流域には1億1000万人の人々が住み着き、中国文明の揺りかごとなってきたことも事実である。

[1] 大地にまどろむ暴れ竜、黄河の源は何処にあるのか
1,羊の背に乗って河を下る
2,河源探索2000年、マチューかカルチューかkouga01.html
[2] アムネマチン山脈とバヤンカラ山脈との間
1、この世で最も美しい河マチュー
2、星宿海・ザリン湖・オリン湖
3、チベット族の自由な天地kouga02.html
[3] 岷山山脈の壁、流路を150度転回
1、たぎりたつ流れ、大地をうがつ深い谷
2、横断山脈とプレートテクトニクスkouga03.html